愛し合ってるかい?!~カゾクという病~

ジュウベイ イトウ

第1話のたうちまわる男。

 俺は、椎名保と申します。一応今回の話の主人公です。誰の人生にだって一度や二度くらいは、地球の中心にいるんじゃないか~という気分に浸った事はあるでしょう。俺の場合は、今回がそれなんだ。面白い話になるかならないかは、俺のせいではない。断じて違う。だからつまらなくても俺は一向に構わない。そんなに面白い話なんてそうそう出くわさないし、それが俺の人生であり物語なんで。でも今回がそれなんだ。


 俺が思った事を相手に伝えられなくなったのは、あの時からだった。もう10年くらい人間らしい生活を送ってないような気がする。俺は、息をしていないんだ。適当に時間を潰してダラダラと生きている。こういうのを生きているとは言わない。と俺は思う。それに最近生きている実感ってやつが湧かないんだ。


 テトラポットが潰す河

 諸々の、魚は溺れてしまう 

 無数の白い腹は、ぎらぎらと陽光を照り返し、

 スピード狂のドライバーたちを眩ませる 

 突き刺さり、屹立した車体は墓標のようで、

 黒い腹からはオイルが止めどなく流れていた

 

 頂を失った山脈の麓には、カメラを抱えた登山家が群がる

 森林の代わりに植えられた電波塔を掻き分けて、

 最良の好機を探し当てる

 そこに山があるから、登った気分になれる 

 凡人の言い訳

 友人への葉書には、 合成された達成感が刷り込まれている

 向かい合い、 交わらない、声が、日常を満たしている

 

 太陽は、 カガミを巧みに渡って、月を飲み込んだ

 空に浮かぶ、巨大なクレーター

 僕らは星座を見失い、神話を忘れていった

 そして、新世紀はまるで世紀末のような風景で幕を上げる

   

 灰が降り積もる街 絶滅した季節 アレルギーで窒息する犬や猫

 掲げるものの亡い旗と、 理由を無くした子守歌が、一日を眠らせる

 

 流行の酸素ボンベを背負った旅人は、いまだ一つも橋を渡れずにいた

 信じられる失望も、信じられた希望も、共に暗闇の、

 とても奥底で、血に飢えたノスフェラトゥ、息を潜める

 

 形而上の夜、動物園、遊園地、映画館、、、

 どこでも恋人たちは好奇心を弄ぶ

 キャッシュカードの返済よりも、貼り忘れたカレンダーが気に掛かる

 ストイックなテロリスト 愛国心を持て余している

 

 五つ目玉の信号 秘密のシグナル

 耳打ちするオトコタチ

 電気仕掛けの車には、赤いプロペラのマーク

 

 行儀のよい鈍感な気分が、氷転する

 

 無修正の衛星写真 モザイクで隠された帽子

 不要になった歯車は赤錆に埋もれている

 制服を買い漁る人々

 爆撃機の遊覧飛行 観光地で精算された、ベルリンの壁

 空クジのない安全な夢は、欲望を狂わせる

 

 緊張と堕落を帆柱に絡めた航海術

 期待は褪せることなく逆撫でするものだ 他に何を怯えるというのだろうか

 

 それぞれに僕らは、

 想い描いた結末で魘されながら、朝日を全身に浴びている

 

 それぞれの、断末魔を気遣いながら


 こんな暗い感じの文章をどこかの雑誌で読んだんだ。その時から、なぜか頭の中から消えようとしない。特に文章が共感するとか一切ないんだけど、脳裏に焼き付いてしまったこの文章。たまになぜだか思い出す。だいたいテトラポットってなんなんだ笑


 「うぅぁぁ…」いつもいつも…決まって徹夜をした次の日や偏頭痛になり一日中憂鬱に過ごした次の日の朝は、決まってこの”夢”を見ちまう。”夢”というよりに実際に起こった出来事を繰り返し繰り返し~忘れさせないように思い出させるように…そっと、俺にに見せつけているんだ、きっと。なぜ、実際に起きたって思うかって?それは、その夢の中の一本一本があまりにもリアルな描写で描かれていて、俺の気持ちが、究極にへこむくらいドロドロに溶けてしまうそんな内容で悔しい事にちゃんとした一本のストーリー仕立てになっているから始末が悪い。せめて、夢の中くらい気持ちが張れる気分良くなるストーリーにしてもらいたいものだ。実生活がうまくいってないと夢の中までポキッと屈折するのだろうか?きっと、才能があれば原稿用紙に1000枚程度はいけるだろうストーリーだ。俺には、そんな文才はないので書けませんけど。しかし、だ。俺は、その夢の出来事をまるで覚えてない。いつ起きた出来事なのかも。したがって事実として受け入れたくないし、本当に事実なのか?と完全否定したいくらいだった。仮にその夢がいいストーリーだったとしてもだ。全く覚えていないというのが…俺の気持ちをネガティブにさせる。ここまで言えばサルでも分かると思うが、その夢は、ちっともいい話じゃない。むしろ最悪に近い。これは、何かのトラウマか?それとも単に臆病なだけか?それとも…。朝鏡に写る自分の姿が痛々しいと感じる。別に顔に傷が付いてる訳じゃない。何となくそう思うんだ。鏡に写る自分の顔に別れを告げて、いつものように会社へ出掛ける準備をする。いつも左足の靴下から着替えを始める。ちなみに靴も左からだ。右からだと何となく一日気分が悪い。特に左利きというわけでもないが、そういうゲン担ぎって誰でもあるでしょう?20数年も続けている癖は、そうそう簡単に直せない。

 そんな事より今日限って、いつもテーブルに置いてある朝食用のパンが一枚もない。あるのは、飲みかけの缶コーヒーだけだ。正確に伝えると、テーブルの上に置いてあるのは、「飲みかけの缶コーヒー(缶は変形している)」と「見終わった映画のチケット」とこの部屋の「カギ」だけだった。~で、なんで、朝食用のパンがないかというと、昨晩付き合って三年くらいになる女と口ケンカをしてしまい、自棄酒に走るまで飲んでしまい、見事に記憶を無くしてしまったためで、自宅マンションに帰宅したのは、午前二時くらいで最寄のコンビニにさえ寄る余裕がなかったわけです。なぜ?午前二時に帰った事を覚えてるかって?それは簡単だ。そこに置いてある腕時計がその時間で止まっているからだ。~というより、全く動いていなかった。要するに、おそらく壊れているか電池切れなんだ。きっと、自分で壊したというのが正解なんだろう。だからさっきからずっと左手の甲が微妙に痛かったりする。全く情けない。彼女とケンカしたからといって、なんて有り様だ。自分に腹が立つ。まだ若いという証拠か…。映画を見終わった後、その出来事は突然起こった。その話は、また後でしよう。ちゃんと話してあげるって。今、大事なのは、会社に遅刻しないって事。それに尽きる。一応これでも社会人だし、上司の部長もかなりうるさい。パンを買い忘れた事は、勘弁してください。会社の帰りにちゃんと買って来るからさ、大人しく待っててよ、母さん。10年くらい前に突然失踪してしまった母さんの写真を眺めながらネクタイを締め始めた。失踪したその母さんの名前は「モモ」。なんか名前まで在り来たりで気が抜ける名だろう。その母さんが実家のあの家を出て行ってからずっと俺は一人なんだ。親父がいるじゃないかっておもうだろうけど、風来坊癖の全く抜けない父さん一人いてもね笑。父さんの話題はもういいや。話が長くなるし。で、父さんの名は「太郎」。二人合わせて「モモタロウ」って。そんなバカな。なんてめでたい名前でしょう。俺は、いっそ「サル」か「キジ」もしくは「犬」に生まれたかった。もし生れ変われるのなら、そのどれかになりたい。なんだかどっかの携帯会社の”パッカーン…”というCMっぽい家族構成だな笑。うちの家族構成の方が早いんだけどね。マネしたのは向こうさんってことで笑。それが俺の簡単な家族紹介でした。だいたいこの辺の話をおねえちゃんがいるお店で喋ると、まぁ~ウケるウケる笑。その母さんが失踪した日は、高校の卒業式と同じ日だった。なぜ失踪したのかって?そんな理由俺が知るわけないでしょ、キミ達がもしその母さんに偶然出くわしたら本人に著靴聞いてくれよ。俺の心当たりならまた今度またゆっくり話すからさ。あなたも朝から気分悪くなりたくないでしょう?俺も不機嫌になりたくないわけよ。また後でね。さっきのパンの話に戻るけど、今日は、さすがに何か食べるものがあっても胃が受け付けなかったと思うよ。御免なさいって感じだね、母さんに。その母さんは、幼いころから食事だけはものすごく煩かった。例えば夕飯のオカズをちょっとでも残したら、その翌日は、すこぶる機嫌が悪かったし、何かの都合で朝食を抜いたら、その後一週間くらい朝ごはんが何も出てこなかった。その事だけは、今も強烈にずごく良く覚えていて…いまでもなるべく毎日三食取るようにしている。取るようになったというべきか。

 部屋のカギをかけて、後ろを振り向くといつも見慣れた顔がちょこんとあった。伊藤すみれだった。同じ会社の後輩で超お気楽事務員さん。ここまでお気楽になれると逆になんだか清々しい。彼女は数少ない友達でもあり隣の住人でもあった。そんなお気楽事務員さんは、ケンカした彼女と麻布の六本木で偶然知り合ったそうで、しかも(お互い)意気投合したんだってさ。後から聞いたときはそりゃびっくりしたさ。偶然とは恐ろしいものだ。正直今日は、目の前にいるすみれに逢いたくなかった。きっと、彼女から色々ねほりはほり愚痴を聴かされているんだろうなぁと安易に想像が付くからだ。

「おっはよ~♪保」

彼女のことを何か言いたそうでうずうずしている態度だった。

「保って言うな。年上に向かって」

すみれは、いつも俺を「保」と呼び捨てにする。出逢った(入社歓迎会で逢ったんだけど)その日からずっとこんな感じ。たまには「さん」付けで呼べっつうの。聞いてるのか?すみれ!。

「カナから昨日の夜、報告があったわよ、映画見終わった後またやっちゃったんだって?」

俺の彼女の名前は「千葉カナ」。取りあえず名前だけの紹介で許してください。それ以上は、いまは言わない言えない。遅刻しそうなくらい時間が押しているわけで。

「ほっとけ。お前は、小姑か!」

いつもこの時間帯は、エレベーターが混むんだ。マンションの住人の人数が多い割にエレベーターが狭く作られている。しかも一つだ。だからいつも階段を使用することになる。待っていては、会社に遅刻するからだ。余裕を持って起きれば関係がないが…健康的でいいと自分流に解釈したりして。周りに人から「病気だ」と言われ続けて早6年目になる。朝のこのやり取り以外は至って快適なマンションです。そこそこ良い環境で引っ越しし辛いわけです。ちなみにこの階は、4階です。階段を使用しなくてもたかが知れている。

「カナ、怒っていたというか~首を傾げて呆れていたよ(酔っ払っているせいもあるけど)保の奇妙な行動に。彼と一緒に映画を見ると、たまにふらっと遊びに来る姪っ子と変わらないって。初めは、楽しくて部屋中を走り回ってるんだけど、何時の間にか走るのにも飽きちゃって、部屋の隅の方で寝ている的な…なんで、保から誘っておいて~おやすみって、真っ先に寝ちゃうわけ?しかも最初から最後まで寝てたらしいじゃん、今回は」

(後で言おうとした)今回の喧嘩の原因は、俺の口から証言しなくも、口の軽い超お気楽事務員さんが証言してくれた。間違っていない、大正解。その間もすみれは、なんでエレベーターを使わないのよ!って言いたげだった。

「すみれ、知らないの?映画館って、寝るには最高の環境なんだよ。しかも今回の映画は、単館上映だから人もいないっていう最高の環境でして…」

カナには内緒にしていたが、今回のストーリーは、見なくても初めから知っていたんだ。前もって単行本を読んでいたためで。ごめんごめん。だから寝ていても対して損な気分にはあまりしなかった。その映画に出演していた俳優もイマイチだったし。

「じゃ、なんで映画に誘う?」

すみれは、せっせと自分の長い髪を結わいながら喋った。化粧なんぞ自分の部屋でして来い!と言い返したいところだが、女が自分の髪を結わう姿は、最高にセクシーだと思う。だからいつも言えなかった。しかし、電車の車中で化粧をしている女は、蹴りを入れたくなるほど気分を害するわけで。そういえば、カナの髪は短かった。いわゆるショートというやつでずっと短かった。「なせだ?」俺が映画館でつい寝てしまう癖というか事実より、あいつが一度も髪を伸ばそうとしない方が断然ムカツクし問題ではないか。怪しからん。俺がロングの女性が好きだという話は、あいつに飽きるほどしているはずなのに。しかも断然ロングの方が似合うと思うわけで。

「カナって、そもそもかなり映画好きじゃん。喜ぶかな?と思いまして。

 ”最近、彼女との会話に間が持たなくなった”とは言えないだろう。三年も付き合えばそういう時期もあるって。

「単純バカ!もう今すぐ別れちゃえ。私の睡眠を返せ、保のバカ!!!」

ごもっとも。確かにごめん。こんな会話を一年中何度もしている。


 天上の低い廊下を抜けて、外へ出ると、太陽の姿が何処にも見当たらず、どんより曇っていた。灰色のじゅうたんを空一面にまといながら。しかも湿気がかなりあった。こりゃ雨が降るのも時間の問題だなと。しかし手には傘を持っていない。何度も言うが、部屋に取りに戻る時間などなかったのだ。五百円の傘が一本増えるだけだ。それだけの事だ。そう思ってコンビニで買ってきたビニールの傘が沢山うちにはある。その傘が、狭い玄関をさらに狭くする。

「じゃー、駅まで走るか」

 駅までの距離は、二キロくらい。普通に歩いて十分くらいか。走って三分くらいそんな距離。近いといえば近いが遠いといえば遠い。不動産物件としては、手ごろな賃貸物件。程よい距離なんだ。何度も言うがこのままでは会社に遅刻する。そういえば時間の事で一つ思い出した事があった。失踪中の母さんは、食事にも煩かったが時間にもさらに煩かった。待ち合わせの時間の五分前には、必ず待つようにときつく言われた。例えこんな曇った天気でも暑い真夏の日でもだ。相手を待たせるなんてけしからんと。そのおかげでいつもデートでは、俺の方が早い。カナを待たせることは仕事の都合以外は絶対になかった。その母さんは、いまどこにいるやら…もし生きているなら返事くらいして欲しいもんだ。

「えー。疲れるから歩いて行こうよ、保」

 すみれは、いつもこんな調子だった。気だるいっていう感じ?がトレードマークのようなそんな女だった。こういう女は、ぐずると始末に悪いが…でも男には、なぜかそんな女のほうが良くモテる。とにかくすごいフェロモンなんだ。「男は、こんな感じの子が好きでしょ」って感じながら生きているみたいだ。すべて計算付くでやっているんじゃないか?それを知らずに好きになってしまう男は、一生苦労するんだ。例えばこんな感じの男。

「おはよう~おはよう。皆の衆!」

 駅前のマンションに住んでいる「石橋尚樹」だ。高校時代からの腐れ縁でいまも近所に住んでいる。現在のすみれの彼氏ともいう。男の俺がこんな事を言うのも変だが、結構いい男だった。身長も顔も学歴も並み以上で、勤務先は、あえて言わないが誰もが知る大手広告代理店。世間知らずのアホ学生でも知ってる大企業。職種は、剛腕CMプランナーときている。まぁ…これだけ女を寄せ付ける高条件を全て持っている人間は、あまり見た事がない。実に羨ましい。そんな男であっても「完璧」ではなかった。それは「女運」だけが全くなかった。それも異常になかった。自分からそう「公言」している。だから間違いなく真実なのだろう。実は、そういう「ちょっと」した悩みを常に持っているからこそ、俺も尚樹と対等に良き友達関係をいまでも保たれているんだと俺は思う。残念な姿こそ、人間味があって実にいい。俺は、どうも「完璧な」男には全然魅力を感じない。一つくらい他人より劣っている方が「人間味」があっていいし、パンチの効いたダシも取れるってもんだ。しかし、彼女であるすみれだけは、それに全く気づいていないらしいが。いつもあんな感じで良く喋り「超」が付くくらいポジティブで、あいつの頭の中には、きっといつもお花畑とチョウショが住んでいるんじゃないかと思ったりする。今でも「尚樹は、私の容姿に惚れているわ、私が一番!」と勝ち誇っているとか。

「今度の十五分(の急行)に乗るぞ。半からの朝礼に間に合わん」

 俺は、その電車に乗らないと遅刻する事を知っている。ただいま十分と三十秒…。

「私、遅刻してもいいや」

「あん?」

「朝から疲れるの嫌。どーせ、佐藤(部長)の嫌みな声聞くだけでしょ。あぁ…・気分が悪い。保のせいよ。カナの長電話が私の体調を悪くするの。尚樹も付き合って。あなたは、急がなくても全然平気でしょう?」

 早くも脱落者一名。いつもの事だけど。鞄から一本のタバコを取り出し火を付け始めた。慣れた手付きだった。またタバコを吸う姿がさまになってよく似合うんだよ、タバコを吸う姿が。多分尚樹は、そういう容姿や仕草に惚れたんだ。と、俺は知っている。元彼女もこんな風な子だった。一生苦労するぞ!女には。

「別にいいよ。俺の会社は十時からだし。あそこのスタバでも寄ってく?」

 なんてアホっぽい会話だ。30歳同士の会話ではない。まるで髪の毛を障りまくっている高校生のような会話だ。しかしここで「なんで?」といい返さない尚樹が、またとても嫌らしい。一生俺にはできないだろうな。俺なら必ずこう言い返すだろう。「置いてくよ」と。だから尚樹の好きになった女は、俺は全く興味を湿さない。~というよりそういう女は、俺の方には近寄って来ない。従って隣に住んでいてもラブロマンスには無縁だった。すみれ的には、俺を「単に料理好きな変人」としか思ってないはずだ。週末、俺が鼻歌を歌いながら気分転換に料理を作っていると、腹を空かした小猫のようにそろりそろりと近寄ってくる。「餌」をちょうだいと。なぜか素直に餌をあげてしまう俺もどうかと思うが、自分の作った料理を両手を挙げて素直に「美味しい」と喜んで食べてくれる友人を追い返せる訳がないでしょう。むしろすごく嬉しいし最高に気分がいい。カナは、すみれに「私にちゃんと”許可”を取って」と言っているとか。

 二人は、駅前のスタバへ足を向けた。明らかに、俺の向かう方向と逆だった。これもいつも見慣れた光景で、足を止めることはなかった。

「じゃ~俺、先行くわ」

いつも時間に励行な自分を誉めたい。誰も誉めてくれないからさ。


 新宿行きのホームに着くと、いつもの風景が待っている。この時間帯に電車を待っている人達は、大抵決まっている。お互い名前も住んでいる場所も知らないが気が合えば、挨拶くらい交す人もままいる。

「おはようございます」

 後ろの方から名前は知らないけど顔はよく知っているという男性の声が聞こえた。振り替えると、そこにはいつもの顔なじみが立っていた。最近この人と同じ車両に乗って新宿まで行く事が多かった。確か初めて声を掛けてきた時もこんなどんより曇った日だったと思う。最初は「えっ?何~??」って顔を背けていたんだけど、少しずつ会話を重ねていくうちに今の状況になった。対して実のある会話もしていないし、多分名前すら知らないのに。まぁ…すごい存在感なんですよ、この人は。今の俺には、時々会う彼との時間がめちゃめちゃ大切な時間となっていた。外見は、洗いたてのシャツとパリッとのりの利いたスーツをバシッといつも着ていて、明らかに年下の俺に対してもずっと言葉使いがとても丁寧で。スタバでサボっているお前らと大違いわけよ。スタバでクシャミでもしてなさい!きっと、こういう人のために「紳士」という言葉があるんじゃないかと思うくらいだ。毎年「anan」に掲載されている上司にしたいタレントNO,1は?ってあるじゃない~一般人なら多分この人で決まり。田舎に暮らしている(風来坊癖が直っていないので、今も何処にいるか分からないが)親父もこんな品のある感じだったらといつも思うのです。無理か~いったい何処にいるんだ。俺の両親は、どこでどのような生活をしているのか?心配させるのは、普通息子のほうだぞ!分かっているのか?この人の年齢は、五十を少し過ぎているんじゃないかな?何処かの大きな企業の重役でもしていそうな雰囲気。勝手にそう思っている。そんな感じ。

「おはようございます」

「今日は、湿気も多くて一日中過ごし難くなりそうですね」

 彼の左手には傘がある。ちゃんと朝の報道番組をチェックしてから落ち着いて来ているんだろう。当然といえば当然か。こんなレベルの低い事を想像している事自体とても恥ずかしい。とても「今日、雨降りますか?」などと気安く言えない。

「そうですね。もうすぐ梅雨ですからね」

 当たり障りのない返事を返した。

「でも…意外と嫌いじゃないんですよ、雨の季節って」

 彼は笑いながらそう呟いた。

「どうしてですか?嫌っていうほどたくさん雨が降るじゃないですか?洗い立てのシャツやスーツもびしょびしょに濡れるじゃないですか」

「スーツが濡れるくらいどうって事ないですよ。またクリーニングに出せば済むでしょう。多少奥さんらは困るだろうけど(笑)この時期にたくさん雨が降るおかげでとってもおいしいお米が秋に収穫できるんですよ。それがいつも楽しみでね、私は。それに雨の風景や降った後の何とも言えない懐かしい臭いもまた捨て難い。むしろ好きな季節ですね。私の住んでいる町に「山猫」という紅茶専門の喫茶店があるのですが、そこから見える雨の風景が一番好きで、もうかれこれ二十年近く通ってます。店内から流れるBGMも最高にいかしています。紅茶しか置いてない地味なお店ですがねぇ」

この人が自分の話をするなんて。ちょっとびっくり。

 「あの店か」実は、俺もその店をよく知っている。無口そうな男がやっているお店だった。何度もそのお店の前を通っていては、入ろうか迷う日々。気になって仕方ない。しかし、今まで一度も入った事がなかった。何となく敷居が高い。スタバやドトールのような気軽な雰囲気は全くなかった。~という事は、この人も同じ町に住んでいる住人だったと初めて気付く。それもすぐ近くに住んでいるという…。駅のホーム以外出会った事ないけど。

「その店を知っているんですか?」

「行ったことはないですが、そこのマスターってサッカー好きでしょ?」

 一昨年前の2014年のワールドカップ時期だけお店がクローズになっていた事に気付いていた。丁度二年前の出来事。もう二年前か…時の経つのは早いなぁ。しかし、その年のワールドカップは、一度もまともに試合を見た事がなかった。いつもスマフォのニュースアプリでチェックしただけだった。だから個人的にはイマイチ盛り上がりに欠けていた大会でもあった。珍しくというか~仕事に没頭していた時期でそれどころではなかった。丁度その期間だけというのもムカツク話だが、夜中帰ってきて、何もせずに寝て早朝出社してその繰り返しの日々だった。仕事があるのはいい事だと良く言うけど、身体が壊れるくらいあるのもどうかと思う。と初めて感じた年だった。何処のチームが優勝したんだっけ?というくらいそのくらい記憶があいまいだった。俺は、プレイヤーとして十五年、サポーターとして二十年目に入るくらい好きなんだよ。そういえば彼女のカナも区内のサッカー大会の会場で知り合ったんだ。彼女は、相手チームのマネージャーだった。第一印象は、よく働く女だと思った。そのチームは、俺達のチームと違って補欠も合わせると二十人くらいいる大所帯だった。カナ以外にも同じようなマネージャーをたくさん囲っていたけど、その中でもあいつが一番きれいだった。俺がカナに勝手に惚れて…その日に「好きだ」と伝えたんだ。人生で、初の”一目ぼれ”。カナも「いいよ」と即答して付き合うようになった。両思いの恋とは「奇跡」だと思う。自分が好きになった女が、同じように好きになってくれるのは、やっぱり「奇跡」と思う。「くすっ」思わず思い出し笑いをしてしまった。

「どうしたんです?」

「すいませんすいません、ちょっと…くすっ笑。ごめんなさい。気にしないでください。深い意味はありませんから笑」

「なんか楽しそうで」

「はい笑」

 最寄の新宿駅へ着いたら、まずカナに一言「ごめん」とLINEのショートメールで伝えておこう。最近LINEとは、いろいろ問題があるもののこういうタイミングに使える便利なツールであることに変わりはない。いつも「誤る」のはこの俺からだけど。カナが間違っていて悪くても、だ。惚れた弱みか?。男という生き物は、いつからこんな軟弱になったんだ。そんな見出しの雑誌も多く見受けられる時代。けど「昔の男」もそんなに強かったのかと思うわけで。昔の男は「強かった」とは思わない。単に「弱さ」という気持ちを隠すのがうまかっただけだと思う。そして女が「強くなった」という解釈も間違っている気がする。女は昔から度胸が座っていていつの時代も強いんだ。と、カナを見て思う。

 突然というか~やっぱり雨が降り出してしまった。あっちゃぁ…「傘」は忘れた。だからどうした笑。そんな事は、随分前から知っている。

「この雨の振り方は、一癖も二癖もある振り方ですねー」

 振り出した雨を眺めながら答えた。振り方もいろいろあるのですね。俺は、正直この時期の雨というか雨はいつだって勘弁って感じです。やっぱり今の自分は洋服の方が大事です。洋服がくしゃってなると、気分も萎える。一日中ブルーになったりもする。この違いは、年齢的なものか?もともと持っている人間性か。どちらにせよ、俺は、いまの所その「雨」を好きになる予定はないです。はっきり言います、大嫌いです。

「やっぱり、僕は晴れている日の方が好きです。気持ちもなんだかスッキリするんで…」

 洗いたてのシーツやワイシャツを両手で触るのが今でも一番好き。それだけで幸せな気分に浸れる。俺にとって幸せの象徴みたいなものだった。カナには「子供っぽい」と指摘されるけどこればかりはしょうがない。石鹸の臭いも悪くない好きです。洗濯好きだった失踪中の母さんのDNAのせいか…。


いつものように電車が来ていつも同じ車両に乗り、会社のビルがある新宿へ向かった。また長い一日が始まろうとしている。


 カフェの中の会話や電車の車中のは他人の会話ほど面白いものはない。だいたい主人の愚痴。あるいは恋人同士の色恋話。まぁ~いろんな言葉が耳に飛び込んでくる。ギュウギュウ詰めの混雑した電車の中で、先輩後輩の間柄のような二人の会話がとても印象的だった。


”この殺人的な混みようれって、人間ぷよぷよですよねー”

 確かに。いまの若者は、ゲームで例えるのかと、クスッと笑みがこぼれたことをよく覚えている。


 雨は、いつも自然に突然降ってくるんだ

 降る前の一瞬…外は静かになって、いつの間にか、

 雨だれの音しか聞こえなくなって、私は庭に出てみた

 夏の来る前の雨を感じるために、軽い感じでふんわりと、そんな気分で

 ラナンキュラスの赤い蕾がもうじき開きそう

 成長の遅い子だったネ

 とても背が小さくて、茎も針のようにほっそりしている

 いつもその雨に濡れている

 隣の兄弟たちと同じように、上を向いてまっすぐ伸びているネ

 私は、根っこの近くの土を掘って、油かすを置いてやったんだ

 様子を見守る人たちの声が、いつものように戻ってきて雨音も遠くなっていく

 雨が収まれば…やがて小鳥たちの競演がはじまる

 1号線からすぐの空気の悪い場所でも

 いろいろな生き物が住んでいて、

 ハサミムシとかダンゴムシとか恐らく住んでいて

 穴を掘るとゼリーみたいな幼虫が手の甲にくっついてきて、

 もう一度埋めてやった

 救急車のサイレンが響いてきて、私は家へ戻ったんだ

 足も肩も濡れていた、

 なにか理由がなければ立っていられないのは、なぜなんだろう

 そして、また一日が始まる。


”ごめん。これから気をつけるよ。保”


「お疲れ~♪保」

 三十分後れで出社して来て(丁度、朝の朝礼が終わるのを見計らってというのが正しい)悪ぶる事も誤る事ぜず、いつも「ニコッ」と頭を下げながら周りに挨拶して何事もなかったように、自分の席へ着く。美人の役得かそれとも俺には理解できない独特の人徳でもあるのか。こんなお気楽事務員さんと給料がほとんど変わらないのは絶対におかしい。嘆じておかしい。声を大にして大声で言いたい。「絶対おかしい!」と。おい!聞いているのか、そこの上層部ども。

「何か御用ですか?お気楽事務員様」

 朝の朝礼で配った資料をファイルへ閉じながら答えた。またうちの会社の朝礼は長いんだよ、全く。すみれがまぁ~嫌がるのも無理はなかった。しかし一回くらいまともに出ても罰は当たるまい。

「今日は、五分前にちゃんと着いていたわよ。私みたいなお気楽事務員が毎朝の朝礼に出たってたいして意味ないじゃん。お茶の入れ方や化粧を整えていた方が皆さんの花になるってもんよね。きれいな花の方が事務所も生えるでしょう笑。とりあえずOLなんてそんなもんよ♪」

この女は、いまの「不況」というこの最悪な日本の状況を理解して喋っているとは思えなかった。日本のこの状況という表現は、オーバーにしてもたいした女ですよ、こいつは。憎たらしいくらいに。遅刻してもこの平常心です。ある意味とても頭が下がります。最もこんなお気楽事務員を雇う余裕があるなら、まだこの企業も大丈夫じゃないかとも思ったりする。上層部が俺をどう評価しているかイマイチ良く分からないが、取りあえず後ろ指刺されず一生懸命この会社のために(自分の生活のためでもある、そんなこと誰だって思うこと)死ぬ思いで働いている人間の前で、まぁ~よくもぬけぬけとそういう軽口を…。まぁまぁ朝から俺の愚痴ですよ愚痴。

「それよりさぁー、今日、予定ある?」

 資料をわざとらしく、いかにも確認するかのように~チェックするポーズ。ポーズだけはうまい。演技賞もんだよったくさ。どうせ見る気もないくせに。やる気もないでしょう、君は。

「…どうかな?月曜日だしな。何か用でもあるのか?」

すみれは、俺の背中へギューーっとそのデカイ胸を押し付けながら喋ってきた。言い忘れたが、すみれは、単に「お気楽事務員」ではなかった。そこら辺の女よりやたら胸がデカイ。とにかくデカイんだ。そんな胸いつも揺らして肩がこらないのだろうか?といつも心配するくらいとにかくデカイ胸。違うのは、それだけですが笑。しかしこの会社へ入社する事が出来たのもそのデカイ胸を利用したという「いわく付きの胸」だった。彼女が入社して間もない頃、ちょっとした「噂」が少しの間だけ流れたんだ。でも対して「実のある噂」じゃなかったので、その後は時間と共に風化し、特に広がらず今日まで無事に過ごせたようです。きっと、すみれが少し可愛いから、他の女性陣らが嫉妬しただけだよ。まぁ…そんな軽い噂話は、多くの社員を抱えている企業ならどこにだって一つや二つ転がっている安っぽい話題だ。噂も75日~ってやつだ。ただ、たった一人尚樹だけがその噂話の存在すら知らない。俺から彼に伝えるほどの話題でもないし。

「相談に乗ってほしい事があるんだ、保に」

「どんなこと?」

 相談相手なら尚樹がいるだろう?

「尚樹に話せない話か?」

「…」

「あららっ?珍しい。尚樹に隠し事ですか?」

 困った顔のすみれは、確かにかわいい。

「まぁ…」

 すみれの心の声が聞こえた。「意地悪」な保と。

「どんな話?面倒な話はごめんだよ」

 俺は、わざとそう答えた。

「…」

 こういう時だけは、いつもの意地っ張りなすみれは消え、年下の普通の女の子に見える。いつもこんな感じだったらと思う。

「全く…冗談だよ。膨れっ面になるなって。忙しくなかったらという条件付きになるけど別に構わないよ。ただ16時くらいからあの欠伸している部長と打ち合わせがあるんだ。その打ち合わせ次第だな。あのおっさん話が長いから笑」

 困った部長ですぐ話が脱線するんだ。この事業部では、確かにまだ一番偉いから俺らもなかなか注意できないから困ったもんである。いい加減大人しく黙っていればいいものを、いまだ現役の営業のつもりでいるからさらに始末が悪い。とっとと引退しなさいって。役員待遇狙っても無理ですよ。

「じゃー会議が終わりそうになったらLINEくれる?」

「オーケー」

 すみれは、本当に「意地っ張り」な女。だけど意外と中身はモロイ。そこら辺によくいる「涙」を武器に世渡り上手な高飛車な女よりもずっといい。モノに例えるなら、昔のアメ車かオスのカマキリによく似ている性格。外見は「力強さ」を強調しているけど、本当はその「弱さ」を隠すための鎧にすぎなかったりする。決してその弱さを隠しても隠し切れるものではないなのに。そんなことも本人は十分よく分かっていて、そこがまた可愛らしい。しかしどんな時もあいつは、俺の前で決して泣こうとはしない。きっと尚樹の前でも「かっこいい女」を演じているのだろうな。もっと肩の力を抜いて生きればいいのに。いい女なんだからさ。だから、すみれの頼み事は一度も断った事はなかった。


 ぼくの将来の夢は、大人になることです。

 誰でも誕生日を繰り返せば、大人になれるといいますが、

 ぼくがなりたい大人はただの大人ではありません。

 強くて立派で格好良い大人なのです。


 最近は、子供みたいな大人が増えていると聞きました。

 ぼくもテレビとかを観ていると、その通りだと思いました。

 いつまでも少年の心を大切にしたいなんて、

 くだらないことを言う大人にはなりたくありません。


 早く大人になりたい。

 立派で格好良い大人になりたい。

 とても強く、強く、強い大人になりたい。

 そんなふうになりたい。

 早くなりたい。


 お父さんやお母さんや、お爺ちゃんお婆ちゃん、お兄ちゃんお姉ちゃん、

 クラスのみんなや先生や、町の人、日本中の人、世界中の人を

 助けられるぐらい、強い大人になりたい。


 未来が明るくないのなら、明るくすればいいのです。


 子供はとても無力です。

 大人はとても無気力です。


 ぼくはとても強くなりたいのです。


「♪♪~」

 すみれからのLINEだった。内心「やばっ」と思った。

「自宅にて待っています。早く帰ってきなさい。賞味期限切れちゃう」

 さっき表現したすみれの人物像を取り消したくなった。

「…」

 腕時計の針は、21時を少し回っていた。案の定というか…やはりというか、あの部長との打ち合わせは、相次ぐ脱線のすえ(勝手に盛り上がって勝手に喋り倒して、足元軽く早々と帰って行きやがった)19時に終了したわけですが、その後、報告書やら見積などで、この時間帯にになったというわけです。事務所には数えるほどの人しかいなかった。ほぼいつものメンバーだった。森に林に小林さん…ここは、いつからジャングルになったんだ笑。残ったメンバーは要領が悪いって事か?それとも仕事好きなのか?俺の場合は、仕事好きって事で。でもいつだって俺は、いつもマンションに早く帰りたいんだ。本当だぜ。

「保さんって、すみれさんといつも仲いいですよね。今朝も立ち話してたし」

 三つ後輩の森が俺に近寄って来た。この男もどうやら「すみれ」の魔力に取り付かれた一人だった。

「あいつとは、仲がいいというか単なる腐れ縁だよ」

 本当にそう思う。単なる腐れ縁だ。それ以上でもそれ以下でもない。

「そうですかね?」

 缶コーヒーを手渡してくれた。

「サンキュー。お前のおごりか?」

「そうです。いつもお世話になっていますから」

 お世辞でも嬉しいもんだ。もっと大きな声で言えよ。良いことは大きい声で言うもんだ。

「そういう事わだなぁ。みんながいる前で仕事をしている時に大きな声で言うもんだよ笑」

「すいません。気が付かなくて」

 森という男は、シャイな男でまたそこが実にいい。

「すみれには絶対に手を付けるなよー。あいつは、お前のような男に手に負える女じゃないって。それにすみれは、俺の友人の女だからな。森の顔を持ってすればいくらでもいるだろうに。まぁ、俺ほどじゃないけど」

缶コーヒーを開けながら答えた。

「…」

 この男の悪いところは、すぐ黙るところ。こういう男とすみれが付き合うとどうなるのだろうか?意外と興味がある。他人の恋愛は、常に興味深いし非常に面白い。

「まぁ、いちいち落ち込むな。それより飲み…いや、何でもない。飲みは次の機会にしょう」

 俺はカバンを閉めながら答えた。すみれとの約束があった。思わず忘れる所だった。あいつは怒ると怖いししかも恐ろしく根に持つタイプなんだ。

「飲みに連れて行ってくれるんですか?」

「了解です」

 すみれの約束は、断れん。

「あぁ…いいな。これからすみれさんとデートなんだ。きっとそうだ。友人の彼女でしょ…いいのかな?それって…」

「…」

 そんなこと言われても心は痛まない。そういう関係だからだ。

「違うって。森は、何を勘違いしているんだか。俺にも愛しい彼女はいるんだよ。その子と食事に行くに決まっているだろ~♪」

「ふぅーん・・・?」

 明らかに森の顔は疑っていた。何もないよ。ただ相談相手さ、俺は。ただ「カナ…ごめん」と心の中でそう呟いた。何も悪い事をしていないけど、とりあえず、カナ、ごめんと。


 俺は、駅から自宅マンションまでの間にある小さな小さな公園からすみれへ電話を掛けようと思い立ち止まっていた。本当に小さな公園でたまに近所の保育園の関係者が、お遊戯のために使用するかおばちゃん達の溜まり場になっているかのどちらかで、使用価値の薄い公園だった。それ以外は、決して役に立ちそうにない公園。その公園内にあるのは、ブランコ一台と滑り台一台。それに砂場が一ヶ所と汚いトイレ一つ。それだけ。そしてなぜか真中に大きな木が植わっていて。なんていう木知らないけど。桜じゃないことは確かだ。なんていうアンバランスな公園なんだ。「俺は、なんでこんな場所で、しかもこそこそと隣の家に住む奴に電話してなきゃいけないんだ」と内心そう思っていた。スマフォをタップして「プルループルルー」「プルループルルー……電波の届かない…」

「…電波の届かないところって…」

 すみれのスマフォは死んでいた。俺は、安心したようなそうじゃないような複雑な思いになっていた。要するに嫌な気分だった。餌を目の前にしてご主人様に「待て」と命令されている犬のような気分に近い。その行為に意味がない気がするんだ。待たなくてもいいんじゃないかってのが、俺の解釈だった。うまいものを目の前にして、それを待ってって…どんな状況だよと思っていた。俺は、そういうの嫌だ!待たされるなんて嫌だ。と。

「プルループルルー」

もう一度、すみれの番号を確認してから再度掛け直した。たまに焦って別の人間へ掛けている時があるからだ。

「…」

やっぱり出なかった。どうしたのかな?もう寝ちゃったかな?腕時計の針は、23時を少し回っていた。「ちょっと、遅かったかなぁ」すみれに悪い気がした。俺は、その小さな公園を出て自宅マンションへ向かった。徒歩一分で到着の距離。道路からすみれの部屋の窓をチラッと確認してみた。

「灯かりは…」

「付いてないっと」

 すみれの部屋から灯かりが消えていた。「やっぱり寝ちゃったんだ」と。少しホッとした。「今日の俺は、どうかしていたんだ。そういや、朝からずっと変だったもんな。俺も早いとこ部屋に戻って風呂に入って寝てしまえ。このまま何もなければ、カナに嫌な思いをさせなくて済んだし。LINEでショートメールでも入れておくかな」

 取りあえず、郵便が来ていないかどうか確認。数枚のビラと電話代の請求書とハガキが一枚入っていた。ハガキの送り主は、なんとカナからだった。差出人の名は、空欄でなにも書いていなかった。でも字体で簡単に分かった、カナだと。ちなみに消印もなかった。~という事は、ここへ来たんだ、カナが。


 please,please,please,let me get what i want.


 遠くまで行ける切符を手に入れた。

 荷物はそれだけにしよう。

 うまれるものや、きえてしまうものは、

 ココロ或いは似て非なるものを見透かして、

 道端や若しくはポウターの背中に転がっている。

 舌が痺れるほど甘い、薄荷の匂いがする童話。

 深みに触れる、チリッとした冷たさ。静寂に紡がれる。

 永遠の安息を求める旅人は、

 これまで何を犠牲にして、何を捨ててきたのだろう。

 誰にも見えないように。

 誰にも聞こえないように。

 何を許せなくて、何を認められなかったのだろう。

 愉しい水。

 優しい水。

 飲み干したら気を失った。


 小さな風に巻き込まれて、

 痛めた足も、立ち上がることも忘れて涙をこぼす。

 揺れながら回転する感情は呻きにもならず、

 驟雨に熱を奪われて、列車も戻りはしない。

 差し伸べた手を振り払うと恐怖が傍らに忍び寄る。

 クスリでもセラピーでもなくて、林檎がほしかっただけなのに。

 寒天の夜空が黴びてゆく。

 海まで辿り着ければ何かを探せて、何かを見付けられるだろうか。

 それは、

 それは、僕が旅人を罵った言葉ではないか。

 愉しかった水。嬉しかった水。

 飲み干したら気を失ってしまう。


 水平線と、魚も眠る時間。

 その痣を、誰かと同じ素振りで、恥ずかしいからペンキで縫ってしまう。

 だけど見失いそうだ。

 嘘は、嘘吐きの姿をしているもので、遠くからでもよく分かる。

 だから約束を想い出し、詠えば怯えた夢も消えるだろう。


 そんなとき、私は。


「…」

 部屋へ戻った俺は、何もせず暫くカナからの手紙を眺めていた。手紙の内容は、至ってシンプルで。しかしものすごく深いないようだった。


「私と結婚しませんか」

 というたった一行。


 何度何度もその手紙を読み返してもそう書いてあった。これは、カナ流のブラックジョークか…と思ったり多少というか何ともいえない雰囲気だった。昨日のいやもう時間的に一昨日になるのか、デートで怒らしてしまったのに。それに最近、あまりうまくいってなかった感もあって。あれこれそう思っていたのは俺だったってことか?などど思いつつ、カナは、あぁ見えて案外と幸せだったのかもしれない。

 こんな一大事のときに「ピンポーン・・・ピンポーン」玄関からチャイムの音が。こんな真夜中に誰かが自宅に訪ねて来た。こんなに遅い時間に自宅にきたわけである。”あぁ…そうかそうかすみれかすみれか…”さらにチャイムが鳴る「ピンポーン・・・ピンポーン・・・」

「はいはぁーい、ちょっと待って。いま開けるからさー今日は、ごめん…」

 カナからの手紙を一旦スーツの上着の内ポケットへしまいながら答え、いそいそと玄関へ向かうのだった。

「今日はさ、部長との打ち合わせで帰りが遅くなったんだ。ごめんごめん。携帯に電話したんだけどなぁ…寝ちゃったと思って、ごめんごめん」

 混乱気味の心を落ち着けながら、玄関の戸を開けた。もちろん外に居るのがすみれだと思っていた、いまのいままで。戸を開けると、すみれではなく、なんと尚樹が待ち構えていた。

「えぇ?」

「えってなんだよ」

「あぁ」

「尚樹?どうしてお前が?」

 慌てて口に手をやった。俺は何もまだしていない。焦ってどうする?

「えっじゃねえだろ!えっじゃ…」

「誰か来る予定だったのか?カナか?」

「あっいやいや…」

「お土産だお土産。今日、突然上司の変わりで仙台へ行く羽目になって。まぁ~食え!」

「…」

 もう頭の中が混乱して何も言えなかった。

「ど…う…」

「なに黙ってんだ。気持ちわりーな。ビールくらいあるだろ!仙台いえば、ちくわだ。なぁ…一杯やろうや」

 相変わらずこの男は、テンションが高い。

「じゃ、おじゃまするよ。おじゃましまーす」

「おじゃましますってお客が言ったら、普通、いらっしゃいって言い返すだろ、普通。相変わらず、魚の腐った目のような目をしてるなぁ…お前は。カナに嫌われちゃうよ…いい加減ふっきろよ…」

 この男は、見かけに寄らずよく喋るんだ、これが。俺が、尚樹の言う”魚の腐った目”ならお前は、”口悪い九官鳥”だ。人生ついでに生きているような男に言われたくないよ。ちぇ…例えも悪すぎた。九官鳥の方が女に持てそうだ。もう今夜はダメだ。俺のような口下手は、いつだって損だ。

「ずかずかとまぁ…勝手に人の家へ入るなよ。全く…。いつもお前はそうだ。来る時は、必ずLINEか電話入れろって言ってあるだろう…」

「おじゃましますって言ったじゃないか。細かい事を言うなって。それじゃ大きな男になれんし女に持てんって」

 本当にウルサイ男だ。”誰が細かいだ。ほっとけ。たった今、彼女からプロポーズされたばかりだっつうの”

「トイレ借りるぞ」

 いつもマイペースな男で、他人の話などほとんど興味がない。あるのは、自分だけ。「I LOVE ME」って感じだ。きっとこういう男は、悩みなどなくずっとこのままだろう。尚樹のような人生を送りたくないが、(ちょっと)一日くらいならのぞいてみたい気もするが、やっぱりお断りする。

「たまには、人の忠告を聞け!」

 トイレの中に入ってまで何かもごもごと言っている。トイレくらい静かにできんもんかね。「…ふぅ」

「まぁ…いいか」

これも俺の口癖だった。いつもこんな感じで一旦会話が終わる。冷蔵庫に入っているビールを取り出してテーブルの上に置いた。

「あぁー気持ち良かった。すっきり、気分爽快。土産は、口実で…本当はトイレを借りに来ただけだ。それにまぁ、こんな時期だし早い方がいいと思ってさ。気が利くっしょ、俺」

 尚樹は、納得の表情で手を洗いながら答えた。

「そんなもん…自分の家でしろよ。それに、ここまでわざわざ来なくたって、確か駅の中にだってあるだろうよ。だいたいお前のうちのほうが近いじゃないか。何時だと思っている?」

 俺は、半分呆れて何も言えなかった。

「駅の中のトイレは汚くて入れん、最悪だ。あれは物置だわ。それにコンビニのトイレも誰が座ってるか分かんから使えん。まぁいいじゃないか」

 尚樹は、口八丁手八丁で(いつも)いい加減な奴だが、意外と神経質な所もあったりする。尚樹の部屋は、いつ行っても奇麗らしい。すみれからそんな話聞いた事があった。尚樹のマンションへ行ったのは、引っ越しの手伝いで仕方なく行った一回だけだ…と思う。あいつは、いつも俺の部屋へこんな風に押しかけてくるから、会うときは決まって俺のうちだ。それに俺自身、他人の部屋へ行こうとあまり思わないから仕方ない。他人の部屋へあがると、いつもどこへ座っていいか迷ってしまうっていうか、すげぇ落ち着かない。カナの自宅にも一回くらいしか行った事がない。彼女の部屋は、実家住まいって事もあるけど。

 尚樹は、手を拭きながらこの間買ったばかりのイームズの椅子へちょこんと座った。この男には「遠慮」という言葉はないのだろうか?人の家に来ても迷う事はないらしい。

「そんなの隣のす…」

 すみれに借りろ!って言いたかったが…途中で止めた。

「すみれがなんだって?さっき、なにをごちゃごちゃ…と…」

「あぁっいや…気のせいだろ」

とっさにごまかした。これは嘘じゃない。断じて嘘じゃない。

「あいつの家は、駄目駄目。もう寝てる時間だわ。最近、早く寝てるらしいんだよ。お肌がどうのこうのって。もう三十路近いんだから、諦めろって言ってるのにさ。そんなたいして変わらないっつうの。人生諦めも肝心だって…」

尚樹は、帰りかけた行動が嘘のように、テーブルの上に置いてあったビールを開けながらちくわを手にした。何というポジティブ精神。

ますますすみれの相談話が気になってきた。すみれに悪い事したなぁ。

「お前も食えって。このちくわ結構イケてるから。ほらっ…」

 大きなちくわを俺の前に差し出した。すみれは、やっぱり尚樹には何も話していないのか…他人の事言えないが変わったカップルだと思う。

「はいはい…」

 ”パクっ”と一口。確かにこれはうまいわ。そこら辺のスーパーでは買えない地域の名産品だ。最近では、デパ地下で期間限定でこの手の商品が手ごろな価格帯で販売している。買ってしまうんだよ、これが。

「超テンション調子狂っちゃうよなぁ…このテンションの低さ。せっかくお土産持参してきた友人を向かい入れる態度かね。お前ってやつは…」

 尚樹は、グラスへビールを注ぎながら言った。その注いだビールは、俺が自分のために買ってきたビールで、断じてお前のじゃない。俺より先に飲むな。

「すみれと言えばさぁ…最近、何か…こう…俺にたいしてなんか態度がよそよそしいんだよね。保…何か聞いてない?」

さすがにドキっとした。

「…」

 まだ聞かされていない。やっぱり何かあったのか?

「うんっ?」

 何も聞いていないフリをしようかな?と。

「だからさぁ・・・最近、すみれとの関係がうまくいってないってという色恋話!!何か聞いてないかなぁ…と思いまして」

 尚樹はビールを注ぎながら答えた。すみれから相談を持ち掛けられているとは…言えないよなぁ。内容は、まだ何も聞かされていてないし。噂話にオヒレが付くと面倒でタチが悪いそうだし。ここは、黙っておくことにしよう。お互いのために。なんでいつも俺は、こんな不憫な役回りをしなければならないんだ。おーまいごっと。

「…」

「何も…聞いてないよ。今朝だって、仲むつまじく一緒にスタバへ行ったじゃん。しかもすみれのエスコート付きで」

俺もテーブルに置いたビールを手にしながら答えた。飲まなきゃやってられそうにない。

「何もなかったよ。すみれの時間潰しに付き合されただけ」

 俺は、カップルの付き合いなんてそんなもんじゃないかと思った。

「いつも、朝っぱらからムカツクくらいラブラブじゃん。何かあったの?喧嘩でもした?」

すみれからの相談より先に聞いてしまえ!と思った次第。悩みなんて片方だけの言い分を聞いても分からない事が多い。両方から聞き出せば何か善後策を考えられるかもしれないわけで。”ぐびぐび”っと、一気に飲み干したビールの缶をテーブルの上に置いた。

「特別何もないと思う。ただ何もないというのが問題かもしれんが…」

 ”…うん?”何も問題なければ悩む事ないじゃないか。

「~強いて言うなら…」

 やっぱり何かあるんか?もったいぶらずに全て吐け!

「ん?強いて言うなら?」

 尚樹は、珍しく間をおきやがった。

「最近…いろんな意味で間が持たん」

 間が持たない…?誰だって、長い間一緒にいればそういう時もあるって。いつまでも新鮮な気持ちや関係を保てる方がおかしいよ。付き合いなんて良いときばかりじゃない。俺だってそうだ。どうしてもつい寝てしまう映画を遭えてデートに選んでしまうのも似たような感覚からだった。どうしてすみれと尚樹が、付き合い始めたか?って。それは、俺が暇そうにしていた(本命が居なさそうな時期ともいう)尚樹へ紹介してやったんだ。隣に”変な女”が住み着いているぞ!って笑。それは冗談として、すみれと俺がいつものように会社帰りに食事していると、偶然?いや動物的嗅覚がそう仕向けて、結果必然的に尚樹までもが現れたんだ。”腹減った”って。毎度今日のような感じで。そしたら次の日からこうなった。面倒くさいからその後の展開は、省略。友達とはいえ、他人の恋愛だから細かい事はまで把握していないし知らない。多分、すみれの方が先に惚れたんだ。そんな感じがする。

「…なんだそれ?」

 すみれの話もそんな感じか?もう深刻ぶるなっつうの。

「お前らはどうなのよ?」

ため息を付きながら答えた。

「どうなのよって?」

「うまくいっているのか?最近、姿現さないけど…」

「ちょいちょい来てますよ」

「そうか」

「俺らもたいして変わらないって。50歩100歩。もっと酷いかもしれん。んなことはないか」 

 残っていた二本目のビールを飲み干した。すみれは、結構分かりやすい女だと思うよ。それが俺の出した悩み相談の答えだった。まぁなんていうか、それだけすみれとの恋愛を真面目に考えているということでいいんじゃないでしょうか。うちのカナなんて、もうーーーはちゃめちゃ、わけ分からん人種だよ。口喧嘩した後に”結婚しませんか”などと、書いたハガキを自宅マンションまで持ってくるんだよ、俺の女は。~と言いたいが、まだ口が裂けても言えない。

「…」

 黙ったままの尚樹は気持ち悪い。何か喋れ!

「おう…そうかそうか。お前んとこもか。そうだよなぁ…時々息詰まるよな、やっぱり。学生の頃のような付き合いできんもんなぁ、そっかそっか。あの頃は、良かったとか戻りたいとか~そんな安っぽいきれい事は言わんけど、すげぇ…貧乏だったし笑。取りあえず、俺達にもそれなりにお互い背負うもんができちまったじゃん。むちゃくちゃハードワークな仕事の上に、すぐ結果を求められるし、芋づる式の縦社会のむちゃな人間関係付ときた。接待とか会合とか、全く美味しくないお酒を飲んで、下げたくもない頭も下げまくってさぁ~。とにかく面倒くさい事てんこもりの社会人まっしぐら。今は、楽しい事を楽しいって素直に言い合えないっつうか…楽しいだけじゃ笑えなくなったような気もするし…ひっくっ…」

 尚樹は、自分の下唇をかみ締めながら言った。尚樹もそんな顔するんだ。とちょっとびっくり。

「…確かに俺も楽しい事を楽しいと純粋に思えなくなった…気もするよ。どうしてもこの出来事には、何か裏があるんじゃないか?って、勝手に打算的な態度取ったり、裏の裏までいろんな事を想像しちゃって…逆に見事に足が竦んじまって。普通に、真っ直ぐ見てさえすれば、その時に解決出来た事もあったのではないか~と後悔することもあって。これも「大人」になったって事か?。恋愛は、お互いが尊重して必要と感じているからこそ、飽きずに一緒にいるんだと思う。「好きだ」という思いさえあれば、それ以上の深い理由なんていらないし存在しないのかもしれない。愛とは、いったいなんだろう。愛とは永遠なのか?俺なんて、人生…迷いっぱなしだわ。30年間も。俺も人間ですからねぇ…」

「なるーーー。たまには良いこと語るじゃん」

「単に…俺たちちょっと疲れているだけじゃないか?」

 そんな感じ。すみれも負けず嫌いだがこの男も相当なもんだ。

「確かに。最近の俺、ずっと疲れている。今日も急に仙台出張入るし…。それは当たっている。でもそれだけじゃないような気もするんだ。何かこう…うまく説明ができんのだけど…」

 もう一本ビール貰っていいか?という動作をしながら言った。

「女っていう生き物は、つくづく面倒な生き物だな。いくつになってもきちんと理解できん」

「…同感」

 その問いにすみれやカナはどう答えるのだろうか?

「赤ちゃんっちゅうもんを、この際作っちゃおうかな?とか思っていて」

 ビール缶を「シュポっ」と開けながら答えた。

「・・・」

「えぇ?」

 正直、びっくりして気持ち悪い。尚樹との会話から「子供」というワードが出たのは、いまさっきが始めてだからだ。

「子供?」

「そうそう」

「マジ?どうして…また?」

 俺のビールももうなくなっちゃった。今日の尚樹は、特に変な事をたくさん言うもんだからビールのピッチがいつもより速くなっている。

「きっと…俺とすみれの間に生まれてくる”子”は、絶対カワイイと思うし、そこそこ頭も斬れると思うんだ笑。まぁ…それはそれとして…これからは、もっとお互い共有できる「何か」をちゃんと作っていかなあかんのかなぁ~と思い始めていて。例えば…それが「赤ちゃん」という選択もありかなって話。その言い方は、ちょっと極端な言い方だけど、もっと身近な人間関係を大事にして時間とかもたくさん共有できたら…すげぇ~毎日嬉しいよねって思う次第です」

「ふーん、」

「かなり大変だけどな。SNSとかもう超めんどくせーよ。ぶっちゃけ。いいね。とか知るかよ。生身の人間通しがぶつかったほうが楽しいじゃん」

「間違いない。あははっ~」

 照れ屋な尚樹が照れずにそういう話をするなんて、かなり意外だった。

「確か、一昔前に玩具メーカーのタカラって会社が、もうそのタカラって会社、どっかの企業に買収されたんだけど、そんな情報どうでもよくて、その会社が、犬の気持ちが分かる玩具作ったろ。あれっすげぇ~売れたんだってさ。どっかの雑誌に書いてあった。犬の気持ちなんかより”女の気持ちがちゃんと分かる玩具”を作れっつうの…売れるぞぉーーーー。俺がCM作ったるから、もう間違いなし。そうしたら、こんな愚痴を言う男も減るってぇ~の。ノーベル賞だってあげちゃうよ…。ヒックっ…お前も飲めって…飲みが足りん…」

 尚樹は完全に酔っている。でも言いたいことは分かるし、いくつかは正しいと思った。俺は、カナだけの気持ちが分かる玩具がほしいと思った。

「まぁ…人生色々あるよな。今夜は、とことん飲もうぜ!」

 人生は、色々あるから面白いという人もいるが、俺はハプニングがないにこした事はない。普通に平凡に暮らしたいんだ。普通に生きていければそれでいいんだ。それ以上はこの男のように望んでいない。いまの時代、その”普通”が意外とハードルが高かったりする。


「今日…いや、昨日になっちゃったね、ごめんごめん。確かにハガキを受け取りました。明日、ゆっくり食事でもしよう。カナの大好きなイタリアンの店を予約しておくよ」

 

 尚樹がぐったりしている間に、LINEでショートメールをいれた。今夜は、久しぶりに男二人で酒を飲んだ飲んだ。たまにはこういうのもいいもんだな。テーブルの上には、いくつか缶と瓶が転がっていた。ビール、ウイスキー、日本酒などなど。記憶が飛んじゃって、途中からはっきり覚えていないがすごく楽しかったことだけは覚えている。そんな状況でも、何とか…カナへ連絡することができたのは唯一の救いか。結局、彼女とは一言も話せなかった。こいつらが(すみれと尚樹、この二人)全部全部…悪い。俺の恋路を邪魔するな!悩みなんで二人で解決しろよ。たいした悩みじゃねぇーんだからさ、いい迷惑だ!

 尚樹という男は、ソファーの上で死んだように眠っていた。あくまでもいつだってマイペースな男だ。


「♪♪~」

今朝、二日酔いの尚樹を帰らせた後、すみれからLINEの受信があった。

「悩みは、無事解決!」

「来ないものがちゃんと来たよ。妊娠したかと思ったんだ。ごめんね、心配かけて。でも、私、あいつの赤ちゃんだったら結構ほしいかも…なんてね♪ご迷惑おかけしました…」

 なんだ、そんな事か…笑。男たちの悩みとたいして変わらないじゃん笑。二人とも心配してないよ~♪ラブラブじゃん、お互いお似合いだよ。これからも頑張れ!日本男児!ってか。


 遅く起きた朝は、いつも休日のようだ。

 時計が躓いている。

 世の中で目覚めているのは、自分だけのような気分。

 気の利いたニュースキャスターの皮肉。

 振り返る。誰もいない。

 僕は残念する。誰もいない。

 知る。誰もいない。

 残念する。誰もいない。

 気付く。誰もいない

 僕は残念する。

 誰もいない。誰もいない。誰もいない。


 風が吹く、僕は其処に立つ。貫き、天を刺すものは雑踏している。

 透明なそれは脆く、冬を越えることもできない。

 僕は苛立つ。恋をする。

 渇きを癒す。貫き、天を刺すものが、脆く透明に雑踏している場所で。

 僕は苛立つ。恋をする。雑踏する場所で。


 いち、に、さん・・・。

 指を鳴らす。

 ワン、ツー、スリー・・・。

 踏み鳴らす。

 1、2、3・・・。

 振り返る。

 僕は残念する。誰もいない。

 知る。

 観念する。誰もいない。

 気付く。

 僕は残念する。誰もいない。

 誰もいない。

 肩を叩くのは誰だ?

 肩を叩くのは誰だ?

 肩を叩くのは誰だ?


 まだまだ身体中がアルコールで支配しているが、でも~最悪な気分だった。調子に乗って飲み過ぎた。次の日を考えて飲む酒は、おいしくないから…ね。自己弁護。そんな俺は、いま銀座四町目交差点の角にある「ドトール」の二階にて~冷たいアイスコーヒーを飲んでいる。息抜きってやつだよ。これは、営業職の特権だと思うし、いつも全速力で走れないでしょう笑。一日一回くらい、こんな不必要な時間も大事って事で…ご理解を。俺は、カナが「好きだ」と何度も公言している、ここから徒歩10分ほど歩いた歌舞伎座の隣にある「ラ・カヴェルナ」という名のイタリアンレストランへ(夫婦二人で商いをしている小さな店なんだけど結構いけてる。値段はそれなりでそれほど高くもない)その店に予約を入れるため、スーツの内ポケットからスマフォを取り出そうとしていた。付き合い当初は、その店で何度も食事をして会話を楽しんだもんだ。(理由という理由は特別ないけど)この所その店から足が遠のいていた。

「プルループルルー・・・」「プルループルルー・・・」

 ストローを口で回しながら待っていた。くるくる・・・っと。

「…出ない」

 ランチ時で込んでいるのかな?「プルルー」

”…はい、ラ・カヴェルナですが・・・”

 アルバイトの子らしい女の子の声が聞こえた。

「もしもし・・・私、椎名といいますが…」

 そのアルバイトの子の声は、自信がないのか何だか聞き取り辛かった。まだ新人なのかな?

「もしもし…どちらさまですか?ラ・カヴェルナです。もしもし・・・」

 ひょっとして俺の聞こえないのかな?

「あのぉ・・・私、椎名のいいますが、今夜19時に、二名予約したいんですが…大丈夫ですか?」

 恐縮そうに答えた。

「ご予約ですか?少々お待ちくださいませ・・・」

「♪♪~」

 やっとお互いの意思の疎通が出来、相手に繋がった。やっぱり込んでいるんだ。あそこの店は美味しいもんな。”フフゥ・・・ン・・・♪”鼻歌交じりの歌を歌ってさ、ストローをグルグル回しながらアルバイトの返事を待っていた。大人げない行動だと自分でも分かっていたが、そんなこと気にしない。

”大変…お待たせました。今夜19時のご予約ですね、椎名様、ご予約二名様ですね。真にありがとうございます。はい、大丈夫です”

「そうですか。それはどうも…。よろしくお願いします。はい、はい…♪♪!」

”それではお待ちしています。ありがとうございました”

「どうも」

 スマフォを耳から離した。まずは、カナへ連絡しておこう。きっと喜ぶだろうなぁ。「本日、19時。ラ・カヴェルナにて食事しよう。予約をしたよ。保」LINEのショートメールを送信っと。便利にな時代になったもんだ。「俺と結婚したい…ねぇ…。この俺と・・・」俺は、そう言われて嬉しいんだよね?多分。なに疑心暗鬼になってんだ?

 そういえば二階のフロアーには、変な若いカップル(あの雰囲気は十代かな)が窓際に座っていて~さっきから気になってしょうがない。どうみても口ケンカをしている風だった。しかも女の方が一枚も二枚も上で強かだった。この世代は、というか年々女の方が強くなっているようだ。”・・・うん?”一瞬目を疑った。次の瞬間。”ぱっちーーん”怒ったその女は、男の頬を力いっぱい平手で引っ叩いちゃった。”あらあら”その後も何かとガミガミ彼氏に言っている。”あぁーあ、やっちゃった”周りの人もそりゃ驚いているし。しかし周りがびっくりしたのは、その瞬間だけでまた通常の生活に戻っていた。今のこの時代に生きている人たちは、自分の気持ちっつうか、自分さえ良ければそれでいいと。例えばあの二人がケンカをそのまま続けて例えばあの二人が血まみれになったとしても、そのときは当然いまのように驚くだろうけど、いつまでその状況が長く続くかというと、たいして続かないと思われ。自分の生活を脅かさなければ、その程度で終わってしまい興味が持てない。まぁ俺もその一人だけど。または、その状況に少し余裕がある人たちは、その状況をSNSでちょっと拡散するくらいか。それでもそんなに思ったように続かないし。毎日そのSNSデータも更新されて、昨日のデータは余程のことがない限りそこでお終い。炎上することもほとんどない。もしかすると、もっと酷くて、自分の生きている事さえ、あまり実感が湧かずたいして意味がないんだと、毎日~ぼやいてと活きて言っているだけかもしれない。たいしてお腹も減っていないのに機械的に食べるというのは、まさにそうだ。いまのこの感覚がどう考えてもおかしい。”つまんない””何か物足りない”とぼやいてみても始まらないが。一見幸せそうに自信たっぷりに振る舞っているが、実は、仕方なく生きているのかなって。自分の事も理解していない。いつも不安で心が落ち着かないのをひた隠している。心を許すといつも後で後悔をするから…人間は、裏切るものだと割り切って生きている。そんな感じに時々写るんだ。まぁ、そんな人間ばかりじゃないと思うが、決して少なくないはずだ。叩かれた男というと、怒った女にまだ頭を下げている。こんなシチュエーションでもどちらが悪いか分からない。理由がどうあれ、女の方が手を挙げるなんて最悪だ。もちろん男が殴ってもだ。

 「♪♪~」 スマフォのベルが鳴った。

”あぁっ保さん、もしもし…も・・・”

後輩の森からだった。

「ん?」

”部長がさっきお呼びですよ…早く帰って。機嫌悪くて勘弁してくださいよ。保さん”

「何かあったのか?」

 グラスをカウンターの上に戻しながら答えた。

”何かって…じゃないですよ!変更になったじゃないですか、打ち合せの時間。15時に。今日のスケジュールちゃんと確認しました?”

 森の声は、小さいのでとても聞き取り辛い。どうやら受話器に手を充てながら喋ってるようだ。あいつの様子が簡単に想像できる自分が面白い。多分隣には起こっている部長がいるだろうな笑。

「あぁっ…あ」

あちゃ…完全にその記憶が飛んでいる。ぽかーんと見事に忘れた。いまも酔っ払ってて予定表なんて見ちゃいねぇーよ笑。

”で、どこに居るんですか?保さん。早く会社に戻って来てください!部長が傍でカンカンですよ!”」

「はいはいはい。戻りますよ・・・♪」

”おい!椎名…”はい”は一回でいい!おい!聞いているのか!椎名!早く戻って来い!いつまで待たせる気だ!お前って奴は…い・・・」

部長が受話器を取り上げたようだ。そんなに大きな声を出さなくても聞こえますよ、部長さんって。長電話になりそうなので、電波の届かないふりをして、数秒後にスマフォをそっと切った。仕方ないから丸の内線で帰社しようと、地下鉄の階段で降りようとした。

 「♪♪・・・♪」LINEの受信だった。


「OK!遅れないでね」カナからのショートメールだった。


 部長、お願いだから今日ぐらい時間通りに打ち合わせを終わりにしてください。今日は、大事な用があるんですよ。


 俺の「ちょんぼ」のせいで遅く始まった打ち合せは、通常の時間帯より一時間も早く終わってしまった。それはそれで苦笑い。~というのも仕切っている部長が、突然その上の取締役に呼び出しをくらったからだ笑。(予定に入ってなかったので)焦った部長は、途中で打ち合せを切り上げ(仕方なくと言った方がいい)緩く締めているネクタイも”キュッ”と硬く締め直し小走りにミーティングルームを出て行った。中間管理職のってやつは、いつの時代も辛いところだね笑。

「ふうぅ…助かった」

 今日は、気だるい一日だった。この時間でもお酒がまだ抜けん。

「…」

 隣に座っていた森は、何か俺に言いたそうだ。

「なんだよ」

 俺は、打ち合わせで配られた資料を整理していた。この会社は、打ち合わせや会議も長いがそのための資料もさらに多かった。やっぱりダメなのかこの会社は。

「すみれさんとは…あれからどうしたんですか?」

 やっぱりその事だと思った。

「…」

「なんもねぇよ、心配すんな」

 事実一切何もなかった。結局…何もなかった。それでいいんだ。

「うそだぁ…?今日、一日中…昨日のお酒が残っていたじゃないですか。朝まで一緒に飲んでたんでしょう…どうなんです??」

 朝まで飲んでいたのは、すみれの彼氏の方で。あいつは、ちゃんと仕事をしているのだろうか?

「…ちげぇよ。昨日は、あの後、すみれと一緒に飲もうと思って誘ったんだけど、連絡が全く取れなくて、うちで一人寂しく飲んでたんだ」

 明らかに隣のこの男は、俺を疑っている。

「保さんが、一人で飲むわけないじゃないですか」

 確かにその通り。俺は、一人で絶対飲まない。

「ほらっ、あれだ。…飲み過ぎて肝心な事を忘れていた。昨日は、学生の頃の友人と飲んでいたんだ。そうだ…そうだ。思い出した。あぁー良かった思い出したよ、森君ありがとう」

 この展開で尚樹と一緒に飲んでいたと喋ってもたいして状況は変わらない。

「たった今、一人で飲んでいたって言ったばかりじゃないですか?…嘘ばっかり…どうも二人は怪しいなぁ…本当のとこはどうなんですか?」

 森は、かなり細かい男という事を忘れていた。細かいというかとにかくやたらしつこい奴だった。けど俺は、彼に対して何も嘘を付いていない。友人と飲んでいたのも事実だ。”あぁ…面倒くせぇ・・・男だ”

「ったく、どっちでもいいじゃねぇかよ。なんならお前が、直接すみれに聞けばいい事じゃねぇかよ。それではっきりするだろう」

 半分呆れて、会議室を出て行こうとしていた。

「それが出来ないから…それにすみれさん、今日頭痛いとかで休みですし…有休ないくせに…」

「じゃ…俺を信じろ!昨日の晩は、何もなかった。以上」

 昨日の晩は、本当に何もなかった。男二人寂しく日本の将来について語り明かしたんだ。それが本当の真実だ笑。一部…まぁ…それも愛敬という事で却下だ。


 「18時50分…時間通り到着♪」 銀座四丁目の交差点に着いた。この時間帯は、いつも人・人・人で混雑している。どういう訳か不景気でも人が継ぎれる事はない街だ。彼氏または彼女を待っている若い子や手を繋ぎあって幸せそうなカップル…まだ仕事中なのか焦って小走りになっている男性や老夫婦が小さな孫らしい子と手を繋いでいる姿、中国人韓国人らしい人影もちらちら見えた。ここ銀座に立ってみるとよく分かる。から見える風景は、東南アジアとなんら変わらん。雑食な街だといつも思う。4丁目を暫く歩いて行くと「英●屋」が見えて来る。この店は、上流階級向けのいわゆるホワイトカラー専門の洋服屋さん。どのスーツも結構良い値段が着いていた。尚樹が勤めている企業の社長さんもここの上顧客だとか聞いた事があった。尚樹が偶然英●屋の前を通った時に、とても気に入ったシャツが目にとまったので、それなら一度だけ試着してみようと思いお店に入ったら、偶然とは恐ろしいもので、その日同じようにショッピングに来られた社長さんから声を掛けられてものすごく困ったと汗かきながら話していた尚樹がとても印象的だった。気に入ったシャツもろくに試着もせず、あたふたしてそのお店を出たらしい。このお店は高級な洋服だと思うが、俺の趣味には全く合わなかった。高級な洋服を買う前にまず自分の体形にあった心地の良い洋服を選ぶべきなんだ。そうこうしているうちにあの「ラ・カヴェルナ」が見えて来る頃だった。そのお店は、本当に小さくて素朴で雰囲気のあるレストランだった。何度も雑誌へ掲載されているみたい。掲載されたからといって美味しいとは限らないが、このレストランの味は保証付きだ。”ぴったり♪”レストランの前で腕時計を見て時間を確認した。そしてお店の周辺をキョロキョロしながら店内もそっと眺めた。店内には、すでに二組の客が楽しそうに座っていた。誰だって、好きな仲間と有意義な時間を過ごせば、自然とそんな笑みを浮かべるんだ。「幸せ」とは、そういうものだ。”俺の方が先…みたいだな”珍しい事もあるもんだ。初めて先に来たんじゃないかな。カナはまだ来ていなかった。いつもならあいつの方が先にふくれっ面で待っているんだが…遅い遅いと文句を言いながら。目に浮かぶその光景が。ふぅ…汗汗・・・。俺は、いつも待たせる方だから何となく…変な感じだった。こんな気分なのかな?結構嫌なもんだな、他人を待たせるって。くそっ笑。こんな時は、タバコがあれば…と。でもポケットには入ってない。俺は、タバコを吸わないからだ。正確には、三ヶ月前に止めて今も継続中。止めた理由?たいした理由じゃない。このところ喫煙者には住みづらい街になったからだ。以前のようにどこでも吸えるという風潮は、もう完全になくなった。吸っている側が明らかに悪だ。マンションのベランダで吸っていても、掲示板にタバコの吸い方についてという注意紙が貼られるほどだった。いったいどこで吸えばいいんだとさえ思う。わざわざ分煙の場所で吸う?そんなのごめんだ。そういう風に気を使いながら吸っても美味しくないし、何となくもう吸うのが面倒くさくなっちゃって、単にそういう状況でタバコを吸うのが嫌になって止めたんだ。俺は、元々吸う本数も多い方じゃなかったから、いまの所吸わなくても大丈夫そうだった。出来る事ならこのまま止めてしまうほうがいいかもと思っっている。しかしガムやキャンディーを買う機会が多くなったのも事実で、それさえもなくなればと思う毎日。口の中が甘ったるくて。まぁ分煙のおかげで、東京中の街全体も奇麗になったように思う。街の雰囲気も少し変わったように見えるけど、吸っている奴らの側からみると、この噴煙ルールは、何かの罰則じゃないかと思われても仕方のない話。しかしルールが出来てしまった以上、守るのが大人というもの事だ。

「遅いなぁ・・・」

チラチラッと時計をまた見ちゃった。時計の針は、15分を回っていた。たった15分でも待たされる時間はすごく長く感じた。とても嫌な感じだった。俺も今後は気を付けようと思うほど長く感じた。

「ん?」

 「ラ・カヴェルナ」のオーナーの老人がこちらへ向かってきた。この俺になにか用ですか?この俺が数十分もあなたのお店の前へうろうろしているから「なにか御用ですか?」とでも言いに来るつもりなのか?その老人は、ドアを開けてこっちへ向かって来た。

「…あの俺に何か用ですか?」

 取りあえず腰を低くして俺の方から対応した。こんな場所でオーナーと言い争ってもしょうがない。そのオーナーは、俺をちら見するも無言のままだった。

「19時のご予約の椎名様ですか?」

 オーナーが先に喋りかけて来た。

「はい・・・そうです。まだ連れの女性が来ていないんで・・・すいません」

 俺は頭を下げながら答えた。そのオーナーは、ご自身のポケットから何か取り出そうとしていた。いったい何だ?

「あなたがいらっしゃったら、これを渡してほしい…と。先ほど髪の短い女性の方がお店に一人で来られたんです」

 俺にその封筒を渡してくれた。

「…これを?届けに?」

 カナの字だった。封筒には「保へ」と書かれていた。

「いつ?」

「丁度16時頃だったでしょうか…突然(準備中の)レストランへいらっしゃいましてね~。どうしてもこの封筒を(彼氏に)渡してほしいと頭を下げられて。私が”いいですよ”と答えたら、ニコッと笑みをこぼして帰って行きましたよ」

 オーナーの老人は、シェフ帽を取りながら答えた。

「俺が予約入れてからすぐだ」

「彼女は、何か言ってました?」

「特に…何も」

 ”なんなんだ??いったい・・・?カナは、今日来ないつもりか?

「それでは…」

 老人は、頭を下げて店へ戻って行った。

「あぁっ…はい」

 カナからの手紙ねぇ…。そんな手紙とか書くやつだったか?笑。取りあえず、その封筒の封を手で切った。”ザクザクッ”と。あまり見たくなかった。理由は、特別ないが、妙な胸騒ぎがした。ボールペンではっきりと書いてあった。また、たった一行だけ。


「LOVEが出来たよ、保。」


 全くその意味が分からない。いったいなんなんだよ。カナ。

「何が…「LOVEが出来たよ、保。」だ?こっちは、もう腹が減って死にそうだわ」その言葉の意味すらよく分からない。何かの暗号か?なわけないか…。カナが来ないことを知り、俺は、当然ながら予約した予約をキャンセルし、そのままレストランを後にした。その後何度も連絡するも、結局一度も繋がらなかった。俺の胸騒ぎがちっとも治まらないので、そのままカナの自宅がある下北沢へと足を向かわせた。その街は、俺にとって汚くてゴミゴミしているといったマイナスの印象しかなくて、あまり好きになれない街だった。一昔前に流行った「古着」がこの街を悪くしたような。まぁそんな事はどうでもいい情報か。そんな事よりカナの気持ちの方が大事だった。手紙の内容からすると、どうやら彼女自身は、嬉しそうなそんな気分だろうね、多分。違ったらどうしようかな?


 (バネが曲がったままの腐ったブリキのカカシ)

 天井ばかり見上げている一日。

 地面ばかり見下ろしている一日。

 (毒林檎を食べないロミオ ペットレス症候群のジュリエット)

 どうして、いつも世の中は変わらないのだろう。

 いつまで、こうして暮らさなければならないのだろう。


 なんて退屈で、つまらない生活なんだ。

 なんで退屈で、つまらない生活なんだ。


 死んでしまった方が少しはマシだろうか。

 その方がいいのだろうか。

 たとえ財産や才能があったとしても、この曇り空を消すことはできない。

 生きていることにさほど意味などない。


 (太陽が西の空を焼き尽くし、食べ掛けのアイスクリームを融かす)

 天気は、いつも期待はずれ。

 簡単に死ねないことも分かっている。

 生きていることに、なんの意味もないことも。

 それなのに、生きていることも。


 そして、また一日が始まる。

 天井を見上げたまま、地面を見下ろしたまま・・・


 俺は、もやもやした気持ちを抱えたまま、苦手な「下北沢」の駅を降りた。案の定、一緒に降りようとする若い子も多く、駅の周辺は若者でごった返していた。どう見ても学生ばかりだった。俺と同じかそれくらいの人もいるんだろうけど、道端や路上にしゃがみ込んで理由もなくただ喋っているだけの連中は、年齢がそこそこでもガキにしか見えなかった。大人とは認めたくなかった。そんな連中の片手にはだいたいタバコが。慣れた仕種で(いっちょまえに)吸ってやがる。おまけに道端にポイ捨て。お前らには”申し訳ない”とか”遠慮”とかそういう控えめな感情はないのだろうか。注意しない親や注意しようとしない年上の俺たちも悪いが、ルールを無視して吸っている本人が一番悪い。彼らは、その”悪い”という意識が全くないように感じた。確かに俺たちの世代の学生の頃やそれ以上の世代もタバコを吸っていた連中はいたんだろうけど~「悪い事」をしているという感情はあったんじゃないかな?。吸っている事=「悪い事」なので、偉そうな事は言えないが。マックの側道(軽い下り坂になっている)を通って、カナの自宅へいそいそと向かった。どこもかしこも人だらけでマジ気分が悪くなりそうです。聊か空気も悪いし最悪だ。この辺一帯は、昔でいう歩行者天国か上海のような古い雑居ビルの集合体のそんな街だった。壁には、ペンキで落書きが書いてあって、それを若者は「アート」と呼んでいるらしい。俺には、どうしてもただの「落書き」にしか見えないけどね。何をしたいか分からない連中が、夜な夜なこういう場所に来て、自己表現をしているって事か?自己表現する場所が違うような…気もする。NHKだったか民放だったか忘れたけど、番組に出てたコメンテータが喋っていた。不景気になると、こういう感じのモノが流行るんですって。書きたい連中とそれを消したい大人達。ずっといたちごっこになってるんだって。確かに、消した後にまた書いている風に見えるシャッターばかりだ。大変だわ、こりゃ。そんな下北沢も近年再開発の嵐で、駅付近が微妙に面倒くさい事になっている

 カナの実家兼自宅は、花屋の隣にあった。目の前がYの字に道が別れていて、向かって右側の方にあった。以前一度だけ行った事があった。三年でたった一回。一年前の丁度春先だったと思う。少ない?ほっといてください。親と同居だと行き辛いじゃん。そんなの分かるでしょう、ズケズケと”どもーー”ってその実家兼自宅に通うのもどうかと思いまして。そういうのどうなの?って思う質で。そう思っていたら、三年で一回。まぁお互い30歳にもなると、何となくね。ほらっ「結婚」とか「一緒にならないの?」とか色々余計なお世話があったりするでしょ。それにカナの両親って見た目細かそうな印象でどうも話題が合わなさそうだし。あくまでも俺の一方的な推測ですけどね。一言しか喋った事ないからさ。しかも「ごめんなさい」って。カナの実家兼自宅の近くにあるBARで一緒に飲んでいて、何か知らないけど俺の方が一方的にベロベロに酔っ払っちゃって(ここまでは、多少覚えているけど)カナがしょうがなく自宅へ連れて帰ったんだって。(次の朝、カナの口から恐る恐る聞いた次第)要するに最悪のご両親とは出合い方だったわけで、向こうも多分善い印象は持っていないはずだった。だから逢いたくないわけですよ。人の印象は、第一印象っていうでしょう笑。

「見えて来ちゃった」

 ”帰ろうかな?”嘘嘘…ちゃんと会いに行かなきゃね。花屋には、客らしき人はいなかった。おもむろに両手を見ると手ぶらではないか。”うーん”手ぶらというのもどうかと思ったのでお花でも買いますか。お花屋の前で立ち止まった。この辺に来るとさすがに人の入りも疎らになって、やっと落ち着て話せる距離となった。そういえばお花屋なんて年間何回も行かないな。「花を飾る」という習慣は、俺にはないからだ。花は嫌いじゃないんだけど、何となくそういう場所には足が向かなかった。そういえば、どんな花を買えばいい?カナの好きな花なんてそんなの聞いたことないよ、ワカンナイワカンナイ。”ちぃ…カナに聞いておくんだった”目の前には、 季節の花っていうのかな…アジサイがきれいに並んでいた。公園などに植わっているあのアジサイだ。当たり前っていうけど、小さく纏まっているこのアジサイって変だと思わない?笑

”…何かお探しでしょうか?”

 若い店員が俺に喋りかけて来た。

「えーっと・・・」

どういうお花がいいのかな?

「彼女用…ですか?」

 ニコニコしながら喋ってくる。やっぱり女は、花というやつが好きなんだ。

「そうです」

 ぼそぼそっと聞こえないように答えた。

「女の人ってどんな感じの花を選ぶと喜ばれますか?…買った事ないんで…」

 開き直るしかない。

「そうですねえ」

その店員は、沢山切り花が飾ってあるあたりを歩き始めた。一本二本…と無作為に花を取り出し始めた。選んだ花は、どの花もとても奇麗な花だった。

「基本的には…女性は好きですからねぇ…。お誕生日かなにかですか?」

 と言いながら持って来た。

「えぇーまぁー」

 赤面しないまでもそう言われると聊か照れるわけで。

「こんな感じの花は、どうですか?」

 多分、ユリじゃないかと。

「…ユリですか?」

「はい。もう一本は、欄という花です」

 ニコニコしながら答えた。この人は、きっと好きなんだ、花が。

「…」

 他の花を見ても(分からないし)たいして変わらない。「これでいいや」と。

「じゃ…それを。うんっと…5本ずつ纏めてください」

 ”ふぅ…”よくドラマなんかで花を買うキザな俳優が出てくるけど、(花を買う)気持ちは理解できそうにないですね。

「もう…今日は最後なんで、この花もおまけしておきますね」

 奥に飾ってあった切り花を二・三本引っこ抜きながら喋った。

「あぁ…どうもです」

 花の匂いってのは強烈だ。当たり前の話だけど、この部屋は、何とも言えない複雑な香りで充満していた。女が付ける「化粧」の臭いとまた違った臭いだ。こっちの方が自然の香りで少し気分がいいです。女どもは、どうしてこうも化粧をしたがるんだ。といつも思う。あんなの無くていいのに…と。すっぴんでも十分可愛いのにあえて化けなくてもいいのに。下心があるわけですよね、その化粧の下には。俺は、化粧する女が好きじゃない。カナもほとんどしない。だから、好きになった。確か母さんも化粧をしていなかったような…記憶がある。カナの話をしていたら急に逢いたくなった。カナに…逢いたい。もうすぐそこにカナがいる。本当に逢いたい。久しぶりに逢いたくて逢いたいと素直にそう思えた。銀座のイタリアンの店には来なかった相当”わがままな”彼女だけど。そういう行為に対して怒っても良さそうだが、いつの間にかそんな気分はどこかへ行ってしまった。そんなスタスタと店員が近くに寄って来た。整えた花達と一緒に。

「こんな感じでいいですか?」

 ”いい感じだ”

「…大丈夫です」

「じゃ…こんな感じに包みますから。もう少々お待ちください」

 レジの方へ歩いて行った。

「…おいくらになりますか?」

 3000円くらいかな?高いのか安いのか分からない。

「消費税込みで、2500円になります」

 その店員は、せっせと選んだ花を包んでいる。どんどんキレイに包装されていくのを見ながら、俺は、カバンから財布を取り出した。

「…どうですか?」

 ”うん、バッチリ!”

「ありがとうございます」

 早くカナにその花をあげたい。その花よりきれいな彼女の笑顔がもっと見たい。予断だけど、誕生日やクリスマスみたいに決まった行事には、それなりのプレゼントを用意して渡して来た。あいつが気に入っているかどうかは知らないけど、何度か身に付けているところを見たような気もするから、まぁまぁの選択だったのでは…と思う次第。あいつは、あげたプレゼントをわざわざ着けてきたぁーって言わない女で、さり気なく付けているんだ。そういう仕草がたまらなく好きなんだ。こういったハプニングの後にプレゼントを渡した記憶はない。記憶がないのではなく「渡した事がない」が正しい言い方かな。理由なきプレゼントってなんだか照れるじゃん。そういうのあいつは素直に喜ばないタイプだよね、多分笑。そういうときは、おもいっきり喜んでくれてもいいのに。出来上がった花束を見ながらそう思った。”あははっ”と思わず苦笑いをしてしまった。これが、初めてのハプニング付きプレゼントとなる。レジに居る店員へ三千円を渡した。”お預かりします”とその店員いい、五百円の御つりと一緒に花束をくれた。ものすごくいい香りの花束だった。

「どうも」

 外に出ると、花束を手にした自分がとても恥ずかしい。目の前を通過する人達の目線がやたら気になる。”どこに持って行くんだ”という顔をするように見える。実際はそんな事はない。自分(他人)が思っているより他人(自分)は気にしていない。世間なんてそういうもの。”ふう…”目の前は、すでにカナの実家兼自宅だった。チャイムを鳴らす前に心落ち着かせるべき一呼吸した。この場に及んで、すげぇ~緊張している。花束を持っている手は、もう汗ばんでいた。”そんなに緊張してどうする?ただの挨拶だ”

「…」

 チャイムを鳴らそうと思った。

「ピンポーン、ピンポーン・・・」

 ついにチャイムを鳴らしちゃった

 ”ドキドキ”一瞬両目を閉じた。

「…」

 すーーーっと一呼吸した。はやく出てきてください!

”…どちら様?”

 母親らしき人の声がインターホン越しに聞こえた。

「突然の訪問お許しください。夜分、恐れ入ります…」

 腰を低くしたつもりで答えた。

”はい。どちら様ですか?”

「…わたくし、椎名保と申しますが、えぇーカナさんは、お戻りになられていますでしょうか?」

 とても時間が長く感じる。

「あらっ…椎名さん?」

(恐らく母親だと思うが)俺を覚えていないのか?一気に気持ちが緩む。

「…はい。椎名と申します。カナさんはいらっしゃいますか?」

 こんな丁寧な言葉を外回りのとき以外使った事がない。舌を噛みそうだよ。

”まだ…その…娘は、帰って来ていませんよ”

 インターホン越しでも品がある女性と分かった。

「えぇっ…?まだ…ですか?」

 俺は、母親らしき人の声を疑った。いまのいままで…(カナは)ここにいるものと思っていた。ここ(自宅)しか思いつかなかった。繭を細めながら、腕時計の針を確認した。20時時過ぎだった。時間の問題じゃないが…カナは、どこに居るんだ?。

「そうですか…」

 その言葉しか思いつかなかった。

「何か御用ですか?もう少しで戻って来ると思いますよ…部屋で御待ちになりますか?」

 花束を左手に持ち替えて深呼吸をした

「・・・」

 次の言葉が出てこなかった。”何、喋っていいかワカンナイよ”

「…少しお待ちになります?」

 玄関の戸が開く音がした。「キィー」と。やっぱり(当たり前だけど)声の主は、カナの母親だった。以前お会いした時より少し老けたかな?いやすっぴんだからか。でも容姿はとてもキレイだった。カナがキレイなわけです。

「・・・椎名さん?」

 俺の方へ歩み寄って来た。加奈より少し背が低いみたいだ。

「…はい」

 母親に目線を合わせて答えた。

「部屋に入って、娘を(カナを)お待ちになったら?この時期は(意外と)肌冷えしますでしょう…それに雲行きも怪しいし…」

 確かに雨が降りそうな感じだった。言われるまで全く気づかなかった。”めっそうもない…”居心地悪しー。勘弁してください。

「…」

「どうぞ…どうぞ。部屋にお入りになって…」

 カナの母親には悪いが入れないって。

「…椎名さん、一度、うちにいらっしゃいましたよね…確か(その時)あなた、すごく酔っ払っていて…うちの娘があなたをおぶって…うふっ笑」

 ”ゲッ…”ちゃんと覚えているじゃん、お母様。

「その節は…大変ご迷惑おかけしました。大変申し訳ございませんでした」

  道に頭を擦り付けるような感覚で深々と頭を下げた。

「いいえ…。男の人は、たまにはねぇ…毎日じゃ困りますけど…たまにはいいじゃないですか」

 カナの母親は、結構キツイ性格かもしれん。要注意だ!カナの性格があぁなのも母親譲りだと判明した。

「…お部屋でお待ちになります?」

 母親は、夜空を見上げながら言った。霧雨のような雨が降りそうだわって感じ。

「…」

 一呼吸置いてから・・・。

「これから駅まで戻って、カナさんを待っていようと思います」

 その選択肢しかねぇ…じゃん。

「そぉーお?」

 にこにこして喋る母親(女性)は、結構苦手だったりする。

「・・・」

「あっ…はい」

 母親の目は、怒っているかそうじゃないか…判断が難しい。今日の俺は、別にカナの自宅兼実家へお伺いしただけであって怒られる筋合いはないと思うけど…何となく居心地が悪いね。

「夜分、お邪魔してすいませんでした」

 ペコッと頭を下げた。

「あなたが、いまお持ちになっている花束…ユリと欄かしらね。隣の花屋で買ったのかしら?あの子を喜ばそうと思って。カナのためにその花を買いになったのならナイスな選択だわね。(あの子が)とても好きなお花だから…。ちゃんと(逢えて)渡せるといいわね笑。何かの記念日かしらね…?」

 母親は、手を口に充てながら答えた。

「そうですか・・・」

「(カナに気に入られるように)頑張って。親の私がこういう話をするのは、少し変かもしれませんが…うちの娘は、とても賢い子よ」

 玄関の戸を開けながら言った。最後まで笑顔だったけど眼光は鋭かった。

「俺も…いや私も知っています!」

 俺は、また下北沢駅の方へ歩いて行った。相変わらず人集りが途切れていない。多少酒が入っていて、いい感じに酔っ払っているおやじ達の姿もちらほら見えた。学生の連中も何かを叫んでいる。俺も大声で叫びたい。


 「誰か~すいませーーーーん、カナという女性の居所を知っている人いませんかぁ!」

 って。


 あいつが立ち寄りそうな場所は…いったいどこ?

 

”あっ…”後ろ姿がそっくりな女が見えたけど、多分違う…。もっとカワイイはずだ。駅のロータリーまで来てしまった。さて…これからどうするかな?

 スマフォのベルが鳴った。「♪♪~」”誰だ?”着信履歴も見ずにタップした。

「…もしもし、カナか!」

 相手の声も聞かずに答えた。

「どこにいるんだよ!カナ。クイズでもしているつもりか?」

”違うよーすみれだよ。すみれ・・・”

 そのようだった。

「~なんだ、すみれか」

 すみれには申し訳ないが、正直がっかり…したというか肩の力が完全に抜けちゃった。

「ふぅ・・・」

「”なんだ”とは何よ。せっかく・・・」

 すみれの声は、いつ聞いても元気だ。ポジティブガール。羨ましいよ。

「ごめん」

 さらに力が抜けた。

「あれ・・・?元気ないじゃん、保」

 あのお気楽事務員の代名詞のようなすみれに同情されるとは…。

「…どうしたの?」

「いや…何でもない」

 何でもないわけがないが。

「どうしたの?カナがどうのこうのって・・・」

「そっちにあいつ来てないよなぁ…?」

 俺は汚い壁に寄りかかった。

「…来てないよ」

 すみれの声も小さかった。

「この部屋にいるのは、私と尚樹だけだよ。一緒に飲んでいたからさぁ…保も呼ぼうって話になって電話かけたんだけど…」

「そっか・・・」

「…カナがどうか・・・した?」

「俺の部屋にも…行ってないかな?」

 小さな石を蹴った。何とも言えない雰囲気だ。

「俺が見て来てやるよ・・・」

 声の主は、尚樹だ。”そうしてくれる?尚樹”すみれの声も聞こえた。

「…カナに何かあったの?」

「正直…分かんない、俺にも」

「置き手紙を残して、どこかへ消えた…かも・・・しれない」

 こういう時にカナが行きそうな場所の心当たりを俺は知らなかった。

「ん…消えた?…どうしたの?」

 消えたという表現は不適切かもしれない。けど、そんな雰囲気だった。

「カナのために予約したレストランへ行って…あいつを待っていても来なかった。そのお店のオーナーから(カナからの)置き手紙を渡されて…。そこには”LOVEが生まれたよ、保”って書いてあって…。そんで、なぜか花束を買って…カナの自宅兼実家まで行って、あいつの母親に逢い…まだカナが戻ってきていない事を聞かされて、それから下北の駅まで戻って来たところ…。なので、いま下北沢っす」 今までの状況を簡単に説明した。所々端折ったけど・・・”結婚しませんか”とか。

「その…なんだっけ?「LOVEが出来たよ、保。」…って、どんな意味があるの?」

 ”ちっ知るか、そんなもん!”心の中でそう思った。

「その手紙の言葉の意味を確認したくて…あいつの自宅まで行ったんだよ。結局…居なかったけど…ちぇっ・・・」

「そっか。そうだよね・・・」

 すみれは、その後何も言わなかった。会話が続かない。

「・・・」

「・・・」

 多分、数十秒間お互い黙ったままだった。”ガチャン・・・”玄関の戸の音だった。尚樹が部屋に戻って来たようだ。

”~で、どうだった?”

”多分、いないと思う。何回かチャイム鳴らしても無反応だったし…多分いないね”

「・・・」

 尚樹の声が聞こえていた。

「こっちには…来てないって」

 二人の会話が聞こえていたから聞かないでも知っていた。

”なんかあったんか?”尚樹の声が聞こえて来た。俺がすみれへ説明した事をすみれがまた説明している。

”まずいんじゃないの?それって。一緒に探そうか?…保”

 すみれも尚樹も心配してくれている。涙が出て来るくらい嬉しかったが…こういう展開には非常に弱かったと自覚したんだ。

「どうせ、またどっか…その辺の店でまだ飲んでいるのかな?」

 右手で頬を掻きながら答えた。その発言は、俺の本意じゃない。

「そ…そう…かもね・・・」

 すみれも絡みづらそうだった。

「ふぅ…」

「大丈夫?これからそっちへ行って一緒に探そうか?」

 大丈夫じゃないよ、全然。

「…」

「どこか立ち寄りそうな場所…知らないの?」

「…」

 そんなことわかんねぇーよ。

「もう少し…この辺を探して見るわ。何かあったら連絡する…」

 髪を掻きあげながら答えた。

「私達は…どうしたらいいかな?」

「んと…じゃ…そこで待っていたくれた方がいいかな。もしかしたらそっちのマンションへ行くかもしんないし…」

 俺は、歯をギュッとかみ締めた。こういう時ってどうしたらいいかぁ…本当に分からない。カナの立ち寄りそうな場所も分からないなんて…最悪だった。ちょーまぬけな男。カナの何をいままで見て来たんだ、俺は…。三年間…カナのどこを見て来たというんだ?自己嫌悪に陥っている。”あぁ…”って感じ。さっきからあの大きな矢が胸に”グサッ”と刺さったままなんだ。

「じゃ…取りあえず、ここで待っているね。カナと…その…共通の知人って、数えるくらいしか分からないんだけど、一応…念のために連絡取ってみるね。もし…カナがマンションの部屋に来たり連絡があったりしたら、すぐ、保にも知らせるね」

「あぁ…了解」

 俺は、ため息を吐きながらスマフォを耳から離した。


”ねぇねぇ…真美…知ってる?…夕方、この駅のホームの階段で…貧血か何かで倒れちゃった子がいたんだって…ねぇねぇ知っている?そっこーなんか救急車で運ばれちゃったらしいよ。結構…凄かったみたい。あそこから(二階から)…下までガタガタって転がり落ちたらしいよ…”

”あぁ…えぇ…カワイソウ…。その子大丈夫なの…その人?」

”さぁ…知らなーい。そんな事故があったっていうことを話しただけで、別にその子と知り合いじゃないし。真美もさっきナンパされそうになった男から聞いただけだもん…」

”その男いい男だった?”

”そっちの話題に飛びつくわけ?あなたらしいわ笑”

”全然…何かさぁーー”

”そろそろクラブ行く‐‐‐?”

”いいねいいね、そのノリ笑”

 高校生らしき学生が事故とかなんとか喋っていた。でもいまの俺にはその情報が耳に残るまでの情報とは思えず全く入ってこなかった。そういう貴重な会話がほんのすぐそばであった事も全く知らず…俺は、くたくたになるまでこの街を歩き回っていた。あれから二時間くらい軽く歩いただろうか。カナの姿はどこにも見当たらず…買った花束と共に自宅マンションの見える所まで戻って来た。いっとくけど仕方なくだ、諦めたわけじゃなく、気付いたらうるさいあの街も眠っちゃったみたいで、ざわついた人波も疎らになっていたからだ。他の街も探さないのか?と思われるかもしれないが、表参道や原宿…そんな場所には絶対居ないと思う確信があった。特に理由なんてない。こういう時は直感を信じる。俺は、そういう男なんで、何となく「この街」にいると思ったんだ。それだけは間違っていないと思う。結局、カナには逢えなかったけど…。全身のチカラが抜け切った状態で…スマフォの着信履歴やLINEを眺めていた。特にSNS的な情報アプリにもそれらしい情報は入っておらず…俺のお目当てのカナは何処に…。

「何も…入ってない…かぁ」

自動販売機に100円入れて(コインランドリーの側にある自動販売機は、100円でオッケー)コーラを選択した。”ガシャン・・・”

「…」

 出てきたのは、頼んでいないコーヒーだった。まれに…この自動販売機は、選んだジュースが素直に出てこない事があった。

「はずれ…てか・・・」

 この自動販売機も人の気持ちを読めるのか?猫や犬や馬は、人の読めるらしいですけど。マンションの前に着くと、二人は待っていてくれた。カナの姿は…なかった。二人は、俺に二言三言…喋りかけてきたが、何を話しているか…今の俺には全く理解出来なかった。多分というか絶対カナの話だったわけで。二人も阿野手この手で一生懸命探したけど、結局カナの居場所を突き止めることは出来なかったという残念な話を伝えたかったのだろう。聞く耳を持たなかった俺の方が悪かった。今日は、勘弁してください。


 彼女は朝に吼える

 生まれ変わることのない朝に


 打算的な風や、

 無気力なチャイムに彼女は腕輪を鳴らす

 臆病なトリたちへ

 眠り続けるコドモたちへ


 起きろ! 起きろ!!

 彼女は朝に吠える

 何とか生れ変わるために


 月曜日不良の泥鰌。山の中の殺人事件。

 僕は鉄棒をぐるりと回り、うろこ雲を数えていた。

 退屈に飽きた隣のおねえちゃんは、女の人の恋人と街を出た。

 雨戸が締めっぱなしの部屋。


 野良猫のイチローは、

 キッと夕焼けを睨み付ける。

 一日はまだ終わらない。

 昼間の秋刀魚の味を思い出す。)


 そして…いつものように朝が来たわけです。正直に言えば、来なければいいと思ったのも事実でして。例えば、昨日がどんな日だったとしても、最良の日でも最悪の日でもちゃんと明日が迎えに来るんだ。俺はというと、もちろん後者の方で。あれから、すぐ自宅部屋に戻って、まぁ見事に傷んでしまった花束を無造作に置き、冷蔵庫からビールを取り出した。たまたま付けたテレビ番組は、スポーツ特集をしていんだ。今日、いや昨日行われたと思われるサッカーの試合結果だけを確認して…すぐテレビを消した。その後、汗臭いシャツを脱いで、熱いシャワーを浴びたんだ。そして数分後にベッドへ潜り込んだ。ちゃんと寝たと思う。寝違えはしたが…。人間って変わった生き物だわ。どんな状況におかれても睡眠だけは、必ず出来るようです。カナの母親から何度も何度も着信があった事も知らずに、俺は、ずっとその後寝続けた。「♪♪~」「♪♪~」そのスマフォの充電も俺と同じように深い眠りについた。充電がなくなっていた。

 いつもと同じような朝が来ても…いつもとは明らかに全く違う風景も一つあった。通勤途中は、いつもうるさいくらいよく尚樹やすみれも今日だけは無口だった。一言も誰も会話を交さずにいつもの電車へ乗って(尚樹とは、新宿で別れた)会社へ向かった。正確には”おはよう”とか”雨がまた降りそうだね”とかあたりさわりのない実のない会話はしたけど。そんなの会話じゃないと思う。ただの挨拶。口の筋肉が勝手に動くんだ、それだけ。たいした意味はなかった。俺達の会話っていうのは、もっとなんかこう…バカっぽいんだ。それでこそ俺たちだ…といつも思っているが、今日だけはそんな気分じゃない。こころは、どしゃ降りの雨が降り続いていて全く止む気配もなくて…しかも避け切れずに靴が水溜まりに入っちゃったみたいな…そんな重苦しい最悪な感じだった。三人とも同じ雰囲気だと思う。


 9時になると当たり前のように部長中心による朝の朝礼が始まる。

「おはよう~皆さん」

 部長は、いつものように挨拶を始めたタイミングで、「♪♪~」充電を始めた俺のスマフォからウォンウォン音が鳴り始めた。着信履歴やらアプリのなんちゃらまでどかどか更新してきた。

「うん?」

 「♪♪~」更新中の最中、一本の電話がかかってきた。

「いったい誰だ!朝っぱらから…ちゃんとマナーモードにしておけよぉ。ったく…社会人の常識だろう…まったく・・・」

 部長は、なんかブツブツ喋っていた。

「…すいません、私です」

 一番びっくりしたのは、部長より俺の方で本当に予想外だった。”いったい誰だ?”知らない番号からずっと鳴り続けている。

「電話してきていいですか?」

 申し訳なさそうに腰を屈めながら答えた。

「クライアントからかぁ…しょうがない奴だな。すぐ切れよ、すぐに…」

 資料を配りながら答えた。

「すいません…じゃ…ちょっと・・・」

 俺は、腰を屈めたまま廊下へ出て行った。

「あの…もしもし…」

「もしもし…この番号、椎名さんのでしょう?」

 変なおばさんの声が聞こえた。聞き覚えがある…。

「もしもし…聞こえているの・・・?」

「はい、ちゃんと聞こえています。私、椎名と申しますが…どちら様でしょうか?」

”だれからの電話?”

 すみれとたまたま居合わせた。

”さぁーー?”

 スマフォに手を当てながら答えた。

”見知らぬ番号からでさ”

”そういうの危ないよーーー無視無視”

 そんな井戸端会議をしながら廊下へ出ようと思い、ここから一番近くの戸を開けながら出て行った。

「やっと繋がったわ」

「はい?」

「あなた、椎名保さんよね、すぐここへいらっしゃい!いますぐよ、いますぐ…」 そのおばさんは、何となく…イライラしているようだ。「何がどうなってる?」

「どちら様…」

 髪をかき分けながら答えた。

「私はですねぇ…あなたが昨日…花束を渡しそびれた”カナ”の母親です。私の声くらい覚えておいてちょうだい…まったく・・・」

 ハトが豆鉄砲をなんとやら…。”まぁまぁ…そんなに大声出さなくてもいいじゃないか…。保クンにも繋がったんだから”電話の向こうで窘めているのは、おそらく…。

”そんなこと言いましてもですよ…あなた…”

”そうそうガミガミ言いなさんな”

”もしもし…これから私の言う”病院”まで来てちょうだい…いい…!!来るんですよ”

 ”うん?病院…?”繭を細めた。

”世田谷のねぇ…ちょっと、聞いているの?あなた…”

 母親は、だいぶ取り乱しているようだった。

”お母さん、ちょっと電話貸しなさい。あなたが言うと、伝えなきゃいけないことがいつまで経っても伝えられないから”

”そんなことありません”

”いいからいいから。任せなさい、私に”

 お父さんらしき人がスマフォを取り上げた模様。

”もしもし…”

”私が…”

”明大前にある……病院まで来てちょうだい。分かった?あなた…聞いているの?”

 お母さんの声が混戦気味でよく聞こえない。

「はい?」

”私が…”お前はちょっと黙ってなさい!!””

”私は、カナの父親の一郎と申します”

「はい」

”お仕事の都合もあるでしょうが…一度「渡瀬産婦人科」という病院へカナを訪ねて貰うわけにはいかないでしょうか”

「あっはい!」

 カナという言葉で反射的な反応をしてしまった。

”「渡瀬産婦人科」という病院ですよーーー”

「えっ産婦人科…えぇ?産婦人科??」

 つい大きな声で答えてしまった。同僚も何だか騒ぎ出しているようだった。”何かあったのか…?”とか”知り合いが死んだみたいだ?”とか色々勝手に妄想を膨らませている。”言っとくけど、誰も死んでねぇ~し。勝手なこと言うな”

”…そうよ。何度も言わせないの!早く来てちょうだい。朝の朝礼が終わったら~すぐ来なさい!うちの娘は、あなたを必要としているの。だから…文句を言わないで早く来てちょうだい!”

 俺は何も答えられなかった。昨日自分が想像いていた状況を軽く超えていた。そういう時って…人生長く生きているとままあるらしい。いまがそれだった。喜んでいいのかどうかさえ良く分からなかった。

”加奈のお腹には…あなたの赤ちゃんがいるのよ!カナはあなたの子を妊娠したの…分かってるの?”

「赤ちゃんが…」

「はい・・・すぐ・・・」

俺は、ボーッと無表情な顔付きで電話を切ってしまった。事務所に戻ると、周りの連中は”どうかしたの?”とか”大丈夫?”とか優しい声を掛けてくれた。

「何かあったのか?椎名?」

 部長の声が聞こえた。

「…」

 一瞬間を置いてから・・・。

「本日、一身上の都合で…有給休暇を取らせていただきます!」

 ”駄目だ”と言うなら…こんな会社いつでも辞めてやる!

「…どうしてだ?」

 事務所にいる連中は、皆、一同に俺の顔を見ている。

「今から…病院へ…行かなきゃいけないんです。産婦人科にいる彼女を抱きしめたいと思います」

 俺は、心に刺さったままの矢がぼろぼろと抜け落ちた。胸の痛みがなくなった…そんな気がしました。

「なんだ、お前に子が出来たのか?」

 部長の顔付きも優しく見えた。

「多分・・・」

 どうにも不安で…泣きそうになった。

「多分なんだ、そんなんで彼女を幸せにできるのか!?」

「はい…」

「いますぐ…その病院とやらに行って来いや。お前が一人抜けてもたいして変わらんわ」

事務所にいる連中も何だか嬉しそうだった。「良かったねぇ…」とか「やるじゃん」とか…拍手が鳴り止まなかった。こういう時に初めて生まれてきて良かったと素直に思える。みんなに感謝です。「ありがとう・・・」

「じゃー私も友人代表で早退ということでよろしいでしょうか笑」

 すみれも笑いながら答えた。

「お前は、ダメだ!!!!!有休も残っておらんやろーーーー」

「えぇーーーーケチ」

「ケチで悪かったな」

「僕の有休、買いますか?笑」

「ねぇねぇ、いくらーーーー?」

「森さんの有休、購入したいと思います笑」

「んな、冗談言ってないで、伝票の整理たまっているだろ」

「もう何もしたくありませんーーー」


 俺はすぐ事務所を飛び出し…階段を下って行った。数分後、すみれと尚樹宛てにLINEのショートメールを送信っと。

「俺も…父親になりそうです。マジ嬉しいっす!バンザイバンザイ…」

 二人の返信も送られて来た。

「やったね!保」

「保も親父かぁ…頑張れ!ファイト!!」


 病院までの行き道は何とも言えない感覚だった。初めてじゃないかな、こういう感じ。同じ車両に乗っていた小さな赤ちゃんが目に止まった。”ギャンギャン”な極めていた。そんな状況の子でさえ、いつになくカワイク見えた。赤ちゃんの存在をここまで意識して見た事が一度もなかった。こんなに小さな小さな手をしているなんて…気が付かなかった。”一生懸命生きてるんだ、この子も…”


 明大前の駅を降り、そのまま…無心で病院へ向かった。100メートル、9秒台の気持ちで走ってる。世界が俺中心に回っている感覚だった。「幸せ」とはこんな感情なのか。カナが待っている渡瀬産婦人科は、俺の自宅のすぐ側にあった。徒歩五分くらいの場所にあった。何度も何度も…その道を通っている。まさか自分自身がそんな見慣れたその病院へ入るなんて…いまの今までほんの少しも思っていなかった。

「やっと着いた…」

 立ち止まらず、そのままの勢いで自動ドアを開けた。

「…誰かいませんかぁ…誰か・・・」

 俺は、思わず大声を出してしまった。”しまった”と思ったが…すでに遅かった。

「どちら様ですか?ここは、病院ですよ。静かにしてください」

 看護婦さんに怒られてしまった。

「あのー」

「何ですか?」

 多少、ご機嫌斜めかも・・・。

「すいません・・・千葉カナさんという女性は…いませんか?」

 息をはぁーはぁー言いながら答えた。

「千葉カナ・・・さん?」

「・・・はい」

「あぁ…その患者さんなら…2階の202号室へ昨日入られた方ですね。確か、昨日…だったかな、夕方…突然救急車で運ばれてきた妊婦さんだったかな。あなた、その方のお知り合いか何か…?」

 手で持っている記入用の資料を見ながら言った。

「はい」

「救急車で運ばれた…あぁ・・・?」


”ねぇねぇ…真美…知ってる?…夕方、この駅のホームの階段で…貧血か何かで倒れちゃった子が居たんだって…。そっこー救急車で運ばれちゃったらしいよ。結構凄かったみたい。あそこから(二階から)…下までガタガタって転がり落ちたらしいから…”

”あぁ…えぇ…カワイソウ…大丈夫なの…その人?”

”さぁ…知らなーい。真美もさっきナンパされそうになった男に…聞いたんだもん…”

”…その男いい男だった?”

”全然…何かぁさぁ・・・ぶつぶつ”


 確か…高校生らしき学生らが何か喋っていたっけなぁ…。フラッシュバックというやつだ。


「どうします?お会いになりますか?」

「あっはい!」

 看護婦は、たんたんと喋りかけて来た。慣れているんだ。その看護婦に連れられて二階に上がった。病院って…何か独特の雰囲気があるよね。他じゃ絶対にない…なんか不思議なケースだ。

「あの部屋に入院した人、妊娠、三ヶ月目らしいですよ」

”えぇ・・・?!”

「まさか、あなたの子供?」

 その看護婦は、俺を見た。

「あっ…はい」

 俺の子だと思う。”俺以外いないじゃないか!”

「あまり妊婦さんに無理させないでくださいね。安定期までまだ時間が掛かるんだからさ…あなたもしっかりしなさい」

 どう見ても俺より年下だろう…と思われる女に注意されてしまう。”知らなかった”とは言えんだろう。

「すいません」

 俺は、頭を軽く下げようと思ったら、前方から聞き覚えのある声が聞こえて来た。あの声だった。カナの母親だ。

「椎名さん?」

 やっぱりカナの母親だった。その後ろ父親の姿が見えた。

「遅れてすいません…。昨日の夜からずっと…着信履歴を見れていなかったんで…遅くなって本当にごめんなさい」

 カナの両親に頭を下げながら答えた。昨日の晩から何度も何度も連絡が掛かってきていた。

「…しょうがないわね。ったく・・・」

「ちゃんと来たんだから…いいじゃないか。ねぇ…椎名さん」

 カナの父親は、以外と冷静だった。それは本当に助かった。ここで親父にも「ガツン」と言われたんじゃ立場が無いって。

「~で、カナさん・・・」

 母親は、手招きをしながら「来て」という合図をした。

「まだ寝てるわ…。相当疲れてるみたい」

 カナは、ベッドへ横になっており点滴を打たれながら眠っていた。なんだか久しぶりに逢ったような気がした。まさかこんな出逢い方をするなんて…ごめんなさい、カナ。

「カナ…妊娠三ヶ月ですって」

 母親は、キィっとした表情で答えた。

「僕も…看護婦さんから・・・さっき聞きました」

 何も言えない。

「あなたの子よね?」

「どうするつもりなの?」

「もし…彼女が許してくれるのなら一緒に育てて行こうと思っています」

 男に二言はない。偽りもない。

「あなたにその…覚悟はあるの?」

母親の表情は硬いままだった。

「彼女と一緒なら大丈夫です」

 俺は両手をぎゅっと手を握った。

「・・・そう。分かったわ」

 こういう状況でこういう言葉をかけるのは、父親の方だろうと思ったけど、最近は違うのかな?たまたまカナのうちは、そういう家系というかそういう環境なだけだろうか?父親は、黙ったままこっちを見ているだけ。その態度だけでも十分存在感がある。それはそれで…怖いんですけど苦笑。無口な人ほど怖いですね。

「うちの娘をよろしくね」

 一言だけそう語った。母親の方も表情が少しだけ緩んだように見えた。


 生きている間は、生きていることを楽しみに生きることだよ。

 と誰かが言ったとか言わなかったとか。


「お母さん…静かにしてよ。保が困っているじゃない」

 カナの声聞こえた。カナが起きたみたいだ。今まで見た事がないくらい穏やかな表情をしていた。本当は、こういう表情を顔をしてるんだって、そう思った。

「起しちゃった?ごめんね」

「・・・大丈夫?」

母親や母親になろうとしている子には、絶対・・・男は、勝てないと初めて思った。すごく強いんだって。言葉ではうまく説明が出来ないけど…。

「私は大丈夫。少し寝たから…」

「カナ・・・」

 情けないが、その言葉をかけるのが精一杯だった。

「・・・」

 加奈の表情はすごく穏やかでキレイだった。きっと、一生忘れない。

「そんなことよりここに来て座って、保」

 ベッドの横にある小さな丸い椅子を指した。

「おぅ」

 ちょこんと座った。

「お父さんもお母さんも・・・少し聞いてくれる?」

「何?」

 両親も近くにあった椅子へ座った。

「私・・・・・・」

 天上を眺めながら喋り始めた。たんたんと・・・。

「私ねぇ…この人と(保と)結婚したいの。いいでしょ、お母さんお父さん」

両親は、俺の顔を見て・・・黙ったままだった。

「私と結婚してくれる?」

 カナは、これ以上ないくらいキレイな瞳で俺を見て言ったんだ。

「・・・」

「・・・」

 両親と俺は、言葉につまる。ダメという理由からじゃない。

「普通・・・そういうプロポーズって、男がするからかっこいいんじゃないの?」

 俺は笑うしかなかった。

「私の夢だったんだ。いつか好きな人が出来て一緒になれそうな人と出会って、その人がいつも笑いながら一緒に手を繋いで歩いてくれる人だったら、私の方から”結婚しようーーー”って言うの決めていたんだ。保でそれが叶ったんだ…ありがとう」

 カナの目からたくさんの涙がこぼれてきてしたたり落ちてきた。たくさんたくさん…涙があふれて来たんだ。カナの小さな手じゃ納まりきれないくらいに。初めて人を失いたくないと思った。カナを失うのが・・・初めて怖いと思った。人を愛するという事を初めて感じた。

「このタイミングで、逆プロポーズって…マジで、カッコ良すぎるでしょう・・・カナ」

 俺の目も充血しまくっている。

「結婚してくれる?私と・・・」

「いいよ」

 ”なんで?俺なんかと・・・”とは全く思わなかった。カナの小さな手を握り締めながらそう思った。触った手は、本当に小さく子供のような手だった。「こんなに小さい手だったかな?」カナの両親も嬉しそうだった。偽りじゃない。真実の愛だ。俺も長く続くように願っている。

「やった!旦那ゲット」

 カナは、親指を立てながら答えすごく嬉しそうな顔だった。俺も同じ気持ちだった。嫁さんゲット。

「じゃ…私の事、誰よりも愛している?」

「…もちろん」

 さすがにご両親の前では赤面してしまった。そんな言葉、いままで言った事ない。そのやり取りを聞いていた両親も照れくさそうだった。

「誰よりも?」

「当たり前じゃん」

 頬を掻きながらぼそっと答えた。両親は、「なんてことを答えさせてるの?保さんも困ってるじゃない…」と笑いながら答えていた。

「保、困ってんだ?」

 追い討ちをかけるように笑いながら言った。

「あっ?!」

「そんな事あ・り・ま・せ・ん」

「あぁ…ちょっと間があった笑」


「昨日からずっと気になっていた事があるんだ。一つだけ質問していいかな?」

 その小さな手を握ったまま…言った。

「なぁ・・・に?」

「今さらだけど…。どうして、銀座のお店へ来なかったんだ?」

 どうでもいい話なんだけど一応確認したかった。

「ちゃんと行ったよ。近くでずっと見ていたし。私は・・・あのときちゃんと保に逢ったし。オーナーから私が書いた手紙を貰ったでしょう。保は、想像以上にあたふたしちゃってさ笑。なんか笑っちゃった。ちゃんと見ていましたよ」

「・・・場面にいたの?」

 性格曲がりすぎてやしないか苦笑。

「それを見届けてから・・・うちへ戻ろうと。下北の駅へ着いて、困っているだろうから、保へLINE入れようと思ったんだ。”自宅までに来て”って。そしたら、入れる前に急にお腹が痛くなっちゃって。ものすごく…痛かったぁ…さすがに参ったわ」

「で、近くの人が救急を呼んでくれて、ここにいるわけよ。なんかそのタイミングで、違う場所でも救急車騒動があったらしく、まぁ災難な日ですね」

「・・・」

 あの騒動とは違ったんだ。

「私たちもびっくりしたわよ…この病院から連絡があった時は・・・。心臓が口から飛び出るってこんな感じなのよね、きっと。確か。あなたが帰ってから、少し経ってからだったと思うわ、電話あったの。しかも連絡かかってきたの…産婦人科からですって…。まぁ~何ごとかと思ったわよ。お父さんもよく分からない顔しているし…」

「誰だってそうなるだろ苦笑」

 ご両親も笑うしかなかったみたい。何か妙な雰囲気に包まれていておかしな感じだった。

「保、私のうちに来たんだ?」

 カナは、ちらっと俺の目を見た。

「あんな手紙…突然手渡されたら、普通誰だって心配すんだろ!」

 心配させすぎだって。

「そうなんだ」

「でねぇ…。もう一つ、私の夢があってさぁ。初めて妊娠した時は、絶対…絶対…一番最初にお母さんへ報告したかったんだ。”私もお母さんになったよ”って。けど…こんな形の報告の仕方になっちゃった・・・苦笑」

 カナの顔は、もうぐちゃぐちゃだった。

「私が一緒に食事しなかった事・・・いまでも怒っているの?」

「別に」

 散々振り回されたが、何も怒っちゃいない。走り回った分、厄落としも出来たかなってもんだ。不思議と本当に怒っていなかった。俺の場合は、両親がいない状況がちょっとくらい長く続いているけど、部屋に飾ってある写真には、ちゃんと今日の報告をしたいと思う。これから、まっすぐ帰って報告しなきゃな。


「俺も無事、親父になりました」と。


「本当にバカな子ね…もう…。いったい誰に似たのかしら?」

 母親は、とても嬉しそうだった。父親は「私じゃないよ」って手を振った。

「ところで、妊娠はいつ知ったんだ?」

 俺は、きょとんとしているカナへ質問をした。

「この間のデートの前にこの妊娠を知ったの。その日の午前中、健康診断があって…そこでね。本当は、あまりに嬉しかったから、自分の夢とかどうでもよくなっちゃって、お母さんより保に妊娠の報告を真っ先に打ち明けようと思ったんだけど…止めちゃった。その日の保ってさぁ、仕事がいま忙しいから仕方ないけど、映画館へ着いた途端、すごい勢いで…しかもすごい気持ち良さそうに寝ちゃうんだもん。終わるまで起きなかったし。あぁないわって、だから、私も頭に来ちゃって、何も教えなかったんだ」

 俺の心の中をえぐるように実感こめて言うよね。”ごめん”あの時ものすごく怒ったのは、そのせいだったのか。そりゃ…カナも怒りますよね。

「そっくりね、私達と・・・」

 母親は、くすっと笑いながら答えた。

「お父さんって、お酒が私より弱かったもんだから…いつも先に酔っ払っちゃうでしょう。~で、何度も向こうのうちまで送り届けたものよ。だからね、何年か前に…カナがあなたをおぶって帰って来た時は…思わず大笑しちゃった」

 父親も笑い出した。どうやら本当のようだ。

「あの時…怒ってなかったんだ。良かった良かった・・・」

もう寝ないからごめん許して」

「寝たっていいわよ!寝るくらい…どうって事ないし許してあげる。その変わりいつも私の側で寝てください。他人の側で寝たら…思いっきり蹴り入れてやる!」

「はいはい、お姫様」

 俺もつい…笑ってしまった。みんなも笑うしかなかった。カナは「あぁ…バカにしている…。絶対蹴り入れてやるもんね」って幸せそうに笑っていた。

「…もう一つ質問していい?」

 疲れたのか、もう少し寝ようとしたカナへ喋りかけた。

「今日は、なんだか質問攻めね。質問は、一回だけじゃなかったの?なぁ…んてね…」

「・・・どんな意味があったのかなと思いまして。あの手紙?」


 「LOVEが出来たよ、保。」

 昨日からずっと・・・その言葉にずっと振り回されていた。

 

「まだワカラナイの?保」

「・・・」

 カナは、「そんな事?どうしてワカンナイの?」という顔をした。

「・・・申し訳ない・・・です」

「じゃ・・・”LOVE”ってさぁ、日本語で何と言うでしょう?」

「・・・うん?」

「うん?じゃないよ・・・ばか!鈍感!」

 カナは、少しふて腐れている。タコみたいな顔だ。「プー」って膨れている。その顔もカワイイんだけど・・・ワカラナイ。

「・・・」

 カナのふて腐れた顔を見ながら髪を掻き揚げた。「ふぅ…」とため息をつき天上を見上げた。

「あぁ・・・いやぁ・・・」

 ご両親も「早く教えて」って顔をしている。二人は当然分からないらしい。 

 冷静なると極めて単純な答えだった。カナのお腹にいるであろう「子」の名前だった。あの時の話は、本気だったんだ。少々照れる話だが、カナと最初に結ばれた夜に…冗談でもしこれで私達に子供が授かったら”愛”という名前を付けようって言ったんだっけ。そうだ、そうだ…やっと思い出した。いまの俺の頭の片隅には当然なくなっていてすっかり忘れていた。

「どうなのよ笑」

 どう…って、いまここで答えられるわけないじゃないか。どう伝えていいか分からんだろう。

「(あの話)マジだったの?」

 カナの目を見ながら答えた。

「うん」 

 カナは、ニコッと笑った。この際両親には、別の作り話をしよう。

「もし・・・男の子だったら?」

 ぼそっと答えた。

「・・・」

天上を見上げながら・・・。

「その時、考えればいいじゃん。きっと産まれてくる子は、女の子だよ」

 カナは、相当嬉しそうだった。産まれてくる子は、きっと女の子だと確信しているらしい。俺にはそんな感覚ちっともないが。そんな事より大切な事は、もう…カナのお腹に「赤ちゃん」が宿っているって事。そのことをあなたに一番伝えたかったんだって。あの手紙で。まったく気が付かないとは。この・・・鈍感。二人だけで「くすっ」と笑ってしまった。腹の底から・・・久しぶりに笑った。


 「トントン」病室の戸が開いた。

「どちら様ですか?」

「その後・・・調子はどうですか?」

 この病院の先生らしき人と看護婦が診察へ訪れてきてくれた。

「・・・・・・えぇ?」

 一瞬瞬きの回転が早くなった。たまに駅のホームで立ち話をするあのかっこいいおじさんが目の前にいた。「えぇっーーーー?あのおじさん…?ここの先生だったの???」

「私は、この病院の医院長を勤めさせて頂いています・・・「渡瀬唯」と申します。今後ともよろしくお願いします」

 そういう名前でしたか。初めて知りました。しかも、医者だったんだ・・・。

「ご機嫌はいかがですか?」

 表情がとても優しかった。駅で話すように・・・。

「・・・悪くないです、今の所・・・」

 カナは、ぼそっと答えた。

「あまりムチャしてはいけませんよ・・・千葉さん」

 渡瀬先生は、笑って彼女のお腹を擦った。

「・・・すいません」

「確か、妊娠三ヶ月でしたよね。この度は、本当におめでとうございます」 この人は、普段からとても腰が低くて穏やかな性格だった。

「・・・ありがとうございます」

 カナと俺は、軽く頭を下げた。

「あなたが、お子さんのお父さんですか?」

「あぁ・・・はい」

 思わず椅子から立ち上がってしまった。

「これからも出来る限り、善いお父さんになれるように頑張ってください」

「はい、頑張ります」

「頑張ってよ!保」

 カナも笑いながら言った。思いっきり気持ちいい笑顔で、ピースサインを彼女に送った。

「ほんとーに大丈夫ですか?」

「任せておけって!いい父親になるからさ」

「へぇ…珍しく頼もしいじゃん。良かったねぇ…大丈夫だってさ」

 カナは、自分のお腹をなでなでしながら答えた。両親も笑顔だった。みんな嬉しいんだ。良かった・・・。

「お前は、頑張り過ぎないように」

 これ以上俺を心配させるな。

「はい。反省しています」

 ”ごめんなさい”って頭を下げた。

「よろしい」


「椎名さん…」

 渡瀬先生が、初めて俺の名を呼んだ。

「はい?」

「今度・・・「山猫」という喫茶店へ行ってみてくださいね。本当にいい店ですから笑」

 渡瀬先生も気付いてくれたんだ。俺の事を。

「もちろん」

 渡瀬先生は、点滴の調子をチェックしながらくすっと笑っていた。そして、軽く頭を下げてから部屋を出て行った。カナたちは、「なんの事?」とか「知り合いだったの?」とか喋っていた。この先生とは「知り合い」というほど親密な関係じゃない。だけど俺にとって、人生の善い先輩には間違いない。しかしこれ以上、深く関わる事もないだろう…きっと。これからもたまに駅のホームでお逢いして、お互いの近況や世間話を交す程度だと思う。そんな小さな小さな関係があってもいいんじゃないかな。俺は、深く結び付く事だけがいい関係だと思わない。

 余談だが、この渡瀬先生は、毎週月曜日、新宿にある大学病院へ出向き学生相手に講師をしているそうだ。俺が渡瀬先生に理由を尋ねると「毎日この病院内で勤務しているだけでは自分がどこにいるか分からなくなる。そして自分を見失うのが怖い」と笑って答えていた。若い学生たちと接する事で、その子らの質問や会話などから今まで見過ごしてきたいろんな事に気づく事ができたという。”日々、勉強だ”と肩を叩かれた。


今よりももっと小さな手をして

今よりもずっと哀しい時間の中にいた頃。

子供の私にとって 世界は 今よりも過酷で

大人の今よりも やりきれない世界だった。


誰もいない

冬の日暮れ過ぎの空を見上げながら

灰色に 暗くなってゆく空を見上げながら

遠い灰色の暗い空から 近づいて 降ってくる、

数え切れない真っ白な雪。


色彩の数値は すべての色のずっと後で

最終の意味を持つ色は 純白で、

すべての色に混じり、けれど最初の意味を持つ色は

黒だと 知ったのもその頃だった。


哀しみも 憎しみも 苦しさも 絶望も

すべてを呑み込んでも

それは 最初であり、そのすべての最終が

真っ白な世界なのだ。


どんな汚れた言葉や 現実も

何度 踏みにじられても

純白の世界に 辿りつき、

その世界に 抱かれるんだ。

何度も 汚れた現実を浴びせかけられても

まだ その終わりは 純白なのだと。


その時の涙がなければ

これまで 生きてはこられなかった。

たったひとつの幻想であっても

幾億の 残酷な現実から

こうして 私を救ってきたのだから。


だから

私は 現実をすべての基準に

1人の人の現実だけを

至高の法則とはしない。

その現実から

認められないもののすべてが

存在を 許されないなどと

そんな言葉が 最も正しいものだとは

私は 頷きたくはないのだ。

人の中にどれほどの

他の者を絶望させるだけの

猛毒があっても 命まで 侮辱させてはいけない。

命にさえ 屈辱を与える人に

あなたの命を 奪われてはならない。


あなたの苦しみと哀しみが

硬く 狭い世界に

あなたを閉じ込めてしまっていても

世界は 本当は広いのだと

あなたは 思い出せばいい。

あなたには 本当は自由があったのだと思い出せばいい。

他人の現実に

あなたの真実を奪われることはないのだから。


夕日が浮かんだ真っ青な海

青い空にいい感じに存在してる夏雲

真っ暗な闇に映える月と星と雲

のどかな気分にさせてくれる夏の終演を告げる雨


うらぎられる。安心できない。

そういうものってないとダメなんだ。

それが自然。

怖いけど・・・素晴らしいもの。


 カナは、数日後…元気過ぎるほど回復し、カナの両親と俺、そして二人の共通の知人であるすみれと尚樹の同席の元、無事に退院した。渡瀬医院長も一緒に見送ってくれた。みんな…これ以上ない笑顔で笑いそしてお互いを労り尊重し、ずっと優しい笑顔で喋っていた。きっと「幸せ」を絵に書くとしたら、こんな感じなんだろう。こういう幸せな時間が長くずっと続きますように…カナと共に頑張って生きて行こうと思う。生まれてくる子のためにも。俺と加奈は、それから一週間後の午後、世田谷区役所へ出向き「婚姻届」にサインを書き届けた。これで俺とカナは「夫婦」となった。カナは俺の「妻」となり、俺はカナの「旦那」となった。カナは「椎名」という苗字を手に入れた。


 そして…俺たちは、数か月後のまだ暑い夏日に結婚式をあげたんだ。

 出席者は、尚樹とすみれと幾人ばかりの友人。


 尚樹とすみれは…その後すぐに俺たちの前で「妊娠」を報告したんだ。そうですかそうですか。「妊娠」したんだね、すみれ。良かった良かったおめでとう。すみれには本当に幸せになってほしい。と心の底から思っている。おめでとう。尚樹は…「女運」の悪さも無事に卒業したというわけだな笑。そりゃめでたいね笑。そこまですみれがいい女だったとは。とうとう俺たちも父親になっちまったな。かっこいい父親になろうぜ!これからもよろしくな。


 これで俺の主役の話はおしまい。え?「母さん」の話がないって?そんな事、もうどうでもいいじゃん。多分日本のどこかで元気に過ごしているよ、きっと。あの人は、そう簡単に死ぬようなヤワな人じゃないと思うし。ひょっとしたら、新しい「家族」を形成していて、俺の知らない義弟(義妹)だって誕生しているかも知れない。親父には言い難いけど、母さんが(どんな形であれ)幸せならそれでいいと思うんだ。あくまでも俺の勝手な理想でしかないんだけど…真実は、いつだって母さんだけが知っている。いつかきっと…笑顔で逢える日がくると信じているからそれまでムリヤリ母さんを探さないでおくよ。どこかで再会して、最初の挨拶は…やっぱり「俺も父親になったんだよ。もう…(あなたは)お婆ちゃんなんだ。知ってる?」です。それとも普通の会話とあまり変わらず「久しぶり…元気してた?俺は、ご覧の通り元気だよ」かも…。何を言いたいかというと、一度作った「家族」は、そう簡単に壊れないって事。一緒に暮らしていようが少々離れていようが…「家族」は、いつも暖かく迎えてくれる「場所」なんだということ。家族は、いつだって、そういう「場所」であってほしいと思う。そういう事が最近、何となく分かって来たような気がする。じゃ…「勝手に失踪した」母さんを許せるのか?って。(母さんにも)何か事情があったんだと思うよ。俺たちが知らない所でいろいろ悩み苦しみ、ある結論を出したんだ。これも母さんに逢わないと、最終的にはワカンナイことだけど。母さんを許すも許さないも…この俺を誕生させただけであなたは間違いなくえらい人。そのおかげで妻となるカナと出会い、おまけに子まで授かる事ができたんだ。もうすぐ(まだまだいろんな意味で未完成だけど)この俺でさえ「家族」を作ろうとしている。これ以上いったい何を望むというんだ?風来坊癖の直らない父さんもまぁ…あの人はあの人でいいんじゃないかな?本人が幸せならね。もう…これ以上聞くな苦笑!

 おっと、そうそう…一つ言い忘れていることがまだあった。ちょっと前まで時々魘されていたあのリアルな夢を見ることや自分が思った事を相手に伝えられなくなったり…とかいろいろ前段で言いましたけど、すべてクリアになりました。だいたいの原因は、家出した母さんのことが要因なんだろうけど、まぁ上記で書いたように人生いろいろあるってことでいいんじゃないかと。ワカラナイことはワカラナイままでオーケーっす。いつか分かるかもしれないしワカラナイならそれはそれでいい。いつも愛する妻が隣にいるから見る夢は、いつだってハッピーエンドだし、あのカナの暴走事件以降「生きている」という実感を感じまくりでして、楽しい日々も少々面倒な日々もきちんと自分なりに解釈して気持ちよく過ごしております。だから心配するな。男の子でも女の子でもどちらでも構わない…早く生まれて来い!俺がいつも…お前たちの防波堤になり温かく見守ってやるからさ。任せておけ!


 その数ヶ月後・・・「愛」という名のカワイイ女の子が誕生した。

 そして「家族」となりました。












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