World's End Online

 アラームの耳障りな騒音がまどろむ意識の向こう聞こえてくる。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。二度寝の欲求を跳ね除けゆっくりと目を開いた。

 遮光カーテンを閉め切った上に電気もつけていない部屋の中は非常に薄暗い。音を頼りに腕を伸ばし、眠っていた時の不快感とはかけ離れた、それこそ扉一つ隔てただけで聞こえなくなりそうなか細いアラームを止めた。

 色々な出来事が重なって家から出られなくなったいわゆる引きこもり状態の少年にとって、自分の存在を感じさせる上に迷惑をかける騒音は禁忌(タブー)なのである。

 市販のアラームを分解して極限まで音を小さく改造したところでそれは変わらない。

 時刻は14:30。耳を澄ましても静まり返った住居からは足音一つ聞こえてこない。最大の懸念事項、誰かが部屋に入ってくる可能性を払拭したことに安堵の息をついた。


 寝転がった態勢で天井を見上げる。すぐに起きる気になれなかったのは直前まで見ていた夢のせいだ。

 随分と懐かしい夢を見たものだと少年は一人苦笑する。計画の決行日が近づいてきたおかげで気が昂っているのかもしれない。

 しかしだからこそ気を抜くわけにはいかなかった。せっかくの一大イベントだ。出来る限り大きな花火として打ち上げたいに決まっている。

「本当、これには苦労させられたしね」

 ベッドの脇に備え付けられたキャスターの上には近未来的なデザインのフルフェイスヘルメットがぽつんと置かれていた。

 後部からは幾本かの線が垂れていて机と並んで置かれている黒い筐体に繋がっている。


 今を去ること8年前、一人の日本人天才科学者が頭角を現した。彼の名は霧島裕也(きりしまゆうや)。専門は脳科学という一般的には馴染みの薄い学問だ。

 脳とは人体最大のブラックボックスである。人体の中で最も重要な機関であるにもかかわらず、その働きは断片的にしか判明していない。

 記憶や感覚が脳の中でどのように再現されているのか。研究は古くから続けられているものの解明の糸口さえ掴めていなかった。

 しかし彼はそのブラックボックスを僅か1年という歳月で見事に解き明かして見せたのだ。


 脳内における神経パルス信号の全パターン解析。

 記憶や感覚が一種の電気信号として脳に届き処理されるのは随分と前に解明されていたが、あまりにも微弱な電流は脳みそに直接電極を差し込んだとしても正確に測定できないとされていた。

 ところが霧島は延髄まで流れてきた神経パルスをどうやってか測定用の機械に取込み、均一に増幅することで解析に十分な出力を確保するという前代未聞の方法を考案し見事に実現して見せたのだ。

 この装置の発明により身体から発せられたあらゆる信号を機械へ蓄積することが可能となった。

 研究は爆発的な速度で世界中へ広がり、あっという間にデータベース化されるまでに至る。


 事故で聴力を失った人がイヤホン型のマイク端末を付けるだけで収録した音声データを神経パルスに変換し、耳の神経が完全に失われても直接脳へ届けることで再び音を聞けるようになった。

 生まれつき目が見えない人がメガネ型のカメラ端末を付けるだけで録画した映像データを神経パルスに変換し、目がなくても直接脳へ届けることで景色を見れるようになった。

 あらゆる感覚の再現は特に医療分野において猛烈な発展を見せる。

 解析から僅か4年でこうした技術が次々に実用化され、手の施しようのなかった患者たちが救われた。


 もちろん、一般人にも恩恵がなかったわけじゃない。拡張現実(AR)の類が最も顕著な例だろう。

 例えば耳にかけるだけで思ったことを入力できる思念キーボードやマウス。

 慣れるまでは誤字脱字があったり制御に失敗したりもするけれど、使いこなせるようになれば今まで使っていたキーボードなんて考えられない効率で作業を進められる。

 専用のアプリも次々と開発され、スーパーでは売られている食品の味を再現してくれたり、病院では身体の不調を文字通り直に医者へ伝えられたりと、もはや生活から切り離せない便利ツールとして定着している。


 だけど人々は未だ満足というものを知らなかった。

 新しい技術がもたらした怒涛のブレイクスルーを押し留めてはならない。あらゆる国々は膨大な研究費を注ぎ込み、時には手を取り合いながら次なるステップを目指す。

 特定の感覚の再現では物足りない。彼らが次に求めたのは電子上に展開されるもう一つの世界だった。

 人が神のように世界を作る。夢物語に違いない。誰もがそう簡単にはいかないだろうと思っていた。

 しかしそれも今では過去のこと。第一人者である霧島博士は最初から仮想世界の構築までを念頭に置いて研究をしていたのだ。

 日本政府の支援によって優秀なスタッフを従えた彼は今から4年前に仮想世界を、生命維持に関わる機能を除く全感覚を電子世界に接続する完全感覚同期(フルダイブ)システムをあっさりと完成させてしまった。


 相当な高スペックのPCを要求されるが、フルフェイス型のヘルメット端末に接続することで仮想世界の中へログインできる。

 現実の身体はほとんど眠っているような状態になるらしい。普通の人が自然と夢から覚めるように、必要とあらば自動ログアウトもされる。

 まさに『夢』のような革新的技術に全世界が沸いた。

 中でも娯楽分野、特にゲーム業界は参入を我先にと宣言した。言うだけで株価が跳ね上がるのバブル時代の到来である。

 最も期待されたのが同時多人数接続型の、いわゆるオンラインゲームの類だったのは当然と言えるだろう。

 残念ながら日本では大人の事情で早期からFPSのVRゲームが制限されてしまったものの、RPGまでは手が伸びなかった。

 両者を禁止しようものならサブカルチャー国家である日本国民は暴動も辞さなかったに違いない。

 そうした理由から、日本では仮想世界対応のMMORPGの開発が有力視されていた。

 ところがこの計画は早々に白紙撤回されてしまう。仮想世界という、自由度の高すぎる世界に対応できるだけのシステムがどう見積もっても作れないと白旗を挙げてしまったのだ。


 あらゆる機能はシステムとして開発しなければ実行できない。

 物に触れる。ただそれだけでも手が対象物を突き抜けないように座標管理の必要がある。あらゆる物を触れられるようにするには膨大なオブジェクトを作り管理せねばならない。

 まして、今までのゲームなら物に触れたあと『使う』『しまう』『投げる』『捨てる』といったような『コマンド』で動きに制限をかけられたが、仮想世界でそうしたコマンド制限に頼るのはあまりにもナンセンス。

 しかしながら、先も触れたように実装されていない機能は実行できない。現実と同じくらいの自由度でアイテムを扱いたいなら、現実的に考えられる選択肢をすべて考慮したうえで、それを機能として作りこむ必要があるのだった。

 あらゆる開発者は今までのゲームの幅の狭さを思い知らされると同時に、仮想世界の可能性に恋い焦がれた。

 無理だと分かっても求めずにはいられない。

 日本で生まれた完全感覚同期(フルダイブ)機構(システム)対応のVRMMORPGとでも言うべきゲームを日本が最初に作りたい。

 技術者達、開発者達の思いはいつしか複数の企業をまたがり、遂には全国規模の大プロジェクトを発起させる。


 舵取りに手を挙げたのは日本でも有数のゲーム企業達だった。

 あらゆる組織や理念を超えて世界初のVRMMORPGを作り、日本の技術力を世界に示そう。中枢で考えられた仕様は細かく分割され、各社やフリーのエンジニアに手配される。

 立ち上げから僅か2年。仕様の調整は仮想世界が作られた4年前から進められていたにしても通常では考えられない開発速度で、当時は様々な暗躍があったのだとまことしやかに囁かれたものだ。

 こうして今から2年前に世界初の完全感覚同期(フルダイブ)機構(システム)対応VRMMORPG『World's End Online』はサービスを開始した。

 凄まじい工数と職人達の熱い想いがこめられているだけあって、ゲームの完成度は多くのユーザーを今なお熱狂させ続けている。

 噂によると仮想世界技術の第一人者である霧島博士の全面協力も取り付けていたらしい。

 完成から2年を経た今でもアメリカを始めとする大国ですらVRMMORPGの開発は頓挫しているのだから日本人のサブカルチャーへの執念には閉口するしかない。


 VRMMORPGの出現によって国内のオンラインゲーム市場は大きな変遷を強いられた。

 画面越しのキャラクターをキーボードやマウス、コントローラで操作する時代は終わりを告げたのだ。

 多くのゲーマーにとってこの変化は喜ぶべきものに違いない。新しい時代の到来を心から歓迎したはずだ。

 しかし、純粋にゲームを楽しんでいた訳ではない少年からすると複雑な心境にならざるをえない。

 VRMMORPGの出現によって良い意味でも悪い意味でも練り上げた計画に大幅な変更を加えざるを得なくなったからだ。


 『World's End Online』のサービスが決まったのは、全ての直結厨に制裁を下すと決めてから丁度1年後のことだった。

 実はネナベだった青年の積極的な協力の元、あらゆるチャットや掲示板、果ては小規模なオンラインゲームで日夜時間を忘れ、傍から見ると眉をひそめるような修練を続けた結果、一流のネカマとして満足できるだけの成果を残し、そろそろ兼ねてよりの計画を実行に移しても良いのではないかと考え始めていた折である。

 『World's End Online』の登場により、巷に溢れていた旧世代MMORPGが完膚なきまでに駆逐されてしまった。

 当然だ。実際にゲームの世界へ入って冒険を繰り広げるのはゲーマーにとって悲願とも言うべき夢で、前時代的になってしまったゲームに人が集まるはずもない。

 全ての直結厨に制裁を加えると誓った少年にとって、プレイヤーが一つのゲームタイトルに集中するのは望むところですらある。

 現実と仮想世界の性別が異なることにより、何らかの問題が懸念されるという理由から異性アバターの登録はできないと告知された時は計画が頓挫するのではないかと絶望しかけたりもしたが、幸いにしてすぐに抜け道が見つかった。

 アカウントの性別は戸籍情報をもとに決定される。つまり、身内の女性の名前を借りて登録するだけでいい。

 しかし、問題はほかにもある。

 旧世代のオンラインゲームがチャットや音声会話でしかコミュニケーションを取れないのに比べ、VRMMOは現実と変わらないレベルでのコミュニケーションが可能になっていた。

 今までのネカマには必要なかった表情や仕草、座り方や歩き方といった行動に求められる演技の幅が比べ物にならないほど広がってしまったのだ。


 これまでの修練では会話を中心に鍛えていたのもあって、仮想世界のネカマとして通じる域に達していない。

 計画は延期を余儀なくされ、完全に面白がってきた青年の指導の元、表情や仕草はもちろん、歩き方や座り方、果ては服の着方やら可愛い仕草に至るまで徹底的に女性らしさを仕込まれることとなる。

 詐欺に似た手段で外出を迫られた挙句、女装させられたところで女性下着専門店に放り出された時は計画を諦めようかと半ば本気で考えたくらいだ。

 協力者が『百聞は一見に如かず、実践を超える経験は存在しない』と言い放った時の悪逆非道な微笑みは生涯忘れないだろう。

 引きこもっていたおかげでろくに成長しておらず、日光から逃れ続けた不健康な色白の肌と生まれつきの童顔に加え、義務教育を終えたばかりの年齢が功を奏して男だとバレなかったものの、味を占めた協力者によって時を変え場所を変え手段を変えては戦場に投げ出された。

 過酷な仕打ちの数々を挫けそうになりながらも必死に耐え忍び、よく学び、いつしか少年は協力者と一緒に自然と買い物へ出られるまでの成長を遂げる。

 仮想世界は所詮仮想のもの、現実には及ぶまい。数々の苦難を乗り越えた果てに、少年はVRMMOでもネカマとして……否、ただのネカマではない。プロネカマを名乗るに足る演技力を得たのだった。

 それから一年間、今日に至るまでひたすらゲームに没頭し、目的を果たすべく行動を続けている。


 再びアラームを見やると時刻は14:45を表示していた。そろそろ向かわねば遅刻してしまうと、少年はフルフェイス型のヘルメットに手を伸ばす。

 顎の下の留め具をカチリと音がするまで押し込んでからベッドの上で身体を楽にした。違和感があると接続先にも影響が出てしまう。

 この1年で計画は思った以上に進行している。この分なら決行日は近いだろう。その瞬間までは完璧なキャラクターを演じなければならない。

 すぅっと小さく息を吸ってから気を引き締める。

「さぁ、始めましょうか」

 イントネーションを意図的に工夫した声はどこか可愛らしい。これもまた、少年が苦労して会得したスキルの一つであり、接続の前に自分が何者であるかを意識するための儀式でもあった。

 これから先、ゲームの中に『自分』は存在しない。イメージするのは常に理想の造形。ありもしない経歴をゼロから積み上げて創り上げた究極の存在。

「ゲーム、スタート」

 音声コマンドによって微かな駆動音を響かせる中、少年の意識は『セシリア』へと切り替わった。

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