三章 火野家
まゆら達と別れた坂部は一度自宅へ戻り、熱い茶を一杯飲んだ。
次の儀式に入るまではまだ時間がある。坂部は台所で湯呑みを洗っている母親に向かって声をかけてみる。
「なあ、村上の火事ってそんなにヤバい話なのか?」
母親は湯呑みを流しに取り落とした。高さがなかったので割れることはなかったが、鈍く大きな音が響く。
「あ、あんた、なんでそんな話をするの」
やはりタブーなのか。坂部はそれを肌で感じながら、しかし引き下がらない。
「いや、実は村の中で村上の火事を聞いて回ってる外の奴がいてさ」
「そんな恐ろしい――」
「俺も聞かれたけど、話しちゃならないってので通した」
「当たり前だよ! あの話はしちゃいけないんだ……」
母親は消え入るように言うと、漸く落ち着きを取り戻したらしく、落とした湯呑みを拾って洗い始めた。
これ以上訊くのは無理か――坂部は諦めて風溜に戻ろうと立ち上がった。
「そうだ、
「宗佑か……」
多くは語らないが、母親の言わんとすることはわかった。だがやはり気が重い。
坂部は自宅を出て、斜向かいの小さな二階建ての家の玄関の前で固まる。
今更自分がこの玄関を開けることが出来るのか。坂部は激しく逡巡していた。
だが、今この村を覆う祭の熱気、そして得体の知れない不穏な空気が、坂部の背中を押した。
「あっ、トシ兄ちゃん」
玄関に出てきた火野宗佑は引き締まった顔を緩め、親しげに笑った。大太良市の大学では運動系のサークルに入っているらしく、身体に余分な贅肉がついていない。少し長めの髪が顔までかかっているが、学校がある時は綺麗にセットしているのだという。
「久しぶり。どうだ、大学の方は?」
坂部がおずおずと言うと、宗佑は如才なく笑って、まあ上がってよとスリッパを並べる。客間に上がり、机を挟んで畳の上に腰を下ろす。
想像以上にあっさりと家に上げられたことに、坂部は内心驚いていた。門前払いを食らうくらいの覚悟はあったのにだ。
「祭の方はいいの?」
宗佑の口振りに、坂部は妙な引っかかりを覚えた。
「ああ……まだ時間はあるからな」
坂部が言うと、宗佑は声を潜めて口を開く。
「村上の火事を聞いて回ってる人がいるって、本当?」
もうこんなところまで話が広まっていたのかと坂部は頭を抱えた。宗佑は大晦日から元日にかけて村に帰郷し、一旦下宿に戻ってから風祭に合わせて昨日帰ってきたばかりだというのに。
「ああ。でも、どうやら霊能者の女の子の知り合いらしくて――」
「霊能者?」
宗佑が首を傾げるのを見て、坂部は苦笑した。どうやら風太夫が霊能者を雇ったという昨日の話より、村上の火事を聞いて回っている男がいるという今日の話の方が広まっているらしい。
坂部は手短にまゆらのことを話した。風流しを防ごうという湯山の考えを話したところで、宗佑はわずかに顔を歪めた。
「で、その男ってどんな人だったの?」
「ああ、なんだかよくわからない奴だったな。フリーライターって自称はしてたけど、あの調子じゃ本当かどうかも怪しい」
「名前は?」
「確か、久保若葉って名乗ってたな。どうもペンネーム臭いけど」
宗佑はふうんと何か別のことを考えながらのように返事をすると、それ以上は何も訊かずに顔を俯けた。
「――ヒナはどうだ?」
坂部が躊躇しながらも訊くと、宗佑の顔に急に影が差す。
「相変わらずだよ」
そんなことはわかり切っているではないかと糾弾される覚悟もしていた。大太良に下宿していて昨日帰ってきたばかりの宗佑より、根津村に骨を埋めると覚悟を決めた斜向かいの家の坂部の方がよっぽど詳しいのは自明の理である。
だが、坂部は実際詳しいことは何も知らなかった――火野日奈子の現状について。
坂部の三つ年下の日奈子とは、近所ということもあり昔からよく一緒に遊んだ幼馴染だった。その中には宗佑も含まれていたが、男同士の宗佑より、何故か異性の日奈子の方とよく遊んだことを覚えている。
その関係は、坂部が思春期を越え、成人した後も良好なものとして続いていた。だが断言出来るが、そこに恋愛感情は一切なかった。それは日奈子の方も同じだったはずだ。
恋心を覚えるには、日奈子はあまりに近すぎた。気の置けない間柄であって、それ以上踏み込むことは出来なかった。
だから六年前、大太良市から戻ってきた日奈子が誰の胤かもわからない子供を身ごもっていた時も、坂部は驚きはしたが幻滅はしなかった。
日奈子は父親のいない子供を産んだ。周囲からは色々な噂が立ったし、奇異の目で見られもしただろうが、日奈子は子供を愛情を持って育てていた。
坂部も時々顔を出して、日奈子とその子を見守った。
「トシ兄ちゃん、お父さんみたい」
そんな冗談を言うくらい、日奈子と坂部の距離は近かった。
だが、去年の風祭の最中、日奈子の子供は消えた。
それからだ。坂部が日奈子へ近付けなくなったのは。
子供が行方不明になり、捜索が絶望的となった時、日奈子は抜け殻のようになってしまった。半分惚けたと言ってもいいくらい、何も手に着かず、何を言ってもまともな返答が出来ない。
それこそ生まれた時から日奈子を知っていた坂部には、その変化が恐ろしかった。まるで日奈子ではない何かに変わってしまったような、親しい関係だからこそ一層戸惑いを覚える変貌ぶりだった。
それから約一年、坂部は日奈子の顔を見ていない。村の中の日奈子への口さがない噂にも一切耳を貸さない程、日奈子との繋がりを徹底的に断っていた。
それが今日、宗佑が帰ってきたことで漸く火野の家を訪れた。風流しを防ごうとまゆらを湯山が雇った――その原因となった去年の風流し。いい加減それと向き合うべきなのだと坂部は自戒したのかもしれない。
「顔、見てやってよ。俺も一緒に行くからさ」
だから宗佑がこう口を開いた時、坂部は思った程動揺しなかった。宗佑も坂部が日奈子を避けているということは聞き及んでいたのだろう。それに怒りを覚えず、静かに促す宗佑の姿勢に坂部は思わず感じ入ってしまった。
「ああ――そうだな」
坂部は意を決して立ち上がる。
日奈子はいつも座敷に敷いた布団で横になっているという。そこからはトイレに行く時以外は自ら動こうともせず、持っていく食事にも殆ど手を着けないらしい。
閉め切られた襖の前で立ち止まり、宗佑に目を向けると無言で頷いた。
「姉ちゃん、開けるよ」
そう言って宗佑はゆっくり襖を開ける。
へたり込んでいた。そう表現するのが一番しっくりくる。座敷の真ん中に敷かれた布団の上に、日奈子は何をするでもなく座っていた。その格好はまるで力なくくずおれたようで、覇気の欠片も感じさせない、呆けたような有様だった。
坂部が座敷に上がると、焦点の合っていない目がこちらを向いた。
「あっ、トシ兄ちゃん」
坂部は思わず寒気を覚えた。まるで空気の抜けていく風船のような、高く舞い上がったかに思えてその実あまりに不安定な声音だったからだ。
「ヒナ――調子はどうだ?」
およそ一年ぶりの言葉がそれだった。自分でも嫌気が差すような上辺だけの言葉だが、日奈子はそんなことは気にしていないようだった――いや、そんなことも判断出来ないのか。
「うん、なんかね、すごく疲れてるの。でも大丈夫。もうすぐ、あの子が戻ってくるはずだから」
日奈子は声を立てずに笑った。狂気に満ちた笑顔に先に耐えられなくなったのは宗佑だった。
「また来るよ」
宗佑はそれだけ言って、坂部を連れて座敷を出て襖を音を立てずに閉めた。
「ずっと、ああなんだってさ」
苦々しげに呟く宗佑に、坂部は激しい自責の念を覚えた。
「もうすぐ子供が戻ってくる。そんな妄想に耽ってる。誰が聞いてもああなんだってさ」
「宗佑――」
「ごめん、トシ兄ちゃん。気分悪くなるようなもの見せて」
謝るのは自分の方だ。そう言いたかったが、言葉が出てこない。
「悪い、もうそろそろ風の――」
結局そんな言葉に逃げてしまう自分に心底嫌気が差す。だが宗佑は明るく――恐らく無理に――笑って、坂部を玄関まで見送りに出てくれた。
「じゃあ、頑張ってね」
宗佑の言葉に頷き、坂部は逃げるように風溜に向かって歩いていった。
時間は村総出で作った祭具が風溜に運ばれる頃だった。祭で最も重要なのが、竃の上に作る天蓋である。これは「しゃっけ」と呼ばれ、赤く染められた紙で出来た格子状の天蓋で、これにはいくつかの飾りが付属する。それぞれに名前があるが、全部一纏めにして「しゃっけ」と呼ぶ方が通りがいい。
他には昨日の「ウチギリ」で作った様々な形に切られた紙の幣帛が飾り付けられる。これらは風溜を完全な結界として囲うために供えられるものだ。
舞いで使う面や武具などの祭具は木製で、鍵取り蔵という場所に大切に保管されている。これが出てくるといよいよ祭も本番の機運が高まる。
坂部は風溜に隣接する饌事場で、必死に気持ちを切り替えようと精神統一を図っていた。
「あのー、坂部さん?」
そのせいで声をかけられるまで、目の前にまゆらが立っていることに気付かなかった。苦笑しているところを見ると、結構な時間坂部の様子を見ていたらしい。
「ああ、どうかした?」
そろそろ次の儀式が始まるので、これ以上の案内は無理だと言おうとしたが、まゆらもそれは承知のようで、特に用事はないんですけど――と照れるように笑う。
「なんだかご様子が妙だったので……何かありました?」
坂部は無表情を貫こうとしたが、どうやら無理だったようだ。まゆらは慌ててすみませんと謝り、余計なことを言ってしまったと周章しているのが目に見えた。坂部が余程酷い顔をしたのだろう。
「ああ、いや、いいんだ。こちらこそごめん」
「おい坂部、始まるぞ」
宇津木がそう言って坂部を促す。前と違ってまゆらに親しげに話しかけないのは、久保のことがあったからだろうか。
「はい、すぐ行きます」
そういえば久保はどこに行ったのだろう。どうも厭な予感がするが、今は気にしていられない。
次の儀式は「神よばい」と呼ばれる、神下ろしの儀式である。これには風太夫と壱師だけでなく、舞いを踊る舞子達も参加する。
まず始めに神を迎えるため、鍵取り蔵に祭具を取りに向かう。そこで祭具を受け取り、それぞれの役の者に背負わせて風溜へと戻る。
この時祭具を担ぐ者は、皆自宅の裏山から取った樒の葉を口に含んでいる。樒には毒があるので、特に舞子の子供には決して噛んではならないという教えを徹底している。この樒の葉は祭の間も度々使用し、役目が終わると元あった木の下に丁重に埋めることになっている。
その祭具を風溜の楽屋に当たる神部屋に安置すると、風太夫を除く全員が着席する。供え物をすると、
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
一つ一つ力を込めながらも、流れるように湯山が九字を切る。
神勧請の祭文を唱え終えると、風太夫は丁寧に祭具を壱師と舞子達へと手渡していく。
全員が祭具を受け取ると、一同揃って舞戸へと移動する。
そこで気付いたが、なにやら外が騒がしい。舞戸の前に設けられた見物席には既に多くの見物客が集まっているはずだが、中座して外の様子を窺いに向かう者が次々と出ている。
「火事だ!」
風溜に駆け込んできた、村の者がそう叫ぶ。
その時、坂部の目は、苦々しげな表情を浮かべた久保の顔を確かに捉えた。
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