一章 ウチギリ
B県は東部に大都市大太良市を擁するが、西部となると急に険しい山の中になる。人口も大太良市周辺に集中していて、西部に行く程どんどん人が減っていく。もはや隠れ里という言葉が現実味を帯びてくる程の僻地である。
年が明けてすぐの根津村は雪に埋もれている。豪雪地帯とまではいかないまでも、山深い村であるから雪はきちんと降る。止んで降ってを繰り返し、いつの間にやら村は雪の中と相なっていく。大太良市と同じ県とは思えない程、そこはどうしようもなくうら寂しい。
坂部は大太良市内の会社に勤務しているが、実家のあるこの根津村を離れられずにいる。通勤には二時間以上かかるが、それでもこの村から出られない理由がここにはある。
根津村周辺――
坂部はこの風祭に完全に魅せられた一人である。地元ではそういった人間を「
風狂上等、もはや坂部は風祭なしでは生きていけない。
それにこの土地も例に漏れず過疎化が進んでおり、祭の存続も危うくなっている。実際周辺で風祭の続行が不可能になった集落は一つや二つではない。
そういう意味でも坂部がこの土地に残ることには意味があった。若者は土地に生まれても進学や就職となると都市部に流れていき、殆ど戻ってこなくなる。一人でも地元に残るということが、風祭の存続に大きな意味を持つのだ。
坂部は過去に付き合っていた女性と結婚寸前まで交際が進んだこともあったが、相手がこの土地に嫁ぐのを極端に嫌がった結果、婚約を解消した。子供を育てるなら絶対に根津村で。そして子供を立派な舞い手にしてみせるというのが坂部の本望だった。
年が明けて間もない一月八日に根津村の風祭は本番を迎える。
準備から数えるとそれこそ年明け前から始まったことになるが、祭のメインイベントが行われるのはこの日から約二日間になる。
村内に一つだけある神社には、
祭の前日、風溜には竃が築かれる。これは祭の中でも重要な意味を持ち、湯立てという儀式のために使われる。その湯立てのために用いる水は、祭を取り仕切る
坂部もまた壱師の一人だった。先祖代々祭に直接関わる立場にあったからこそ、風狂と呼ばれるまでになったのかもしれないと坂部は自己分析をする。
村外れの滝まで風太夫を先頭に歩き、滝の前で短く祝詞を上げる。
祝詞が終わると風太夫が滝から桶に清水をいただき、また行列を成して風溜に戻っていく。
次には築いた竃を清める。先程汲んできた水と、普通の水道水を混ぜて釜を洗い、湯を沸かして次第を行う。
この時にはもう、「ガク」が壱師達によって行われる。
「ガク」とはすなわち音楽――楽器と歌である。太鼓と笛で拍子を刻みながら、調子に合わせた歌を唱える。
その中で風太夫は沸かした湯を清めの桶に取る。その湯を使って風溜を清めるのだ。
楽器が止んで歌が終わり、風太夫の
「ご苦労さんです。『ウチギリ』はここからが大変ですので、少し休んでください」
この日に行う最終準備を「ウチギリ」と呼ぶ。壱師の殆どにも言えることだが、中でも風太夫である湯山はかなりの老齢であり、年々儀式を執り行うのが辛くなってきているように見受けられる。
風溜となった神社には、竃を中心に、舞いを奉納する
「今年は風流しが起きると思うか」
壱師の一人、
「おい、滅多なこと言うんじゃない。仮にも壱師がそんな――」
坂部の代わりに答えたのは
「仙内さん、そうは言っても現に去年」
「これ!」
「す、すみません、口が滑っちまって」
宇津木はぺこぺこと頭を下げ、千葉と仙内の怒りを静めようとする。仙内はともかく、千葉は怒らせるとそれこそ雷が落ちる。
千葉が何も言わずに饌事場を出ていくと、宇津木はほっと息を吐いた。
「おお怖っ。千葉の爺さんは怒らせると本当にやばいからな」
「あの――」
坂部は仙内や他の壱師に聞こえないように声を潜めて訊く。
「去年って、
宇津木は坂部がそんなことを言い出したことに驚いたようだが、結局元からのお喋り好きで坂部に合わせて声を小さくしていく。
「おう。五つだっていうから、年寄り連中が言う『引かれやすい』歳なんだろうな」
「でも、今時そんなことが起きるもんでしょうか?」
宇津木は坂部の声が悲痛なものに変わっていることに気付かない。
「警察に届けて、山狩りまでして出てこなかったんだ。行方不明という扱いになっちゃいるが、この村のもんなら風流しですっきりとする」
仙内が物言いたげな視線を送っていることに気付き、坂部はさらに声を潜める。
「でも、去年起きるまでは本当に昔話のようなことだったんでしょう? 俺、生まれてから初めて聞きましたよ。実際に起こったなんて」
「俺も初めてだったよ。年寄り連中だって殆どそうだろ」
宇津木ははっとして口を噤む。その目は坂部の後ろに向いていたので、恐る恐る振り向くと、千葉が腕組みをして仁王立ちしていた。
「風の前に、なんの話をしとる」
坂部は見下ろされる形で千葉に睨まれ、完全に言葉を失った。宇津木に助けを求めてそちらに目を向けるも、そちらも坂部と同じような有様でどうしようもない。
怒号が落ちる――子供のように身を縮めるが、千葉は口を開かない。
「あのー、風流しについてお話を伺いたいんです、けど……?」
千葉の目は饌事場に入ってきた、見慣れない人物の方を向いていた。
坂部もそちらに目を向ける。艶のある真っ直ぐに伸びた長い黒髪が目を引く。服装が防寒着に包まれた地味なものにも関わらず、その髪が決して暗い印象を与えないのは何よりその整った目鼻立ちのおかげだろう。一見して少女という言葉が当てはまるが、まるでガラス細工のような繊細さと、触れれば壊れそうな危うさを兼ね備えた不思議な佇まいだった。
「誰だ」
千葉が厳しく誰何する。
「えっと、D県で家庭教師をしている
「家庭教師ぃ?」
宇津木が素っ頓狂な声を上げる。
「あ、はい。フリーなので今は実質職なしですけど」
「それがなんでこんなところに来とる。風の見物にしても、舞いは明日からだ」
「いや、それがですね、ちょっとややこしいというか……」
「おお先生、どうなすったかな?」
風太夫の湯山が久遠の後から饌事場に入ってきて、まゆらに声をかける。
「せんせえ?」
家庭教師だからか。それにしてもこんな若い女を湯山が先生呼ばわりするのはしっくりこない。
「あの、湯山さん、『先生』はちょっと……」
まゆらが慌てて湯山に言うも、当の湯山はまるで意に介さない。
「どういうことじゃ、栄吉」
千葉が棘のある声で訊くと、湯山は真面目な顔になる。
「こちらの先生はとある筋から紹介してもらった、有能な霊能者じゃ」
「霊能者ァ?」
途端に話が胡散臭くなる。それでも気まずそうにもじもじとしているまゆらはまるで胡散臭く見えないのだから不思議だ。
「
「そうじゃ」
「ならいい」
千葉は短く言って、饌事場を出ていく。
話が有耶無耶になったおかげで、雷が落ちるのは回避出来た。坂部は心の中でまゆらに感謝した。
「ど、どういうことですか湯山さん」
やっと言葉を取り戻した坂部が訊ねると、湯山は坂部に近くに寄るように手招きをする。
「実はな、風流しを事前に防ごうと思ってな。わしや幸っつぁんはな、子供の時分に実際に起こったのを見とるもんでな」
「えっ、風流しをですか?」
しぃ、と湯山は声を潜めるように注意する。
「それで怖いことはよう知っとる。去年あんなことがあって、今年もないとは言い切れん。それで先生に、ウチギリの今日からずっと見張ってもらおうと思ってな」
そうじゃと湯山は坂部の肩に手を置く。
「坂部の
「いや、まだウチギリの続きが……」
「その合間でいい。何も今日一日中ウチギリにかかり切りって訳じゃなかろう」
なら頼むな――と湯山は坂部の肩を叩き、まゆらと短く何かを話してから饌事場を出ていった。
まゆらは決まりが悪そうに坂部を見ると、会釈しながら近付いてきた。
「坂部さん――ですよね? あの、湯山さんから……」
坂部は険しい顔をしてまゆらを睨んだ。だがまゆらは怯むことなく、しかし申し訳なさそうに笑った。
「湯山さんはなんて?」
「坂部さんに案内をお願いした、と。立派な風狂だから何を訊いても大丈夫だとも仰ってました」
「あの爺さんめ――。えっと、先生?」
「先生はやめてください……」
そこでずっと黙ったままだった宇津木が二人の間に割って入った。
「久遠さんだった? 霊能者って本当?」
まゆらは困ったように俯く。
「いや、あながち間違ってはいないんですけど、期待されても困るというか……」
「へえ! じゃあ本物なんだ。どう、俺を霊視してみてくれない?」
「いや、そういうことは……」
「宇津木さん、今はそういう話はいいでしょう」
見ていられず、坂部は助け舟を出す。
「なんだ坂部、霊能者が本物かどうか確かめるのも必要だろ」
「湯山の爺さんが依頼したなら、それでいいでしょう」
「おいお前ら、続きが始まるぞ」
仙内の声で坂部と宇津木は話を切り上げる。
「あの、私は――」
「そこでじっとしてて。終わったらまた戻ってくるから」
坂部は素っ気なく言って、饌事場を出て風溜の中心となった竃の置かれた舞戸に出る。
清められた風溜を囲うように、神社の出入り口全てに注連縄を張り巡らす。これで風溜は完全に浄化され、精進に入ったことになる。
次に舞戸に筵を敷いて、そこで祭具となる幣帛を切り出す儀式に入る。まず風太夫が筵に腰を下ろし、小刀、白紙、串に用いる竹を並べる。その後で壱師達も筵に座り、風太夫は祭文を唱え、紙に刀を入れていく。以下に壱師も続き、幣帛を切り出す。
出来上がった幣帛は座の正面に置き、酒、塩、米を供えて祀る。神棚の祭祀と同様なことからもわかる通り、ウチギリは神下ろしの儀式でもあるのだ。
全ての幣帛を祀ると、風太夫が祝詞を上げて祭の無事を祈る。
壱師達は笛と太鼓で「ガク」を奏で、風太夫は神下ろしの祭文を唱えていく。東西南北中央に神仏の名を唱えながら清めると、風太夫から壱師達に祭具が渡され、一同は舞戸から神部屋へと祭文を歌いながら練り歩く。
「ご苦労さんです。ウチギリは以上になります。明日のフキナラシもよろしくお願いします」
湯山は一礼してからそう言うと、皆の緊張が一気に解ける。ウチギリがつつがなく終わり、ひとまずは安心だ。
「すごく面白――興味深かったです」
祭礼の衣装であるミズカタを脱いで普段着に着替えると、神部屋を出たところでまゆらが待ち構えていた。
「見てたの? 饌事場で待っててって言ったのに」
「あ、ごめんなさい。でも、湯山さんから祭の間はずっと気を配っておいてくれと頼まれてたんです」
湯山の指図ならば、文句を言える者はいない。坂部は仕方なく頷いて、まゆらを責めることはしなかった。
「私も一応風祭に関する本を読んだりはしたんですけど、やっぱり生で見ると違いますね」
風祭はその特異性から、何度か本に詳細が纏められている。だが――
「でも、風流しっていうのはどの本にも書かれてませんでした。私は湯山さんから聞いて初めて知ったくらいで……」
「それが当然だよ」
坂部はやれやれといった調子で言って、腕時計を見る。午後六時を回ったところで、外はすっかり暗くなっている。
「泊まるところはあるの?」
「湯山さんのお宅にお邪魔することになってます」
「本当に上客だなあ」
同じく普段着に戻った宇津木が出てきて茶々を入れる。
「いや、私は本当に、なんと言うか……」
「俺は信じた訳じゃないから、ただのお客さんとして扱うよ」
坂部が言うとまゆらはどこかほっとしたような面持ちに変わった。
「なんだよ、霊能者なんだろ? そこはきちんとしておけよ」
「霊能者だと言われて、すぐに信じる方がおかしいですよ。まあ、湯山の爺さんがそう思ってるなら、文句はつけませんけど」
湯山に頼まれていることだし、村の案内や祭についての話をする必要もある。
「とりあえず、家に来ない? 話はそこで」
「お邪魔でなければ……」
坂部はまゆらと並んで、随所随所で村の建物の説明をしながら自宅へと戻った。
「ただいま、お客さんを連れてきた」
田舎と言うなら相当な田舎だが、坂部の家は茅葺きでもないし、囲炉裏もない。ごく普通の、昭和に建てられた一般住宅だ。木造で、かなりの年月が経っていることから外壁などは黒ずんでいるが、中は普通の住宅と変わらない。
「お帰り。ウチギリは無事に終わったかね」
母親が出迎えにくると、そう言ってからまゆらの方へと目が向いた。まゆらは慌てて一礼する。
「あの、私は湯山さんにお招きにあずかりまして、今回の祭の話をお訊ねするために坂部さんにお願いをしまして……」
「とにかく、お客さんな」
家に上がって、客間の古いソファーに向かい合って座る。
「風流しについて知りたいんだった?」
坂部が訊くと、まゆらはこくんと頷く。
「それで湯山さんは依頼を出された訳ですから。湯山さんも簡単には教えてくれたんですけど、他の人達から教えてもらえと言われまして」
「風流しはね、絶対に外に漏らしてはならない村の中だけの秘密なんだ」
半ば脅すように言ったが、まゆらはまるで動じない。それで坂部の肩の力は抜けた。
「風祭は他の地域でも同じようなものが伝わっているけど、恐らく風流しは根津村だけの伝承だと思う――勿論、他の集落でも外に漏らしてはならない言い伝えがある可能性もあるけど、それは俺達にはわからない話だ」
「わかります。風祭は昔は民俗学者、今は大太良のテレビなんかが取材に来てるのに、風流しなんて言葉は一度も出たことがなかったですもんね」
「そう、だけど村の中じゃ話は違う。風流しはずっと言い伝えられてきた、みんな知っている伝承だ」
「風流しと聞いて、一番には神隠しのことかと思ったんですけど」
「大体それで合ってるよ。語感は似てるから、神隠しが訛って風流しになったのかもしれない。勿論きちんとした調査は全くされていないから、詳しいことは誰にもわからないんだけど」
「つまり、風流しというのは人間が消えてしまう事象を指す訳ですね」
「いや、少し違うかな。風流しは風祭の最中に限定されるんだ。それ以外は風流しとは呼ばない」
「そんなに限定的なんですか」
まゆらは驚いたように目を見開いて、坂部の顔をまじまじと見た。ただでさえ整った顔立ちなので、坂部の方は照れてしまう。
「風祭になると、村の者はみんな風溜に集まる。そんな中に人が消えるということは、結構リアリティがある。風溜は人でいっぱいになるけど、少しでもそこを離れると完全に一人になる。そこを『引かれる』と言うんだ」
まゆらは興味深げに相槌を打ちながら、坂部の言葉を待つ。
「一番の特徴は、『引かれる』のは小さな子供が多いということかな。去年もそうだった」
「去年――起こったんですよね」
坂部は頷き、火野
「去年は、火野という家の子供が消えた。五歳だった」
坂部はだが、風流しなどという迷信を頭から信じている訳ではない。まゆらに話しているのも村の中で言われている話であって、坂部自身が認めているのではない。
しかしまた、この狭い村の中で育った坂部にとって、風流しという言葉が相当なリアリティを持つのも事実だった。
事実一人の子供が消え、警察もお手上げ状態になった。それを説明するのに、風流しは村の中では有効なのだ。
「あの、私は警察でも探偵でもないので、事件を解決出来るなんて期待はしないでくださいね……?」
申し訳なさそうに言ってまゆらは苦笑する。
「湯山の爺さんが頼んだんだろ?」
「風流しが起こらないように、と。未然に防ぐ努力はしますけど、もう起こってしまったことはどうしようもないんです」
なんとも頼りないが、文句は言わない。村の中では去年の出来事は風流しということで殆ど決着がついている。それを今更蒸し返されても迷惑だと思う者も多いに違いない。それならば同じことが起こらないように気を配っておいてくれた方が穏便に済む。
「で――」
風流しについての話が一通り終わったと判断した坂部は居住まいを正し、腕を組んでまゆらを覗き見る。
「霊能者って、本当なの?」
まゆらは困ったように笑う。
「そうですね……私は殆ど、『見える』だけです」
まゆらはそれ以上は語らずに立ち上がる。
「お邪魔しました。あまり遅くならない内に湯山さんのお家に戻らないと。色々と興味深いお話、ありがとうございました」
送っていこうと申し出たが、まゆらは道はわかっているからと愛想よく断った。確かに神社から坂部の家に来る間に道の説明をしたし、元々湯山の家に招かれているのだから狭い村の中など大体把握しているのだろう。
家を出る時、まゆらは何か小さく呟いた。その時は完全には聞き取れなかったが、時間を置いてから何を言ったのか頭が断片を元に組み立てた。
「ついてきたら、食べちゃうよ」
それが何を意味するのかはわからないままだが、久遠まゆらという人間が何か得体の知れないものなのだと、坂部は本能的に察した。
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