第37話 空に還りし君へ
エスクードの説得にエスパーダは抵抗しなかった。出来なかったのかもしれない。もう、彼には反発する理由も何もないから。
アリスエールを蘇らせようとした術は失敗している。その事実はずっとエスパーダの内側にくすぶっていたんだろう。
いつか彼女を取り戻すことを夢見て、箱庭を整えながら、エスパーダはそれが不可能であることをわかっていたのではないだろうか。だから目を逸らし、皇太子さまやエスクードを憎んで、日々をやり過ごしていたんだと思う。
隠れ家から連れ戻されたエスパーダはその後、禁術に手を染めようとした罪を問われ、魔力を封じられて、エスクードの観察保護下に置かれたことで、それ以上のお咎めは不要とされた。
皇太子さまが先回りし、皇帝陛下にお願いしたらしい。
エスパーダを極刑に処すのなら、エスクードが責任を負って、騎士職を返上するだろう。そうしたらアールギエン帝国は優秀な竜騎士を一人失ってしまう。それは国家の安全にとって大きな損失で、エスパーダの罪を彼の命で贖ったとしても、埋められるものではない、と。
幸いと言っていいか、舞踏会の夜にエスパーダが皇太子さまを襲ったことは誰にも目撃されていない。皇太子さまがあの夜、騎士たちを皇帝陛下や客たちの護衛に付け、外に出させなかったのは、ことを荒立てないためだったのだろう。
結局、禁術と一年前のアリスエール誘拐未遂が問われたけれど、どちらも未遂であったことで心配していた極刑は免れた。
もっとも、魔術師にとって魔力を封じられるという罰はかなり重いというのだから、世間的には相応の罰を受けたことになるのだろう。
実際のところ、魔法が使えないエスパーダは無力に等しいようだ。
養子縁組していたサフィーロ家からも縁を切られたエスパーダは、エスクードが継いだ領地経営の方を手伝う形で、エスクードの実家に身を寄せた。
力を失って、エスパーダは自分が弱い立場にあることを初めて気付いたのか、かなり謙虚になったと思う。
というか、エスクードの意見をやたらと聞きに伺う辺り、甘えているようにも見えなくなかった。
親鴨の後を追いかける子鴨という図が、ぴたりと当てはまる。
言葉で語ればなかなか微笑ましく感じるけれど、視覚に映るのが二十六歳の成人男子であるということには……ちょっとだけ、うん。目を瞑ろうっ!
エスパーダの一件も含め色々あって、今現在、エスクードと私は皇太子さまのお城を離れて、彼の実家から毎朝、皇太子さまのお城に通っている。
彼は皇太子さまの側近かつ竜騎士として、私は皇太子さまのお茶係として、正式にお仕事を貰ってしまった。
というか、皇太子さまが強引に私をお茶係に任命したのだ。
何しろ……まあ、その。色々あったから。
どういう順番で話していけばいいのか、正直迷うくらいに。お城を出ることになったことについては、後回しにしよう。
エスパーダの件が片付くまで、私の存在は宙ぶらりんだった。言葉が話せるようになっていたけれど、まずはエスクードに自分のことを語りたくて、問題が片付くまで私はそれまでと同じように喋れないふりをしながら皇太子さまのお城で、掃除などを手伝ったりして雑用係を続けていた。
皇太子さまとエスクードは、エスパーダに対する聴聞審議などで、お城には殆どいなかったから、お茶を用意する仕事はなかったのだ。
そうして一週間ばかりが過ぎた頃、エスパーダの処罰が決定され、ようやく時間が取れたエスクードが私を空中散歩へ誘ってくれた。
私とエスクードはフレチャの背に跨って、青空を駆け抜ける。
空気はどこまでも澄んで冷ややかだったけれど、腰に回された腕と背中に触れたエスクードの体温を感じれば、心臓がいつもより働いて身体中に血を巡らせる。
血流の音が耳にうるさいと感じ始めたところで、エスクードの吐息が私の耳朶に触れた。
「――この辺りだった。俺がアリスを見つけたのは」
エスクードの呟きに、フレチャは滞空姿勢に変わった。
皇太子さまの領地から少し離れた森の中、小さな湖面が眼下に見えた。青い空を鏡に映したような湖の存在が目印になったのだろう。
彼がそっとフレチャの背を撫でると、ドラゴンは緩やかに地上へと近づいた。湖岸に着地したフレチャは静かに翼を閉じて、身を横たえる。
私はエスクードの手を借りて、緑の下草に降り立った。
「私、空から降って来たって本当?」
肩越しに振り返って、エスクードに問う。
「ああ、ずっと高いところからゆっくりと降って来たよ」
「ゆっくり?」
私は目を瞬かせる。墜落という速度で落ちていたなら、幾らエスクードとて受け止められなかっただろう。というより、エスクードの目に止まった瞬間、地上に落下していてもおかしくはなかったはずだ。
下に湖があったのなら、大丈夫だったのかもしれない。けれど、あの日の私は熱で朦朧としていたから確実に溺れていたと思う。
ぞっと背筋を震わせながら、
「エスパーダの魔法が作用していたのかしら?」
首を傾げた私に、エスクードはいや、と囁いた。
「……多分、アリィだよ」
「えっ?」
「あの日の前夜、夢にアリィが出てきた。何かを訴えるような目で「助けて」と言って。その後、ここの景色が見えたんだ……それで気になって、俺はあの日、ここにいた」
「――夢?」
エスクードの思わぬ打ち明け話に目を見張った後、エスパーダの城で束の間に見た夢を思い出した。
白い影が謝りかけて来たこと。
あの白い影は……アリスエール?
「アリスの世界では信じられないかもしれないが、たまにこちらの世界では冥界に旅立ったはずの者がこちらの世界に姿を見せる場合があるんだ。大抵は、天命に逆らった者が冥界へ入ることを神に許されず彷徨うという。後、自らの死を認められず冥界に入ること拒んだ者……」
エスクードの声が鎮痛に響く。
――だから?
私は夜の肖像画の間で、皇太子さまと出くわした日のことを反芻した。
あのとき、皇太子さまは私に対して慎重な面持ちで「アリスか?」と確認していた。
皇太子さまにはアリスエールが還って来たように見えたのかもしれない。
彼女の死は彼女自身が望んだものではない。皇太子さまの傍に居ることを望んで、この世に留まる可能性も考えられたわけだ。
皇太子さまはそれを望んでいたのだろうか。それとも、そう望んでしまう自分を誤魔化したくて、お酒を飲んでいたのだろうか。
――そして……。
エスパーダはアリスエールを蘇らせるという途方もないことを実行しようと考えたのかもしれない。死者が、生きている人たちのこの世界にも残りうる可能性があったから。
「幽霊ね。私の世界にもそういった現象はあるわ。非科学的だと言って、あまり本気にはされていないけれど」
「そうか」
「この世に未練を遺した人たちや……後ね、守護霊とか」
「守護霊?」
「ご先祖様が子孫を見守る存在として傍についているとか言われるの。もしかしてアリスエールは……巻き込まれた私を守るために、この世に残ってくれたのかも」
エスパーダの執着は、愛された彼女が一番感じていただろう。
未練や心配事などといった心残りが、アリスエールの魂をこの世に縛り付けたと語るのは非科学だろうか。
でも、魔法という不思議な力が働くこの世界で、私の世界の常識なんて通用するとは思えない。むしろ、非科学的なことがこちらの世界では常識であるように思える。
いえ、エスパーダの術はもしかしたら、アリスエールを冥界から蘇らせることは無理だったけれど、魂を呼び戻すことだけは成功していた?
それを認めるのは辛いけれど、その可能性もあるのかもしれない。これは口にしがたいことだから、私は夢の中でアリスエールと会ったことだけを、エスクードに話して聞かせた。彼は真面目な顔で話に聞き入り、私の推測を受け入れた。
「……ああ、そうかもしれないな。この間、殿下が……」
「皇太子さま?」
「殿下の夢にアリィが出てきたと」
「…………」
「アリィがこの世からいなくなって、初めて見たと言っていた。いや、記憶を回想するような夢は何度も見ていたそうだ。でも、記憶にないことを口にするアリィの夢は初めてだったそうだ」
「どんなことを言ったのか、聞いた?」
「『殿下に愛されて幸せだった。誰かが私を不幸だと語っても、殿下だけは疑わないで』と、アリィは言ったそうだ……。それから空に消えたと」
「空に……」
「還ったんだろう。本来、在るべきところへ」
死者が還るべきところへ……。
私は上空高く広がる蒼を見つめた。空は憂いなど一つもないように清々しく青く澄んでいた。
その青空の向こうにアリスエールはいて、こちらを見守り続けているのだと、信じて良いのだろうか。
大好きな人たちの幸せを願っていると、信じたい。
夢の中に出てきた彼女は私を巻き込んだことを謝っていた。だけど私はこの世界に迷い込んで得た経験が自分を変えたことを知っている。
だから、謝らなくていいの――アリスエール。
アリスエールの死がここへ来るきっかけであったのだとするならば、素直にこの出会いを喜べないだろう。
けれど、私はね……あなたという存在があったから、あなたが助けてくれたから、ここに居られるの。
ありがとう。さようなら、アリスエール。私、あなたが大好きよ。
私は空に還った少女に、心の中で別れを告げた。
その一瞬、太陽が眩しく煌めいて、湖面に光を反射させた。目が眩んで思わず伏せた目蓋の裏に、私はニッコリと満面の笑みを浮かべた少女を見た。
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