第27話 招かれざる客



 皇太子さまの言葉に目を見開いた瞬間、それは起こった。起こったというより、轟いたというべきかもしれない。

 耳を聾するほどの轟音が頭上から襲ってきて、宮殿が一瞬揺れた気がした。

 地震? ――それとも、雷?

 バリバリと、陳腐な擬音がそのまま形になって降ってくるみたい。

 思わず天井を仰ぎながら、私は手近にあった皇太子さまの腕にしがみ付く。

 周りの人たちも驚きの声を上げ、場は騒々しくなった。動揺した人の波が揺れ、給仕の手にした銀のトレイから、グラスが滑り落ちては大理石の床にぶつかって砕ける。

 飛び散るワインの赤がドレスを汚し、皇太子さまの目に留まることを期待して着飾った令嬢は台無しになった衣装に泣きだした。

 非難の声と宥めすかす声、謝罪の声などが幾つも重さなる喧騒を割って、頭上から聞こえる音は再び大きく響き、何かを引き裂くようにして途絶えた。

 一瞬、空白に似た静寂が落ちた。

 しかし直ぐに、大理石の床を踏み鳴らして響く靴音が割って入った。広間に警備として散らばっていた騎士たちが集結し、皇帝陛下と皇妃さまを背中に庇うようにして取り囲み鋭い視線を周囲に投げかけていた。皇族方をお守りする親衛隊の騎士たちだろう。腰に佩かせた剣の柄に指を掛け、緊張感を漲らせている彼らの姿を目にして、私は気付く。

 つまりこれは自然現象とは違う、人為的に不穏な動きがあるということだ。

「殿下っ!」

 エスクードが人垣を掻き分けて近づいてくる。肩に彼の手が触れて、私は振り返った。

 蒼い瞳が私を見つめて、肩に置かれた手に力が入る。大丈夫だから安心しろと言っているようで、私は皇太子さまにしがみ付いていた指を解いた。

「殿下、これは」

 確認するように問いかけたエスクードの言葉をみなまで言わせず、皇太子さまは頷いた。

「ああ、誰かが護衛結界に触れたな。宮廷魔術師の結界を壊せる奴を私は一人しか知らないが――」

 真顔で皇太子さまはエスクードを見やり、唇の端を歪めるようにして笑った。

 ごくりと喉が鳴る音が聞こえ、かすれた声でエスクードの唇から一つの名がこぼれるのを私は聞いた。

「……エスパーダがっ? まさかっ!」

 逃亡しているはずのエスパーダがどうして、自らこんなところに現われるというのだろう。それはエスクードも承知しているのに、わざわざ口にしたのは皇太子さまが言ったことが真実をついているから?

 かつて皇太子さまのお城に敷かれた結界を壊して不法侵入し、アリスエールを誘拐しようとした過去を持つエスパーダなら、できるだろう。

 でも、まさか。

 エスクードと同じように、私もその答えを容認できなかった。

 だって、追われている身なのだ。逃亡者が追っ手の前に身を現すなら、自首だろう。それは罪を軽減して欲しいと許しを請う行為だ。

 けれどこんな目立つ、まして人の不安をかき立てる形での登場には、反省の色など見えない。

 ――こんなのまるで……宣戦布告だ。

 喧嘩を売っているようなものじゃない?

 皇太子さまは唇を指先で撫でて、再び笑う。

「ふっ、なるほど。奴が鳴りをひそめていたのは、他でもない。私が動かなかったからか」

「……殿下がここにいらっしゃるのを知って、エスパーダが動いたと?」

 皇太子さまは手振りで親衛隊の騎士たちに皇帝陛下と皇妃さまを下がらせるように指示しながら、エスクードに視線を返した。

「だろうな」

 そうして、「騎士たちは客人たちの安全を確保しろ。むやみに動くな、敵は魔術を使うようだ。魔術師は広間に結界を張れ」皇太子さまは鋭く声を飛ばし、他の人たちにその場に留まるように言って、宮殿の出入り口の方へと歩き出す。

 エスクードも続くので、私は迷った後、ドレスの裾を持ち上げて二人の後を追った。

 足手まといになりそうな気がしたけれど、心配でじっとしていられない。

 エスクードがそれに気づいて、

「アリス、何があっても守るから、俺の傍を離れるな」

 と、手を差し出してくれた。私は頷いて、彼の手をとった。

 カツカツと靴音を大理石の床に響かせながら、皇太子さまは大股で入口へと急ぐ。首の後ろで束ねた漆黒の髪が宙に踊る。

「……今宵行われる舞踏会の目的が、私の伴侶探しであるという噂は広まっているだろう。そこへ私が本当に姿を現したとしたら? ……奴にしてみれば、私の行為は許しがたいと思わないか?」

 皇太子さまの横顔に浮かんだ自嘲染みた笑みが深くなる。

「許しがたい?」

「……アリスエールに対する酷い裏切りだと」

「馬鹿なっ! 殿下が伴侶を得たとして、それであの子に対する愛情が消えるわけじゃないでしょうっ?」

 エスクードは眉を跳ね上げ激昂し、声を荒げた。

 この一年、皇太子さまの決して表に見せずとも、胸の奥に抱えてきた深い悲しみをエスクードも知っていた。

 皇太子という立場上、後継者を得るためにいずれは花嫁を選ばなければならないと、誰もが考えていた。その現実から距離を置くために、皇太子さまは帝都から離れた城に暮らしているのだ。

 アリスエールへの想いが簡単に断ちきれないことは、誰の目にも明らかだ。

 どんなに月日を重ねても、思い出はいつまでも残るだろう。それは傷跡のように、もしくは結晶化した宝石のように。

 今なお断ち切れないものが、新しい誰かを選んだところで、完全に消えてなくなるわけでもないことは確信できる。

 むしろ、皇太子さまは伴侶を選ばずとも、後継者問題に難を残さないよう心を配るほど、アリスエールに対する愛情は深かった。

 これからさき、時を経て違う誰かを愛したとしても、アリスエールへの想いを裏切りと称するのは、間違っている。

「奴はそう考えるだろうさ。私も、先だってまではそう感じていた」

「殿下。あの子は、殿下の幸せを祝福しても、不幸を喜びはしませんよ」

「ああ、そうだな。同情されるのを嫌うだろう、最期まで病と戦った彼女なら」

 先程から皇太子さまの唇に浮かんでいた笑みは、エスパーダの愚行を笑うと同時に、自分自身を笑っていたのだと私は気付いた。

 悲しみに目が曇って、ときにアリスエールの本当の姿を見失っていたことに。

 ――陰気な顔をするな。

 私の脳裏で、両親を亡くしたばかりの私に親類が無慈悲に投げかけてきた声が響く。

 今なら私は、その言葉の裏に違う答えを出すかもしれない。

 ――いつまでも悲しみ続けることを死者が望み続けると思うか?

 真実がいつも簡単に見つかるとは限らない。

 傷口に触れることを恐れる優しさや言葉を選べない不器用さが、ときに多大な時間を消費してしまうこともあるだろう。

 受け取る側も、心に余裕があるのとないのとでは、違う。

 多分、皇太子さまの心を動かしたのは、皇帝陛下との接見後のエスクードの言葉だと思う。

『他の誰もがあの子のことを忘れても、構わないと思います。俺や、殿下が忘れなければ』

 アリスエールを亡くしたばかりなら、到底受け入れられなかったはずだ。

 でも、一年のときを重ねて、皇太子さまは胸の奥の想いが、誰にも砕くことのできないダイヤモンドのように唯一無二のものであることを知ったから……。

「だが、エスパーダはいまだにアリスエールを可哀相な娘だと考えているだろうな。それもこれもすべては、奴を選ばせなかった私のせいだと言って」

「我が弟ながら、馬鹿ですみません」

 エスクードは渋面で謝罪した。

「奴が馬鹿を仕出かした分、お前は賢い立ち回り方を覚えたのだろ?」

「あいつと同じことを仕出かしていたら、叱られるだけですからね。反面教師と言う奴ですが」

 目の前に悪い例の見本があったとしたら、誰も真似をしないだろう。むしろ、そこで学習できないのは、ある意味問題じゃない?

 エスクードとしてはエスパーダの悪い例を見習わないことで、周囲に賢いと認められただけなんだろう。

「それでもあいつは両親が俺を甘やかしているのだと言って、俺に反発していましたね」

 私は一人っ子だったから、兄弟間の確執には想像つかないけれど。

 自分の非を理解できずに叱られていたら、えこひいきと受け取るかもしれない。特に小さい子なら。

 そして、エスパーダは自分の欲だけを追求する大人に成長しているらしい。

「…………ああ、どう考えても。エスパーダですね」

 エスクードが低く唸るように言った。

「他にこんな馬鹿なことを仕出かす奴を知っているか?」

「少なくとも、俺は知りません」

「私も知らない――そして、本当に奴だから、嗤える」

 宮殿の玄関ホールに出れば、車寄せの広場にその人影は立っていた。

 夜深く、少し欠けた月が中天へと差し掛かっている。空から落ちてくる月光と宮殿を照らす篝火に、金の髪が煌めいた。

 エスクードと瓜二つの面立ちが月明かりの下で、私の目に露わになる。

 騎士として鍛えたエスクードより若干、全体的に線が細い。そうして、エスクードと同じ輝きを持つ髪は長く伸びて肩に掛かっていた。

 騎士として動きやすい装いに身を包んでいるエスクードと違って、司祭が着るローブのような濃紺の長衣の上に、同じく濃紺のマントを羽織った青年は、皇太子さまを目にするなり、憤怒の形相を浮かべて叫んだ。

「――裏切り者っ!」


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