第21話 林檎色



 ……アリスエールに似ているかな。

 肖像画のなかで可憐に微笑んでいた彼女の面影が、鏡の表面に見えるような気がする。

 面差しが似通っているのは自覚しないでもなかったけれど、そんなに似ているとは思っていなかった。

 だって私は彼女みたいに幸せそうに笑えなかったから。

 今だって、鏡に映る私の影は戸惑いの表情を浮かべている。でも、戸惑い、恥じらいながら目が離せない。胸が騒いで、興奮が滲み出た表情は、今までよりずっと生き生きしていた。それこそ、肖像画のアリスエールのように。

 ――私……。

 何か答えが見つかりそうな気がしたとき、レーナさんの声に思考が遮られた。

「では、参りましょうか? 蒼天の君」

 貸し出された手に助けて貰って、椅子から立ち上がる。他の女官さんが扉を開けると、廊下にはエスクードと皇太子さまが待ち構えていた。エスクードもまた火事現場にいて煤で汚れていたから、待ち時間の間に身を清めたらしい。金髪は眩しいほどに輝きを取り戻していた。

 二人の瞳が私に向けられた瞬間、服を着ているはずなのに裸でいるような、とてつもない恥ずかしさを覚えた。身体が燃えているかのように熱くなり、血が頬へと昇る。

 今の私の頬は薔薇色を通り越して、赤い林檎色になっていることだろう。いいえ、そんな可愛らしい表現なんて相応しくない。きっと茹でたタコだ。

 折角、綺麗にお化粧してくれたのに台無しだ。

 特にエスクードの驚いたように見開かれた蒼い瞳を前にすると、怖気づいて逃げ出したくなる。

 ――に、似合っていないよね?

 やっぱり私にはアリスエールのような愛らしさは似合わない。大体、もう直ぐ三十路になろうという女は愛らしさではなく、妖艶さで勝負しなきゃ駄目でしょう。いえ、そもそも勝負って何ですか?

 支離滅裂な思考は恥ずかしさに由来するものだろう。きっとそう。

 思わず一歩、後ずさった私にエスクードが距離を縮めてくる。

 私はレーナさんの背に顔を埋めるようにして隠れた。

「どうしたんだ、アリス?」

 私は恥ずかしいから見ないで欲しいと、態度で訴えた。

 アリスエールと似ているなんて、なんて馬鹿なことを考えたんだろう。どうしてそう思ったの? アリスエールと同じ土俵に立ったつもり?

 私は無意識のうちに、彼女と張り合おうとしていたのかもしれない。

 彼女と似ているのなら――彼が……。

 転がる思考の行き先が自分でもよくわからなくなりかける寸前、エスクードの手が私の肩に触れた。その接触に、私のなかで静電気みたいな、電撃が走る。

 ドクンと大きく心臓が跳ねた。

 心臓の動きに合わせたように、身体が動いて、私はエスクードを見上げていた。

「恥ずかしがることなんてない。凄く綺麗だ、アリス」

 直球ど真ん中と言ってもいいような言葉がエスクードの唇から洩れ、それを女官さんの一人が親切丁寧にジェスチャーで通訳してくれたので、私としては聞かなかったふりなどできない。

 いえ、聞かなかったふりなんて、どうやってするんですか?

 身体中を駆け巡る血流の音が濁流の如く唸り、その血が身体の各所で反乱を起こしている。頭がパニくり、心臓が破裂しそう。指先が震え、頬が引きつる。

 ――どうしてこの人は、そんな恥ずかしいセリフを真顔で言えるんですかっ!

 ダンスをリードするときは積極的で、だけど空中遊泳している間は少し緊張が見られたエスクードは女性慣れしているのか、していないのか、よくわからないから困る。

 今はまったく緊張した様子もなく、照れた様子もない。こちらの世界の男の人は貴婦人を褒め称えるのが普通なのかもしれない。だから意識しちゃう私がおかしいのかもしれないけれど……。

 私を動揺と混乱の渦に突き落としてくれたエスクードを責めたかった。でも、真っ直ぐにこちらを見つめる蒼の視線に、私の視線は絡め取られたように動けない。

 私はただただエスクードを見つめ返す。

「きゃっ」とか「まあ」とか「うふふ」とか、華やいだ笑い声が女官さんたちの口々から漏れる。

 な、何だか皆さん、楽しそうですね……。私は身体中から汗が噴き出て、お化粧が流れていくんじゃないかって気がしています。

 周りの視線も気になって、逃げたい。でも、エスクードの視線から目が離せない。

「綺麗だ、アリス」

 エスクードが真顔で繰り返す。真剣な眼差しは嘘を言っているようにも、私を慰めているようにも見えないから、性質が悪い。

 社交辞令じゃなくて本気で思っているとしたら……それは――。

 身体を流れる血の量が増加した気がした。頭へと昇った血が、脳天を突き破って噴火しそう。

「――あー、そこそこ。二人で世界を作るな」

 ゴホンとわざとらしい咳払いが闖入してきて、エスクードは夢から醒めたみたいに瞬きをした。

 視線の鎖から解放されて、膝から力が抜ける。レーナさんの肩に縋って、何とか腰を抜かす失態だけは免れた。だけど、動悸が静まらない。

 どうしちゃったの、私?

 皇太子さまがつかつかと近寄って来て、エスクードと私の間に腕を割り込ませる。展望塔のときとは反対だ。

 エスクードの胸元を手の甲で数回叩いて、彼を後退させた。

「言っておくが、アリスのパートナーは私だぞ。まずは私が、アリスを褒めるのが筋だろう」

「順番なんて……」

「それを言い出したら、エスクード。私もお前と同じ土俵に立とうか?」

 深紅の瞳で皇太子さまはエスクードを斜めに見る。私は皇太子さまが口にした言葉を脳内で変換して、「土俵」という言い回しの翻訳はあっているのか、首を傾げた。

 同じポジションに立つという意味の言葉だった気がするけれど、意味的には通じるような、通じないような……。

 エスクードと皇太子さまが同じ土俵に立って何を争うのだろう? やっぱり、翻訳は間違っているのかしら。大体のニュアンスは理解しているつもりなんだけれど、翻訳というのは難しい。

 皇太子さまの視線にエスクードは渋い顔をして一歩、退いた。開いた隙間に皇太子さまが割り込んで、私を覗きこんでくる。

「よく似合っているぞ、アリス。とても綺麗だ」

 ニッコリと笑う皇太子さまの笑顔に、不思議と私の緊張が解れた。あれあれあれ? 褒められていることは同じなのに、私の心臓はまったく違う反応をする。沸騰した湯に差し水したみたいに鼓動が落ち着く。

 皇太子さまの指先がスッと伸びてきて、私の髪に触れた。くるりとカールした髪が指先で踊る。

「……泣いてしまうのではないかと、恐れていたがな」

 ひっそりと息を吐くように、皇太子さまが囁いた。

 その言葉に私は気付く。このドレスはきっと、アリスエールのものだったんだろう。

 アリスエールの病気が発覚してから、婚約が破棄されたわけではない。残された時間を邪魔されないよう、皇太子さまは帝都からこのお城に身を寄せたんだっけ。

 皇太子さまは最期までアリスエールを傍に置いていたのだろう。正式に結婚していなかった二人だけど、周りもまた、このお城で二人の恋人たちを見守っていたに違いない。

 お城に身を寄せたときから、私は華美なドレスを拒んだのだから、私のために用意してあったとは考えられない。何故なら、舞踏会用に新たにドレスを作ろうとしているくらいなんだもの。

 皇太子さまとしては、私には別のドレスを着せたかったはずだ。

 アリスエールとよく似ているという私を彼女の姿に近づけたくはなかったのだろう。

 でも今は、皇太子さまの眼差しは落ち着いていた。懐かしいものを見つめるように温かく、優しい。

 悲しげな翳りはなく、私の上にアリスエールを重ねているわけでもなさそうだ。皇太子さまが私を見る瞳は、もうここにはいない人を偲ぶ眼差しだ。身代わりではなく、違う存在として認識しているから、その瞳に見つめられることに抵抗は覚えなかった。

 きっと皇太子さまのなかで、感情の整理ができたのだろう。だからこそ、私にアリスエールのドレスを着せることも抵抗がなくなったに違いない。

 どんなに似ていても、私はアリスエールにはなれない。皇太子さまのアリスエールはどこにもいない。

 それを受けいれることがどれだけ大変かは、わかるつもりだ。

「これもアリスのおかげだ、礼を言う」

 皇太子さまはニッコリと笑って、私の髪から手を放した。

「……殿下」

 エスクードが皇太子さまの横に並び、その顔色を伺うような視線を投げた。彼もまた気付いていたのだろう。多分、今までいた部屋はアリスエールの部屋だ。ここに案内されたときの、エスクードどこか重々しい声が耳に蘇る。

 アリスは殿下のアリスではありませんよ――そう、エスクードが先日、口にしていた言葉は、皇太子さまが私をアリスエールの身代わりにすることを警戒してのことだった。

 だからアリスエールの部屋に私を連れて来て、彼女のドレスを着せようとしていることで、皇太子さまが私をアリスエールと同一視しようとしているのではないかと、心配したのだろう。

 でも、そんな彼の心配を払拭するかのように、皇太子さまはエスクードに視線を向けて微笑む。

 その笑顔は、もう心配するなと、言っているようだった。

 ――大丈夫だから、と。


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