第10話 夜の涙



 肖像画の間の扉に手を掛ける。鍵がかかっているかな? と、心配したけれど、ドアはすんなりと開いた。

 そうして、隙間から室内を覗けば、闇に包まれているはずの部屋がほのかに明るい。

 ギョッと目を剥けば、あの椅子に腰かけている人影があることに気づく。

 ――誰だろう? 邪魔したら駄目だよね……。

 今宵は諦めて部屋に戻ろうと、扉を引こうとしたけれど、手が滑って、扉は向こう側へと大きく開く。

 開閉する音に、暗がりのなかで人影が動く。漆黒の影は、皇太子さまだ。

 丸テーブルの上に置いたランプから漏れるオレンジ色の明かりが、白い肌を輝かせ、深紅の瞳をより一層赤く見せた。

「……アリス……か?」

 テーブルに肘をついて頬杖をついていたのだろう、やや前屈みの姿勢から、肩越しに振りかえった皇太子さまは私に対して目を細める。

 それは見えないものをよく見ようとする感じで、一瞬、アリスエールと間違えているのかなと思った。

 白のネグリジェは幽霊のように私を見せるかもしれない。

 暗闇に白い人影が見えたら……こ、怖いわよね。

 けれど、それでも逢いたいと願ってしまう気持ちを私は知っている。

 皇太子さまはどうなんだろう?

 逢いたいと思った? だから、私に確認したの?

「……アリスだな、どうした?」

 椅子の背凭れに手を掛けて、皇太子さまは大儀そうに立ちあがる。

 疲れているのかな? エスクードに仕事はサボるみたいなことを言っていたけれど、実はきっちりお仕事をしていたりして。

 皇太子さまが手招きするので、私はそっと近づいた。微かにアルコールの匂いがする。テーブルの上にはワインのボトルとグラスが置かれていた。

 お酒を呑みながら、アリスエールと語らっていたのかしら。邪魔をしてしまったわよね。

「ごめんなさい」という意味を込めて、私は丁寧に頭を下げた。

 意味が通じたのだろう。「いや」と、皇太子さまは首を横に振った。さらさらと漆黒の長い髪が揺れる音が、静寂に響く。

「アリスの方こそ、びっくりしたのではないか。さっきは凄い形相で固まっていたぞ」

 皇太子さまが、目を剥いた驚愕の表情をこちらに見せてきた。

 美貌がこれでもかというぐらいに、クラッシュして歪んでいる。私が持っている蝋燭の明かりが皇太子さまの顔を下から照らすから――いやぁぁぁっ!

 私は反射的に、悲鳴を上げそうになった。

 想像して欲しい。よく暗闇で顔の下から懐中電灯の明かりを当てて、人を驚かす場面を。

 皇太子さまの現状が正しく、それ――と、同時に、数瞬前、皇太子さまの目には暗がりに浮かび上がった私の驚愕の首が見えたわけよっ!

 どんな恐ろしい顔をしていたのだろうっ?

 やめて、想像しないのっ!

 自分自身に対しても、私は制止の声を荒げる――勿論、心のなかで。

 いくら、女として見られることを放棄しているとしても、お化けと間違われるのは辛い。辛すぎるわ。

 あまりの恐怖と絶望に、思わず顔を覆ってしまった私に、皇太子さまの申し訳なさそうな声が頭上に響いた。

「いや、アリス……。悪かった」

 恐る恐る伸ばされた指が肩に触れる。

 私はそっと顔を上げた。目で見るという行為でしか私は言葉を理解できないということになっているのだから、いつまでも俯いてはいられない。

 見上げると、深紅の瞳がホッとしたように柔らかく瞬いた。

「驚かせたな、悪かった」

 今度は私が首を振る。驚いたというより、皇太子さまが見たであろう私のお化け顔を思うと、怖気が走る。頼みますから、もう二度と思い出さないでください。

 そうお願いしたいけれど、当然ながら、言葉は通じない。

 私は話題を変えるべく、肖像画の方へ目線を向けた。

 皇太子さまも同じようにアリスエールに向き直る。

 額縁の向こうから見つめてくる親愛の瞳に、私の隣で皇太子さまが寂しげな吐息をついた。

「エスクード辺りから聞いたのか?」

 私を横目に見据えて、皇太子さまの手が動く。耳の後ろに手を当てて、象の耳のようにする。こういうジェスチャーって、割と世界共通しているかもしれない。異世界であっても。

「はい」と頷く私に、皇太子さまは苦笑した。

「アリスに……よく似ているだろう?」

 頬を傾け肖像画に視線を走らせる皇太子さまの問いに、私は改めてアリスエールを見つめる。確かに似ているけれど……やっぱり、私と彼女は違う人間だと思う。

 だって私は二十九歳だよ? この肖像画のアリスエールはどう見ても十代、明らかに十年近くの差があるはず。同じに見えたら、困るだろう。

 私は曖昧に笑って、首を傾げた。

「似ていないというか」

 微かに驚く皇太子さまに、私は絵の方を指さして「彼女の方が可愛い」とジェスチャーで告げた。

 うん、私はこんな満ち足りた幸せそうな笑顔は作れない。

「面白いことを言う。……そうだな、性格は似ていないな。似ていたら、エスクードとて困っただろう。私が本気になりかねないからな」

「――?」

 ポツリと呟いた声に、私は首を傾げる。ジェスチャーがない以上、それは独り言だろう。けれど、何かを言ったのは事実なので、「何ですか?」と問う意味で、首を傾げて見せた。それに今の言葉の意味が少し気になる。

 エスクードがどうして困るのだろう?

 不思議そうな顔をしていたのだろう、私を見つめ返して、皇太子さまはニヤリと笑う。

「どうだアリス、今宵、私と付き合わぬか?」

 伸びてきた腕が腰に回る。グイッと抱き寄せられ、私は慌てて皇太子さまの胸に手を突っ張った。片手にしていた蝋燭が床に落ちて絨毯を微かに焦がして消えた。

 冗談でしょ?

 目を見張る私に、皇太子さまはニヤけていた笑みを真顔に戻した。

 酔っ払いの悪戯だったのだろう。でも、間近で私を見て、現実に醒めたみたいだった。

 赤い瞳が悲しげに翳る。

「駄目です」

 私は皇太子さまの目を見据えて、そう告げるように首を横に振った。

 性格も似ていたら本気になるって、皇太子さま。

 幾ら、アリスエールが恋しくても、私に身代わりを求めたら駄目でしょう?

 そんなことしたら、余計に辛くなるんじゃないかな。今だって、私を抱いて悲しそうにしているじゃない。

 私が、所詮は偽物だっていうこと……。

 ――痛いくらいわかりきっているから、こうして絵画のアリスエールに逢いに来ているのでしょう?

 私をアリスエールの代わりに抱きしめたって、何も癒されない。逆に、後悔して傷つくよ。身代わりで満足できる程度の存在だったのかって。

 誰にも変わりができないから、苦しくて、恋しいのでしょう?

 それを間違えたら駄目だよ。

 私は言葉を託すように、皇太子さまを見つめた。深紅の瞳が返って来て、くしゃりと美貌が歪む。皇太子さまの姿勢が崩れて、頭が私の肩に落ちてきた。

 圧し掛かって来る体重に、私の膝が折れた。絨毯に膝をついた姿勢になる。

 絹糸のような黒髪が私の頬に触れる。こぼした吐息が、私の胸元を熱くした。流れてくる涙がネグリジェの布地を湿らせた。

 ずっと張り詰めていたものが、お酒を呑んだせいで緩んでしまったせいもあったのだろう。堰が壊れたように、皇太子さまの瞳から涙が溢れだす。

 私は嗚咽を押し殺して震える頭を片腕で抱えて、皇太子さまの背中をそっと労わる様に撫でた。

 私にできることは、涙を受け止めるぐらいのことしかない。

 けれど、悲しいときは泣いていいのだと、言ってくれる人が私は欲しかった。

 だから、私は皇太子さまに伝えよう。

 泣いていいよ、悲しいときは泣いていい。

 人に涙を見られるのが嫌なら、私が隠してあげるから、思う存分に泣けばいい。

 大切な人を亡くして流す悲しみの涙を奪う権利なんて、本当は誰にもないはずだ。

 人はいつまでも泣いていられる生き物じゃない。いずれ、涙は枯れる。それまでは思う存分、泣かせてあげたらいいのだ。

 ……泣かせて欲しい。泣かせて欲しかった。

 あの頃の私は強制的に悲しむことを止めさせられた。自分で心の整理ができない内に、両親の死を過去のことと切り捨てられた。それが辛かった。

 過去の自分と重なる心情に、私は黙って皇太子さまの嗚咽を受け止めた。

 まだ皇太子さまの傷は癒えていない。

 その傷口を洗い流すためにも、泣いたらいい。


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