第8話 肖像画の少女



「こんな風に、俺とアリスエールが仲良くしていると、エスパーダが割り込んできて、場は大変なことになったな」

 苦笑いを見せるエスクードに、私が首を傾げれば「アリスエール」と、紙に文字が記された。

「俺たちの妹だ」

 ――妹? ……でも。

 エスクードとエスパーダは「アリス」が好きだったんじゃないの?

 私の疑問はすぐに解かれた。

「親が亡くなっていたので、フシール家が引き取った母方の親類の子だ。血の繋がりはないに等しい。年は、俺たちより四つ年下だから、生きていれば二十二歳になるかな。妹ということだったけれど、エスパーダはアリスエールを妹として見たことはなかった。だからエスパーダは俺を目の敵にしていたのかもしれない」

 生きていればという言葉が、決定的だった。

 やっぱりもう一人の「アリス」は、いない……。

「エスパーダはアリスを自分のものにしたかったんだろう。だから、家を出た。サフィーロ家の嫁として迎えるのなら、小難しい手順を踏まずに済む」

 一度、籍に入ってしまえば、色々と難しいのかしら。

「あいつは思い込んだら、周りの意見なんて聞きやしない。アリスエールの言葉でさえ、信じなかった」

 苦々しい表情で、エスクードは奥歯を鳴らす。双子といっても、性格は似ていないのかもしれない。

 エスクードは「アリス」への想いを秘めたのに対し、弟のエスパーダは全面的に押し付けたのか。だとすると、真逆のタイプと言えるだろう。

「アリスエールが選んだのは、殿下だったというのに」

 紙の上に「ディナスティーア・グラナード・アールギエン」という皇太子さまの名前が記された。

 アリスエールという文字との間を太い線が結ぶ。

「殿下が社交界に出たアリスエールを見染めて、アリスエールもそれに応えた。二人は婚約して、もう直ぐ結婚という段階になって……病が発覚した」

 私は小さく息を呑む。心臓をわしづかみにされたようなショックに胸が苦しくなる。

 死というものは予期せぬところへ、唐突にやって来るものだと思っていた。

 それまでの日常を粉々に打ち砕く破壊力で、大事な人を手の届かないところへ奪っていく。どうしようもなく抗えない現実に泣いて諦めるしか、生きている人間には成す術がない。

 私の場合はそうだった。

 休日に両親が出掛けて、その先で事故に遭った。お昼には帰って来るはずだったのに、夕方を過ぎても帰ってこなくてソワソワしていたところに、警察から連絡が入った。もうその時には、両親は息を引き取っていたという。

 私は両親の死に突然、向き合わされた。

 けれど……病気の場合は、完治できるかもしれないという可能性がある。諦めるに諦められないそれは、とても苦しい日々だっただろう。

 想い人が日に日に痩せ衰えていく様を見続ける。それはなんて辛いこと。

 今現在、助からなかったという事実が明らかである分、胸が苦しくして堪らない。

 エスクードや皇太子さまが「アリス」を忘れられないのは、心に穿たれた傷が深すぎるからではないかと思った。

 そこへ現われた私を二人は優しく、迎えてくれたけれど……。

 塞がりきれない傷に私という存在は塩を塗りつけたのではないだろうか。

 ズキリと、痛みが胸を刺す。

 何で、私……ここに来ちゃったんだろう。

 不可抗力とは言え、この状況は辛い。役立たずの上に、迷惑この上ない。

「……泣くな」

 不意に、エスクードの声が私の耳を撫でて、頬を大きな手のひらの感触が包み込む。

 見開いた視界が薄い膜を張ったように、紗が掛かっていた。涙の幕の向こうにエスクードの蒼い瞳がこちらを覗き込んでいる。

「頼むから、アリス。泣かないでくれ……」

 私の面差しは「アリス」と似ているのだろう。だとすれば、エスクードには「アリスエール」が泣いているように見えるかもしれない。

 もう一人の「アリス」は病に侵されて、どんな最期を迎えたのだろう。穏やかに死を迎えられたとは想像できなかった。

 だって、結婚直前だったんだよ?

 愛する人と結ばれるはずの輝かしい未来が突如、闇色に塗り潰されたのなら、悲嘆にくれずにいられるなんて無理だろう。

 そんな強さを私は知らない。現実にあったとしても、リアルと感じられない。

 だから、どうしても、悲しみに沈む「アリス」の姿が思い浮かぶ。

 そして、両親を亡くして、泣いていた自分を思い出す。

 辛気臭い顔をするなと諌められるほど過去の私は、周りを暗く沈ませた。

 同じくアリスの泣き顔は、彼女の周りの人間の気持ちを暗くしただろう。助かるという希望すら、じわじわと奪い取っていったのかもしれない。

 エスクードは、皇太子さまは、最後まで諦めずに希望を持っていただろうか。

「アリス」の悲しみに浸食されて、希望を諦めてしまったのだとしたら、そのことを悔やむ気持ちが二人のなかにくすぶっていたのかもしれない。

 私に優しくしたのは、「アリス」への罪滅ぼしの意図があったとしたら?

 本当のところは私にはわからないけれど、私は二人の後悔を責めたいわけじゃない。

 ごしごしと目元をこすって、涙を拭う。

 エスクードを傷つけたくない。だから、涙は見せちゃいけない。

 第一に私が泣いたのは「アリス」への同情じゃない。悲しくて泣いたわけじゃない。

 役立たずな自分が辛かった――己に対する憐憫の涙だ。こんな酷い涙で、エスクードを責めるなんて、嫌だ。

「ごめんなさい」

 私は頭を下げて、謝った。

「謝らなくていい……アリス、お前は何も悪くない。変な話を始めた俺が悪かった。気を取り直して、ダンスの練習をしようか?」

 エスクードが立ちあがりかけるのを、私は彼の袖を掴んで引き止めた。

「話を聞かせて」

 興味本位で聞いていい話ではないと思う。

 でも、このまま何もなかったふりをして、エスクードや皇太子さまの厚意に甘えられるほど、私は図々しくなれない。甘えるのは苦手なの。

 せめて、二人の役に立てる何かがあるのなら、私はそれを成したい。役立たずでは終わりたくない。

 どこまでも私は過去の自分に縛られるけれど、でも、二人のためにと思う気持ちは、自己満足するためだけじゃないと、信じたい。

 私は二十九歳、二人より大人だ。そんな私が二人に気を遣わせてどうするの?

 人生経験はそれなりにしているから、色々なことを受け止めることはできるはずよ。

 そこに辛い現実があったとしても、二人は耐えたのでしょう? 私も耐えるわ。ただ、悲しみに泣くことしかできなかった十代の頃より、私は強くなっているはずだもの。

「……アリス」

「ちゃんと知っておかないと、皇太子さまを傷つけてしまうかもしれないから」

 私は筆談で、エスクードを説得する。

 皇太子さまだけじゃない、エスクードを傷つけたくないのよ。

 例え、私に施された優しさが「アリス」へのものだったとしても、この人がいてくれたから、何も知らないこの世界で私は生きてこられた。

 私は、いい年をした大人なんです。恩を受けたことをちゃんと理解しているわ。それに対して、何をどう返せばいいのか、今はわからないけれど、頭を悩ませて考えるから、恩返しをする機会が欲しい。

 だから……。

「わかった、話すよ。そうだな、アリスには知っていて欲しい」

 彼の袖を掴んでいた手を握られた。ギュっと握ってくる指先の強さに視線を上げると、エスクードが頷いて、私を椅子から引っ張り立たせた。

 それからダンスホールを出て、廊下を歩く。どこへ行くのだろうと訝しんでいると、一つの部屋に通された。

 部屋の広さはそれほどない。中央に置かれた背凭れ付きの豪奢な椅子と小さな丸テーブルが、奥の壁に向かい合うように置かれていた。

 まるで特等席の様な椅子から目を動かせば、奥の壁に絵が掛けられている。肖像画だ。

 ドレスを飾った薔薇の造花、縫い付けられた真珠や宝石といった細部に至るまで入念に描きこまれた写実的な絵だけど、色使いが柔らかく幻想的な雰囲気を醸し出している。

 ――アリスだわ。

 私は描かれた一人の少女に、直感で答えを出した。

 エスクードに導かれ、部屋の中央、椅子の前に立つと、絵がこちらに微笑んでくる。

 椅子に腰かけ、台座の上に両手を突っ張り、こちらに半身を乗り出している蒼い瞳の少女だった。 

 白いドレスはチュールを花びらのように何重にも重ねたふんわりとしたスカート。椅子に収まり切れなかったスカートの、チュールの透け具合も正確に再現された繊細なタッチで描かれていた。

 彼女は、鏡のなかに見る私とよく似ていた。微笑めば、頬に浮かぶえくぼ。柔らかなサクランボ色の唇は今にもお喋りに興じそうだ。丸い目が幼さを強調しながら、真っ直ぐに見つめてくる。

 華やかな装いと瞳の色が違うことを覗けば、顔の輪郭も髪の色も同じだ。美人とはお世辞にも言えない、言わない。

 けれど、絵画の少女の、あどけない笑顔は人を惹きつけるものがあった。

 それは私にはないものだと思う。だって私は、こんな風に幸せそうに微笑んだ記憶がない。

 でも、目の前の少女は「幸せ」を塗り重ねられた絵具の奥から訴えていた。

 この絵を描いた人の技巧が優れているからだとは思えない。モデル自身が、身体の内側から表情を輝かせていた。

 ――ああ、この子は幸せだったんだ。

 少なくとも、この絵に描かれた頃の「アリス」は幸せだった。

 そう確信できるものが、キャンバスに収められている。

「この絵は殿下がお描きになった」

 エスクードが説明してくれて、私は頷きながら、思った。

 もう一人の「アリス」は、心の底から皇太子さまを愛したのだと……。



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