Step 4 テトラビジョン

第8話 テトラビジョン Ⅰ マクシミリアンの日記


2月水曜日


 黒い外套に頭巾を覆った男がやって来た。そして「クラリスの形見だ」と、リボンを私に預けた。あの、幼い頃クラリモンドに渡したベルベットのリボン。大切にとってあったのだろう。かすかだが彼女の香りがした。

 その男が何者か確かめたかったが、はぐらかされた。だが、彼女の仲間であることに疑いはない。「あいつの遺言だ。もう関わるな」と言い、立ち去ろうとしたので、もしや彼女と恋人の関係だったのかと思わず尋ねた。

 「あんたは童貞かい」という問いを返してきた。それで分かった。

 多少なりとも彼女と縁があるのだ。困ったときには私をたずねるように言うと、お人好しも休み休みにしろと呵々大笑された。

 「あのポーランド野郎の記事、読んだぜ。あんた、いいな」と言うので理由わけを訊くと「あいつ、俺にゃあキスしやがらなかったぜ」と答えた。



2月金曜日


 今日ほど大失態を演じたことはない。まったく、冷静に立ち返ると自分の行動が軽率だったことに呆れてしまう。伯父が大学卒業祝いにくれた片眼鏡まで失くしてしまった。

 しかし、心の区切れはついた。イアンとブレーズ、それから私の身を案じてくれた人達に感謝しなければ。

 いずれ時を経て、穏やかに語れるようになることを祈ろう。

 それにしてもイアンがあんなことを言うとは。意外だったが、なんとも嬉しいものだ。

 今日までためていた仕事がある。明日からはしばらく彼にも残業を頼まなければ。

 酒が過ぎたせいで頭が痛い。深夜に起きて眠れない。

 私が大好きな干し果物たっぷりのケーク・オ・フリュイが事務所にあった。集まってくれた誰かの土産だろう。差し入れ主が分かるようなメモも「フェルダー氏へ」といった言葉書きもないが、元気づけてくれようという心遣いは、本当にありがたい。一番の贅沢だ。

 明日イアンとブレーズと三人でお茶時に頂くとしよう。

 ようやく食欲がわいてきたようだ。

 私は、負けるわけにはいかない。生きていくのだ。彼女のためにも、明日からも。




第9話テトラビジョン Ⅱ ブレーズの日記


2月▲日


 よくわかんねえけど、なんか先生が忙しくしてるだ。依頼とか来てるし電話は鳴るし大変なんだけんども、全部ほっぽらかしだ。だもんでイアンさんが半ギレで片っ端からやってる。そんでもおっつかねえだ。

 おらにできんのは雑用ぐれえだし、法律なんか1インチもわけわかんねえ。

 先生は午後一杯法務局と裁判所と刑務所、そっからいろんなとこに行ってたみてえだ。なんかヤな場所ばっかだな。

 カフェに顔出した。旅帰りだっつって、カフェのオヤジがおごってくれた。知らん間に女給のシシイと給仕のクルトがくっついててがっかりだった。しかもガキまで孕んでただ。野郎、おらがいねえのをいいことにシシイを口説き落としやがったんだべ。

 やけ酒飲んで、事務所に帰る途中、ばったりイアンさんに会った。なんか菓子屋と細工もんの店の飾り窓を真剣に見てた。んなとこで怪しいから、「なにやってるだ」って声かけたら、なんかキョドっただ。「誰かにプレゼントやるだか」って訊いたら「たまたま通りかかっただけだ。おやすみ」ってケルトナー通りに行くみてえにしたけんど、アパートの方角じゃねえな思って隠れてみたら、キョロキョロしながら戻ってきて、また二つの店の間をうろうろしだしただ。

 警察の真似して「オイ!」ってやったら「うおわあ」って超ビビってた。爆笑してたら怒られた。



2月♭日


 先生がすげえ落ち込んでる。飯も喰わねえ。イアンさんが心配してるけんど、部屋に閉じこもったっきりだ。

 困ったべな。もとから明るい人が超凹んでるとどうすりゃいいかわかんねえだ。

 原因は絶対あの新聞のことなんだべな。イアンさんは「下等な三文記事」っつってたけんど、ナショゴシ(ナショナル・ゴシップ)けっこう面白ぇからカフェじゃ人気あんだよな。

 名前は伏せてあっただが、間違いねえ。ありゃ先生のことだ。FったらフェルダーのFだべ。

 昔馴染みが盗賊ってのもすげーだが、それがまた死刑ってのもすげーだ。ありえねえだ。

 とにかく死んじまったもんはしょうがねえ。いつまでクヨクヨしたってはじまんねえんだから、早く立ち直ってくんねえかな。

 あんま長くなる前に、一発ヤりに誘うだべかな。こういう時はハメまくって抜きまくるのが一番の薬になるだ。



2月♯日


 先生が、「しばらく留守にする」っつう書き置きを残していなくなった。まさかだけんど、ヤバくなったのか思って知り合いとか先生に世話んなってる全員集めて捜してたら、夕方イアンさんと一緒に戻った。ムカついて文句を言ったら、素直に謝っただ。そんでも腹の虫がおさまんねえから、ザケんなって腹に蹴り入れてやっただ。したらイアンさんがしゃしゃり出てきて、「なんてことを」とかなんとか殴ってきたもんだで、うるせえ黙ってろボケって殴り返して、したらまた殴ってきて、よく分かんねえケンカになっちまった。

 話がどう伝わったのか「先生が死んじまったのか」って、見舞いに事務所に来てた連中もごっちゃになった。

 派手に騒いだら最後にみんなヘバった。でもスッキリしただ。

 みんなが帰ってから、片付けした。晩飯にニシンの塩漬け出してやった。へへへ、当分これにしてやるだ。

 先生はもう大丈夫なんだべ。「またか。ニシンは嫌いなんだが」とかグダグダ文句言ってただからな。イアンさんがいつもみたく「残さないで食べてください」って怒ってたしな。

 イアンさんが下宿に引き上げた後、先生が「心配の駄賃だ」ってコニャックひと瓶くれた。で、一緒に飲んだ。

 イアンさんと良いことでもあったのか先生、やけにニヤニヤしてたけんど、二杯目に「うにゃぷ」って気絶した。つかマジで弱ええだ。

 あー、今日はおら大活躍だっただ。最後に良い酒も飲めただしな。

 そうだ、いい加減村に土産を送んなきゃな。腐るもんでねえけど忘れっちまうとまじいしな。

 父ちゃん、きっとビビるだぞ。トルコ土産ったら舶来みてえなもんだかんな。なんつったって本物ほんもんの、象牙と瑪瑙のパイプだ。母ちゃんには金の首飾り、弟たちにゃ時計だ。へへ。

 夏には戻りてえだなあ。休みもらえるかどうか先生に明日聞いてみるべ。




10話 テトラビジョン Ⅲ イアンの雑記帳


 徒労という言葉がふさわしい。まわりくどく考える必要などない。

 このところ、僕は以前の自分ならありえない徒労にいそしんでいる。


2月L日


 先生の様子がおかしい。じりじりとして落ち着きがなく、普段なら欠かさない午後のお茶の習慣さえやめ、ブレーズによると食事もろくに摂っていないようだ。

 依頼の電話が来てはいるが、とりつげる状態でなく僕の采配で全案件の進行をストップさせている。だがいつまでも、というわけにはいかない。

 先生がこうなったのは、この間の帰国からだ。やけに口数少なになり、事務所をうろうろしている。かと思えば窓際に座り込んだりする。そして、法曹・警察関係へ外出したのちは憔悴しきっている。

 先生の行動の一部はナショナル・ゴシップのあの判決の記事に付牒する。とすれば先生は、かの女盗賊と何がしかの関わりがあったということだ。

 あの低俗な醜聞紙。昼間ブレーズが「こったら先生のことに決まってるだべ」と鬼の首をとったように広げていた。

 一体どういう関係だったのだろう。二人はまさか(単語の上に二重線が引いてあり、「恋人」または「歌手」と読める)


(空白数行)


 僕と先生を結ぶ線はなんと儚いものなのだ。

 このまま手をこまねいているわけにはいかない。日々飢え痩せていくあの人のために何か方法を考えなければ。

 皮肉な現象だ。先生は、かの女性を思って寝食を忘れている。そして僕は(空白、インクの滴り染み二つ)

 こんなことは余計な詮索だ。寝ても覚めてもそれを考えている場合ではない。明日からは何か食べよう。わずかでいい、最低限動けるように。

 あの人のためなんかじゃない。自分のために決まっている。

 さっさと立ち直ってもらわなければ。


2月M日


 ブレーズが勘違いしている。僕がイラついているのは先生が仕事を投げ出しているからではない。僕達に秘匿し語らないことが腹立たしいのだ。理不尽な怒りだと分かっていても。

 黄昏時、奇妙な来客があった。玄関でひそひそ話し、すぐに闇に紛れるように立ち去った。

 怪しいので後を尾行つけてみたが、ブルク門のあたりで見失ってしまった。

 何か物のやりとりがあったようだが先生は何も教えてくれない。

 なぜ、何が、そういった言葉で先生の心の内に踏み入る権利を僕は持っていない。

 歯がゆい。

 明日はローマ時代に恋人達を結び付け、したがために殉死した聖者の命日だ。

 キリスト教徒の記念日など知ったことではない。だが愛を求める心は人類ならば誰もが持ちうるものだ。



購入品


甘いもの

片眼鏡モノクル用鎖、純銀

(走り書き「無駄?」とある)


(以下、試し書きのようなメモ)


友情の記念に

変わらぬ友情に

日頃の厚意に感謝をこめて

親愛なる(単語に二重線。恐らく「先生」を訂正し)人へ

(単語に三重線。読み取り不可)の証に

(余白数行)

 無駄なことをしている。僕はどうしたいんだろう。栄養失調で脳髄に余計な妄想が入り込んでいるに違いない。

 二つとも渡すのなら意味が深すぎる。ブレーズあたりが騒ぎそうだ。

いっそのこと渡さないほうがいいだろうか。

(以下、《》内文章には黒紙が張られていた。資料展示にあたり、ページが破損せぬよう慎重を期して取り除いたところ、以下の文章が現れた)


《でも僕は喜んでほしい。久しく失われているあの人の笑顔を、日照りの憂き目に遭った農夫のように求めている。

 もっと勇気がほしい。愚かしいと蔑んでいたが、神にすがる人の気持ちが今は分かる。

 いやいっそ悪魔でも構わない。あの人を再び幸せにするだけの力を。 せめて、悲しみの奈落から救い出すことができるなら。

 そうしたら僕は(空白)

 僕は死(語尾が震えながら延び、途切れている)

 僕はわがままだ。そばにいるだけではだめだ。もう(空白)

 先生が笑顔でいてさえくれればいい。》


(再び通常の記述)


2月P日


 出勤した僕に、泡を食ったブレーズが飛び付いてきた。先生が書き置きを遺して居なくなったという。よく確認したら、遺書と取れるような内容でもないのでブレーズに事務所を預けて町に捜しに出た。

 まさかと思い環状線をぐるりと建物を見上げて走っていたが、市庁舎のバルコンに赤茶の面差しとモノクルの輝きを認めゾッとした。

 駆けつけた僕に先生は「風景を見ていただけだよ」と言ったが、どうにも安心できずに階下まで降りさせた。

 ブランデーか何かきこしめした様子で、酷い荒れようだった。つられて僕も無礼な口を利いてしまった。先生は呆れたのかもしれない。

 自分の舌が呪わしい。恐ろしいのは、台詞や内容、口走った単語を一切合切忘れていることだ。

 おぼろげな記憶には、先生の小さくて、でも意外に指の節くれだった優しい手を握り、食を断っていることに加え外気にあてられた氷のような冷たさに、やりきれさを感じていた。

 思い出しても冷や汗が流れる。激昂したあまり、まさか先生の襟元を締め上げるなど。まるで野蛮なごろつきだ。

 声が震えるのを抑えるのがやっとだったような、そんな僕に先生が幾度か「すまない」と呟いたような。あやふやだ。

 言葉がかつてのドナウの氾濫のごとくほとばしり、僕をして黙らせなかった。ただ念じていたのは、闇の中に僕を置き去りにしないでほしいということだが、そこまで言ってはいない筈だ。そうだと思いたい。

 頭に血が昇っていたのだ。子供のように喚いていた己を恥じる。

 ひとつだけ確かなのは、先生が僕の言ったことを理解してくれたことだけだ。

 落ち着きを取り戻した僕を、先生は公園に連れていって、今回のことを謝り、くだんの女性との思い出を物語った。そうすることで気持ちの整理がついたようで、その後彼女の埋葬された墓地へ行き、殺風景な土まんじゅうの上に花を手向け、罪人として附けられなかった十字架を建てた。先生はまた少しだけ泣いた。

 僕達が戻ると事務所が上を下への大騒ぎになっていた。ブレーズが不用意に人数を駆り出したため、おおごとになったのだ。

 乳飲み子を抱いた女性がいた。フランスの亡命者がいた。救護院行きを免れた老人、金を騙し取られたイタリア商人、成金の私生児、そういった人々。陽に焼けた労働者の黒茶けた毛皮。病を得た貧者の蒼白いニコ毛。僕がこの事務所で働かなければ視界の隅にさえ入らなかっただろう大勢だ。

 先生の姿を見て「悪魔だ!幽霊だ!」と喚く者あり(幾人かは先生が既に死んだものと決めつけていた)、祈る者あり泣く者あり(しかもドイツ語マジャール語スラブ語等ごたまぜの怒号が飛び交い、たまったものではない)、ともかくそういった連中が先生を揉みくちゃにした。

 そして「あたたかい!生きていなさる!」と今度は手に手に引っ張り回した。

 最後にブレーズが、先生を言葉短く叱責し、あろうことかキックを放った。すぐ暴力に訴えるのは彼の悪い癖だ。

 僕は反射的に彼に殴りかかってしまい、そこから全員を巻き込んだ大乱闘に発展した。無傷の者は誰も残らなかった。おかげでヘレンドの客用茶道具一式(先生のお気に入りだった)と、棚が一つ打ち破れた。

 まったく散々な一日だった。



 徒労ばかり。空騒ぎ。

 だが今回はむくいはあった。

 満足だ。





19ZZ年 寄贈

無記名のスクラップノートより

ニューヨーク エリスアイランド 

移民博物館蔵




第11話 ベルベット・リボン


 このベンチにしようか。ほら、座りたまえ。…もっと近く。もっとだ。

 そうそう。でないと、あっちの演奏がうるさくて私の声が聞こえないだろう?

 さて、どこから話そうかな。

 私が彼女と初めて会ったときのこと?残念ながら憶えていないよ。

 私は父の死の二年前に生まれて、それからずっと市街地のチョークの床で育ったんだ。

 え?ああそうか、今はもう取り壊されているし、君の年代で、しかもパリ帰りでは知らなくて当然だな。

 一言で表せば…そうだな、「タコ部屋の長屋」というところかな?アパートのひとフロアぶち抜きにしてベッドを並べて、床の上にチョーク線を引くんだよ。子供の遊び?そうそう、そんな風にね。「この線からこっちはフェルダー家、そっちはハイダ家」といった具合に、ね。

 いや、冗談じゃないよ。あの頃、貧乏な家族の流れてゆく先はそこだったんだ。それでもまだ乞食よりはましだったな。

 まぁプライバシーはないし臭いし汚いし、ざっかけないどころではないね。

 とにかく母が死んで、私が叔父に引き取られるまでそこが私の家だったんだ。

 父上は私が生まれたあと結核病棟に入った。兄上に音楽の手解てほどきをしたのは父上なんだよ。才能に溢れ、ヴァイオリニストであるばかりかいっぱしのピアニストでもあったんだが、遺産を食い潰す放蕩と浪費の悪癖も持ち合わせていた。余計なことだけれど、あまり家庭をかえりみるたちでもなかったな。いつも兄上だけを傍において可愛がっていたというよ。まぁ「変人フェルダー」の血筋らしいといえばらしいかな。

 つまり、私達はまさに凋落もいいところの貧乏貴族の見本だったってわけさ。

 ベグ一家は同じフロアで、トルコ人配管工の父親を中心に五人家族で住んでいた。父親は腕っぷしがあって親分肌で、だからああいう場所ではつきものの、女子供へのイタズラや失せ物も起こらなかった。うちは母上がフランス人の奥さんとどうしてか馬が合ったらしくて、家族みたいに接してくれていたね。

 クラリモンドはベグ家の長女で、私にとっては姉みたいなものだった。物心ついたときには一緒にいたんだよ。


 母上は昼間に針仕事に出ていた。兄上は音楽家に弟子入りしてアパートには居ないことがほとんどで、遊んだり食事したり常に世話を焼いてくれたのは彼女だったんだ。

 まだ物心ついたばかりのあるとき、普段は建物の中庭で砂遊びをしているんだが、なぜか私は道路に出てしまった。

 アパートは環状線までわずかな番地に建っていて、馬車なんか頻繁に往来していた。そして私はそのままふらふらと引き寄せられたように車道に降りてしまったんだ。

 ……………うん?ああ失礼。ちょっと思い出してしまって……

 ええと…そう、一台の辻馬車が私に襲いかかったんだ。子供の目線だからね。山のような黒い化物に見えた。何か馭者が叫んでいたが、凍りついてしまって動けなかった。

 クラリモンドが庇ってくれなかったら、圧し潰されていたろうね。

 彼女は私を突飛ばしたその時、額に馬の蹄の一撃を受けた…それが向こう傷の由来だよ。

 私が七歳の時に母上は亡くなった。元々が貴族の身だ、毎日の労働と困窮で気付かないうちに命をすり減らしていたんだと思う。

 兄上は当時から天才の呼び声が高かったけれど、ようやく端役をもらえるようになったぐらいで、とても私の世話までは見られない状態だった。そこで、叔父が引き取ることになった。

 叔父は前々から私達を養おうと打診していたらしい。母上は、自分の面子でそれをしりぞけていた。気持ちは分かるけれど今となっては…生活費ぐらいは借りても良かったんじゃないかと思うよ。そうすれば、早くに亡くなることも、あの場所を去ることもなかったのに…

 別れの日、私はクラリモンドに母上の形見、もうそれだけしかないベルベットのリボンをあげた。「きっと会いに来るからね」という約束をして………

 私は……大泣きしてしまって……………


 すまない、うん、ありがとう。

 ふー…鼻をかんだら少しスッキリしたよ。ああ、そんなベタベタなハンケチーフを持って帰ることはない。ブレーズに洗わせよう。

 いけないな。クラリモンドにも最後に言われたのに。

 …私は泣き虫が治りそうもないよ。

 え?ああ、これがそのリボンさ。

 今は…母と、彼女の形見になってしまったがね…

 うん?

 ……そうかな?

 ………ふふ、君にそう言われると、そんな気がしてきたよ。

 …うん…

 そうだね。じゃあ、今から行こうか。え、極端だ?ははは。フェルダー家の人間はこうなのさ。

 いや、実を言うと怖かったんだ。色々な意味でね。

 君と一緒なら、彼女の墓に詣でる勇気が湧いてきそうなんだ。情けないかな。

 えっ! ………もう一回言ってくれないか。いやいや、後生だから。

 「あなたのそんなところは好きです」なんて、初めてじゃないか!君が私を褒めるなんて!

 褒めてない?それはいいから、なぁなぁ、もう一度!

 イアン=アグラム!待ちたまえ!




19XX年 2月 市庁舎公園にて収録

記念コンサートのレコード録音に紛れた男性二人の会話より。後日、スタジオにて同演目プログラムの演奏を再録、ステラ・ジェミェラ社より発売。







12話 テトラビジョン Ⅳ(ラスト) リブロンの取材帳



拝啓

 貴下におかれましては益々の御清栄に存じます。

 以前ご寄稿くださいました、新年特集号への読者反響ただならず、この度当地ウィーンをモデルとしました映画の脚本主筆のペンを執られると聞き及び、僭越ながら御招待の栄に浴したく、お願いかたがた詳しい趣意書を送らせていただきます。

 スケジュール等につきましては先生の御都合に全面的に合致致しまして、ホテル滞在その他経費は当社が負うものと致します。

 我が国の数々の美点を体験頂きまして、創作の協力の一助となりますれば、何よりの幸いと存じます。

 それでは、色好い御返事を期待しております。


                              敬具

                            『ノイエ・フライエ・プレッセ』編集部

                                    ラウル=ド=リブロン様


                                消印…19XX年2月、ウィーン



2月16日、晴れ。


予定…

 午前『ノイエ・フライエ・プレッセ』編集部訪問

 帝立・王立宮廷ブルク劇場『ジプシー男爵』昼公演マチネー

 警察局長フランツ=フォン=クラウス男爵邸にて会食


(以下、速記文)


 ウィーンは二層式の構造だ。高貴な野次馬ギャラリーと庶子的芸術家達の闊歩。醜聞と悲恋、陰謀と高潔。気取り屋がつまらぬ陳腐な怠惰に沈むかと思えば、私の気性に合うもの…真新しい新鮮さ、思わず目を奪う意外性、そういったものに溢れている。

 我らがセーヌの華たるパリが着飾る娼婦とすれば、この都の野暮ったく重厚な目抜き通り…リングシュトラーセ(環状線)は貴婦人のスカートだ。そして、その裾たるや驚くほど短い。

 連なるチョコレート色の屋根。少し離れた公園あたりから疼くように響いてくるオペラの一節の響き。彼自体がその骨董品の一部であるかのような、年経たアコーディオンの奏者がゆったり佇んでいる。口ずさんでいわく。


 “ 天地の狭間にこれ程の

不滅の真理あるならば

女心も変わるまい”


 この詩句の意味を真に理解すること。なまなかにできはすまいが…



2月17日、晴れ


 午前の用事を済ませ、ウィーン建築を探訪した。こちらに通じた友人から、市庁舎は隠れた名所と紹介されたが、なるほど優美なカーヴが階を重ねてゆく変形丸天井には圧倒される。

 そしてこの市庁舎で、なかなかドラマチックなものを目撃した。

 小柄な男性アライグマ人・おそらく30代と、背の高い男性熊人・20代のやり取りだ。

 バルコニーから身を乗り出し、私の隣で景色を眺めていたアライグマ人を、突進してきた熊人がいきなり羽交い締めにした。飛び降りでもするものだと思ったようだ。

 どうも熊人に見覚えがあると思ったが、今になって気付いた。あれはイアン=アグラム、パリの大学リセで二三度机を並べた顔だ。卒業間際にいざこざがあって、既に決まっていた名誉ある法律事務所の席を蹴り、故郷に帰ったと聞いていたが。すると、ダルマチア(クロアチア)でなくウィーンで就職したのだろうか。彼は非常に興奮しているようで、ジッと視線を向けていた私にはいささかも注意を払わなかった。

 アライグマ人の方が、構うなとか一人にしておいて欲しいから帰れとか逃げようとする様子。アグラムは一切無視して下まで引っ張って行く。面白そうなのでコッソリ後を追った。

 二人はカフェにでも寄るのかと思ったが、裏路地に入った。アライグマ人がそこで熊人の手を振り払い、よろけるように壁にもたれ掛かった。

 興味がまさるとドンな賤しむべき所業もなしてしまえる。私は積み上げられた樽の陰の特等席で、大男・小男の組み合わせをジックリ観察と決め込んでみた。

「情けない体たらくですね、先生。酒に逃げるのですか」とアグラム。

「…いいじゃないか。人生の皮肉と己の無力を噛み締めているんだ。めったにない味だよ、これは」と気だるい調子のアライグマ人。

「あなたらしくないです。退廃ぶった態度だって板についていません。ただの自棄すてばちではないですか」

 アライグマ人は笑い、ぱんぱん、と拍手をした。

「ご立派だよイアン。実に建設的だ。そうだよ。私はちっぽけで陳腐な堕落しかできない哀れな男なのさ」

「しっかりしてください、先生。こんなことは、亡くなった……(言葉を選びあぐねたか、一息置いて) …女性の望んだことではないでしょう?」

 と、ライトが外れた舞台背景のようにアライグマ人の表情がすっと翳り、声が一段低くなった。

「悪いが、分かったようなことを言われたい気分じゃないんだ」

「ええ、分かりませんね。分かりたくもない」

「…冷たい言葉だな」

「手も足も出ずに大切な人を失うなんて、僕は絶対にイヤです。想像もしたくない…」

 アライグマ人は頭の皿が見えるくらい俯き、「もういい!」と一歩を踏み出した。

 と、「だから、ここにいるんじゃないですか!」叫ぶやいなや、アグラムはアライグマ人の首根っこを掴んで壁に小さな体躯を押し付け、ギリギリと締め上げた。

「ああ、馬鹿馬鹿しい!馬鹿馬鹿しい!畜生!!あなたが破滅しようとどうしようと、勝手にすればいいんだ!だけど覚えておいてください!あなたがそうすることで、ここにある一つの魂が、僕が、永久に救われなくなることを!あなたのこの手は!」

 もしや殺人に至るかと飛び出しかけたが、アグラムは燃え尽きた薪のように崩れ落ち、石畳にガックリ膝をついた。

「人々を助けるためのためのものではないんですか…!」

 アライグマ人も、これには面食らっただろう(私だってそうだ)。

「イアン、一体…」

「あなたが弁護席に立つのはなんのためですか…?」

 私は法廷の取材でこういう様子を幾度も見てきたので、熊人がまさに狂気の瀬戸際に追い詰められているのが分かった。あとホンの一寸、指でツイと突けば踵が天を蹴って地獄へとまっさかさま、陽気な精神病棟行きは確実だった。胸を弾ませた私の予想に反し、アライグマ人はそれまでと打って変わった優しい抱擁で熊人を宥めた。

「すまない、イアン。すまなかった」とひざまずくアグラムと同じ目線まで軽く身を屈め「そうだな。ちょっと無責任だったな。君までがそんなに心配してくれるなんて思わなかった。許してくれ」と、しばらく背中をさすっていた。

 アグラムは泣いているのかと思ったが、唇をグッと結んだ厳めしい顔に戻っていた。

 私がリセではしゃいでいた頃、イアン=アグラムの体内には血液や涙の代わりに水銀が流れている、という蔑笑混じりの噂があった。

 だが。息咳切り市庁舎の階段を駆け上った閻魔のような顔。地獄で炙られたみたいに汗を流していた形相。

 そしてこの、アライグマ人に対しての、紅潮し怒りを抑えかねた青年らしい熱情。

 水銀どころか、魔女の釜のように煮えたぎる血が流れているようだ。

 これは興味深い。何が彼を変えたのか?環境?経験?それとも性根をひた隠しにしてきただけなのだろうか?

 大路に出たあたりまで彼らを見送り、これ以上のドラマは期待できなさそうな印象だったので、その足で酒場へ向かった。プログラムによると、一糸まとわぬ踊り子が羽扇子を振るう最新のダンスだったが、私はそれより集まる男女の様子が面白かった。


 アグラムが「先生」と呼ぶアライグマ人、彼がアグラムのタックルで落とした片眼鏡を私は持っている。縁は白金で鼻梁にあてる部分はプラチナだ。細かくラテン語で『正義の神の加護あれ』と刻まれてある。

 酒場で知り合ったナントカ男爵に尋いてみるとすぐに分かった。『神よ助けたまえ』通りにあるフェルダー法律事務所。もとをただせば由緒ある家柄の貴族だが、一族は変人奇人才人を輩出するので有名だとか。

 事務所の主がアライグマ人の小男で、熊人の偉丈夫が補佐をしているというから間違いあるまい。

 しかし評判からして、あの実益を好むアグラムが居着くような仕事ではないようだが。これもまた疑問の一つだ。どんな心境の変化だろう。

 とまれ、落とし物の届けという名目でまみえる機会が作れるわけだ。

 私は刺激にかつえている。目下の仕事よりも、こちらの謎の方が興味深い。冴えない新聞社の誘いよりはずっと有意義だ。

 面白いことになりそうな予感が背中をくすぐる。いい兆候だ。









※注…… ラウル=ド=リブロン、未発表の紀行文原本および挟まれていた文書より抜粋。映画の脚本作りの取材に来訪したウィーンでの記録・雑記・書き付けと思われる。

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