第三話 訪れぬ安寧

 世界が暗転したのはツキヒコがまぶたを閉じたからではなかった。実際に、文字通り、世界が暗くなったのだ。一体、何が起こっているのか。ツキヒコがそれを理解する間もなく、爆発音が響く。いや、それは爆発音ではなかった。ツキヒコの視線は爆音が聞こえてきた方へと向けられる。RPGの衝撃にも耐えられる特殊コーティングを施されれた装甲空中車アーマードエアカーが壁を突き破っている。突き破られた壁から光が入って来て、スポットライトのように装甲空中車アーマードエアカーの周囲を照らした。粉塵がキラキラと舞い、まるで異世界から転送されてきた宝具のように異彩を放っていた。


 一斉にAKの銃口を向けられる装甲空中車アーマードエアカーの扉が開く。中から出てくる人物を見て、ツキヒコの目が拡張する。もしかしたら、自分はリボルバーの弾丸に眉間を穿たれて死んでしまったのかもしれない。今、目の当たりにしている風景は現実のものではないのかもしれない。数秒間、そう疑ってしまったほどに、ツキヒコの頭の中は混乱していた。


「どうして……」


 ツキヒコの視線に映ったもの。それは先ほど死んでしまった人物、自分がこの手で、この指で、息の根を止めてしまった存在――ミマサカ機関次期総統候補筆頭であるナナカ・ミマサカだった。


「トウシロウ・マキ。わたしの命を狙う度胸は評価するけれど、本気でそれを実行してしまう見通しの甘さはいただけないわね。エージェント失格よ。大人しく投降すれば解雇と死刑ですませてあげるわ」


 堂々と胸を張るナナカの身体には傷を負っている様子は見えない。確かに彼女の胸に銃弾を撃ち込んだはず。そう思っていたツキヒコには、目の前で起こっている出来事が上手く理解できていなかった。


「まったく。大人しく投降しても死刑って……」


 突然、背後から聞こえてきた囁き声にツキヒコは驚きと共に安堵の感情を抱いた。ツキヒコの周囲は依然として暗く、人の顔は良く見えない。だが、声を聞けば誰がいるのかはすぐにわかる。声の主、それはツキヒコがよく知る人物――シオ・カワスミなのだから。


「今日、はじめてナナカ嬢と話したんだけど、あの人ってなんかすごいわね。想像とは違ったけれど」

「どういうことだよ?」

「訊きたいことはいろいろあるだろうけど、説明は後。ここは時期総統様に任せてさっさと撤収するわよ」


 シオに拘束具を外してもらったツキヒコはすぐに妹のミユと姉のサイカの元へと行こうとした。彼女たちがどこにいるのかわかっていなかったが、彼女たちを求めずにはいられなかったのだ。そんなツキヒコの身体が自由を奪われる。シオに服の袖を掴まれたのだ。


「大丈夫。そっちはタイチに任せてあるから」

「そういうこと」


 丁度いいタイミングでタイチの声が聞こえてくる。そして、それと同時に、ツキヒコの身体に何かがぶつかってきた。痛みはない。不快感もない。あるのは心地良い圧迫感だった。久しぶりに感じたその温もりに思わず涙が出そうになる。


「ツキヒコ――ッ」


 ツキヒコの身体に密着してきたのは妹のミユだった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした顔をツキヒコの胸に穴が開きそうなほど擦りつけてくる。ツキヒコはミユを力いっぱい抱きしめた。言いたいことはたくさんあったが、何も言うことは出来なかった。今はただその温もりを感じていたかった。


「もっと早く来てよ、バカ」


 暗闇に目が慣れてきたせいで密着するほど近くにいなくても言葉を発した人物の姿が見えるようになってくる。


「ごめん。姉貴」


 サイカの瞳からも涙がこぼれていた。大人のサイカはミユよりも多少冷静に見えたが、それでもちょっとしたきっかけで泣き崩れてしまいそうな危うさを感じさせている。ここまでたどり着くのに、この幸せを感じ取るのに、色々なことがあった。当たり前のようにあった現実があっさりと破壊され、すべてが異常へと変化する。ドラマや映画では何度も目にし、現実の仕事でも何度となく関わってきた絶望。それはいつだって自分の傍にあり、簡単に周囲を巻き込んでいく。逃げようとしても逃げられないし、避けようとしても避けられない。飲み込まれ、沈められる。そんなことを実感した一日だった。


「すごく不思議なんだけど」サイカが微笑みながら言う。「今、死んじゃっても後悔しないような気がするわ」


 いつも普通に顔を合わせていた人に、いつも通り顔を合わせる。それがどれだけ幸せでどれだけ尊いものなのか。頭の中では分かっていたそのことを、こころでは感じとれていなかった。泣き笑いの姉の顔を見て、ツキヒコは自分の至らなさを実感していた。おそらく今、感じている幸せも長くは続かないのだろう。早ければ数時間後、遅くても三日後には忘れてしまうのかもしれない。顔を合わせるのが当たり前になって、その当たり前のことに幸せを感じることなんてなくなってしまうのだろう。それは当然のことで、避けることのできない法則のようなものなのかもしれない。しかし、その法則を打ち破る努力はしてみたいと思った。その努力を怠っていたからこそ、妹のミユに避けられるようになってしまったのだ。仕方ない。避けがたい法則だから。そう思い、簡単に諦めていたことが今回の悲劇を招いた根本的な問題だったと痛感した。

 自分の身体を強く縛り付けてくる小さな身体を、優しく抱き寄せるツキヒコ。


「ごめんな、ミユ」

「うん……」

「ごめんな」

「うん……」


 それ以上、ツキヒコとミユは何も言わなかった。ただ、お互いの存在を確かめるように、もともと一つだったものを繋ぎ合わせるように、身体と身体をくっつけていただけだった。


「えっと、こんなこと言いたくないんだけど」抱き合うツキヒコとミユにシオが遠慮がちに口を開いた。「そろそろ、次のシーンに移りたいんだけど」


 シオの言葉に反応したのは、ツキヒコではなく、サイカだった。


「わたしとツキヒコがハグするシーンよね」

「違います」

「じゃあ、シオちゃんとツキヒコ?」

「ば、馬鹿なことを言わないでくださいっ」


 顔を真っ赤にして狼狽するシオを見て、サイカは満足そうに微笑む。そんなサイカの背後にAKを持ったトウシロウの部下が現れたのは一瞬の出来事だった。


「姉貴っ」


 ツキヒコの叫びと共に背後を振り返るサイカ。トウシロウの部下を目の当たりにして再び恐怖の表情を浮かべるが、彼女が襲われることはなかった。ビビ、という音と一瞬の閃光の後、トウシロウの部下が床へ崩れ落ちたのだ。トウシロウの部下の背後から姿を現したのは無表情のままスタンガンを握りしめている少女だった。


「油断大敵」


 青白い光を身体から発しながらそう言ったのはミヅキだった。無表情だが、喜んでいるようにも見える。そんなミヅキの背後にナイフを持ったトウシロウの部下が現れる。だが、ミヅキは後ろを振り返らずに何食わぬ様子でスタンガンをくらわせ相手を無力化した。


「汗臭さで自分の居場所を知らせている人間がわたしに触れることは出来ない。女性の前に現れるなら、穢れた魂を持っていたとしても、清らかな衣服を纏うべき」


 その後、続けて二人のトウシロウの部下がミヅキに襲い掛かったが、いずれも簡単に撃沈される。常人をはるかに超える嗅覚を持つミヅキにとって暗闇はハンデではない。むしろアドバンテージだった。その様子を見てニヤリと笑ったシオは言う。


「さあ、行くわよ。いつまでもこんな埃っぽいところにはいられないわ。事務所で熱いシャワーをあびなくちゃ」


 シオが人差し指を立てて移動を始める。全員がその背中について行った。青白い光に身を包みながらみんなを先導して歩いていたシオが突然立ち止まり、暗闇に向かって銃を発砲した。苦痛の声が聞こえてくる。続けて弾を前方に向かって放つ。またもや苦痛の声が聞こえた。


「暗視スコープを使ってわたしたちを一方的に狙っているつもりかもしれないけど、そう上手くはいかないのが恋と戦闘ってね」


 シオはカテゴリーHのエージェントでしかもランクはA。聴力に秀でた彼女を暗殺するには呼吸音さえ邪魔になる。


「ねえ、おねえさん」ツキヒコに抱きかかえられているミユがシオに声をかける。「恋が上手くいってないの?」

「ぶ――っ」思わず吹き出して倒れこみそうになってしまうシオ。数回咳を繰り返し、何とか体勢と気持ちと整えて返事をする。「ミユちゃんももう少し大きくなったらわかるわ」

「おとなっていつ? チューをけいけんしたら?」

「ち、ちゅっ」


 ミヅキとタイチはそんな二人の様子を楽しそうに見ていた。

 敵のアジトから襲われながら脱出しているというのにまるで緊張感がないな、とツキヒコは呆れてしまう。だが、ツキヒコはこの雰囲気が好きだった。少し前までは妹と姉を失う絶望しか想像できなかった自分がこうして笑っていることを幸せに思ってしまう。これもツキヒコにとっては当たり前だが、いつ壊れてもおかしくはない当たり前だ。大切にしなきゃな。声には出さないが、こころの中でそう誓った。だが、そんな幸せな気持ちは長くは続かない。


「ぐわっ」


 タイチのうめき声が背後から聞こえてきた。そして、


「きゃあああああっ」


 サイカの悲鳴も聞こえてくる。

 緩み切っていた空気が一瞬で緊張する。


 全員が後ろを振り返った。ツキヒコたちの視界の先。薄暗いその場所には背後からトウシロウに拘束されているサイカの姿があった。トウシロウの手にはリボルバー。銃口はサイカのこめかみに吸い付いていた。


「おいおい。ちょっと待てよ。まだゲームは終わってねえぜ」

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