第八話 誰がために

 オクトーバー・フェストを連れて彼女の事務所があった四十階から階段で一階まで下りてきたガクトとツキヒコは、立ち止まってエントランスを慎重に覗き込んだ。息を飲む。先ほどまで誰もいなかったエントランスの中央には二人の男と一人の女がいた。女はシャンデリアの光を浴びながら震えている。AKの銃口が彼女を見据えていたからだ。


「あの女の人はわたしと一緒に捕まった掃除のおばちゃんですね。いつも丁寧に掃除機をかけてくれていましたよ。ちょっと世間話が長いことがたまにきずでしたけど。ええ」オクトーバー・フェストが言った。「どうやら敵はわたしが脱出したことに気が付いたようですね。おそらくあの怖そうな人たちはおばちゃんにわたしの行方を訊いているのでしょう」


 監視していた仲間を殺して逃亡。テロリストからしたらそんな人質を黙って外に出すわけがない。敵が愛する人間を殺したとしても笑いながらポーカーが出来るが、仲間の命が奪われたら身体を震わせて涙を流す。そんな殺人集団は意外と多い。


「あの女性を助けようとは思わなかったんですか?」


 自分の見張り役を倒すことが出来る実力を持っているのだから、おばちゃんだって助けることが可能なはず。そう思ったツキヒコの問いかけに、オクトーバー・フェストは首を傾げる。


「そんなことが出来るわけないじゃないですか。わたしはあのおばちゃんが監禁されていた場所を知らなかったんですから。別々の場所にいたんですよ、わたしたちは。そんなふうに責めないでくださいよ。わたしことオクトーバー・フェストは誰かに馬鹿にされたらすぐに走行中の電車に飛び込んでしまいたくなってしまうほど傷つきやすい性格なんですから。ええ」


 ぐいっと顔を近づけてくるオクトーバー・フェストにツキヒコはたじろいでしまう。


「いや、責めたかったわけじゃないんですけど。すみません」

「そうですか。だったらいいです。まあ、責められても当然なんですけどね。おばちゃんが捕まっていることを知っていながら、彼女を見捨ててこのマンションから脱出しようと思っていたのは事実なんですから。酷いですよ、わたしという女は。まあ、そこがいいと言ってくれる男性も世の中にはいますけどね」


 悪びれた様子を見せずに無邪気に笑うオクトーバー・フェスト。そんな様子を見て、ツキヒコはやはり彼女は堅気の人間ではないのだと再認識した。

 銃を構え、一歩を踏み出そうとするツキヒコ。そんな彼にガクトが言う。


「何をするつもりだ? まさか、あの女性を助けようと思っているんじゃないだろうな?」


 ツキヒコはガクトを見ずに言う。


「相手が二人なら何とかなるかもしれません」

「本気で言っているのか?」

「ええ。もちろんです」


 ツキヒコの言葉を聞いて、ガクトは一呼吸置いてから口を開いた。


「いいか、ヨツバくん。我々の仕事はオクトーバー・フェスト嬢から情報を得ることだ。それ以上でもそれ以下でもない。もしも、今、ここできみがあの女性を救おうとしたら彼らとの戦闘になるだろう。そうなったらオクトーバー・フェスト嬢に危険が迫ることになる。彼女にもしものことがあったらどうするつもりだ?」

「彼女は自分の身は自分で守れますよ。それくらいの処世術は持っています」

「だとしてもだ」ガクトはツキヒコの肩を掴んだ。「オクトーバー・フェスト嬢が必ず無傷でやり過ごせるという保証はない。彼女に万が一のことがあれば重大な情報が得らえない可能性がある。もしもそのせいで、我々の仕事が失敗すれば世界のパワーバランスが変わってしまうかもしれない。その責任をきみが負えるのか?」

「責任って……。そんなことを話している場合じゃないですよ。人命がかかっているんです。責任問題を考えるのは後でもいいじゃないですか」

「我々の仕事にも人命がかかっている。それも一人や二人ではない。それにさっき話したじゃないか。ミマサカ機関は企業だ。慈善事業を行っているわけではない。誰かが対価を払わなければ我々は動かない」

「わかっていますよ。でも、さっきガクトさんも言いましたよね。『銃を突き付けられている人質の前では理屈は通用しない』って」

「きみは自分が何を言っているのかわかっているのか?」

「わかっていますよ。もちろん。あなたはあの女性が殺されてもいいって言うんですか? もしもあの人がガクトさんにとって大切な人だったとしても、仕事だから仕方がないと言って見殺しにするんですか?」

「無論だ」

「あなたって人は……」


 二人の間に沈黙が訪れる。それを破ったのはツキヒコだった。


「だったら、オクトーバー・フェストさんのことはガクトさんにお任せします。ぼくは一人でも彼女を助けに行きますから」


 そう告げたツキヒコがガクトの静止を振り切ってエントランスへ侵入した直後、それは起こった。一発の銃声が鳴る。ツキヒコが救い出そうとしていた女性が頭部を穿たれて、床に崩れ落ちた。


「くそっ」


 怒りに身を任せて銃口を男たちへと向けるツキヒコ。銃声が鳴る。もう一度。女性を殺した二人の男が次々と崩れ落ちた。静まり返るエントランスで銃をおろすツキヒコ。男たちを撃ち殺したのは彼ではない。


「どうして警告もなしに……」


 ツキヒコの問いかけに、ガクトは淡々と答える。


「話をしている間に、やつらがオクトーバー・フェスト嬢を撃つ可能性がある。それを回避しただけだ」


 ツキヒコは悶々とした気持ちに襲われる。確かに自分は無慈悲に女性を殺した男たちを許せない気持ちでいた。だが、ガクトのように簡単に相手の命を奪おうとは思っていなかったのだ。殺された男たちに同情する気持ちはない。しかし、任務を遂行するためにそれを妨害してくるあらゆることを簡単に排除してしまうガクトの気持ちもわからない。


「オクトーバー・フェスト嬢」ガクトが言う。「彼らは一体、何者なんですか?」


 オクトーバー・フェストは首を傾げる。


「わからないんですよ。ええ」

「誰かに狙われる心当たりは?」

「ありすぎて誰の名前から口に出していいのかわかりませんね。データに換算すると三ギガくらいでしょうか。さすがに裏の世界で生きている人間ですから、誰にも怨まれないで生きていると思えるほど幸せな思考回路は持っていませんよ。ええ」

「そうですか」ガクトはツキヒコに顔を向けた。「ヨツバくん。とりあえず彼らの身元を調べておこう。我々の任務に関係があるかもしれない」

「わかりました」

「オクトーバー・フェストさん。あなたはエントランスに入ってこないで物陰に身を隠していてもらいたい」

「了解であります。隊長殿。わたくし、死んだ男に興味はありませんから。ええ」


 言いたいことは山ほどあったが、とりあえず我慢をしてツキヒコはガクトに殺された男たちのもとへ向い、彼らの顔写真をケータイ端末で撮り、データを第一エリアにいるミヅキに送ってデータベースと称号してらった。三分後に返事がくる。答えは『わからない』だ。結果を伝えると、ガクトは驚いた様子を見せずに、そうか、とだけ呟いて倒れている男の傍で膝をついた。彼らの首筋に指をあてて死んでいることを確認してから、ナイフを取り出して彼らの親指を切り取りハンカチで包む。


「とりあえず、これを持って行こう」


 そうガクトが口に出した瞬間だった。

 一発の銃弾がガクトの右肩を突き抜ける。

 ガクトは悲鳴を上げなかった。

 その代りとでも言うように、傷口から赤い液体が流れ落ちる。


 ツキヒコは即座に銃を構えて銃弾が飛んできたエントランスのカウンターに向けて銃を撃ち返した。


「ガクトさんっ」


 近づこうとするツキヒコを左手で銃を操っているガクトは静止する。


「来るな。どうやら不味い状況らしい」


 敵はツキヒコたちにゆっくり会話をする余裕を与えない。次々と銃弾が襲い掛かってくる。ツキヒコはガクトに撃ち殺された男を壁にして周囲に目を向けた。いつの間にかエントランスのカウンターやトイレの周囲などに数十人の武装した男たちが湧いている。どうやら目の前で死んでいる男たちの仲間らしい。元々、隠れていたのか、ガクトの銃声を聞いて集まってきたのかわからないが、確実にわかっていることがある。この戦闘の原因を作ったのは自分だということだ。


「ヨツバくん」ガクトは息を切らしながら言う。「オクトーバー・フェスト嬢を連れて逃げるんだ。それとこれを持って行け。手がかりになるかもしれない」


 ガクトはハンカチに包まれた死んだ男の親指をツキヒコに投げた。受け取ったツキヒコの姿を確認して、ガクトは珍しく声を荒げる。


「早く行けっ。相手がこれだけとは限らないっ」


 ガクトの右腿を銃弾が突き抜ける。真紅の血が床に広がった。


「くそっ」


 銃で応戦しながらオクトーバー・フェストが隠れている階段付近まで駆けるツキヒコ。


「必ず、応援を呼びますっ」


 その言葉が無意味になることをツキヒコはすぐに思い知らされる。ガクトの頭部が打ち抜かれ、力なく床に崩れ落ちた姿を目撃してしまったからだ。映画のワンシーンかと思ったその出来事はまぎれもない現実だった。吹き出した鮮血が、二十一グラムの重さを失った身体が、痺れの混じった胸の痛みが、虚構ではありえない衝撃をツキヒコに与えてきた。


「く――っ」


 銃弾の嵐をかわしつつ、ツキヒコはオクトーバー・フェストを連れて階段に突入し、地下まで逃げ、急いで外に止めてあった空中車エアカーに乗り込んでアクセルを踏んだ。急発進した空中車エアカーを追ってくるものはいない。無我夢中で高層マンションの敷地を離れたツキヒコは路肩に空中車エアカーを停めて深呼吸をする。


「大丈夫ですか? エージェント・ツキヒコ」


 助手席に座っているオクトーバー・フェストがツキヒコの顔を覗き込む。ツキヒコは額に流れている汗を拭ってから大丈夫だと答えた。本来、守るべき対象であるオクトーバー・フェストに心配をされる自分が情けなかった。もう一度、深呼吸をして頭を切り替えると、ケータイを取り出して電話をかけた。


『ツキヒコ。そっちはどんな状況? 敵の身元がわかりそうなものはあった?』


 数十人の敵と交戦したことを知らないシオはツキヒコを送り出した時と変わらない様子で話しかけてくる。その声が、ツキヒコにわずかだが冷静さを取り戻させてくれた。


「とりあえず、敵の指を持っていくよ。それで身元がわかればいいんだけど。オクトーバー・フェストさんは隣にいる」

『そう。それはよかったわ』

「ただ……」

『ただ、どうしたの?』


 ツキヒコはすぐに最も大切なことを報告することが出来なかった。言うべきことはわかっている。だが、言葉が注射を嫌う子供のように口から出ることを拒否している。目で見たことを報告する。それが現実を決定付けるようで嫌だった。大切な人の死を見るのと、誰かにそれを報告するのとでは、行為の重みが違う。見るだけならばそれを受け入れないという選択が出来る。個人だけの問題だからだ。だが、報告は違う。相手が必ずいる。それは自分の世界だけでものごとを片付けられないことを意味する。


『大丈夫?』


 心配気に声をかけてくれるシオの言葉は嬉しかった。自分は誰かに慰めて欲しいのだ。ツキヒコはそう感じていた。だが、いつまでもこのままでいられるわけがないこともわかっている。自分は逃げるわけにはいかない。責任を取るためには前に進まなければならない。ツキヒコはこころを決めた。まるで一週間ぶりに誰かと話すみたいに声は出しにくかったが、なんとか報告をすることが出来た。


「オクトーバー・フェストさんを襲った犯人たちと交戦になって――ガクトさんが殺された」

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