第五話 『先生』
ツキヒコ・ヨツバとガクト・シブタニの二人は第一エリアのSUV型の
ツキヒコは流れていく人の中に妹のミユの姿を捜してしまう。電話が出来なかったせいで、姉と妹が家にいないかもしれないという不安を拭いきれていないのだ。爆破が起きたマンションやオクトーバー・フェストの状態について気にならないことはないが、夏が春を追い出すようにもともとあった懸念が別の懸念にとってかわるわけではない。懸念は共存するだけだ。払拭されない限りは。
着信履歴があるはずなのに姉からの反応がない。そのことがツキヒコの想像をネガティブなものへと誘っていく。ツキヒコが見ている夜の街には幻としてさえミユの姿が現れることはなかった。その結果に安堵よりも不安が強くなる。この目でミユを確認する。あるいはこの耳でミユを感じる。ツキヒコのこころに安寧をもたらす方法はその二つのどちらかしかない。
一度話がしてみたい。そうツキヒコに告げたガクトが話題を振ってきたのは、彼が運転を始めてから五分ほどたった頃だった。ツキヒコは気持ちを強引に切り替えて耳を傾ける。
「ヨツバくん。突然だが、きみがミマサカ機関に入るきっかけになった事件のことを訊いてもいいか? もちろん無理にとは言わないが」
ツキヒコがミマサカ機関に入るきっかけになった事件。それはクリスマス・イヴの三日前に発生した人質立てこもり事件のことだ。テロ組織のメンバーがファミリーレストランで起こしたその事件がきっかけでツキヒコは能力に目覚ることになり、ミマサカ機関のエージェントとして働くことになった。
「構いませんよ」ツキヒコは運転席に顔を向けた。「いい思い出ではないですけど、若き日の失態みたいにこころの奥に封印しておきたいものでもありませんし。でも、なんでそんなことを訊きたいんですか? それにどうしてぼくがあの事件の関係者であることを知っているんですか?」
ツキヒコの問いにガクトは前を向いたまま答える。
「質問したいのはわたしなんだがな」
「あ、すみません」
「いや、いいんだ。怒っているわけじゃない。きみがそれを知りたいのは当然だろうし、きみのプライベートを訊こうというのだから、先にそれを知りたい理由を話すのが礼儀と言うものだな」
ガクトは交差点でハンドルを切ってから言った。
「二番目の質問から答えよう。なぜきみがあの事件の関係者であることを知っているのかだが、それはわたしがあの事件に関わっていたからだ。当時、わたしはサカエ支部長の部下として第一支部で働いていた。きみは覚えていないだろうが、わたしはきみを覚えている」
「なるほど。そういうことでしたか。納得です」
「で、一つ目の質問。どうして事件のことを訊きたいのかだが、それはあの事件がまだ終わっていないからだ。きみも知っているように実行犯は全員死亡した。だが、彼らを動かしていた黒幕がまだ捕まっていない」
「『先生』……ですか」
「そうだ。わたしは奴を追っている。ライフワークと言ってもいい」
『先生』。それはさまざまな事件を裏で操っていると言われている人物で、捜査員や犯罪者など裏の世界に少しでも通じている人物ならば誰もが一度は聞いたことのある名前だった。もちろんミマサカ機関や警察でも『先生』を追っている。性別や年齢は不明。容姿に至ってはモデル風の美人だとか末期がん患者のように痩せている老人だとか様々な証言があるが、どれが本当の姿なのか誰にもわからなかった。そもそも本当に存在しているのか。一人なのか、複数人いるのか。組織なのか、スタンドアローンなのか。それすらもわかっていない。
「ヨツバくん。きみがあの事件で人生を変えたように、わたしもあの事件で人生を変えた。このままでは納得がいかないから自分なりの決着をつけなければならないと思っている。だから、きみにあの事件のことを訊きたいんだ」
当時の事件を未だに追っているエージェントがいる。そのことにツキヒコは驚きを見せなかった。『先生』を追っているエージェントは常にいる。それがミマサカ機関の方針だ。『先生』がかかわった事件を調べるエージェントがいてもおかしくはない。ツキヒコはどうかというと、彼がクリスマス・イヴの事件を洗い直して『先生』を追うということはなかった。ツキヒコにとってあの事件は終わったものだった。そして終わったもを蒸し返す気はなかった。
ガクトとツキヒコ。二人が今までやってきたことは正反対だった。ガクトは事件の真相へ向って突き進もうとしているが、ツキヒコは止まったままだ。いや、止まったと言うよりは、降りたと表現する方が正しい。ツキヒコにとってクリスマス・イヴの事件は生還した遭難者のように自分が救出された時点で終わっている。目指すべき目的地はもうない。安全な場所にたどり着ければそれでいいのだ。あの事件の裏で本当は何が行われていたのか。ツキヒコはそのような陰謀論に近い問題に触れるつもりはなかった。そもそも『先生』が本当にいるのかどうかすら定かではないのに。
しかし、本当にこのまま何も考えないでいいのだろうか。そんな思いが湧き上がってくるのをツキヒコは感じた。わずかだが、ガクトの意志の火の粉が自分に燃え移ったのかもしれないと思った。自分は本当にあの事件に興味を持っていないのだろうか。興味を持ちたくはないだけではないのだろうか。もしかしたら『先生』について調べてみてもいいのかもしれない。それに価値があるかどうかは別として、そんな気がしていた。科学者はまだ発見されていない物質を仮説として存在させる。そのプロセスが正しいことは結果が証明している。
「わかりました」ツキヒコは言った。「ぼくに出来ることなら協力しますよ。それで、何を訊きたいんですか?」
ガクトはわずかに口元を緩めた。彼が硬い表情を崩した姿をツキヒコは初めて見た。
「事件の経緯や概要は関係者であったわたしは知っている。だから、訊きたいのはそこじゃない。その場、しかもとりわけ事件の中心部にいたきみの気持ちや考えを知りたいんだ。あの場にいて、何か気が付いたことはなかったか? 些細なことでもいい」
「そう言われましても……」
「たとえば、推理小説を考えてみてくれ。推理小説に出てくる探偵は推理を行う上で二つのことを考えている。一つは『あるはずのものがない』。もう一つは『ないはずのものがある』。その視点で考えるとどうだろう。あの事件の現場に『あるはずのものがない』、あるいは『ないはずのものがある』ということはなかったか?」
ガクトの助言に従いながらツキヒコは当時のことを思い出してみる。すると、一つの違和感のようなものがこみ上げてきた。
「そういえば」ツキヒコは記憶をたどりながら言う。「ミマサカ機関のエージェントにぼくは助けられたわけですけど、正確に言えば、ぼくは助けられたわけじゃないんですよ。彼らはぼくを助けに来たんじゃない。迎えに来ただけなんですよ。保育園に一人ぼっちでとりのこされた子供を迎えに来るみたいに。あの日、その……こんなことを自慢げに言うべきじゃありませんけど、ぼくは自分の手で彼らを始末したんですから。でも、それってちょっとおかしい気がするんですよね。だって、ぼくが事件に巻き込まれてから能力が覚醒するまで三日間は経っているんですよ。その間に、ミマサカ機関のエージェントや警察が現場に突入してこないのは明らかに変ですよね。もしかしたら何か事情があったのかもしれませんけど、無駄なお役所仕事がないスピード解決が売りのミマサカ機関らしくありませんし」
「その件についてだが」ガクトが言う。「当時、我々には待機命令が出されていた。迂闊に突入すれば人質の命が危ないとの判断でな。だが、わたしもその件には違和感を覚えている。あの時、確かに何かがおかしかった。人質の命が重要だと考えるのは当然だが、それにしても上層部の判断は消極的過ぎた。いや、消極的というよりは混乱に近いな。当時、現場と本部間の連絡がかみ合っていなかったんだ。だから、突入に三日もかかってしまった」
「混乱、ですか」
「はじめ、現場にはすぐに突入するよう指示が出されていた。もちろんリスクはあったが、こちらには優秀なエージェントがそろっていたから大きな問題は起らないという判断だ。盲腸の手術と同じ理屈だ。リスクはあるが、メリットの方が大きい。だが、突入の直前になって待機が命じられた。命じたのは本部だ。その後は、突入や待機の命令が繰り返されて結局は動けなくなるという事態に陥ったというわけだが」
「そんなことが……」
「きみたち人質になった犠牲者には申し訳ないことをしたと思っている。本当にすまない」
「いえ、それは別にいいんですけど。ミマサカ機関に入る前のぼくだったら、今の話を聞いて激怒していたかもしれませんけど、今はいろいろと事情もわかりますし」
「そう言ってもらえると助かる」
「それにこんなことを言うと教科書的でつまらないですけど憎むべきは犯罪者ですから。あと、もしかしたらぼくはこの手で彼らを始末してしまったから、一人だけ他の犠牲者の方とは違った感情を抱いてしまうのかもしれませんね」
ツキヒコの考えを聞いて、ガクトは息を吐いた。
「そうは言っても、その感情は気持ちの良いものじゃないだろう。だったらきみは他の犠牲者以上に辛い思いをしたんじゃないのか?」
ガクトの意外な言葉にツキヒコは息を飲んでしまう。それから少し間を開けてからこう言った。
「そんな漫画の主人公みたいな不幸設定はありませんよ。大丈夫です」
事件後、ツキヒコの気持ちをここまでくんでくれたのは彼をミマサカ機関に誘ったサカエ以来、二人目だった。そしてガクトの言葉はツキヒコにある気付きを与えてくれる。なぜ自分が今まで事件に興味を持てなかったのかの答えである。本当ははじめからわかっていたはずの答え。それを受け入れることが出来たのは経過した時間とガクトのおかげだった。
ツキヒコの中でガクトへの信頼が高まっていく。はじめはとっつきにくい人だと思っていたが、キリエの言うようにこの第一エリアのリーダーは悪い人間ではないのだと思えてくる。感情だってしっかりとある。だからこそ、ガクトの部下であるトウシロウはミヅキにリーダーを馬鹿にされたと感じてあれだけ怒りをあらわにしたのだろう。
「ああ、そういえばもう一つ変な事がありました。犯人たちはやけにぼくを意識していたんですよ」
「意識?」
「はい。人質はぼくを含めて十人いました。その中で手足を拘束されなかったのはぼくだけです。それにコミュニケーションをとっていたのもほとんどがぼくでした。犯人たちはゲームだと言っていましたけど、ぼくがゲームのプレイヤーに選ばれた理由はわかりません。たまたまだとは思いますけど」
「きみが一人だけ拘束されていなかったことは知っている。そして、その理由をきみがわからなかったことも。当時の記録に残っているからな。だが、その時にはわからなかったものが後になってわかるようになることもある。今現在のきみの考えはどうだ? 自分が特別扱いを受けた理由を思いつくか?」
ツキヒコはあらためて自分が犯人に意識される理由を考えてみた。だが、ピンとくるものがない。
「すみません。やっぱりわかりません」
「そうか」
ガクトの返事を合図に
「話を変えよう。きみは『先生』らしき人物の姿は見たのか?」
「いえ。見ていません。彼らが外と連絡を取っている様子はありましたから、その相手が『先生』だったのかもしれませんけど」
「声は聞いたか?」
「いえ。もちろん顔もわかりません」
「わかった。ありがとう」
ガクトが軽く頷き、再び
「さてと。もう少し話をしたいところが、先に仕事を済ませてしまおう。続きはまた今度だ」
重力素子エンジンを止めて地面に身体を降ろした
「お疲れ様です、ガクトさん」
男は隣にいたツキヒコにも軽く頭を下げてから言った。
「現在、犯人たちが建物内に立てこもり人質を取っています。人質の人数はマンションの住人全員といったところですかね。具体的な数字はまだわかりませんが、最悪三百から四百人くらいにはなるかもしれません。犯人の要求は服役中の仲間の釈放です。現在は警察が事件に対応しています。ミマサカ機関への依頼や協力要請はまだありません」
「犯人の詳細は?」
「まだ確定していません。AKで武装していることからどこかのテロ組織だとは思いますが」
「人質の中にオクトーバー・フェストはいるのか?」
「わかりません」
男から視線を外したガクトはツキヒコに顔を向ける。
「どうやら行ってみるしかなさそうだな」
「そうですね」
うなずくツキヒコに、ガクトは念を押す。その瞳には先ほどまでの穏やかな雰囲気はなかった。
「わかっていると思うが、我々の任務は人質の救出や犯人の確保ではない」
「そうですね。わかっています」
ガクトの言葉に、ツキヒコは台本を読むように答える。
ミマサカ機関にとって重要なのはオクトーバー・フェストだけである。
ツキヒコはその意味をなるべく考えないようにしていた。
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