21.
そのあと、三十分くらいで、医者が来て鎮痛剤と消炎剤を打って絶対安静を言い渡して帰っていった。千香に包帯を巻き直してもらう。
「うっ」
ちょっとしたことがすごく痛む。本来なら、病院での治療が望ましい中での診療だったので、医者はあまり好ましい雰囲気ではなかった。もちろん千香もだ。
少ししたら、鎮痛剤が効いてきたのか、痛みが和らいだので眠りに落ちた。ほぼ徹夜だった上にこの重傷。泥のような眠りだったと思う。起きたら、夕陽が目に温かかった。
「う。僕は何時間寝てたんだ?」
「半日よ」
千香が物凄く不満そうな口調で教えてくれた。
「なにか、変わったことは?」
「わたしの有給がまた一日減ったことくらいのことしかないわ」
「そう。あと、有給は何日あるの?」
「まだ、一週間分くらいはあるけど……」
「じゃあ、あと三日待って」
「三日後に犯人は捕まるの?」
「どういう結末を向かえるのかは、わからない。でも、流羽は満月まで待ってと言った。だから、満月の夜にはなにかあるんだと思う」
「そう」
「ごめんよ。僕に出来ることは、昼間の君の警護くらいだ。だから、申し訳ないけど、三日間は休憩に当てたいと思う」
「いいわ。好きにして。わたしも命は惜しいし、無茶を言ったらあなたたちは無理するだろうし」
ため息混じりに千香は了承してくれた。
動くと、激痛が走る。だけど、動けない訳じゃない。リヴィングにどうにかこうにか移動して、医者の置いていった薬を飲む。
次に、携帯電話を取りだして電話をかけた。ヒマリアにお礼を言うためだ。だけど、圏外になっており、通じなかった。もしかしたら、陽の出ている間は行動できないのかもしれない。彼女もまた吸血鬼なのだ。
そこで千香がコーヒーを入れてくれた。そこで、もういつからかわからないが、長いこと緊張から解放されていなかったかのように感じる。久しぶりに一息ついたという感じだ。
「ふう。うまいなぁ」
「なぁに、急に?」
「いや、こんなにコーヒーって旨いものだったかなと」
「ただのインスタントよ?」
「そうなんだ」
なんというか、生きているって素晴らしいことなんじゃないか。そんな気さえしてくる。ときには、泥水の方がマシに感じることがあるくらいのただのコーヒーなのに。
でも、確かなのは死んでいたらこの場にはいないということだ。もう一度この泥水もどきを啜れるのも、生きているおかげ。
そう。死んだら終わりなのだ。理不尽に殺されていった人たちがいる。戦争とか粛正とかそんな大げさなものではなく、ただ道を歩いていたら襲われたという人たちが。やはり、権堂のしたことは例え、一種の病気みたいなものでも放置は出来ない。許すなんてことは到底不可能だ。
理不尽な死を迎えた人たちの仇を討てる職業に就いている。今回の気持ちの発端は、千香が襲われたことによる私怨であった。だけど、今は理不尽に対して怒りの気持ちがある。やるせなさも。
だけど、ここは恨みを持つのは、権堂に対してではなく、罪に対してだと槐は言った。すごく難しい。だから、身内の事件ではよく捜査から外されるという話を耳にするのだろう。流羽も鑑識においてだろうが、感情を動かすなと言っていた。それは、今回の様なときにも当てはまるような気がする。
コーヒーをもう一口啜った。体が温まる。生きている証。血が流れているということ。
太陽が後ろ髪を引かれるようにして、長い影だけを残して沈んでいった。時間は、七時半。夏の醍醐味とも言える日の長さ。それは、きっと流羽やヒマリアにとっては快いことじゃないだろう。
相葉は、もう一度ヒマリアに電話をかけてみようとして、思いとどまる。どうせなら、会議が終わった後の方がいろいろ楽だ。今日の情報が入るし、自分たちの面倒な状況の説明も少なくとも今日の会議には入らない。
「千香、今日のご飯どうしようか?」
「うーん、今から外出るのも怖いし、ピザでも注文するとかは?」
「ピザか。いいいね。たまに無性に食べたくなるから不思議だよね」
「どこにする? ピザキャップ?」
「うん、いいよ」
特にピザにこだわりはない。なので、あまり詳しくない。ピザキャップと、ピザラーの違いも正直覚えていない。
「味はなににする?」
「なんか、チラシみたいのないの?」
「はい」
千香が、新聞の折り込みを見せてくれた。
「準備がいいね」
「たまたま、今日の新聞に入ってたのよ」
「じゃあ、この四種類の味がばらばらなのにしようよ」
「わかった。じゃあ、電話するね」
千香がそう言って、背中を向ける。なにかこう、形容しがたい幸福感がこみ上げてきていた。また、千香と日常を過ごせている。腕も、脇も痛むが些細なことだ。これに比べれば。払った代償は安くないが決して高くもない。腕は繋がっているし、内臓も無事だ。
後は、これを機によりを戻せれば文句の付けようもない。相葉としては今回の騒動でかなり自分への理解が進んだと思っている。だから、きっとうまくいく。そう信じていた。
三十分もしないうちに、ピザはやってきた。それを千香と二人で食べる。ピザもおいしいのだが、やはり千香との食事に喜びを感じてしまう。思わず、頬が緩む。
「なに、にやにやして」
「いや、ごめん。ピザがおいしいなぁって」
「確かに、おいしいわね。でも、それだけじゃないでしょ」
的確に見抜かれる相葉の内面。そこすらもまた心地よい。
「まあね。ゆっくりと食事を摂れたのは久しぶりだなって」
千香と一緒の頃でも難しかったことだ。それがどうだ。別れた後の方が一緒にいる確率が高いとは。世界の厳しさも大概にして欲しいものだ。
「そういえばそうかもね」
「日常がこんなに尊いものだなんて、昔の人は嘘をつかないね」
「まだ日常ではないわよ」
「そうか。そうだね」
まだ残っている権堂との件。それを早々に片付けてしまいたい。だけど、それを片付けてしまえば千香との日々にも終止符が打たれる。
二人を裂いたのは、警察という仕事。二人を再び同じ卓につかせたのは事件。因果なものだ。
とりとめもない会話をしながら、二人はピザを食べ終える。本当に、こんな時間が過ごせるなんて夢のようだと思った。お腹を落ちつかせて、千香が入れてくれたお茶を飲みながらまた話をする。
本来ならテレビでも見られるといいのだが、この部屋にはテレビがなかった。それはそれでまた一興だ。大事なのは、二人でいる時間。共有していることなのだから。
そして、時計が九時半になった頃、ちょうど会話が途切れる。流羽は、棺おけから出てこない。心配だったが、放り込んだときの様子からして大丈夫だろう。
相葉は、ヒマリアに電話をかけることにした。
『はい、鶴木です』
「あ、こんばんは。相葉です」
『おー、どうだった?』
「ぎりぎりでした。流羽はかなり危なかったですけどなんとか、助かりました。ありがとうございます」
『それは私の力じゃないよ。相葉くんの力だよ』
「でも、場所を教えていただかなければ、なにもできませんでした」
『そういうことはそんなに大事じゃないんだよ。ミネルバちゃんを正しく理解していたからとれた行動だったんだから』
確かに、無茶のしどきを読み取れたのはそういうことなのかもしれない。
「はい」
『ミネルバちゃんのことを正しく理解して、その上でダメと言える人じゃなくっちゃ出来ないことだよ。うん、いい相棒をミネルバちゃんも持ったね』
「はい、ありがとうございます。ああ、あと、吸血鬼の増え方というのを教えていただけませんか?」
『なあに? 藪から棒に。あ、相葉くん、ミネルバちゃんに血を飲ませたの?』
「はい」
『そっかそっか』
やけに嬉しそうな、ヒマリアの弾んだ声。
『吸血鬼に血を与えるのは、よほどの信頼がなくちゃできないことだと思うんだ。まあ、安心しなさいな。吸血鬼は血を与えることで増える生き物だから。吸われたくらいじゃ増えないよ。でも、血を吸うために口をつけるというのは、その気があればミネルバちゃんは相葉くんを吸血鬼に出来たってことだからね。なんて、いらない講釈か』
そういわれると、自分は動転して結構なことをしていたと思う。肝が冷える思いだった。でも、流羽なら信頼できると思っている自分もいる。
「いえ、ありがとうございました。ところで、今日の会議はどんな感じでした?」
『会議? うん、まあ射殺の方針を固めて、また今日もパトロールという話』
「そうですか。重ね重ねありがとうございます。では、失礼します」
『お大事にね』
「はい」
そう返事して、電話を切った。
「ふう」
椅子に深く腰をかけた。いろんなものが払拭できた気がする。どっと汗が噴き出した。
「大丈夫? 怪我が痛むの?」
「え? いや、痛いけどそんなに堪えてるわけじゃないよ」
「でも、すごい汗よ?」
「うん、まあ。いろいろと危険な橋を渡っているなあと思ってね。安心しただけさ」
「そう?」
「うん」
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