第15話 悲しみの彼方
遂に自宅にローン会社からローンの権利喪失と競売の内容証明が送られてきた。この件を銀行に告げると支店長が激高した。
「柴田社長これは銀行に対して裏切りじゃないですか。
ローンを納めてこそ担保価値がある、競売掛かったら当行の担保は無価値だ」
「支店長、無理言わないで下さいよ。毎月幾ら返済しているか判っているでしょ、返済の他ローンは無理ですよ」
「・・・・・・・」この返答に反論できず支店長が口をヘの字に結び絶句した。
暫く沈黙が続いたが、凍てついた空気を壊すように次長がマンションの件で口を挟んできた。
「マンションも同じですか」
「勿論マンションのローン返せる金が有れば借金を優先します」
「そうですか、一寸調査しておいたのですが社長がお持ちのマンション、駅の改修で環境整備がすすみ、周辺価格が急激に上がってます。ざっとですが購入時より500万位上昇してると思います。今売却しても頭金と合わせれば1000万円以上返済に廻せます」次長が予め下調べを済ませておいたようで売却を迫ってきた。
純一は闘病中のミユキを悩ませたくない、よけいな心配をかけたくなかった。
銀行にはミユキの病状を伏せていたが止むなく説明せざるを得なくなった。
「そうですか実は一寸問題が有って・・・星野君が癌を再発させてしまいました。少し時間が欲しいのですが」
次長が皮肉を込めたニヒルな含み笑いを浮かべ言った。
「社長良かったじゃないですか。気兼ね要らなくなって面倒が省けるでしょう」
余りの無神経さに一瞬言語が解析不能に陥った。
次の瞬間激情が神経をブツンと切断し、思惑より先に拳が次長の顔面を捉え、黒縁の眼鏡が弾け飛んだ。
テーブル越しに乗りだした身体を支店長が必死で押さえたが、次の拳も顎を捉えた。
「お前ら人間か。そんなに金が大事か。人の命は金より価値がないのか」
「社長、落ちついて暴力は良くない」
支店長が必死で制止した。
純一は仁王立ちになり拳を握りしめて息をゼイゼイさせて睨みつけていた。
次長は突然の事態に訳も判らず狼狽えていた。支店長が取り繕うように言った。
「社長我々は少しでも社長の会社がスムーズに復活できるように願って応援してきたのです。
悪意で言った訳じゃない誤解しないで下さい」
「人が死ぬのに気兼ねしなくていい。それがどんな応援だ」
純一は此処まで準備した計画が吹き飛んでも構わないとおもった。それ程怒りが込み上げ収まりが付かなかった。
自宅の競売日と最低競落金額が4500万円に決定した。
純一は知人の山口氏を任意購入者に仕立て4800万円で購入したい人がいると銀行に打診した。
費用は全て純一が準備し山口氏の名義でローンを組み、そこで抵当を抜き妻の名義で買い戻せば銀行との関わりが断ち切れる。
その為にローン返済を止め頭金を他の銀行に溜込み準備していた。
しかしマンションは売却を了承させられて、引渡しは3ヶ月引き伸ばせたがそれが限界だった。
純一はミユキにマンション明け渡しの事情説明をしなければならない。
賃貸での部屋探しと引っ越しが必要で相談も気兼ねしたトーンにならざるを得なかった。
「ミユキ相談が有るのだけど」
「どうしたの、怖い顔して」
「いやー怖いかな」
「ちょっと。目が真面目」
「いやーそうかな。実は、俺に計画が有るから心配要らないけどマンションの買手、銀行が連れてきてさ」
「なんだそんな事。純一さん、奥さんのところに帰って上げて」純一はいきなり負い目の心境を弾き返され驚いた。
「えっ何、突然何故」
「純一さん、ご自宅は維持したいの解っていたわ。このマンションのローン止めたのもその為でしょ」
嫌みも無くサラリと言い切られ、家族を優先した後ろめたさをモロ突きされた心境になった。
「違うよ、自宅もローン止めてた。銀行に担保取られてちゃ抵当が抜けないし真沙羅の物件探す積もりだった。
黙っていてご免心配掛けたくなかったのだ」
「でもいいのこの状況じゃいつ明け渡すか時間の問題だと思ってた」呆れる程明るい表情で言い切られた。
「次の準備は出来ている。チャンとするから安心して」
「いいの、純一さんの負担になりたくないから」
ミユキは純一の負担を避け、尽くす事に何の反対給付を求めない、根本的に対価と言う概念が無い。
「なんで此れ程尽くしてくれたのにちゃんとするって」
「いいの、こうして生きて来られたのも今迄奥さんが許してくれて、純一さんと居られたから、本心から感謝しているの。
実は奥さんと約束したの、純一さんを必ず返しますって」
簡単にぶつけられたその言葉に一瞬たじろいだ。
「えっ、本当かよ。直接会ったの」
「ご免なさい。実は純一さんに黙って電話したの」
「驚かすなよ。俺だけ何も知らないで怖いな。一体何を話したの」
「このままじゃ済まないしチャンと決めておこうと思って連絡したの。でも以前純一さんのご家族がレストランから出てくるとき私が隠れていたの奥さん知ってたみたい」
「女って怖いな。あの晩お互いが認識していたなんて想像もつかないよ」
その状況の経緯が気になったがこの手の話しは妙に聞き出しにくい。しかし、その先をミユキがしんみりした口調で語り始めた。
「穏やかに意見されたわ。貴女の人生もっと大切にしなさいって。チャンと結婚が出きる相手を選びなさい。
それから誰からも恨まれない人生を送りなさいって。必ず純一さんをお返ししますから少し猶予を下さいってお願いしたの。それは私に判りましたとは言えません、貴女が考えて結論をだすしか有りませんよって言われた。
奥さんにとても勝てないわ、冷静で粘り強くて凄い人だと思った。だから純一さんの為にも奥さんに返そうと思ったの」
「待ってよ。俺は物じゃないよ。それより一体ミユキどうする積もり」
「松谷さん離婚出来たらしいの。結婚を真剣に考えて見ようと思ってる。私も何処まで生きられるか判らないけど人並みの幸せを感じてみたい。今迄純一さんに本気で尽くしてきて、いえ恩義せがましく言っている訳じゃないの。
本当に尽くしたい気持ちだったからそうしてきた。会社のピンチの時も一緒に頑張れるのが楽しかったし、少しでも役立てるのは嬉しかった。でも今度は私を自由にして」
その言葉はずしりとした重量感を湛え、純一の気持ちに覆いかかった。
今迄ミユキは純一の復活の為に献身的に貢献をしてきた。
もしミユキが居なければ現状の復活はおぼつかない。
ミユキは最も輝かしい青春期を純一の為に費やして何一つ自分の幸せを手にしてない。
純一がその事に初めて気付いて自責の念に駆られた。
そして此れ程濃密度の2人の間をいつ松谷と接触を持ったか、イツも驚かされ、その挙動はいつも謎だ。
過去幾度も苦しまされてきた事だが今は何故か許せる。むしろミユキが望むならそれを叶えて上げたいと思った。
それは決して愛情が薄まった訳では無くむしろ深さを増した結果がそうした心境に導いた。
しかしそれはミユキから教えられた事柄でもあった。
自由闊達に飛び跳ねているようでいて、いつも大きな度量で包み込む懐の広さを自然と教示され、沈着に見る心を教えられた気がしていた。
「そうだねミユキの人生これからが本番だね。きっと良い家庭が作れるよ。今までひた向きに頑張ってきたし、幸せになる権利が有るよ」
「有り難う。私が結婚しても純一さんの仕事は手伝う積もり。別れる気持ちは全く無いの」
「そうして欲しい。仕事は別にして結婚してもミユキがいつも見られる位置にいたい。いつでも応援させて」
「純一さんお願い私を娘として一生見守っていて。結婚しても私の骨は純一さんのお墓に入れて欲しい」
結婚しても純一の墓に入る、矛盾だらけの内容だが希望は何でも受入れたいと思った。
「判った、ミユキの人格は僕が一番認めている。父親替わりになって、いつでもミユキの味方でいるよ」
「有り難う」ミユキはいつもそれに拘った。一途の望みだったのか嬉しそうな表情が忍びなかった。
「結婚式はいつの予定」
「未だ、決めて無い」
「決ったら。俺が父親役で出席するよ」
「有り難う、そうして欲しい」
余命半年の死刑通告を受け既に8ヶ月が過ぎ、告知をクリア出来ていた。
純一だけが告げられた余命6ヶ月はひたすら経過を意識し、それさえ我慢できれば違う人生が待ち受けている。
人は勝手な思い込みで生きる術を探そうとする。
この状況で身体が完璧に回復し結婚が出来て人並みの幸せが得られる希望が湧いてきた。
そうした錯覚に陥りだしていた。そんなある日、いつもの抗がん剤治療の週が来て入院し翌週その病院の看護婦から純一に連絡が入った。
「実は奥様の容体が急変しました。一度病院に来て下さい」
「えっ、何か起きたのですか」最近の順調な経過に気持ちが上向いていただけに看護婦の押さえた気遣いのトーンが気になった。
言い知れない不安を抱え仕事中病院に足を回した。
病室に着くと、ミユキが一際窶れ一周り小さく見えた。
「ミユキどうした」
「仕事中ご免ね」ぽそりと力なく笑って目を閉じた。
「気にするなよ、通り道さ、ミユキに喝入れてもらいにきたのさ」
「ご免んね、お仕事手伝えなくて」
「そんなこと気にするな。それよりミユキ、元気になって結婚式も真直だよ」
「うん、少し時間頂戴」
「いいよ、慌てなくて。待っているから」
暫く見舞ってナースステーションに挨拶に往くと看護婦に呼び止められ担当医診療室に案内された。
そこで担当医が重々しく口角を開いた。
「奥様はよく頑張って此処まで来られました。奥さんは人一倍元気な方で細胞の修復が早いのですがその分癌細胞も強いのです。
既に肺に転移してしまいました」
「えっ、それって・・・・・」
「はい、残念ですが、最終局面です」
「えっ、まさか・・・・・」言葉が咽に粘って息苦しくなった。
(これから人生最大のイベントが残っている)
内縁の夫が最愛の妻の結婚に前向きでもおかしな事じゃない。そんな愛のカタチも世の中に有ってもいい。
開き直って結婚式の希望を口にした。
「実はある人と結婚が決ったのです。ミユキの希望を何とか叶えてあげたいのですが」
医者は暫く考えていたが
「今の状況では体力が持つか不安ですが、頑張ってみます」
ある日純一は大きな白い箱を病室に持ち込んだ。
「ミユキ今日は俺が親爺としてミユキに素敵なプレゼントを用意してきたよ」
日増しに元気を失い窶れてくミユキが精一杯の笑顔で迎え入れた。
「嬉しい、何かしら」
純一はその白い大きな箱のリボンを解き蓋を開け純白のウエディングドレスを取りだした。
「えっ、まさか、純一さん・・・・」
「ミユキに似合いそうなウエディングドレス探し捲った。父親なら当然だよ」
純一はメールや本で熱心に業者を調べウエディングドレスを注文していた。
「こんな素敵なドレス、私には勿体無い」
「ミユキならきっと似合うよ」
ベッドから半身を起し胸に宛てがわせると嬉しそうな笑顔を浮かべ、眉をひそめ済まなそうに小声で言った。
「ご免なさい。私、嘘ついていたの・・・、松谷さんとも何も無いし、純一さんを私から自由にしてあげたくて。嘘ついてた」
「矢張りそうだったのか。そんな気がしていた。ミユキに計られたか」
殊更戯けて見せた。
「ご免なさいね。こうしないと純一さん、子離れ出来そうもなかったから」
「そうだね、もうそろそろ独り立ちしないとね。自覚します」
「ご免なさい無駄使いさせちゃった。」
「ミユキの稼ぎで買ってきた。お礼は僕の方で言わなきゃ」
「返品効くの」
「返品なんかしないよ。ミユキが新しい彼氏が出来て結婚するとき着て」
「・・・・・・・」何も応えず、涙が止まらなくなった。
「泣いたら、駄目、折角のドレスが汚れるよ」
殊更明るく振る舞った。
「もう少し時間掛かるけど、待っていてくれる」
嬉しそうな表情が儚げで胸に痛みを伴った。(なんとか着させてあげたい)と思いが込み上げた。
「勿論、慌てないで良いから」
その後も毎日顔を出したが、ミユキが力ない表情の中にも穏やかな安堵感を漂わせ不思議な感じがした。
いつものように病室で見舞っていたときミユキがポツリと言い出した。
「純一さん有り難う。私はもう何も怖くないの。目を瞑っていると純一さんに連れていって貰った登山の中で感じた霊気が甦って来るの。これから私が何処に向かっても平気な感じがしている。私も星の子なのだって。だから私が死んでも悲しまないで」
「馬鹿な事言うなよ。俺はミユキを何処にも行かせない」
「大丈夫何処にも行かないわ」
「まだ、やり残した事沢山有るのに、俺の為にも生きていて」
ミユキは聞きながらぼんやりと笑った。
「何か欲しい物無い」
「うん、今度お酒飲みたいな」
「判った、退院したら飲みに行こう」
「違うの、此処で呑みたい」
「判った。持ってくるよ」
その晩、春何番かの嵐が一晩中騒がしく窓を叩いていた。
時折春雷の鋭い閃光が閉じた瞼を透しその激しさが純一に何かを訴えているような感覚がした。
いつしか淡い眠りに誘われ、ミユキが穏やにほほ笑み、無言で枕元に坐っている夢をみていた。
純一が声を掛けても只穏やかに黙って見ているだけ。
まるで胎内に居るような安堵感に包まれ不思議な光景だった。
翌日明け方まで続いた嵐は嘘のように澄み渡り、陽光の煌めきが木立に射込んでいた。
昨夜たたき落とされた桜の花びらがおびただしく路面を埋め尽くしその花びらを踏みしめ病院に向かった。
昨日まで満帆に枝を埋めていた桜が今はしがみつくように僅かな花がこぼれ落ちるのを必死に耐え、ミユキの命とダブらせ儚さに胸が苦しくなった。
昨夜の夢が暗示した悲劇を突き付けられた不安を抱え用意した吟醸酒の四合瓶を手に病室の扉を開けた。
ミユキは顔から血気が失せ朦朧とした様子に予期した現実に晒され言い知れない絶望に陥った。
「ミユキ、大丈夫か」
此方に向けた虚ろな眼差しが漸く純一を捉えた。
声もたてられないほど気力が失せ、純一が声を掛けても応答できない。
純一は四合瓶の蓋を外し酒を口に含むとミユキの唇に重ね少しずつ酒を流し込んだ。
吸い込む力さえ衰え、殆ど溢しながらそれでも少しは咽に届いたらしく一度咽の鳴る音が聞こえた。
精一杯呼吸に乗せた微かな音声で言葉を伝えてきた。
「美味しい、ありがとう」
そう言って一心に込めた笑顔と繋いだ手に微かな力で握リ返しその後息が途絶えた。
燃え尽きたロウソクが最後の芯の部分を燃やし尽くしたような儚い最後だった。
純一は大声でミユキの名前を叫び続けた。
その様子に看護婦が気付いて大騒ぎになり担当医が駆けつけたが純一はミユキに頬擦りしながら抱きすくめ、意識が朦朧としていた。
星野美由紀享年24歳の春余りに若すぎた最後だった。
純一の人生で此れ程悲しいシーンは経験が無い。
今迄の全ての出来事が何だった。
そして今後ミユキの居ない事がどれ程虚しいか見当も付かない。
落雷が落ち身動きできず身体の関節のそこらじゅう麻痺し、筋力の伝わらない無重力状態の空洞に漂っていた。
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