第10話 混迷の失意
翌朝重い身体を引摺って会社に出たが、その日の仕事は腰の据わらぬ空虚さが何事も気だるくさせていた。
仕事の終了際マンション会社から連絡が来た。
「今週7月○日に入居できます。明日お伺いして鍵をお渡しします」
翌日マンション会社の営業が訪れ諸々の手続きを済ませ鍵を受け取った。
ミユキが居なくなって部屋が準備され、その日の夕方主人公不在のマンションを意味もなく訪れてみた。
真新しい新築の匂いがして、家具も置かれてない部屋は虚しい程広々していた。ここに、ミユキとの新しい生活の発信を夢見ていた。
妻子持ちの身で無謀な計画だが自宅でミユキと過した僅かな生活を思い返した。
ミユキは物の押し付けを殊更嫌う、純一はマンションの件をメールに入れるつもりは毛頭無い。
車はあえて引き取らず使ってくれる事を望んだが嫌がる原因を残して来たようで気になっていた。
一切に触れずメールを入れた。
「会いたい、すごく寂しい」心境だけ打ち込んだがこうした状況で返信が来たためしがない。
それでも毎日メールを入れた。
しかし次第にメールを入れるのも気兼ねし、それから何のアクションも起さずにいた。
又してもポッカリ空いた空洞に漂い虚しいジレンマにあがいてた。ミユキには幾度も同じ思いをさせられてきた。
その日純一は通信情報メーカーの店頭キャンペーンのオリエンテーションを受けていた。
全国各地域大凡一千カ所の駅前サンプリング実施の販促プランだ。
この仕事が受注出来れば過去最大級の売上げに結びつく。
話しが大きすぎて始め実感が湧かなかったが意外な粘りを感じ「もしかすると化ける」と現実味を帯びてきた。
その会議の最中胸の内ポケットにしまい込んでおいた携帯に振動が来た。
廻りを意識し、こっそり液晶表示を覗くとミユキからだった。
「今日病院に来て」メールを確認したが返信できずにいた。
そしてその日の会議は延々と続き深夜に及んだ。返信のタイミングが掴めず苦しんだが、仕事でこれだけ大掛かりの受注は滅多ない。
緊張と期待に私情を押さえることに徹するしかないと腹を決めてた。
しばらくして再び振動が心臓を振らした。
「純一さんの会社に向かいます」確認だけ済ませたが返信が出来きない。
以前ミユキを会社に案内したことが有るが今の時間会社に誰もいない。
会議は幾つもの難題が行く手を塞ぎ、状況はかなり行き詰まっていた。
緊張を解すタイミングでトイレに逃れて気持ちを整え漸くミユキにメールを配信することが出来た。
「今日は未だ仕事で時間がかかりそう。必ず戻るから赤坂プリンスでチェクインを済ませてくれる。終了次第連絡します」
「判りました。待っています」
ミユキも何かを抱え連絡してきたようで直ぐ返信が来た。
何が有ったか不安が過ったが今は何より仕事が最優先、ミユキとの確認もとれ一段落ちつかせ会議に集中することにした。
オリエンテーションの練り込みで大まかな方向が決り明日の夕方までに具体的な企画書を提出することが決定した。
短時間にしては項目事項が多く密度の濃い要求だ。
その会議が終了したのは既に深夜1時を廻っていた。
純一は会社に戻りパソコンに向うと企画書の項目作成を始めた。
大枠を決め、翌日社員達に調査内容の指示書を作成し、各営業の机に置き終了させた。
翌日企画書の完成にはハードな作業が待ち受けている。
ホテルに向い、ミユキのメールでルームナンバーを確かめ、部屋に辿り着いたのは明け方4時を廻って空が白み始めていた。
「ご免、遅くなって」
「ごめんなさい、突然」ミユキが眉をひそめて言った。
思い詰めていた事が多過ぎ、言葉が出ない。
黙って抱き寄せ接吻を交わした。
「会いたかった」純一は何よりも感情を素直にぶつけた。
「忙しいのに、仕事の邪魔をして、ご免なさい」
「いいよ、会えないほうが僕には酷だ」
「純一さん私、家を出てきたの」
「松谷君の家から?」
「そう、純一さんと一緒にいたい」
「大丈夫、もうマンションの鍵持っている、いつでも入れるよ」
「本当、ご免なさい、いきなり勝手して」
「最初からそのつもりで用意していたし、望んでいた事だよ」
「有り難う」そういうとボロボロと涙が頬をつたわった。
「今日は遅いから休もう」
そしてシャワーを浴びミユキと添い寝しそのまま泥のような眠りに吸い込まれていった。
翌日も予定が詰まっていて7時半に起床した。
ミユキにマンションの地図が入ったパンフレットと部屋の鍵を渡し、クレジットカードも渡した。
「必要なものはこれで全部準備して、遠慮しなくていいからね」
「有り難う、帰る時間、連絡頂戴」
「判った、今日は引っ越し祝いしよう」
「うん」ミユキが急に晴れやかな笑顔になった。
「今日も忙しいけど戻るから、必ず居てね」念を押すように言った。
今迄不意に小鳥が巣を離れ、居なくなる不安は今でも拭いきれない。
帰ってきて、誰もいない虚しさだけは味わいたくなかった。
「純一さんご免。もう何処にもいかないから、安心して仕事してきて」
「わかった、じゃーあとは頼むね」
そうしてミユキを残しホテルを後にした。
その日は全社上げてビックプロジェクトのプラン作成に取り組んだ。
昨夜の準備が功をそうして意外に早く企画書が完成し、会社全員(事務の女性1名を除く4人)で顧客先に向かった。
通信情報会社のプレルームで担当役員ほか10名の顧客チームを相手に純一がプレゼンテーションを開始した。
ボードを掲げ、パソコンを連動させた大型モニター画面で投資効果のグラフを掲示し、スピーチはいつも以上に気合いが入って闊達なやり取りを交わした。
脈が有る時ほど鋭い質疑が飛び交う。いつも以上に純一がパワフルな展開を示し手応えを感じていた。
ミユキの存在がこうした仕事の下支えになっている気がし、田崎夫人の言葉が現実の物となった。
7時にはプレが終了し全員がその場で解散した。
通常社員を連れて慰労会を実施するが結論は1週間先まで持ち越しで、決った訳じゃない。
「決ったら、打ち上げしよう」全員に解散を告げてその場を後にした。
今日は何よりも先にミユキに報告したくて、タクシーでマンションに直行した。部屋に入ると満面の笑を浮かべミユキが待ちかまえていた。
「お疲れさま、どうした仕事」
「うん、まあまあかな。決れば大物だから期待しているんだ」
「決るといいね」
「あと1週間先結果がわかるよ」
「お疲れさま」
「それより、買物済ませた」
「急場の生活は何とか出来そう、あと大きな物は純一さんに決めて貰おうと思って」
部屋には大きな家具類は何も準備されてなかった。ミユキがカードを返しながら
「有り難う、カードは私に使えないわ」
「なに、そのために渡したのに」
「いいの、自分の出来る範囲でやりたいの」
「ミユキらしいけど、頑張りすぎないでね」
「有り難う、でも私には充分、ただ大きなものは私に買えないわ」
主要商品はそれぞれのパンフレットを揃えていた。
「多分そうだろうと思った、気にしないで買っちゃえばいいのに」
「うん、でも私には無理、人のカードは怖くて使えない」
「僕のだよ、人のっていって欲しくないな」
「ご免ね、そう言う意味じゃないから」
日中松谷の部屋から持ちだしてきたのか、ミユキの衣類が収納棚のポールに吊るされていた。
それを見て2人の生活の予感が込上げてきた。
まだ、大型のベッドや家電品が揃うまではもう少し時間が必要のようだ。
それでも寝泊まりの最小限の準備は整っていた。
「こんないい部屋私には贅沢かも」
「そんなことないよ、それより新築だし気持ちいいじゃない」
「何となく気持ちが落つかなくて」
「どうして何時も僕がいるし、ミユキの自由にして」
戸惑った様子から唇を噛みしめ自分を納得させてか晴れやかに言った。
「今週の土日お買い物にいかない」
「そうだね、じゃそれまで欲しいもの決めときなよ」
「うん」
「今日はお祝いだ、旨いもの食いに行こう」
「そうしよう、お酒も飲みたいな」
「勿論さ、俺も呑みたい」
マンションのロケーションは生活に便利な位置にあった。
少し歩くと賑やかな商店街で飲食店も斬新で洒落た店が幾つも並んでいた。急に食欲が湧いて、2人は新設の焼き肉屋に飛び込んだ。店は新興店らしく焼き肉屋特有の油っぽい感じがなく、壁や衝立に布と木目をあしらって清潔な感じがした。
2人は畳敷きの座敷に座布団を敷いた掘火燵型のテーブルに案内された。料理は住宅地らしくリーズナブルな価格帯で目に付く物を無差別に頼んだ。
先ずは生ビールのジョッキをぶつけて乾杯をした。
「これから、宜しくね」
「此方こそ宜しくお願いします」
ミユキは改まって膝を揃え新妻のように三つ指を付いて殊勝な挨拶をした。
「えっ照れるな。それはそうと松谷君は大丈夫」
意外な丁寧さに面食い話しを逸らした。
「うん、ちゃんと話して出てきたから大丈夫」
「そうか、でもよく彼が承諾したね。奥さんと別れて本気でミユキを追いかけていたみたいだけど」
「松谷さんには何度も言ったの、奥さんの処に帰って上げてって。優しくされて、感謝はしていたけど、奥さんから奪う気は全く無かった。それに私は自分が決めた事、決して動かさないの、松谷さん良くわかっているから、諦めたと思う」
「ミユキはそんなに頑固なの」
「誰に意見されても変えられない事って有るでしょう。特に気持ちで決める事って惰性じゃ済まされない。
純一さんの奥さんがどう思っても私は気にしない。純一さんが自分で結論を出してくれればいいの」
ミユキの意志は純一の思惑より遥に強固なもののようだ。
今迄の推移を振り返ってみれば、何一つひるんで自分を引き下げたことはなかった。
松谷が純一の自宅に電話を入れた時も、隣の奥さんに乗り込まれ、義兄に意見されても引き下がらなかった。
血の十字架を背負って生まれ、不遇の生い立ちに育ちその境遇の修練か、決して自分の信念を変えない。
純一のここまで引込んだ責任を彼女の言葉に退路を塞がれた感じがした。
純一はここで初めて今おかれた状況を俯瞰で見て、一瞬畏怖心が湧いた。
今後妻が出産し戻ってきてこの状態をどう承服させる。しかも義兄まで巻き込んで釘を刺された状態だ。
しかし今夜は楽しい祝いの晩餐、そのことは考えず問題を濁らせた。
「お母さんはどうするつもり」
「たまに顔は出すけど、純一さんが言った事を話したわ。始め凄く怒ったけど理屈は純一さんの言う通りだし理解してもらった。
普段は妹が学校を済ませて見ることに成った。勿論放り出した訳じゃないから出きるだけ顔は出そうと思っている。でも私も働きたいな」
「そうだよね、仕事はしたほうがいいかも」
「純一さん何処かいい処紹介して」
「看護婦の仕事じゃなくてもいいの」
「もう、看護婦はいいわ、母の事も有るし。病院から縁を切りたい」
「そうか、じゃ探してみるよ」
「お願い、働きたい」ミユキの顔が活き活きして意欲を覗かせ、念を押された。
「もし、今度のプレゼンが通ったら物凄くタイトなんだ。取りあえず僕の会社で手伝ってくれると助かるけど」
「勿論、純一さんが嫌じゃなければ、それがいいな」
「そうか、なんとかプレゼンが通ればいいね」
その週末2人揃って船橋にある大型ショッピングセンターに出掛けた。
そこは家電や家具調度品、レストラン、シネコン、アパレル、食品スーパーなど何でも揃っていた。
家族ずれやカップル、友達同士、まるで鰯の大群を鯨が呑込むような景観で人々が吸い込まれていった。
そして客のどんな要求にも対応できるエネルギーが溢れていた。
純一は若々しいミユキが笑みを溢し、嬉しそうに品定めを進める横顔に気持ちが綻んでいた。
家電品や大型家具類、生活に必要な諸々の調度品の購入を済ませ生活の基盤が整った。
新築マンションで真新しい家具に囲まれ16歳も若いミユキと新婚のような甘い生活が始まるのだ。
1週間が過ぎ客先からコンペ採用の連絡が入った。
予算消化とライバル社との対抗策として急遽浮上した全国キャンペーン企画だ。この無謀な納期で引き受ける企業が無かったのが幸いした。
中小企業の運営は他でサジを投げた無茶な仕事を、身体を張って消化し、漸く成り立つ。
いずれにしても2億を越える受注は1人や2人死んでも取りに行く。
会社内全員で万歳の喝采を上げた。
純一はミユキの外、派遣会社から5名補充しキャンペーンが開始された。
凡3週間の期間内に、日本全国1、000店舗にキャンペーンガールの手配と駅前サンプリングの実施、アンケート集計等、大掛かりな企画実施だ。
社員は交代で24時間態勢のシフトを敷いた。
そして純一とミユキも会社に交代で泊まった。
各地域の業者管理や苦情受付、データー集計、コボレ補充等4名プラスミユキや事務の女子総出で限界を超えたタフな作業が続いた。
全く初心者のミユキは始め電話の応対も恐々として、受け答えもガチガチ音がしそうに固まっていた。
しかし3日も過ぎると仕事の流れが呑込めたらしく一気にリズムを掴みトラブル処理も的確にこなし、必ず終息まで管理した。
純一はその潜在能力に驚かされた。
そして瞬く間に客先の噂にのぼり先方の役員に評判を聞かされた。
「柴田社長、星野さんどこから連れてきたの、受付で凄い美人が来たって評判だよ」
「そうですか、経験が無いのでご迷惑かけてないか心配でしたが」
「経験は浅いようだが、判らない事は素直に聞いてくるし、仕事も熱心に頑張っているし。皆なにげに気に入っているみたいだよ。マッ可愛いと何かと得だよね」
「そうですか、一寸安心しました。本当は研修してからご挨拶に伺えればと思っていましたが、お陰様で急にスケジュールが詰って、使い走りでも勤まればと思って出しました。何か不備が有れば遠慮なくおっしゃって下さい。本人の為ですから」
「仕事だし遠慮なくお願いするつもりだ」
「よろしくお願いいたします」
「それから余計な事だけど、今度うちの担当にしたらどうかな、人気者の方が仕事に結び付きやすいと思うよ」
「有り難うございます、是非そうさせて頂きます」
客先のリクエストなら誰も反発出来ない。
ミユキの入社は社員のコンセンサスを計らなくても決定した。
純一はそのことをミユキに告げた。
「ミユキ凄いね、仕事こんなに頑張れるなんて正直驚いたよ」
「そんなことないわ。これでも精一杯、それに純一さんの会社だし頑張るのは当然。それでも幾らやっても不安だわ」
「いいよ、程々で。ミユキが壊れたら、僕が困るよ」
「大丈夫、私の生い立ち話したでしょ、こんなに前向きな仕事なら幾らでも頑張れるわ」
「以外にミユキ営業が向いているのかもね」
「そんな事無いわ、いつもドキドキなんだから」
当初看護と営業では余りに掛離れていてミユキも純一も不安は感じていた。
しかし人は熱意を持って接すればどんな仕事でも響くもののようだ。
また、パソコンは全くの未知数だったが積極的に取り組んで表の中だけは打ち込めるように成った。
作業は幾つか問題が発生したが、粘り強い対応で全体的に成功と言える結果で終了した。
売上げは約20日間で年商近くを稼ぎだした。
終了のゴングと共に全員が力尽きおおよそ3日間は空気の抜けた風船のようにしぼんだ。
純一は差別を意識し経理の女子まで含め一律に100万の特別ボーナスを発表した。それはミユキを意識した逆差別だった。
社員にしては想定以上の収穫に精気が戻り元気で賑やかな日常が戻った。所詮中小企業が幾ら利益を出しても殆ど税金で持っていかれる。
所得税の基本は40%徴収だが実際は購入した車から機材まで課税対象だ。つつましく積み上げた定期預金はごっそり税金で吸い上げられる。黒字を5年続けようやく留保金が確保出きると計理士が話していた。中小企業が5年もぶち抜いて黒字を続けるなど奇跡に近い。国は中小企業など税の吸引口としてしかみてない。
しかし税制はあらゆる角度から縦横に吸収できる仕組みで、まるでイナゴの大群が草原を食い尽すようように隙がない。
また、債務の回収能力はサラ金の比ではない。
滞納させれば延滞税に加算税、その上利子税まで付く三重構造であっという間に本税を越える。
倒産情報は金融機関から最優先で税務署に届き瞬時に口座が凍結される。全ての情報「借金、不動産、資産、預金等」は税務署が完全に把握している。
それにひきかえ大手には手厚い擁護のシステムが存在する。
補助金や研究開発費という名目で莫大な税金が密かに供出されている。
そして代表は決めた給与を途中で変更できない。余剰金が出来ても手は付けられないのが実情だ。
純一は気前よく振る舞い、微かな抵抗だが税制に刃向かった。しかしミユキはこの臨時ボーナスを頑なに断わった。
「私が働いた範囲じゃこんなに沢山は貰えません」
「でも、他の社員が貰いにくくなるから」ミユキは人一倍遅くまで働いていたし、客も認めていた。
純一の本心はミユキに気張った積もりが拒止された。
「期間も短いし、十分の一だけ下さい」
「わかった、じゃそれで我慢して」
言い出したらきかないミユキの頑固さは充分理解していた。
「有り難う、すごく嬉しい、欲しい家具があったの」
「何で、自分の物にしなよ」
ミユキの処遇は絶妙なタイミングで会社の正社員として承認させたが2人の境遇を社員が承服したかは別問題だ。
立場上反発できない状況でしかなかった。
その後、ミユキは社員とお茶をしたり、昼食に出掛けたり、そつなく溶け込んでいった。
会社には鈴木美和という経理担当の女性がいたが客先の大手広告代理店のディレクター田原譲二氏の婚約者だった。
客先の彼氏と言う虎の威を背景に、鈴木はどちらかと言えばウルサガタの事務員だった。
鈴木が重い存在として幅を利かせ、社内はいつも重苦しい雰囲気だった。
若いミユキの入社で急に事務所に華やいだ空気が漂い始めた。
大仕事が終了し間もなくミユキに小規模だが新規の注文が入った。
純一以外新規の仕事を受注したのは彼女が初めてで、その成果に純一が驚いた。
ただ、先方の発注担当菊川氏が問題だった。
情報産業に最も精通した東大卒のエリートで、いつも高度な要求をされ純一以外対応出来なかった。
細部に渡り完璧を求め一つの仕事が完成するまで振り回され、ミユキも例外では無かった。
しかも未経験のミユキは全てが門外漢で専門用語すら理解できてない。
度々純一に教授を仰いだがひるまずに対応していた。
時折電話口で30分に及ぶ叱咤を浴び涙目の様子に純一は救ってあげたい心境になった。然しミユキは弱音一つ吐かず自分で処理をした。
時間もルーズになり夜10時に呼びだされ真夜中1時までかかる事も有った。
そしてその後次第に時間が押して想定外の事態を巻き起した。
その日ミユキは夜半に呼び出され明け方まで帰って来なかった。
それは純一が思いもよらぬ自分の脆さを曝す結果を現した。
妄想から湧き出た「疑惑」と「嫉妬」と言う妖怪が違う人格を持って暴れだした。大人の包容力も穏やかな慈愛も、忍耐力も忘却し、居ても立ってもいられない苦悩の只中で悶絶を始めた。
明け方5時頃ミユキが部屋に戻ると感情を押し殺し、猜疑に満ちた低くド座った声で、詰問した。
「一体どうしたんだ、何故帰って来なかった」
「帰れなかったの、心配しないで」純一のきつい言回しが勘に触れ口調に反発が隠ってた。
「何か有ったのか?」
「何もないわ」
「それって答えになってない、何故だ、心配で一睡もできなかった」
「私は純一さんの物じゃない。私を私物みたいに管理するのは止めて」不遜に反復して抵抗を露にした。
「俺の気持ちはどうなんだ、心配でいたたまれなかった」
「止めてよ、私にも自由が有るわ」
純一の愛憎が常軌を逸し平手がミユキの頬に叩きつけられ「パン」と乾いた音を発てた。
ミユキは一瞬驚愕し目を丸くした。瞳孔を開いたまま瞬く間に目の渕が真っ赤に染まって血の化身が大粒の涙に姿を変えてボロボロこぼれ落ちた。
そして悲しそうな表情をみせると
「そんな人じゃないと思ってた」
吐出だした言葉を残し、泣腫せた顔でその場から勢いよく表に飛びした。
純一は自分の犯した暴挙だけが空洞に置いていかれていた。ハッと気付き鬼畜のような形相で必死にミユキを追いかけた。
このまま逃せば小鳥は二度と戻ってこない。その恐怖に駆り立てられた。
しかしミユキは既に視界に届かない処に消えていた。純一に底知れない悔恨の念が襲ってきた。一体俺は何をした。
あれほど暴力を嫌うミユキに手を挙げ、どう繕っても言訳の効かない失態を演じた。嫉妬にさいなまれた小男、なんという未熟さだ。一挙に自身が最低の男に感じ、やり場のない嫌悪に落ち込んだ。
(ミユキはもう俺を許す筈が無い、俺はミユキに許しを請う資格もない)
女の嫉妬は相手を責め殺すが男の嫉妬は自爆で破滅する。
然し純一は手をあげておきながら、おかしな錯覚に嵌まりだした。
憎しみなど一遍もない、際限なく強い究極の愛はもしかしたら暴力なのかも知れない。これ以上強い感情は無い。
然しその考えはあまりにも無謀だ。犯罪と紙一重の愛など狂気でしかない。相手が幸せを感じない愛情など根本から狂っている。
一体ミユキをどうしたい。
愛玩犬の様に自分にだけ忠誠をつかせ飼い殺すつもりか。
独裁者のように彼女の自由を奪い牢に囲っておくつもりか。
それはとんでもない傲慢だ。
20歳の青春真只中ミユキの人生を誰が邪魔できる。
相応しい未来ある青年が現れたら笑顔で見送ってあげてこそ究極の愛と言える。自問自答しながら暴走するコンピュター数式がこんがらがって抜け出せず苦しんでいた。
今日はミユキが姿を現さない事務所に一日憂鬱な営業を覚悟し、部屋に居たたまれず侵した罪に追われるように早めに出社した。
寝不足の気だるい身体を引きずって会社に辿り着くと社員は一応に早く出社した純一の姿に驚き、何がしかの問題を感じとっていた。定刻すれすれにミユキがニコニコと笑みを漏らしながら現れた。
「おはようございます」信じられない程、爽快な笑顔で挨拶をした。
純一は一瞬目を疑った(俺の妄想か)
「星野さん、話していい」純一が話しかけた。
「夕方にして下さい」ミユキに窘められ、複雑な心境を見透かされたように慌てて
「あっそうだね。分った」
こうした揉め事は日頃鈍感な奴ほど見破る。社員に格好のゲスネタを提供してしまった様だ。
それでもその日は何事も無かったように順調に仕事を終了させた。帰路純一がミユキを外食に誘うと今朝のもめ事を微塵も顔に表さず屈託なく応じた。
マンション近くの居酒屋で純一が苦々しく口をヘの字に歪めて謝罪した。
言訳は不思議と口が歪むものだ。
「今朝は本当にご免、二度と手を挙げるなんてしない。許してくれ」
「私を叩くのは構わない、でもそんな純一さんに成って欲しくない。私の知っている純一さんは決して女に手を挙げるなんて出来ない人。多分私の濁った血が純一さんを感化させたのよ、きっと魔が差したのね」
「ミユキ・・・・・・」言葉に詰まった。
「今朝の事は戒めとして濁点を心に焼き付けとく。2度としない」
「うん分った、もうしないでね」
純一は自分よりミユキの方が遥に奥深い度量を感じ、胸が詰り痛みが滲みた。
そしてミユキの仕事がその熱心さを認められ定期物になった。
それは純一の会社にとって大きな収穫として残った。その結果に純一の軟弱な猜疑心が気恥ずかしかった。
そうこうして凡1ヶ月が過ぎ9月の中頃妻の母親から会社に電話が入った。電話に出た事務の鈴木言った。
「奥さんの実家の方から電話です」
純一はミユキの反応を意識し慌て気味に受話器を取った。
「純一さん優子(妻の名)に男の子が生まれたよ」義母から告げられた。
「本当ですか、じゃ会いに行きます」
「そうして下さい、優子も待っているから」
その日は仕事を途中で切り上げ社員よりミユキに気兼ねしながら言った。
「ちょっと、出掛けてきます」
「いつお帰りですか」事務の鈴木が本音を見透かし、意地悪く聞いてきた。
「多分明日は帰れると思うよ」
「判りました」
鈴木は淡々と答えたが、ミユキは黙ったまま表情を変えずに机に向かって事務処理をしていた。
純一は歯切れの悪い思いを背に事務所を後にした。
仕事は的確に決断し手際よくこなす事を意識していながら私情はいつも曖昧になる。
新幹線に乗って漸く落ち着きを取り戻したがこれから先は暗闇のトンネルに入ってく心境だった。
女を自宅に引摺り込んだ事件以来の訪問だ。
肩身の狭さは計るべくもない。
新幹線から在来線に乗り継ぎ東北北端の寂れた駅からタクシーに乗って実家に辿り着いたのは夜9時を廻っていた。
田舎屋特有の大きな母屋の玄関の引戸を曳くと、娘の薫が直ぐ気づいて廊下の奥から飛びついてきた。
「パパ、おちゅかれさま」
「薫、おりこうさんしていた」
「うん、ちゃんと言うこと聞いていたよ」
未だ、3歳の薫を純一は宝物のように慈しんだ。
生まれて2年、純一と薫の戦いは壮絶だった。
赤子の最大の武器は泣くことだ。我が儘を通すに如何に大袈裟に泣き通し、親を屈服させるかでポジションが決る。
純一は果敢に娘に戦いを挑んだ。
泣き叫ぶ娘を押入れに閉じこめ幾ら泣き続けても思いが通らないことを知らしめた。襖越しに宣告した。
「薫が泣き止まなければ、この襖は開けないよ」
泣きじゃくる薫は絶叫で咽を絞めつけ呼吸が怪しくなった。
妻がその様子に耐えられなくなって険しい剣幕で食いついてきた。
「アンタは鬼か、貴方の子供よ」
それでも、泣き止む事を条件に意地を通した。
薫はシャックリを咽に引っ掛け、意識的に泣きを押殺し襖越しに従順を誓ってきた。
「ウッ、ウッ、薫、ウッ、ウッ、もう、泣かない、ウッ、ウッ」
純一はそれを聞き届け、襖を開いて薫を抱き抱えると、妻は引剥がす勢いで薫を取り上げた。
それからのちの育児は全く労力を必要としなくなった。
買物で物をねだることもなく電車で騒ぐ事もない、
いつも穏やかな笑を絶やさない聞き分けのいい子に育っていた。
「本当に薫は良く言うことを聞いて、いい子にしていたわ」祖母が口を挟んだ。純一は妻の両親に愛想のいい笑顔で向いいれられ少子抜けした。
妻が両親に本題を伏せていたようだ。
夕飯は駅弁で済ましていたが一通りの祝いの膳が用意されていた。
義父は穏やかな性格で遠くからの足労をねぎらい、酌を勧めた。
薫が純一のあぐらの中で寝息を立てていた。安心しきった娘の寝顔を覗き心が痛んだ。その晩休みながら心が塞いだ。
こんな可愛い子がいるのに自分は一体何をしている。
その上2人目が生まれた。他の女にウツツを抜かし、しかも部屋を用意し同棲まで始めた。
充分承知してながら、罪の意識と焦げ付く恋慕、どちらも現物の重量で純一の心に重く伸し掛っていた。
翌朝タクシーで両親や薫と一緒に病院にむかった。
予定より1週間早く生まれた男の子は皴だらけで貧相に思えた。それでも泣き声は元気よく病室に響いていた。
妻に進められて抱いてみた。
「男の子よ、良かったわね、跡継ぎが出来て」妻が言った。
「始めまして我が子、ようこそ柴田家へ。でも小さいな、ま、元気そうだけど」
笑いながら我が子に挨拶した。
「可愛い顔をして、きっとハンサムになりますよ」看護婦が横から口を挟んだ。その褒め言葉に内心(そうかな、鳥がらみたいだが)貧弱で不思議な感じがした。それでも我が子の笑顔は心を和ませる。
妻が言った。
「いつまでいられるの」
「ばたばたして、今日帰るつもりだ」
「何もう帰るの、折角だからもう少しいたら私も明日退院出きるし」
「そうか、でも仕事が詰まっていて難しいな」
その言葉に妻のがっかりした表情が純一の良心に突き刺さった。
「判った、会社に連絡して段取り取ってみるよ」
実情は仕事よりミユキが気になっていた。
会社に連絡を入れる振りをして、日曜まで泊まる覚悟を決めた。この行為にミユキがどんな反応を示すかを考えまいとした。
久しぶりに妻の実家で新しい家族が加わり一家総出の賑やかな晩餐を向えた。何処にでもある細やかな祝の膳を囲み万事幸せに満ち満ちたシーンだ。
そこに幾多の問題が内包していようと、こうした場では表に現れない。
しかし現実はどんな家庭でも幾許かの不都合が隠れている。
純一の家族も問題がゼロでは無い、むしろ有る意味、最悪の状況での晩餐といえた。
両親のいるうちは妻も笑顔を絶やさず何一つ触れる事もなく過していたが両親と薫が休んで妻と赤子の3人に成ったときに切りだされた。
「自宅大丈夫、問題ないわよね」
「大丈夫さ、ちゃんとしてある」
「なら、いいけど」聞きたいことが山積していたがその先を呑乾した。
妻は我慢して済むなら見まい、聞くまいとし、事を荒立てることを嫌った。
純一は問い詰められれば逃げようがない。妻の呑込みに救われた。
そしてその週は4日間週末まで実家にいて日曜に自宅に戻った。
月曜純一は会社に出社しピーンと張りつめた空気に結果を直感した。
事務の鈴木が気遣いしながら切りだした。
「先週金曜星野さんに言われました。今日で会社辞めます。色々お世話になりましたってお菓子を置いてきました。
それから高橋さん(純一の会社の最年長の社員)と一緒に、客先に挨拶に行って仕事の引き継ぎを済ませたそうです」
「そうか、仕方ないな」
社員が視線を逸らし、気兼ねしているのが伝わり悟られまいと気丈に振る舞ったがその日はうんざりするほど長く感じた。
予見していた事だがその場に遭遇するとどうすればいいか虚しい心境の対処方が浮ばず得体のしれない萎縮感が胸を締めつけた。
ミユキはもう二度と現れない全ての終焉を自分が演出した結果だ。
マンションに戻りその現実が証明されていた。
クローゼットからミユキの被服は全て消え虚しい程綺麗に整理されていた。
そしてテーブルの上に手紙と車のキーが添えてあった。
手紙は小綺麗な文字で埋められていた。
{私はどんな状況でも自分が幸せになる事を拒んでいました。
それは根本で両親を許せなくて、この憎しみが揺らいでしまったらこの血の不条理を受入れざるを得なくなるからです。
もし私が幸せに浸かったら今迄の苦しみをどう言訳すればいいか根底から揺らいでしまう。
でも私はこの張りつめた苦痛から逃げ道を純一さんに求めた。
もしこの血を入れ替えることが可能なら純一さんの血を注いで入れ替えたい。
父や兄や夫の様に肉親として同じお墓に骨を埋め、怒りの収まった穏やかな気持ちで同じ土になりたいと願った。
純一さん、私が始めて貴方に会って感じていた事があります。
それは「この人はきっと」その先の意味は漠然として響きだけなのですが。
そのフレーズが記憶の片隅に焼き込まれ何が有っても響いてきて幾度か別れを覚悟しても戻されてしまいました。
「この人はきっと」私が生きてく上で重要な鍵を握っている人と思へて仕方なかった。
私の出生の秘密も純一さんにだけは知って欲しくて
「この人はきっと」関わってくれる。そう信じて苦々しい境遇を曝しました。でも純一さんに巡り会うのが遅すぎました。
7年前当時中学2年、以前話した伯父に怪我をさせたその時点で純一さんに会っていたら絶対誰にも渡さなかった。
丁度母が私を宿していた年齢に拘るのも幾つもの分岐点のような感じがしています。
当時純一さんは独身で誰にも迷惑をかけずに生活が出来たのだと思うと運命を恨まずにいられません。
しかし私がどう願っても、今の純一さんの環境を変えるのは無理と悟りました。
私は純一さんに尽せても仕事だけで純一さんの側にいることは出来ません。ご免なさい、色々教わったのに形で残せませんでした。
純一さんはこれから新しい命を大切にご家族仲良く暮らして下さい。とは言え私が純一さんとご家族の幸せを願うほど大きな心は持ちあわせていません。
いくら大好きでも所詮は他人同士、決して繋がる事は有りません。今後私を追うことは止めて、また私を記憶から消して下さい。
私も「この人はきっと」の響きを封印して終息をはかります。
星野美由紀}
所々インクが滲んで、便せんがうるんでいた。涙をこぼしながら書き込む姿が目に浮かび胸が締めつけられた。
血の宿命から一時たりとも解き放されず、苦しみ、もがきながら純一に救いを求めていた姿を思い知らされた。
恨み言は何一つ書かれて無いが、再三言われた決断のぬるさに手厳しい抗議を感じた。
そしてその深い苦しみが痛みとして伝わりいつしか熱いものが込上げ水滴がぼたぼた落ち、うるけた便せんが、再び濡れた。
短期間にしては沢山思い出が集積され塊になってこびりつき、ひとつひとつを溶解させるには可なりの時間が必要だ。
それから暫く、マンションに1人ボッとして服のまま寝込んでしまったり取り留め無く過した。
空気の抜けたタイヤのように方向が定まらず、夜道をふらつき深酒に嵌まって自分を責めた。
繁華街の街中泥酔し、路上で目を醒すと財布を抜き取られていた。
こめかみに痛みを感じ、目の下に痣がザクロ色に鬱血しぶよぶよしていた。
スーツの膝が擦切れ、ワイシャツに血痕が茶黒くこびりついていた。
躰の関節に響くような鈍痛を感じ、誰かと殴りあっている自分の姿が無声映画のようにうっすら巡っていた。
全て不確かだが相手が複数だったような情景だ。
その後1ヶ月が起つ頃、妻が母親と一緒に子供を連れて戻ってきた。純一はその頃まだ気抜けしたまま、ろくに部屋を掃除するでもなく、いい加減な日常を送っていた。
今迄見せたことの無い無精な生活に、妻と母親が皮肉を込めた会話を交わしながら風呂場の大掃除をはじめた。
「まあ、ウジがわきそうだ」母親が嫌みたらしく言った。
「ああ、酷いカビ、感染しそう」妻もあいづちを打って答えた。あれほど我慢強い妻にしては意外な言回しに少し驚いた。
以前から母親の性分に口裏を合わせる処が有ったがこうしたあからさまな表現は初めてだった。
「これじゃ、赤ちゃんお風呂に入れられないわ」妻が本心からか不快感を滲ませ口走った言葉に
「なにしに、戻ったんだよ。ぎゃーぎゃー言うなら、ここで生めばいいだろ、ここが嫌なら帰れよ」
心境が悪すぎた。
最悪のコンディションで2人の女にキンキン文句を言われぶちきれた。
余りの剣幕に一瞬静寂したが、すぐさま強気の母親が切り返してきた。
「優子帰ろう、こんなところにいたら身体壊しちゃう」
事態が大仰にこじれだし純一の怒りが止まらなくなった。
「半年も自宅を開けといて、帰ってくると偉そうに何なんだよ。いい加減にしてくれ」
「何いっているの、アンタに娘はやりたくなかったんだ」母親がこの状況でいまだに拘りを見せた。
「もう、うんざりだ。くれてやった、くれてやったって偉そうに、もう結構、連れて帰ってくれ」露骨な罵声を投げつけ収拾が付かなくなった。
こうした状況の収拾は妻しか計れない。
妻が泣きながら純一に向かって言った。
「ご免なさい、私が言い過ぎました」
その様子を遠目で見ていた娘の薫が悲しそうな顔つきでそっと2階に逃出した。
家族の争い事はガラスの破片のように鋭く、幼い心に突き刺さった。
娘の傷ついた表情が無言の抗議として相応の説得力を備えていた。
その様子に気付いた純一は急に薫が不憫になり常軌を逸してしまた自分の罵声を反省した。
「判った、俺も忙しくて掃除も出来なかった、悪かった。少しは手伝うよ」
「済みません、1人にしといて言い過ぎました」
妻は再三謝っていたが、母親はまだうっぷんが溜まっている顔つきをしていた。
いまだ立ち直れない原因は純一の失意にほかならない。
その訳を家族は何も知らない。誰にも言訳できない内容に逆切れし、子供の心を傷つけ恥ずかしくもあった。
純一はミユキへの思いは捨て去るより抱えるつもりでいた。
成人した男の未練ほど歯痒いくだらしないものはない。
それでも仕事、家族の生活が日を増すごとにリズムを取り戻し以前の穏やかな生活が戻り始めた。
そうしたある日妻が困惑した表情で純一に問い質してしてきた。
「貴方、隣の奥さんと何か有ったの」
「えっ、何か言ってきたのか」
「近所の奥さんから聞かされたけど。何か色々揉めていたって」
「実は心配かけたくなくて黙っていたけど羽毛布団引き裂いたの、隣の奥さんなんだ」
何処から話すか迷ったがまず事実関係から説明した。
「まさか、どうして」一瞬現実離れした内容に理解できないでいた。
「アンタが渡した鍵で入り込んで引き裂いていった」
それがどうしてか理解させるには細かい説明が必要だ。
そちらに言葉を向ける前に妻が次の疑問をぶつけてきた。
「他の奥さんの話だと貴方が奥さんを追い回し、奥さん困り果てて警察まで呼んだって」
「いや、俺が警察呼んだのだ」
然し純一の弁解以上に田崎夫人の仕掛けた噂は純一をすっかり変質者として仕立て上、物証まで準備されていた。
「何で、貴方が迫いかけ回して沢山手紙を渡されたって、貴方の書いた手紙のコピーが近所中のポストに入れてあったって」
そのコピーの束を差し出され、純一は田崎夫人の周到さに驚いた。その文面だけ見れば明らかに純一が追い回している様子に感じとれる。
「判った。ちゃんと話すよ」
純一は夫人が赤坂まで訊ねて来た経緯を、ミユキに触れずに話すのに苦心しながら説明した。しかし妻は経緯を聞き届けた後、ミユキの件も含め純一に念を押した。
「今さら、何が有っても私の気持ちは変わらないけど、私の信念は理解して。貴方が家の両親にあれだけ反対されても私をもらいに来てくれた熱意は今でも信じている。私も過去に両親に逆らったのはあの時だけ、それだけ自分の取った結果に責任を持とうと思っている。だから貴方が美由紀と言う女を自宅に入れた時も今回の事も本当なら許せない事だけど、どんな状態でも薫と勇太(息子の名)には貴方以外の父親はいない、それは自覚して。そしてどんな状況でも家族に責任を持って下さい」
完璧すぎる理論に反論の余地がなかった。
「お前の言う通りだ。申し訳ない。・・・でも驚いたな、この手紙が近所中出回っていたって。あの女許せない、仕掛けてきたのは彼女なのに旦那に事実をぶちまけるしかないな」
妻は純一自身の心の隙を指摘したが純一は矛先を怒りで振らすしか凌ぐ手立てがなかった。
「もうその事に拘ってないわ。それより、もう相手にしなければいいじゃない。また揉めるだけのような気がする」
「ここまでされて俺の気が済まない」
何もアクションを起こさずいるには純一自身の立場がない。感情の昂ぶりを勢いにして受話器を取ると田崎夫人が電話口に出た。
「何かご用ですか、お宅とはお話ししたくありません。なんで主人に・関係ないわ。一体こんな時間に主人出せって失礼でしょ。
余りしつこいと警察呼びますから」
それは当然の如く、取り合う訳が無かった。
それどころかこの行為が田崎夫人を硬化させ、想定外の展開に巻きこまれ、結果として妻子に危害が及んだ。
そののち、田崎夫人が妻に露骨な言回しで宣戦布告をしてきたのだ。
「奥さん、旦那が女連れ込んだのに許すの、おかしくない」
目に鋭さを漲らせ、顎を突きだし、敵対心剥きだしで言掛りをつけてきた。
「その件はちゃんとけじめを付けています」
「煮え切らないあの男がけじめなんかつけられる訳ないでしょ。今でも女と繋がってるのに奥さん鈍すぎ」
遠慮という幕を取っ払うと極めて狡猾な方言になる。人の亭主に言いたい放題になった。
「そこまで貴方に言われる筋合い無いわ」
「何故、離婚しないの。あんな酷い男に付いてく奥さんに呆れるわ」
「私の家族のことを人様にとやかく言われる事じゃないわ」
「ばっかじゃないの。あんなグズ男を亭主にしている人に、この辺に住んで欲しくないの,ほんとむかつくんだけど」
声が大きく荒げてきた。感情が加速すると自身で収拾が付かなくなる、そうした性分のようだ。
火が付いてしまった臨戦態勢から今にも拳が飛びだしそうになって、妻が少し恐怖を感じ始めた。
妻は激情を宥める様に目線を低く陳謝するような言い回しをした。
「奥さん、お願いです。そう感情的に成らないで。お隣に住んでいる以上もう少し穏やかにして、貴方を怒らせて仕舞ったのなら私から謝ります。許して」
その場は妻の冷静さが激情を冷却させたが言いくるめられるのも得心は行かなかったようだ。
陰で密かに虐めを企み、それが次第に複数の主婦に感染し妻が次第に孤立し始めた。
田崎夫人のパワーは妻とは次元が違った。
世間の噂は真実などどうでもよい、言いくるめた者が正義になる。やがて妻が根をあげ始めた。
「貴方、お願い、引っ越ししたい」
「えっ、一体どうした」
「実は隣の奥さんが子供まで巻き込み始めたの」
「ほんとかよ」
「この頃子供達が表に出たがらなくなったの、心配で」
「何か悪さでもしているのか」
「子供達も何も話さないから、本当のところは掴めないけど意地悪されてるみたい」
「子供にあたるなんてたちが悪いな••陰で悪さするやつに勝てないか。分かった、子供を危険な目に合わせる訳にはいかない。
原因は俺が作ったし俺が責任もとう。引越しよう。家族が安心して住めるところ探すよ。ちゃんとする」
「そうして、私じゃ勝てないわ」
「そんな手強いんだ、質が悪いな」
「以前聞いた話だと結婚する以前、会社の副社長と付き合っていたみたい。
同じ会社の今の旦那さんと結婚が決ってからも付きまとわれて最後は逆手に取って慰謝料取ったって自慢していた。
とても私が勝てる相手じゃないわ」
「なるほどね。社内不倫していたわけか。
成程隣の亭主でも同じようなものか」
「その副社長はオーナーの御曹司で有名な人らしいわ」
「安藤物産のオーナーは俺でも名前は知っているよ」
「そういう有名な人と付き合っているのがプライドみたいでこの界隈で生活しているのが本意じゃないような言い方もしていたわ」
「それじゃ俺がなびかないのはプライドが許さないだろうな」
下世話な邪心から騒動を起し子供達にまで影響が及んだ。何より重要な子供達の成長の障害を父の立場で発生させた。
家族の安全は最優先課題だ。
それから毎週休日を物件探しに費やした。
然し、ミユキへの未練からマンションの所有は伏せていた。
市川駅前、現在地の駅反対側に頃合いの建売り物件を見つけ、自己物件の希望価格も譲歩し契約を完了させた。
住宅購入をこのスピードで完了させるのも、全て自分が起した火種に起因し、反省の余裕も逸していた。
家族の崩壊だけは妻の忍耐に助けられ新築住宅の購入はせめてもの償いだ。
然し、2軒分毎月のローンは一気に膨らみ可なりの負担が待ち受けている。
幸いその辺りまで会社の業績は順調に推移していたがこのコンディションがいつまでも続く保証はない。
引っ越して数ヶ月が過ぎ新居の環境にも馴染んだころ田崎夫人が自宅に訪ねてきた。
平日の日中当然純一は不在だった。
「お宅の旦那にやられたわ」
「何のこと、もう家に関係ないでしょう」
「会社の総務に私と安藤副社長のことが書き込まれた文書が届いて、大騒ぎになったの」
「まさか、家の人は関係ないわ」
「他に考えられないのだけど」
「言掛りよ、いい加減にして」
「お陰で、主人と離婚になったわ。旦那に言っといて、あこぎな事しないでって」
「まさか、そんな事で離婚なんて」
「そうね、奥さんなら有りえないでしょ、女連れ込まれても別れないのだから」
「いくら言われても子供の事を考えると簡単に結論が出せないわ」
「奥さん、意外に強い人なのね」
「強くなんか無いわ。ただ揉めるのが苦手なだけ」
「でも浮気されたら普通頭にくるし、許せないわ」
「確かに考えたら苛々するし、許せないけど私が結論出しちゃうと一番影響受けるの、子供達だから。
余計な事だけど子供さんはどうしたの」
「男の子は私が、娘は主人が引き取ったわ」
「そうなの、大変ね」妻は本心から気の毒に感じていた。
「副社長は関連会社に飛ばされたし、主人もとばっちり受けて左遷させられた。今さら仕方ないけど、お宅の旦那に負けたわ」
「そんな、誤解よ」
その晩妻が純一に問い質した。
「貴方田崎さんに何かした」
「別に・・・・・」
「それならいいけど」それ以上の会話に触れなかった。
中小企業の経営者は根本的に闘争本能で出来ている。
高速で抜かれムキになって抜き返す中年男は殆ど中小の経営者だ。日常が戦いだから本能を触発されると反応してしまう。
純一も性格は温厚な方だが、根本は闘争本能の塊だった。
しかし収穫のない報復に日時と能力を費やすほど中小の経営者は恵まれてない。
現実は社内抗争のとばっちりを受け、内部告発の形で彼らの関係を暴く結果になった。
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