血の十字架
@shinnosuke
第1話 入院パラダイス
3月下旬、まだ春の暖かさにはほど遠い冷えきった夜道を千鳥足で駅に辿り着いた。
仕事とはいえ接待の飲み会は疲れた身体を一層重くさせていた。
終電まぢかの電車は一台逃がすと次がなかなか来ない。
重い身体をずしりとベンチに落した瞬間キーンとした激痛が身体の中心を駆け抜けた。
周りに悟られないようそっと確かめると胡麻のような点の固まりが感じ取れた。
場所柄あまり大仰にしたくなかったが意志に反しそれは毎日成長を始め、凡1週間で米粒から豆粒大に成長した。
場所が悪すぎる肛門の脇だ。意を決し思い切り絞ってみた。反発するように翌日倍以上膨張した。
柴田純一が忙しい合間を縫って会社近辺の麻布病院に訪れた頃にはすっかり団子大に成長していた。
病院の外来で応診を受け当然のごとく下半身の服を脱がされ診察が始まった。
「検査しないと良性か悪性か分かりませんがいずれにしても削除したほうがいいでしょう」
医師から手術を告げられ、入院日の確認と手続きを説明された。
妻は妊娠5ヶ月で院内感染を恐れ準備だけ手伝って純一1人が病院に向かった。
純一が案内された入院病棟は4人部屋だった。
余計な感情を取り入れない為に意識された配色か、曖昧なアイボリーの壁が空虚さを漂わせ、空気がよどんでいた。
ガランとした四角い部屋に機能だけ追求した無機質なパイプベッドが四方に置かれ脇に隙間を埋めるように、これも小振りで機能重視の収納ボードと丸椅子が備えてあった。頭部の壁に連絡用のアンサーフォンボックスが設置され如何にも病棟らしさ主張している。
天井から張り出したカーテンレールは4つのベッドの唯一の境界線の役目を果し、プライバシーはひたすら吊下がった一枚のカーテンに委ねられる。
純一の部屋はワンベッドが空きで他に凡30歳位と50代後半の男性が同室のようだ。
30歳位の患者は大柄の男で点滴のためベッドに釘付けにされていたが大きな足が毛布からはみ出し、図体の大きさを察した。
そして大凡病気とは無縁の体育会系の体格と顔付きをしていた。
純一はそれぞれに挨拶を交わすとその大男が屈託なく話しかけてきた。
昨日痔を手術したばかりと自身の疾患を説明してきた。痔疾と訊いて確かに強弱に関係ないのだろうと納得できた。
そして患部の位置で仲間意識を持たれたようだ。
話好きのようだが、詰らない話を四六時中聞かされるのは、やり切れない。
その為か50代後半の男はカーテンで旨く遮っているようだ。
只、外科病棟での会話は切捨御免の潔さか、屈託ない明るさを感じどことなく救われた気がした。
純一が身の回りの整理をしていると看護婦が呼びに来てナースステーションに連れていかれた。
そこは彼女達の職場で若い看護婦達が忙しそうに小気味よく動いていた。
純一を呼びだした看護婦は未だ20歳位の若い娘だった。
純一を向かいの丸椅子に座らせるとペーバーに掲げた項目に添って問診を開始した。
「生年月日と年齢はお幾つですか」
「昭和○○年○月○日生まれの36歳です」
「身長と体重は」
「177cm、62kgです」
「お住まいは」
「千葉県市川市○○です」
「煙草は吸われますか」
「はあ、一日一箱で我慢するようにしています」
「お酒は飲みますか」
「結構好きです」
「どの位飲みます」
「相手が居れば朝まで飲んでいます」
「ほんとですか、何を飲むのですか」
「何でもやります、無ければ、調理酒まで」看護婦は聞きながら笑を溢らした。
「ご家族は」
「女房が一人、二人いたら問題だけど、あと三歳の娘、それから半熟卵です」
「ふふふ、何ヶ月ですか」
「5ヶ月です」
純一は問診の最中、看護婦の白衣に身を包んだ化粧っ気ない無作為な印象の顔立ちに惹きつけられた。
これ以上小さいと変だろう。
ギリギリの小顔に顎のラインまで一筆で描けそうなスッキリした顔立ち、そして贅肉もないのに若者しか持ち得ない瑞々しく張りの有る肌、歳を重ねた者からすれば嫉妬したくなるような極め細かさにシミ一つ無い。
無造作に流した髪が生え際から毛先まで艶やかに若さが漂っていた。多分指通りが良くて引っかかることなど無いのだろう、ほのかに漂うシャンプーの残り香と娘特有の柔らかな薫りが心地よく鼻腔をくすぐった。
陶器のような肌に生え際まで極めが見える形の確りした眉、マスカラも入れてないのに綺麗にカールした長い睫毛、心持ち上がり目がちの二重瞼の奥にブラウンがかった大きな瞳がきっかり見開いて直視されると、此方が視線を逸らしそうだ。
口紅もつけていないのに桜桃のように艶のある唇も初々しく、笑うとUの字を描き白い歯を覗かせた両脇の奥が深く神秘的な感じがした。
シャープで透明感のある顔立ちがオードリヘップバーンの若い頃の面影に重なりどことなく少年っぽく映った。
娘特有の丸みの有る柔らかな感じではない。
純一は問診されながら、その娘の書面に目を落とした様子に見入ってしまった。(こんなに可愛い子がいるのか)
「なにかついてます」釘ずけの視線に気づき聞き直されて、少し慌てた。
「あ、いやー、ちょっと」
胸の名札「星野」と言う名を確り目にやき込んだ。
一通り問診が済むとその日は全て検査に費やされた。
患部の細胞を切り取って培養したり、スキャナー、エコーなど大袈裟な感じがした。(こんなもの簡単に切れば済みそうだが)
夕方一通り検査が済みベッドに戻ると夕飯の配膳が始まった。
研修中かピンク色の看護服を着た17〜8歳代の看護婦が食事を運んできた。その研修生が配膳しながら話しかけてきた。
「柴田さん何処が悪いの」どうやら研修生には病名も知らされてないようだ。
「うん、手癖が悪いみたい」
「そうなの、どんな風に悪いの」
「貴女みたいな可愛い子の心臓を抜き取るとか、かな」
「盗んだでしょ」笑いながら応えた。
「いやー、僕が盗まれたかも」
「うふふ」まだ幼さの残る笑顔にまだ磨かれていない原石の素朴な美しさを感じさせた。
6〜7人の看護婦達も若く綺麗な娘ばかりで会話も年齢に関係無く全員がタメ語で気さくに声をかけられ純一は病院がこんなにフレンドリーな感じとは想定外だった。
患者は看護婦に世話される立場上タメ語でバランス構成されるようだ。
殺風景な病室に彼女達の若々しい色彩が際だってこの曖昧なアイボリーの壁の目論見が理解できた。
純一は小さなイベント会社を運営していたが1人で何役もこなす典型的な中小企業の経営者だった。
毎日が地獄のように忙しく時間と戦いながら仕事をこなしていた。
この入院で一気に仕事から開放されその晩は熟睡した。翌朝、昨夜相手にした研修生に朝食で起されるまで目が覚めなかった。
朝食を済ませ、またうとうとして気付くと昼食だ。今までの労働が如何にハードだったかを物語っていた。
午後の2時を廻ったころベッドで微睡んでると星野さんが来て
「剃髪しますから来て下さい」と言われナースステーションに連れていかれた。
其処の壁際に小さな簡易ベッドが設置されていてカーテンで一応に区切れが出きるように成っていた。
彼女がカーテンを引いて廻りを遮断すると簡単な個室に変わった。
「ベッドに仰向けになってください。それから下着を外してください」簡単に言われた。
「えっ、此処で脱ぐの」一寸驚いて躊躇した。
生きなりこの娘に下半身を曝す等、想定外の展開に猛烈な羞恥心が襲った。
「はい。お尻を剃ります」笑顔にどこかいじられている感じがした。
逆らう事も出来ず下着を外すと外気に晒されひんやりした冷気を感じた。
「両足を腕で抱えて下さい」
「えっ」なに一つ抗えないそういう立場のようだ。言われるまま全てをさらし両足を腕に抱え赤子がおむつを変える形を取らされた。中年男のこのポーズは過なり過激だ。
暖めたタオルを純一のシンボルに乗せると肛門周辺にシャボン液を擦り付け、剃り始めた。
丁寧に剃られていたがその分くすぐったい、その上気恥ずかしくて、不思議な浮遊感を感じた。
(しかしこの格好で宙に浮いたら目も当てられない)
可なり顔を近づけ剃っているらしく彼女の吐息が裸の尻肌に感じ取れた。
肛門周辺を剃り終えると次第に範囲を拡げ始めた。(何処までやるつもりだ)そしてそれは純一の思惑を遥かに越えだした。
時折指先が純一の敏感な処に触れ沸き起こる血のさざ波を押さえるのに脳味噌で葛藤した。
脳内での闘いの直中下腹部ヘアーは無残にも完璧に剃り落とされてしまった。
丸裸にされたシンボルが妙に不甲斐ない姿で頭を垂れていた。(せめても頭を起てずに救われたのだが)
彼女が笑みを溢しながら言った。
「お疲れさま、終わりました」
「あっ、星野さんこそお疲れさま、でも恥ずかしいな」
照れ臭さを意識して殊更はっきり言葉にした。
「うふ」溢した含み笑いに少し遊ばれている感じがしたが嫌では無かった。
それから星野さんはよく純一のベッドに顔を出した、そんな気がした。
30歳の痔の患者が言った。
「柴田さん、星野さん結構いいよね、年甲斐もなく感じているけど彼女は僕の太陽なんだ」恥ずかしくもなくよく言えたものだと感心した。
人は外見で判断しちゃいけない、この男は以外とロマンチストなのかも知れない。只流石にその言葉は此方が赤面しそうだ。
「そうだね、確かに可愛いね」用便の後彼女が痔の処理をしてあげた直後の会話だ。太陽に汚れた肛門を曝したわけだ。
勿論純一も大差ないのだが。
その日の午後3時過ぎ星野さんと先生がやってきた。
「検査の結果腫瘍は良性でした、手術すれば完了です」と告げられた。
「本当ですか」現実にその言葉を耳にするまでさしたる不安は持って無かったがもし悪性だったらと思いが巡って結果に改めて安堵した。
「後で患部を写真に取りますからレントゲン室に行って下さい」
「分かりました」
「後で連れていきますね」簡単に星野さんが言った言葉にフッと心が浮き立って体温が少し上がった気がした。
そうして心待ちにしていると星野さんが車イスで迎えに来た。
足腰がぴんぴんしているのに儀式なのか不思議な感じがした。
入院病棟と治療室は棟が離れていて一旦一階に降りて回廊のような廊下で通じていた。
車イスで運ばれ、切ない優しさを背中に感じ純一はまるで初デートの様な昂ぶりに上気していた。
「星野さん、凄い人気ですよ。患者さんの太陽になっていますよ」同室の痔の患者のセリフをぶつけた。
「柴田さんも看護婦仲間じゃ噂ですよ」看護婦の話題も男の品定めが有るようだ。
「えっ、何てですか。不安だな」
「ふふふ、」何も応えないのが不安で内容が気になった。
「もしかして。悪口」
「いいえ、人気有るみたいですよ。ただ」其処で言葉を切られ、益々不安が覆った。
「僕何か変ですか?」
「柴田さんベッドでの座り方が女ッぽいって。これじゃないかって」手の甲を口に当てオカマのジェスチャーをして見せた。
純一は膝を揃えて斜に座る癖があって其処を指していた。
「えっ参ったなー。そんな気ないのに」
「優しそうだからそう思われたみたい、でも皆気に入っているみたいですよ」
「まっいいか。嫌われてなきゃー」
「柴田さん市川でしたよね、私は千葉なの」同県と聞いて妙に嬉しくなった。
理不尽な現象だ。自宅に向う電車の中は殆ど同県人同士なのだ。
「そうか、同県人ですか、退院したら、同県人同士で飲み会しません」
「私は未だ19歳でお酒は飲めないの、でも2週間したら20歳だから平気かな」
正確な年齢が判って少し近づけた気持ちになる、それも不思議な現象で歳が判れば年齢差で引かなきゃならないが自身の年齢が意識から外れていた。
「そうですか、じゃお誕生祝いさせて下さい。なんてね、彼氏に失礼だね」
妻子持ちの中年男が簡単に言えたのは彼女の屈託ない仕種の性だろう。
「ふふふ」然しそれには応えなかった。
レントゲン室までのデートは終わり、この年に成っても気の利いた事が言えず自身で虚しかった。
レントゲン撮影はセオリー通りこなし終了際レントゲン技師に言われた。
「外形写真も取ります、仰向けに成って下さい」昨日の剃髪と同じポーズを取らされ、カメラを構えパシャパシャ撮影し始めた。
ヌードモデルでもこのポーズは大胆すぎる。
一通り終了し帰りは徒歩だった。行きが何故車イスか矢張り理解に苦しんだ。ベッドに戻ると疲労が放出されていくような感覚で眠りに誘われ、星野さんが真直に顔を寄せ微笑んでいる夢をみていた。
「柴田さん」声がした。
其処に実物の星野さんが微笑んで此方に顔を向けていた。
目覚めた途端夢心地でにやけていた自身が気恥ずかしかった。
「ご免なさいね、起しちゃって明日手術するので、準備の説明に来ました」
「あっ、済みません、うとうとしてしまって」
「明日10時から手術です。今晩夕食は食べられません。
下剤出しますから、お水も沢山飲んでくださいね。それから明日下着を丁字帯に履き替えておいて下さい」
「はい、分かりました、いよいよ手術ですか」
その晩から翌朝まで下剤が効いてお腹は空っぽになった。
早朝ベッドで下着を丁字帯に履き替え待っていると見慣れない看護婦がストレッチャーを運んできた。
手術用のガウンに着替えさせられたが、そのガウンに防水ゴムが織り込まれているようで素肌がヒヤッとした。
生まれて初めて躰を切り刻む、この冷たさと痛みは通じていそうで痛みを連想し気持ちが萎えた。
ストレッチャーに仰向けになって毛布を掛けられ手術室に向かった。
本心は星野さんに見送って欲しと願ってた。心細く不安定な心境になると人は甘えたいと願う、それは本能の一部だ。
然し36歳中年男の甘えは不気味でしかないが。
オペ室に付くと医師と数名の看護婦達が待ち受け、これから始まる解体ショーのまな板が引き渡された。
手術の準備に丁字帯を外された瞬間、看護婦達が一斉に純一の無毛のシンボルを覗いた気配がした。先生の声がして
「お前達何見ている」全員がクスっと笑った。
そして仰向けからうつ伏せに態勢替えをさせられた。
手術は部分麻酔のため会話は全て耳に飛び込んだ。
冷たい金属の接触音を聞きながら40分程で終了した。
先生が切り取った肉魂を純一に見せ何故か誇らしそうな表情をした。
凡10cmの大きさに驚いたが、切り取った医者にしてみると大物を釣り上げた太公望の心境なのだろう。
純一はその形状を見て暫く肉が食えなくなりそうと思った。
部屋に戻ると麻酔が切れだして、痛みがジワジワ押寄せてきた。
鬱々と痛みに耐えているところに、星野さんが声をかけてきた。
「痛みます」その声に気持ちが和らいだ。
母に甘えた子供が泣きやむに何処か似ている。それほど人間は素直で単純にできている。
「貴女がいると痛みが和らぐかも」素直に感じたままを口にし、車イスデート後の心境を少し意識して言葉を投げた。
「どうしても辛かったら痛み止め渡しますね」
「有り難う。でも我慢します」この優しい笑顔を独占したくなって益々甘えたい心境が自身でこそばゆい。
人は誰も淡い憧れや恋心は持つものだ。それでもそれに押しとどめその先は求めない。
まして36歳の妻子持ちが19歳の少女に本気で心を奪われることはない。ただ、今この感覚が心地いい。
しかしその後の彼女の行動に心境が一変した。
彼女がガーゼの交換を始め血痕にこびりついたガーゼを引剥がすと激痛が走りその痛みに殺したいと思った。
白衣の天使が悪魔に豹変していた。
真夜中、痛みで寝つけず鬱々していると星野さんが見回りに来た。
「どうしました、痛みます」そう言って手を延ばし手首を取って脈を計った。手の温もりが伝わって妙に縋りたい気分になった。
「いえ、大丈夫です、ただ眠れなくて」
「お薬上げます?癖になるから余り勧めたく無いのですが」
「いえ、大丈夫です」
「何か有ったら、ベル鳴らして下さい、今晩は夜勤ですからずっといます」
「大変ですね看護婦さんも」
「明日は来られませんから、何かあれば言って下さいね」言葉使いに彷彿とした優しさを感じていた。
「有り難う」
自然に会話を引っ張ろうと頭を巡らせ、いつまでもここに居て欲しい心境になっていた。
浅い眠りと目覚め、そして痛みを全身に感じていたが明け方熟睡した。
手術後2日間を寝たきりで過し痛みも和らいできた。
少し余裕が出きると殆どの看護婦の名前や印象が自然に記憶されていった。30歳位年長の戸高さん、ハーフと思えるほど彫りが深く個性的で魅力のある顔立ちだが見方によるとニューハーフにも見えた。
妙に純一を気にしている保田さん。研修生の志賀さん他○○さん等、全員がタメ語で気安い会話に冗談を交え、それでも異性の華やいだ感覚にすっかりハーレム気分になっていた。
下手なキャバクラ顔負けだ。毛は剃ってくれるし、排尿に手を添えたり、肛門まで拭いてくれる。
これほどサービスが行き届いたクラブは銀座にも例が無い。
然し純一はいまだに起き上がることが許されず、難問を抱えていた。食事も常食に戻り出物の処理だ。
小さい方は隠れて出きるが、大きいやつが問題だ。
純一は痔の先生のシーンだけは避けたかった。痔の患者の名前は鼻から覚える気が無い、専ら「痔の先生」と呼んだ。
(彼は「痔の患者だから」と反論したが)カーテン一枚の境界線で純一自身が発するノイズや異臭の不遜さと施術者が異性であることが災いしていた。
腹を決めて我慢する決心をし、幾度か勧められたが拒止していた。
ニューハーフの戸高さんが来た。
「トイレ大丈夫もう3日起つわ、処理しましょう」そう言うと動物用と見間違える太い注射器に浣腸の液剤を満杯に入れてきた。
「いつ、歩けます」
「あと二三日掛かりますよ」
「じゃ、我慢します」
「駄目です、出すもの出さないと、他に影響します」
「いえ、我慢します」
虚しい抵抗だった。流石にニューハーフは浣腸の扱いに慣れていて、遂に純一の純潔は破られ苦しみも悦びも一気に吐出させられた。
これほど人格を無視されたことはない。その光景を記憶から消したいと願うほど悲しかった。
せめてもの救いは施術者が星野さんじゃない事だ。
そして凡1週間が経つ頃、この入院の意味が全く違う目的に向かいだした。星野さんへの思い込みデートだ。
純一の心の波動が伝わってか事あるごとに顔を出した、気がした。
ある朝、朝食を済ませ、うたたを寝をしていると保田さんが洗髪してくれると言ってきた。凡一週間躰を洗わず過ごし、いい加減べた付きと何下に漂う臭いが気になっていた。その状態で洗髪の申し出はこの上なく嬉しかった。
洗面台の丸椅子に座り前屈みになると湯通ししシャンプーをかけ「シャカシャカ」音をたて洗い出した。
細い女性の指先が頭皮をかき分け滅法心地いいリズムに、いつの間にかフワッと睡魔に襲われた。
「終わりました」言われるまで完全に別世界に嵌まっていた。
その日の午後、星野さんがニコニコしながら話しかけてきた。
「今日頭洗いましょうか。さっぱりしないでしょ」有り難う(でも今朝洗って貰ったので)という言葉を喉元で押さえ、違う言葉が突いてでて自分で呆れた。
「えっ、本当ですか、お願いします」
その日は2度目の洗髪を星野さんにやって貰うことにした。
午前中と同じ場所、同じ形で洗髪が始まった。
又同じように心地いいリズムに酔っていた。然し星野さんの洗髪は密度が濃かった。
純一の背骨越しに星野さんの多分下腹部辺りが接触してたのだろう、温もりと柔らかさに溶けそうな気がして、物凄く得した気分になった。
二度もの洗髪でさっぱりさせ心地よくしていたがその様子を見ていた保田さんに嫌みを言われた。
「私じゃ、汚れ、落ちなかったみたいね」
純一はその目を直視出来なかった。
ある日朝食の後純一達の部屋を星野さんと志賀さんがベッドメーキングにきた。「痔の先生」と純一は部屋の片隅でその様子を見ていた。二人は今ではすっかりライバルだ。
甲斐甲斐しく4台のベッドのシーツを外し新しいシーツと毛布をセットし始めた。窓際に起った星野さんの背後から初春の朝日が射込んで、半袖の白衣からよく伸びた腕や足先まで均整の取れた体型が流れる動きを映していた。
純一は小気味良く作業を続ける星野さんに見入っていた。瞬間その視線に気付いて彼女がキラリと見返してきた。
その目は牝豹のような鋭さで突き刺すように返され、純一はその冷たさにゾクっとした。
もう1人の彼女、魔性の存在を感じた。
20歳の少女は決して子供ではない、短時間に凝縮した濃密な経験を刻む時期だ。
仕事の打合わせで社員が幾度か顔を出し、見舞客も訪れ次第に仕事の推移が気になり始めていた。
凡2週間が過ぎ傷口の肉が盛り返し、縫い口も塞がり抜糸を済ませ退院の許可が下りた。
始めての入院での長期休暇、会社の状況を考えると気が急いて漸く社会復帰が果せると安堵した。
しかし一方ですっかり慣れ親しんだ看護婦さん達と別れるのも寂しい気がした。
退院当日、退院を祝って患者も看護師達も声を掛けてくれた。
笑顔でそれぞれに挨拶を交わしたが後ろ髪が何処かに絡まっていた。
要の星野さんの姿が見えず少し焦っていた。このまま会わずに退院するのは余りに虚し過ぎる。未練で時間を間引きしていたが最後まで彼女は姿を現さなかった。
用もないのに潰せる時間に限りがあり、此処に留まるには限界があった。
エレベーターで瞬時に降りてしまうのが虚しく未練がましく階段で降りだした。
両手に荷物をぶら下げゆっくり階段を下りていた背後、不意に片方の荷物を引抜かれた。
「退院おめでとう」
星野さんが純一の荷物を取り上げ、声をかけてきた。
急いできたようでハアハア息をきらせ、それでも眼差しに笑みを零していた。
「アッ、星野さん、会いたかったんだ」声が高調子に裏返った。
「私もよ、だから、今日は夜勤だけど出て来たの、間に合って良かった」
「そうなんだ、わざわざ出て来てくれたんだ、本気で嬉しいよ、本当に有り難う」
「このまま居なくなっちゃうと思って、慌てちゃった」
「貴女のお陰で入院が凄く楽しかった」
「柴田さん、いい人だし私も楽しかったわ」
「お願いが有ります、お礼がしたいな、時間作ってくれませんか」
「このままだと寂しいかも、良いですよ」躊躇なく答えた。
「星野さんの都合に合わせます。いつなら良い」
「じゃ再来週の金曜時間作りますね」
「有り難う、何時がいい」
「6時半にこの病院の駐車場に迎えに来てくれます」
「OKです」
階段を二人で歩く、単に患者と看護婦の関係から一段高い位置に登れた気分になっていた。
人は時折思いがけない展開に引き込まれる。(偶然じゃない)純一は運命的な出逢いを感じていた。
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