第5話 狂った季節

「狂った季節」シライタカシ著


1.家出

 高校を中退して大検に合格した年の秋の夕方だった。家には認知症の祖母がいた。部屋から出てきた祖母が私に、人がたくさんいると訴える。バカな。家には俺と祖母以外だれもいないぞ。どこにと聞くと、あちこちを指さす。人はいない。しかし、霊が見えた。そして、祖母がゾンビに見えてきた。俺は叫んだ。

 あわてて身支度をし、東京の親戚に電話をした。今からお邪魔します。俺は家を飛び出した。道行く街中の人がゾンビに見える。電車で新幹線の駅に行き、東京までの切符を買う。ゾンビの街から逃げなければいけない。俺は狙われているのだ。

 新幹線に乗ると、車両は黒いスーツの怖い男たちで満席だった。デッキに立っていると、横に少女がやってきた。私は洋子だと思った。顏は似ていないが、洋子に違いないと思った。言葉を交わし、別の車両の空いている席に二人で座る。ぎこちない会話。そして、実は洋子ではないということに気がつく。俺はナンパをしたのか? 顏から火が噴いた。丁寧に謝って席を立った。

 東京駅から山手線の目白で降りた。駅で天ぷらそばを注文したら汁が黒かった。これには驚いたが、なんとか腹に入れた。ここにはもうゾンビはいない。安全だと思った。

 親戚の家で事情を話した。中学の時に全国模試で1位をとってしまい、CIAのデータベースに入ってしまった。それから、俺の頭脳の争奪戦が世界で起きているのだと説明した。叔父も叔母も何も言わず、何もしなかった。しばらく居候をさせてくれると言う。

 思い出した。この時、父は海外勤務で、家には母と私と認知症の祖母しかいなかったのだ。いや、弟もいたのではないか。いなかったような気がする。わからない。

 俺は高校に行かず、アルバイトをしたり遊んだりしていた。喘息という持病があり、長生きできるとも思っていなかったので、刹那的になっていた。それでも、高校をやめると今まで遊んでいた大学生がそろって私を敬遠するようになった。もう、この街にはいたくないと思った。

 俺は実家を出たかった。都合よくゾンビ達が来てくれて、俺は東京へと追いやられた。知能には問題があった。全国模試で1位をとってから、怖くなって勉強をやめた。その影響なのか、勉強しても何も覚えられなくなっていた。絶対に脳の病気だった。それでも俺は大学に合格した。

 脳の病気。しかし、母親はそれを認めようとはしない。父親は、そういう人間は生きていても仕方ないと殴る。これが俺の家庭環境だった。

 ゾンビ妄想は時と共に薄らいだ。しかし、完全に消えるというものでもない。以後、こういうトリップが時々起った。それでも俺が病院に連れて行かれることは無かった。


2.結婚

 脳がやられていることを自覚している俺だったが、大学を4年で卒業し、なんとか一流企業で働くことが出来た。就職が決まった時、大学の近くの居酒屋で、俺の目標は経団連の会長だよ、などと真面目に言っていたのはご愛嬌だ。周りの女性達から握手を求められて、俺はヒーローだった。

 バブルの緩い時代だった。俺の揺れる精神は会社には合わなかった。内勤なのに勤務時間中に職場を抜け出し、ファッションヘルスで抜いたこともある。

 キャバクラにも良く行った。ある女子大生から、貴方はサラリーマンをやるような人じゃないと言われた。「サンクチュアリ」という漫画を読めと言われた。国家の指導者ね。そういえば学生時代の彼女にも、貴方は政治家向きと言われたことがある。しかし、政治家は命賭けの仕事だ。俺は小心者なんだよな。

 30を過ぎた頃、ある女性を紹介してもらった。背の高い美人で、美佳という。スーツの似合うキャリアウーマンだ。相手のペースに乗せられて、知り合ってから8ケ月で結婚した。実は、俺は美佳がCIAのスパイだと思っていた。そして、その力から、俺は勤めている会社の社長に登りつめるシナリオがあると思った。そんな感じで結婚生活が始まった。

 結婚して1ケ月の頃だ。美佳が家を買おうというので、郊外に一戸建てを買った。もちろん、ローンを組んだ。そのすぐ後に、美佳のおめでたが分かった。意外だった。俺に子供を産む能力があったなんて。嬉しいよりも驚いた。そして、とても心配だった。元気で正常な子供なら良いのだが、と思った。

 俺は仕事に熱狂していた。当時の収入は1000万円以上あった。それでも貯金はしなかった。お金は常に浪費していた。収入は右肩上がりに増えるから問題ないと思った。

 そのうち俺は、自分がノストラダムスの予言した世紀末の大王ではないかと思い始めた。1999年に画期的な論文が世界を駆け巡り文明を変える。その論文を書くのが俺なのだ。だから、休みの日には本ばかり読んでいた。

 そんなある日、俺に殺人の記憶が蘇る。中学の時だ、俺は実家の傍の神社の裏に誰かを埋めた。それは事実ではないのだが、記憶はある。

 洋子だ。あの時から洋子は学校に来なくなった。クラスで一番の人気者だったのに、それは噂にもならなくなった。誰も口にしない。みんな覚えていないかのようだった。俺は殺人者だ。そんな妄想が浮かんでは消えた。

 妻はCIAのスパイのはずなのに、いっこうに私に指示を出さないし、正体も明かさない。そうこうしているうちに子供が生まれた。女の子だった。名前は佳奈にした。

 おかしい、何という普通の家庭なのだろう。世紀末の大王とCIAのスパイの雰囲気がない。俺は大いに不満だった。そんな時、美佳が言った。

「良い会社に勤めて、美人の奥さんと可愛い子供がいて、何が不満なの?」

 俺はその言葉にショックを受けた。もしかして、美佳はCIAのスパイではないのではないのか。そこには挫折に近いものがあった。


3.左遷

 会社での仕事は絶好調だった。次々とビッグ・プロジェクトを終わらせるカリスマ・マネージャー。しかし、事業部長が仕事の大きさとリスクに脅えて、俺を潰しにかかった。突然の辞令。大阪への左遷である。

 美佳は大阪には行かないという。俺は単身赴任になったが、発令から着任まで4ケ月も粘った。

 単身赴任は最悪だった。すぐに体調を崩した。喘息でステロイドを使った。睡眠不足が何日も続き、不眠症になった。興奮状態だが、頭は働かず、疲れている。そんな状態で会社に行った。

 朝、俺は靴を脱いでデスクの上に足を投げ出した。映画でしか見ないような光景だ。一流企業で、そんな態度を取る奴はいない。そこへ、部下が話かけてきた。

 ふざけるな。俺は疲れているんだ。馬鹿野郎。俺は怒鳴りつけた。職場は一瞬で凍りついた。やがて部長が来て、俺に帰るように言う。俺はタクシーでマンションに帰った。美佳が東京から来た。会社が病院に行けと言っているらしい。翌日、俺と美佳は心療内科に行った。診断は神経衰弱。しばらく休むように言われ、薬と診断書を貰った。

 俺は医者の勧めもあり、2週間ほど軽井沢で静養した。しかし、会社はなかなか私を復帰させようとしない。産業医と会った。とんでもなく嫌な奴だった。ただの会社の犬である。しかし、こいつが俺の主治医になった。躁うつ病と診断され、リチウムを飲まされた。

 結局、4ケ月ほど休んで新しい辞令が出た。まったく別の職種で、しかも職場は大阪、単身赴任のままだ。つまらない仕事だった。俺には世紀末の大王としての仕事がある。真面目にそう思った。

 哲学、歴史、社会学、経済学の本を読み漁った。そして論文を書いて投稿した。それが経済誌に掲載された。それも、希望したペンネームではなく実名で。当然、会社の知るところとなる。

 上司に応接室に呼び出された。

「君は何がやりたいのかな?」

 仕事以外にやりたいことがあれば、会社を辞めてくれと言うことだ。そう、すっかり俺は問題児になっていたのだ。

「いえ、会社で仕事をやりたいです」

「そうか、人事部にはそう伝えておく」

 ああ、なんと情けない大王なのだろう。会社人生は終わってしまったのに、辞められないとは情けない。それでも俺は大王なのだから論文を書かなければいけない。そう思った。

 もっとも、俺が世紀末の大王であるという根拠は、どこにも無かったのだが。


4.離婚

 産業医のクリニックは悲惨だった。長い待ち時間。そして、入院施設も無いのに点滴でベッドに寝かしつけられている患者たち。大学病院に勤務し、個人クリニックとさらに、大学講師で産業医。どこまでお金が好きなのか。とんでもない主治医だった。そして、すぐに俺は躁転した。

 今度は会社の人が複数車でやってきて、無理矢理私を病院に連れて行った。入院施設もない個人クリニックで、ロドピンとバルネチールを処方された。こんな薬を外来で処方するなんてイカレテいる。意識は朦朧とし、喉が異常に乾いた。顏つきもガラッと変わった。

 美佳が私に言った。

「私と娘が大事じゃないの?」

 しばらく間をおいて俺は言った。

「悪い。俺には人類の方が大事なのだよ」

 なんということだ。人類が何なのだ。人類が俺に何をしてくれると言うのだ。それに、俺が人類に何が出来るのだ。

 美佳は出て行った。これがキッカケで美佳とは離婚することになった。それでも俺は、それが正しい選択だと思っていた。

 そしてこうも思った。美佳はやはりCIAのスパイで、危険人物である私を社会的に抹殺するという使命を果たしたのではないかと。

 私の病状はどんどん悪くなり、会社を休むことも多くなった。いや、会社に行けば行くほど病状は悪化したとも言える。

 結局、ダメな産業医を見切って大学病院に転院した。しかし、そこでの治療目標も社会的延命であり、会社に行くことだった。根本的に病気の治療ではないのだ。それが精神科医療の本質なのだ。腐っている。そう思った。

 そして、精神科の薬とは、何の根拠もない脳を破壊する危険な毒物だった。世紀末の大王にとって、これは試練だった。

 何度も入院を繰り返した。3度目の入院で私は退職を決意した。1998年。世紀末の大王に残された時間は、1年しかないと思った。


5.先生

 離婚の時、家を売った。その金でローンを返した。俺はしばらくして会社を辞め、実家に戻った。

 ある時ふと、中学時代の恩師に会いたくなった。今でも年賀状のやりとりをしていて、住所も電話番号も知っている。俺は早速電話をし、先生のお宅に伺うことになった。

 先生は未亡人で、70を過ぎるというのに山登りや旅行で忙しい人だった。海辺の一戸建てに住み、悠々自適の生活を送っている。私は同級生のことをいろいろ聞いた。洋子のことも。

「洋子さんね。自殺したのよ。看護師になって、医者と結婚したのだけどね。鬱病になって。可哀想よね。」

「自殺ですか。良い人でしたよね。」

「本当、明るくて人気があったわよね。途中で転校していったけど、クラスの雰囲気が変わったものね。」

 そうか。転校だったのか。俺は殺していなかったのだ。なら、あれは夢の記憶だったのだろう。そんなことを思った。

 官僚になった同級生もいれば、ヤクザになった同級生もいた。先生は私の知らないことを、いろいろと教えてくれた。俺は洋子のことをもっと聞きたかった。

「ところで、洋子さんのご主人は、今もどこかでお医者さんをされているのですか。」

「ええ。山村心療内科の二代目よ。山崎町にある。知らないかな。それにしても心療内科の医者の奥さんが鬱で自殺じゃあね。近所でも有名になって、一時は経営危機になったらしいけど、今は大丈夫みたい。」

 精神科医か、と俺は嫌な気分になった。そして、逆に会ってみたくなった。

「さて、会社を辞めて、これからどうやって生きて行くの?」

「占い師でもやりますか・・・」

「貴方ね。人生を軽く見ちゃいけないわよ。今言っても遅いかもしれないけど、これからきっと大変よ。覚悟しないと。」

 俺の意識は、そこには無かった。俺は洋子を殺していない。しかし、洋子はもう、この世にはいない。もう、会って話をすることも出来ない。そして、俺の初恋は、これで永遠に続くのだと思った。


6.警察

 俺が洋子の元旦那がいる山村心療内科に行こうとしていた日の朝だった。実家の私の部屋に2人の警官がやってきた。どうやら両親は家にいないらしい。普通なら驚くのだろうが、俺は平然としていた。

 なぜならば、俺は重要人物だ。当然、公安からもマークされているだろう。何か地雷を踏んだのだ。俺は罪を犯してはいないが、何しろ重要人物だから警察が来てもおかしくないと考えた。俺は部屋の入口に立つ警官を軽蔑した目で見て、知り合いに電話をかけた。俺は警官を無視して電話で話を続けた。警官は10分ほどで帰って行った。

 それにしても、どうやって警官が家に入ったのか。俺はそれを考えるべきだった。両親のどちらかが鍵を渡したのだ。敵は両親だった。しかし、俺は呑気に家の中を歩き回り、戸締りを確認しようとした。

 その時、警官が裏口から突入して来た。俺は自分の部屋に逃げようとした。油断があった。警官は4人になっていた。俺は両脇を抱えられた。もはや抵抗する意欲は無かった。

 私はそのまま、家の外に連れて行かれ、警察のワンボックスカーに乗せられた。

「逮捕ですか?」

俺は聞いた。

「保護」

警官は一言、それだけを言った。

 向かった先は警察署だった。小さい部屋で1時間ほど待たされた。何の説明もないまま、再び車に乗せられた。

 街の中心部を走り抜け、山の方へと車は走った。ビルの前で俺は降ろされた。そこは精神病院だった。

 向かった先は会議室。大勢の医者と看護師、それに警察がいた。何を話したのか全く記憶にない。俺は医療保護入院となり、保護室という名の監獄に入れられた。

 これが警察の裏技だ。精神障害で保護が必要ということにすれば、犯罪者でなくても精神病院に入れることが出来る。俺はまるで正常だった。しかし、重要人物だからこうなったのだ。そう考えた。

 大量の抗精神病薬を飲まされて、意識は朦朧となった。


7.入院

 保護室は四面をコンクリートで囲まれた部屋で、鍵のかかる鉄の扉がある。剥き出しの便器と簡単なベッド。上の方に小さい窓があった。俺は病院服に着替えさせられ、財布や携帯電話、それに煙草を取り上げられた。

 入院の手続きに、医師と看護師、それにPSW(精神保健福祉士)がやって来た。医療保護入院についての説明、オリエンテーションがあり、両親と弁護士に連絡がとれるだけで、他とは連絡をとってはいけないと言われた。これが長い監禁の始まりだった。

 数日後、看護師のPHSを借りて知り合いの弁護士に電話をしたが、すべては退院してからだと言われた。約束に違反して、通院していた大学病院の主治医にも電話をしたが、同じことを言われた。両親とは電話連絡がとれなかった。医療保護入院から任意入院に変わるのに4週間かかった。しかし、任意入院になっても外出許可がもらえない。何やら新しい書類にサインさせられた。

 病院は300床を超える精神科の単科病院だ。任意入院に変わってから保護室を出て普通の個室に移った。広間に出ることも、喫煙も許可された。入院患者は千差万別だ。まともに会話の出来る人と出来ない人、気の合う人とそうでない人がいた。

 それにしても何故、俺は入院しているのだろう。それが疑問だった。いったいどういう組織の陰謀に嵌ったのか。大きな疑問だが、医者に聞くわけにも行かない。相手を刺激してはいけないと思った。

 実際に、某宗教団体の悪口を言っただけで保護室に入れられた老人を見ていた。そして、入院患者の中には元スパイという人もいた。

 この元スパイをH氏と呼ぼう。実際、H氏はどこから見ても精神障害者ではなかった。何か深い事情があるようだった。ただ、政治情勢については良く語ってくれた。

「スパイなんて、この街にはたくさんいますよ。殺しなんてやりませんよ。安心して大丈夫。ただし、出入国は事実上自由ですね。わはは。」

 H氏は実に老紳士だった。精神ではなく、身体が少し悪いようで、歩くのが不自由だった。そんなH氏も退院して行った。俺は、とんでもなく政治に詳しくなったように思った。

 入院して、2ケ月が過ぎていた。入院時より、10キロ以上痩せていた。主治医に退院のことを聞いても、はぐらかされるばかりで埒があかない。ここで殺されるのだろうか。そんなことも思った。


8.真実

「面会ですよ」

 看護師が俺に声をかけた。そして面会室に案内された。てっきり両親かと思ったら、そこに居たのは美佳だった。

「どう、ここの住み心地は?」

「何を言ってるんだ。お前とはもう夫婦じゃないだろ。」

「そうね。じゃあ、話すことも無い?帰ろうか?」

「まあまあ、せっかく来てくれたんだ。ありがとう。少し話そうよ。」

「この病院がどういうところか知っている?」

 美佳の質問に俺は答えられないでいた。

「どういうことだ?」

「ここは、貴方の墓場よ。」

「そんな事を言いに、ここに来たのか?」

「まあ、貴方も死ぬ前に真実を知った方が幸せかと思ってね。私も少しは優しいでしょ?」

「真実には興味があるね。」

「そう?ところで、私が貴方と結婚したのはなんでだと思う?」

「さあ。」

「組織の命令よ。貴方を監視して、うまく行けば利用しようと思った。でも、貴方には利用価値は無かったわ。」

「それは、残念だったね。」

「まあ、牙を抜いたから私の役目は終わったの。もう、貴方が何を言っても、世間は精神病患者の妄想としか思わない。今、貴方が生きているのは、組織の慈悲よ。」

「うーん。組織が慈悲で生かしたりするかな。生かすも殺すも、打算というか合理性だろ。だとすると俺が生きているのには組織としての理由があるはずだ。」

「馬鹿ね。殺す理由がないだけよ。まあ、そのうち勝手に死ぬだろうけど。」

 美佳はそう言うと、ニヤリと笑った。

「俺の両親はどうしている?」

「ああ。もうこの世にはいないわ。」

「本当か?」

「本当よ。消された。」

「そうか。俺は退院出来ないのか?」

「さあ。それは主治医の気分次第じゃない?」

「助けてくれないのだな?」

「どうして私が貴方を助けるの?意味がわからない。」

 たしかに俺は美佳にひどいことを言った。あの時、なぜ俺は人類の方が大切だ、などと言ったのだろう。少なくとも、美佳のあの質問には愛があったと思う。そう思いたい。

 俺は狂っていたのだ。世紀末の大王という妄想の中には、正義など無かったのだ。ただ、自らが偉大でなければいけないと思ってしまった。それだけだ。

 俺は今、病院の作業療法室のパソコンからこれを書いている。もう、世間に顏を出すこともないだろう。


9.天国

「ちょっと来ていただけますか」

 看護師が俺に声をかけた。俺は閉鎖病棟を出て応接室に案内された。そこには3人の男性がいた。一人は外国人だった。

「はじめまして。内閣府の宮本です。こちらは東京大学の奥村教授、こちらはハーバード大学のロバート・マーキュリー博士です。」

「どうも。シライタカシです。」

俺の目は点になった。

「今日は、貴方が昔に書かれた『資本主義の逆説、民主主義の逆説』のことでお邪魔させていただきました。あの論文のことは覚えてられますよね?」

「まあ、書いたことは覚えていますが、内容は忘れました。」

「実は、あの『資本主義の逆説、民主主義の逆説』がノーベル賞候補になっている。しかし、いまのシライさんでは社会的に問題がある。そこで、著作権を我々に譲渡していただきたいのです。」

「あの論文は某コンサルティング・ファームの依頼で書いたもので、私は彼らから100万円を貰っているのです。ですから、著作権は彼らにあるのですよ。」

「それは知っています。私たちは、あの論文を英語でアレンジして奥村教授の名前で既に世界に発表しています。その点については、まずお詫びしないといけない。もっとも厳密に言えば、かなりアレンジしていますので著作権の侵害にはなりません。しかし、私たちはシライさんに御礼をするべきだと判断して契約書を用意してまいりました。」

「もしかして、私を消そうとしたのは貴方達ですか?」

「とんでもない。私たちは貴方を保護するのに必死だったのです。誤解された場面もあったかもしれませんが。」

「やはり私は精神疾患なのですね。」

「残念ながら・・・そうです。シライさんは天才と狂気の両方を持っておられる。」

「治らないのでしょうか?」

「最善は尽くします。しかし、現在の脳科学は未知の分野と言ってよいレベルですので・・・」

「これは幻覚じゃないですよね。主治医を呼んでもらえませんか?」

 俺がそう言うと、宮本氏は看護師に主治医の先生を呼ぶよう促した。

「その前に契約書をご覧ください。」

 宮本氏が鞄からクリアファイルを取り出す。そこには契約書と小切手が挟まれていた。

「私たちは、20億円を用意させていただきました。」

「20億・・・円」

 俺は頭が混乱した。また幻覚かと疑った。はやく主治医に来て欲しいと思った。

「ご不満ですか?」

 宮本氏は微笑みながら、そう言った。

「いえ、不満はございません」

「ただし、他にも条件がございまして、今後のシライ様の著作についてのすべての著作権をいただきたいのです。何しろシライさんはいつ何を書かれるか分かりませんからね。」

 20億円を貰えるなら異存はない。シライタカシの名前が永遠に封印されたとしても、それは仕方のないことだ。

「承知しました」

「では、契約書にサインを」

 俺は一通り契約書に目を通した。簡潔な分かりやすい契約書だった。俺は宮本氏に渡されたパイロットの万年筆で、2通の契約書に署名した。

 ノックの音と共に主治医が入って来た。官僚を前に極度に緊張している様子だ。

「私の退院は、いつになりますか?」

「はい。任意入院ですので、いつでもお好きな時に退院していただけます。」

「わかりました。」

 俺は思い切り偉そうにそう言うと、顎で主治医に退室を促した。

 俺は立ち上がり、3人と固い握手をした。応接室を出て、手に持った契約書と小切手を眺めた。涙が溢れ出した。それにしても、俺はあの論文の内容をまったく思い出せないことに気がついた。笑いが出た。笑いが止まらなくなった。私は誰もいない廊下で一人笑い続けた。涙を流しながら。  

(狂った季節-完)

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