インターバル
二大巨頭
赤星道場の合宿稽古から、およそ一週間後――お盆明けの、八月の第三木曜日である。
その日は『トライ・アングル』のニューシングルのジャケット撮影、およびライナーノーツや特典グッズのための撮影が執り行われる予定になっていた。
もちろん瓜子は、朝から溜息をつき通しである。このたびも、瓜子は撮影地獄の魔手から逃れることはできなかったのだ。「すべては『トライ・アングル』のために」という伝家の宝刀を抜かれてしまうと、瓜子などは真っ二つに断ち割られる他なかった。
「猪狩センパイの不覚悟なふるまいをたしなめるのも、いい加減に飽き飽きしてきたのです。あとは撮影業務の足を引っ張らないように祈るばかりであるのです」
と、愛音のほうは相変わらず奮起している。
そしてユーリは、もちろん満面の笑みであった。
「ここ最近はみんなで撮影するのもしょっちゅうだったけど、やっぱり『トライ・アングル』の撮影となるとワクワク感が増大しちゃうねぇ」
「愛音も、心から賛同を申し上げるのです! カメラマンもトシ先生なので、なおさら言うことはないのです!」
「……みなさんが楽しそうで、何よりっすよ」
瓜子たちはすでに着替えを済ませて、ガウン姿で顔や頭をいじられているさなかである。本日も、まずは女子三名の撮影を終えてから、男子メンバーと合流する手はずになっていた。
ちなみに四日前には、すでに新曲のレコーディングを終えている。そちらの楽曲のイメージに従って、本日の撮影が進められるのだ。しかしまあ、たとえどのようなイメージが構築されようとも、瓜子たちが水着姿になることに変わりはないのだった。
そうして顔と髪のメイクを終えた瓜子たちが、いざ撮影スタジオに出向いてみると――そこには千駄ヶ谷やトシ先生や撮影クルーたちとともに、円城リマの姿があった。
「あ、瓜子さん、ユーリさん、おひさしぶりぃ」
円城リマは、ふわふわとした表情で微笑みかけてくる。
髪が長くて、びっくりするほど色が白くて、これといった特徴もない顔立ちであるのに、ひと目見ただけでなかなか忘れられないような不思議な空気を纏った女性――高名なイラストレーターにして山寺博人の秘密の伴侶である、円城リマである。
本日も、彼女は真っ黒でオーバーサイスのトップスとボトムに身を包んでおり、長い黒髪は首の後ろでゆったりと束ねている。そうして黒ずくめの格好であるために、肌の青白さがいっそう際立つのだ。その瞳は、夜の湖みたいに黒く静まりかえっており――一年前に見たときと、なんら変わらない姿であった。
「ど、どうもおひさしぶりです。エマさんもお元気そうで、何よりです」
「うん。瓜子さんも、元気そう。ていうか、とても幸せそう。……それなのに、ちょっぴり憂鬱そうなお顔だね。それがわたしのせいじゃないといいんだけど」
「い、いえ。自分はただ、撮影の仕事が苦手なもので……」
「ああ、そうだったね。それでも幸せ気分のほうがまさってるみたいだから、そこは安心かな」
その悠揚せまらぬ物腰も、やはり以前のままである。
瓜子は彼女に深く感謝しているし、山寺博人との平穏な関係を願ってやまない身であったが――ただやっぱり、つかみどころがないという印象に変わるところはなかった。
彼女は今回、ジャケットやグッズのデザインに関わりたいと立候補した身となる。
まあ、彼女はかつて『ワンド・ペイジ』のほうでも同じ業務に取り組んでいたので、何も不都合はないのだが――ただ、瓜子との関係については事前に段取りを組んでおく必要があった。彼女と瓜子はいつも非公式の場で面会していたし、そもそものきっかけは山寺博人との婚姻関係にまつわる案件であったため、すでに顔見知りであることにもっともらしい理由づけが必要とされたのである。
その結果、彼女は『トライ・アングル』の映像を観て、ユーリと瓜子に強い興味を抱いたのだという設定がこしらえられることになった。
それで昨年には、瓜子とユーリにそれぞれ肖像画をプレゼントすることになったと、そのように周知されることになったのだ。あとは瓜子たちがその設定を厳守すれば、秘密の婚姻関係が露呈する恐れもなくなるはずだった。
(あたしのせいで一時は離婚の危機にあっただなんて、そんな話は口が裂けても言えないもんな)
瓜子がそんな風に考えていると、円城リマの不思議な眼差しがユーリのほうに向けられた。
「ユーリさん……あなたの写真は、ネットで拝見してたけど……本当に、別人みたいに生まれ変わったんだね」
「はいぃ。すっかり肥え太ってしまって、恐縮の限りなのですぅ」
「ううん。ますます素敵になったよ。ていうか……あなたがそんな風になったから、わたしも我慢がきかなくなっちゃったんだよね」
そう言って、円城リマはふわりと微笑んだ。
「あなたはこんなに生々しくて力強いのに、半分ぐらい違う世界に足を突っ込んでるように見えちゃって……とにかく、わたしの創作意欲をかきたてて仕方ないんだよ。だからこうやって、図々しく出張ることになっちゃったの」
「いえいえ、とんでもありませんですぅ。ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いいたしますですぅ」
そうしてユーリがぺこぺこと頭を下げていると、黙ってこのさまを眺めていたトシ先生がずいっと進み出てきた。
「なんだかよくわからないけど、ここはアタシの領分なんですからね。余計な口出しはつつしむように、どうかお願いできるかしら?」
「もちろんです。写真に関しては素人なんで、口出しのしようがないですよ」
円城リマがやわらかい笑顔で答えると、トシ先生は「どうかしらね」と口をとがらせた。
「ついこの前も、アートディレクターとかいう得体の知れない輩が仕事場に乗り込んできて、散々だったのよ。文句をつけるなら、自分で撮影しなさいって話よね」
「まったくですね。わたしも創作の最中に口を出されたら、そいつの顔にペンキをぶちまけてあげますよ」
仏頂面のトシ先生と柔和に微笑む円城リマが、おたがいの姿を見つめ合う。
きわめて芸術家気質である両名の対峙に、瓜子はひとりでハラハラしてしまった。
「……じゃ、撮影を始めましょうか。男の子たちが出張ってくるまでに、あるていどのカタをつけておかないといけないんだからね」
かくして、本日の撮影が開始された。
ギャラリーに円城リマが加わるというのは、いっそう緊張が増すものである。しかも彼女はトシ先生がカメラを構えるなり、そのかたわらでスケッチブックに筆を走らせ始めたのだ。ユーリは普段通りの無邪気さであったが、瓜子としては委縮してならなかった。
「瓜子ちゃん、顔が固いわよ。ユーリちゃん、おしおきしてあげてもらえる?」
「はいはぁい。よろこんでぇ」
ユーリは嬉々として、横から瓜子に抱きついてくる。これまでの撮影現場でも、たびたびこういう事態に至っていたのだ。こんな素肌で密着されたら、瓜子は惑乱するばかりであるのだが――しかし確かに緊張とは別種の感情にとらわれるため、トシ先生としてはそれで目的が達せられるようであった。
そしてその間も、円城リマはしきりに筆を走らせている。
瓜子の体感としては、三分に一枚のペースでスケッチブックをめくり、新たな絵に取り掛かっている様子である。それがすでに創作活動の一環であるのか、あるいはただの手慰みであるのかは、まったく計り知れなかった。
最初の三十分ほどでお召し替えを命じられるが、けっきょく準備されるのは水着となる。ただし、二度目のお召し替えでは、ユーリにのみドレスが準備されていた。
ただし、胸もとにはへその辺りまでVの字に切れ込みが入り、足もとには太腿の付け根までスリットが入った、妖艶なる衣装である。いささか露出の度合いが小さくなろうとも、胸の谷間は丸出しであるし、水着よりもよほど際どい印象であった。
これは、『トライ・アングル』の持ち曲である『アルファロメオ』をイメージした衣装となる。
協議の末、三ヶ月連続でリリースされる新曲には、『ベイビー・アピール』や『ワンド・ペイジ』のカバー曲がカップリングとして添えられることになったのだ。それで第一弾に選ばれたのが、『トライ・アングル』においても異色作である『アルファロメオ』であったのだった。
そこで瓜子と愛音に準備されていたのは、ユーリのドレスと同じサテン生地の水着である。とうてい実用には耐えられなさそうな、撮影用の水着であった。
さらには、ユーリとおそろいのドレスハットとステッキとハイヒールの小道具まで準備される。ドレスを着ているユーリはまだしも、水着姿では珍妙なばかりであった。
中央に立ったユーリの左右に、瓜子と愛音が侍らされる。その際にはずいぶん芝居がかったポーズを要求されて、羞恥心が増幅してならなかった。
「うーん……これはちょっと、キビしいわねぇ。ユーリちゃんはバッチリなんだけど、瓜子ちゃんたちに妖艶さが足りないわ」
「そ、そうっすよね。これはさすがに、自分たちじゃ力不足っすよ」
「いや、瓜子ちゃんたちも無理に背伸びしてる感じが、かわゆらしいのよ。ただ、本格的に妖艶なユーリちゃんとはバランスが取れないのよね。残念だけど、ここはユーリちゃんのピンでいきましょう」
そうして瓜子と愛音は、撮影を免除されることになった。瓜子たちも長らく『トライ・アングル』の撮影に関わっていたが、こういう事態はほぼ初めての体験である。
しかし、ユーリ単独の撮影を拝見すれば、その理由も明白であった。ユーリはまさしくステージで『アルファロメオ』を歌唱する際と同じぐらいの妖艶さを振りまいていたのだ。こんなユーリと並べられたら、瓜子や愛音などは滑稽なだけであるはずであった。
ユーリは性悪女の一面など持っていないはずであるのに、その役を恐ろしいほどのクオリティで演じきっている。魔性の存在を思わせる色香と妖艶さであるのだ。おのれの不甲斐なさに打ち沈んでいた愛音も、ユーリのそんな姿に陶然と見入っていた。
そして――そこで初めて、円城リマが声をあげたのである。
「なんか、イメージと違うなぁ。この衣装、陳腐じゃない?」
円城リマは、普段通りの穏やかな声音である。
しかしトシ先生は、広くなりかけた額に何重もの皺を刻みながら、そちらを振り返った。
「……あたしの仕事に口を出すなって話を、もう忘れちゃったのかしら?」
「だって、陳腐でしょう。あなたは本当に、こんな衣装で満足しているんですか?」
「衣装を準備したのは、スタッフよ。アタシは与えられた環境で、最高の一枚を目指すの」
「その最悪な環境には、目をつぶるんですか? それはちょっと、意外でした」
トシ先生はついに身体ごと円城リマに向きなおり、いっそう険悪な形相となった。
「何が最悪な環境よ。スタッフは黒や紫の衣装も準備してたけど、アタシの判断で赤を選んだの。その判断に、ケチをつけようっての?」
「ああ……もしかして、あなたはあの曲を聴いてないんですか? それなら、納得がいくんですけど」
円城リマがふわりと微笑むと、トシ先生は「ふん!」と鼻を鳴らした。
「曲なんて、知ったこっちゃないわよ。アタシが最高の一枚を撮れば、それで十分でしょ」
「あなたの最高の一枚と曲のイメージがしっかり合致したら、最高の相乗効果が得られるはずですよ。これはあくまでジャケット撮影なんですから、妥協をしないで最高の調和を目指すべきじゃないですか?」
トシ先生は何か言いかけたが、途中で口をつぐみ、しばし黙考してから再度発言した。
「……アタシは以前の撮影で、ユーリちゃんたちの曲を流しながら撮影したこともあるのよ。でも、どうしてあのバンドにユーリちゃんの妖艶さが必要になるのか、さっぱり理解できなかったのよね。もしかしたら、今回は曲のイメージが違ってるのかしら?」
「はい。よかったら、聴きます?」
円城リマは足もとに置いていた黒革のトートバッグからMP3プレイヤーを取り出した。
おそらくは、四日前に録音された『アルファロメオ』の音源であろう。山寺博人は彼女にそれを聴かせるために、こっそりデータのコピーを持ち帰っていたのだ。
イヤホンを装着したトシ先生は、顔をしかめながらそれを聴き――「何よこれ!」とわめきたてた。
「ユーリちゃん、ものすごい色気じゃない! こんなの……どうあがいたって、写真のほうが負けちゃうわよ!」
「でしょう? それも、衣装のせいですよね」
「まったくだわ! ユーリちゃん、そんなものは今すぐお脱ぎなさい!」
「ええ? でもそうしたら、ユーリはショーツひとつのすっぽんぽんになってしまうのですぅ」
妖艶さを消し去ったユーリは、豊満なる肢体をもじもじとくねらせる。
どんなに露出の多い水着でも恥じらいを見せないユーリであるが、ぎりぎりのラインで羞恥心は残しているのだ。それは若かりし頃に撮影されたイメージビデオ、その名も『桃色天使』をすべて回収するのだという意気込みに表れていた。
「そんな衣装を着るぐらいなら、裸のほうがまだマシよ! ……いや……と、いうよりも……」
「この曲に相応しいのは、裸ですよねぇ」
円城リマの言葉に、トシ先生は大きくうなずく。そしてユーリは「えーっ!」と飛び上がることになった。
「でもでもヌードの撮影というのは、ユーリにとって数少ないNG案件なのですけれども……」
「言われなくったって、そこまで露出したらジャケットなんかに使えないでしょ。大事な部分は、お手々で隠せばいいのよ」
「ですよね。構図は、こんな感じでどうでしょう?」
円城リマが、スケッチブックに筆を走らせる。
それはいかにも簡易的な絵柄であったが、真正面を向いたユーリが自分の頬を左右の手の平で包み込むような構図であり、その腕が胸もとを隠していることは見て取れた。下半身は、へそ下十センチぐらいの位置で切られている。
「これなら下は、ローライズの水着でかまわないしね。これでもユーリさんのNGに引っかかっちゃうかしら?」
「はあ……これならまあ……でもでも、トシ先生以外の殿方に見られてしまうのは、ちょっと恥ずかしいと申しますか……」
「じゃ、男連中は追い出すわよ! あんたたち、聞こえたでしょ? さっさとここから出ていきなさい!」
トシ先生の癇癪には慣れっこであるのか、男性スタッフは苦笑を浮かべたり肩をすくめたりしながらスタジオを出ていった。
「あとは、メイクの手直しね! 一回すっぴんに戻して、やりなおしなさい!」
「メイクは、リップだけで十分じゃないですか? 素肌の透明感を活かすべきだと思います」
「それもそうね! 目もとに黒みが欲しいところだけど……それは、影でつけるべきね! ほらほら、さっさとすっぴんに戻して! リップは、そのヘアカラーになるべく近い色でね!」
「ああ、やっぱりわかってらっしゃいますね」
円城リマは、にこりと嬉しそうに微笑んだ。
「あなたの作品はいくつか拝見しましたけど、ユーリさんの魅力の理解者だとお見受けしていました。同じ光景を見られる御方と仕事をご一緒できて、光栄です」
「ふん……あんたも、口だけの人間ではないみたいね」
トシ先生はひょろひょろの腕を組み、傲然とそっくり返りながら、にやりと微笑んだ。
どうやら二人は、瓜子の理解し難い領域ですっかり意気投合してしまったようである。
(まあ……これで新曲の売り上げも安泰……なのかなぁ)
ユーリのほうをうかがうと、何だか雨に打たれたゴールデンリトリバーのような風情で、メイク係にメイクを落とされている。
そして、こちらの視線に気づいたユーリが「とほほ」とばかりに眉を下げたので、瓜子は精一杯の笑顔を届けることにした。
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