02 開会式

 その後も不測の事態に見舞われることなく、試合の時間は刻々と迫っていた。

 ルールミーティングにドクターチェック、マットの確認にバンデージのチェック――それらを終えたら開場時間で、開場の三十分後にはもう開会式だ。


 入場口の裏手に集合しても、同じ陣営に馴染みの選手が少ないため、普段よりずいぶん静かな様相である。また、いつも元気な宗田選手も今回は沖選手や亜藤選手をターゲットにしており、ユーリや瓜子にはあまり近づこうとしなかったのだった。


(まあ、静かなら静かで悪いことはないしな)


 それに、瓜子のもとにはぴったりとユーリが寄り添ってくれている。ユーリは馴染みの選手がたくさんいると口数が減ってしまう一面があるため、今日などはなかなかご満悦の面持ちでしきりに瓜子へと喋りかけていた。


「でもでも、今日はユーリとうり坊ちゃんの試合が連続だから、うり坊ちゃんにユーリの試合を見届けてもらえないのだよねぇ。それだけが、唯一の心残りですわん」


「そうっすね。自分も残念です。でも、この場所でユーリさんの勝利を祈ってますよ」


 今現在も、瓜子は列の最後尾で、ユーリがそのひとつ手前という並びになっている。瓜子もキックの興行ではメインを飾らせていただく経験もなくはなかったが、それでもやっぱり《アトミック・ガールズ》で最終試合を受け持つというのは身が引き締まる思いであった。


(まあ自分の試合はともかくとして、今日もなかなか充実したマッチメイクだと思うんだけど……お客さん的には、どうなんだろうな)


 そんな想念を抱きつつ、瓜子は列に並ぶ人々の配置でもって、本日の試合の順番を再確認してみた。


 プレマッチは、アトム級とストロー級の二試合。

 第一試合は、邑崎愛音 vs 大江山すみれ。

 第二試合は、奥村杏 vs まじかる☆あかりん。

 第三試合は、宗田星見 vs バニーQ。

 第四試合は、後藤田成美 vs ラニ・アカカ。

 第五試合は、金井若菜 vs 犬飼京菜。

 第六試合は、大村芳子 vs オルガ・イグナーチェヴァ。

 第七試合は、沖一美 vs 多賀崎真実。

 第八試合は、亜藤要 vs イリア・アルマーダ。

 第九試合は、ユーリ・ピーチ=ストーム vs 兵藤アケミ。

 第十試合は、猪狩瓜子 vs ラウラ・ミキモト。


 これが、本日の興行のマッチメイクであった。

 ひとつ印象的であるのは、瓜子の所属するストロー級の試合が多い、ということであろうか。プレマッチは除くとしても、アトム級と無差別級が二試合、フライ級が一試合で、残る五試合がストロー級で構成されているのだった。


(まあ、もともとストロー級は選手の層が厚いけど……前王者のサキさんが休養中で、新参者のあたしなんかが新王者になったって影響もあるのかな)


 なおかつ、小柴選手や灰原選手といった若手の選手の台頭と、ネームバリューのある宗田選手やラウラ選手の参戦で、いっそう混沌とした様相になっているのだろう。さらにその前にはメイがこの階級を引っかき回してくれたため、これまでの番付もほとんど機能していないような印象が生まれていた。古参である後藤田選手とラニ・アカカ選手、亜藤選手とイリア選手というマッチメイクが組まれたのも、トップ間の番付を今一度再確認しようという思惑があるのではないかと思われた。


(あたしなんて、日本人のトップファイターはイリア選手しか対戦してないもんな。昔からのアトミックのファンだったら、あたしの戴冠に納得いってないんじゃないのかな)


 ストロー級は層が厚いために、トップファイターと呼べる選手が多数存在する。が、亜藤選手と山垣選手はメイに敗れてしまったし、後藤田選手は一色選手に敗れてしまったし、時任選手は鞠山選手にも小柴選手にも敗れてしまった。これでは瓜子が相手だと格落ち感が否めない、などと駒形氏は言っていたものであったが――瓜子としては、そういった選手にすべて打ち勝った人間こそが王者に相応しいのだと思えてならなかった。


(だからまあ、それは今後の防衛戦でひとりずつ実現していくしかないんだろうな。まずは、目の前のラウラ選手だ)


 ラウラ選手は《フィスト》の興行において、亜藤選手や山垣選手や時任選手に勝利している。その三名はフィスト系列のジムに所属していたため、そちらで対戦の機会があったわけである。それだけの実力者であれば、瓜子も思うさま奮起することができた。


 そうして開会式がスタートし、選手は一名ずつ扉の向こうに消えていく。

 扉の隙間から聞こえてくるのは、前回から復活した《アトミック・ガールズ》のイメージソングだ。その音色は、今日も瓜子の胸に充足をもたらしてくれた。


「それじゃあ、お先にぃ」という言葉を残してユーリが花道に躍り出ると、これまで以上の歓声が吹き荒れた。


(ユーリさんを差し置いてメインを飾るあたしにブーイングでもあがったら、ちょっと面白いのにな)


 瓜子はついついそんな人の悪いことを考えてしまったが、そんな事態には至らなかった。瓜子が花道に踏み出すと、人々はユーリに対するのと同じぐらいの歓声で出迎えてくれたのだった。


 体感としては、前回の興行よりも華々しく思えるほどである。

 それをありがたく思いながら、瓜子は花道を踏み越えて、ユーリの隣にあらためて立ち並んだ。


『それでは開会の挨拶を、本日は兵藤選手にお願いいたします!』


 リングアナウンサーがそのように告げると、客席にはどよめきのようなうねりが広がった。通常であれば、メインイベントで赤コーナー陣営である瓜子がその役を担うところであるのだが、本日は引退試合を行う兵藤選手にその役が譲られることになったのだ。


 もちろん古参のファンであれば、何もいぶかしく思うことはないのであろうが――ここ数ヶ月、《アトミック・ガールズ》はこれまでよりも規模の大きな会場で興行を行っている。それはつまり、この近年で試合会場に足を運ぶことになった新参のお客が増えたということなのかもしれなかった。


(それで、新参のお客は兵藤選手のことをロクに知らない可能性すらあるんだよな)


 兵藤選手が最後に試合を行ったのは、昨年四月の大阪大会、ベリーニャ選手とのグラップリング・マッチとなる。そしてMMAの試合となると、一昨年十一月の無差別級トーナメントにおけるサキ戦にまでさかのぼるのだった。


 兵藤選手はすでに、一年以上もMMAの試合を行っていなかったのだ。

 しかも、最後の試合では軽量級たるサキにKO負けをくらい、グラップリング・マッチにおいてもベリーニャ選手に秒殺されてしまっている。

 鞠山選手の言う通り、これまでの《アトミック・ガールズ》を支えてきたのは来栖舞と兵藤選手なのであろうが――確実に、時代は移り変わりつつあったのだった。


『押忍。柔術道場ジャグアルの、兵藤です。本日は、ご来場ありがとうございます』


 と、会場内のどよめきなどまったく気にかけていない様子で、兵藤選手は重々しい声で挨拶をし始めた。

 ケージの反対側に立ち並んで背中を向けた瓜子には、その姿を確認することはかなわない。ただ、男のように潰れたその低い声音には、隠しようもない気迫と覚悟があふれかえっていた。


『昨年の夏頃から冬頃にかけて、《アトミック・ガールズ》は大変な騒ぎに見舞われてしまいましたが、新しい運営陣と選手の方々の尽力でもって、なんとか切り抜けることができました。なんのお役にも立てなかった自分には、何も偉そうなことは言えないのですが……自分の愛する《アトミック・ガールズ》を取り戻してくれた方々と、見放さずに応援してくれたみなさんに、深く感謝しています。残念ながら、自分にとってはこれが最後の試合になってしまいますが……どうか今日の興行も、最後まで楽しんでいってください』


 内容は、きわめて尋常な開会の挨拶である。

 ただ、その声に込められた気迫に圧倒されたかのように、客席からは歓声がわきかえった。

 そして瓜子の隣では、ユーリが静かにまぶたを閉ざしている。


『兵藤選手、ありがとうございました! 長きにわたって《アトミック・ガールズ》を支えてくださった兵藤選手の最後の試合を、わたしも刮目して見届けさせていただきます! ……それでは、選手退場です!』


 再び吹き荒れる大歓声の中、瓜子たちは花道を引き返す。

 そうして入場口の裏手に到着するなり、ユーリは深々と息をついて、瓜子に向きなおってきた。


「兵藤選手のお言葉が、胸の奥底にまでしみわたったのです。……ありがとうねぇ、うり坊ちゃん」


「え? 何で自分がお礼を言われなきゃいけないんすか?」


「だって、うり坊ちゃんのコンセツテイネイな説明がなかったら、ユーリはまたのほほんと兵藤選手のお言葉を聞き流しちゃってたと思うもん。……あとはやっぱり、ヒロ様にもお礼を言わなきゃかなぁ」


「今度はヒロさんっすか。それは、どういう理屈です?」


「ヒロ様は、歌詞に気持ちを乗せるべしってアドヴァイスをくれたでせう? それ以来、真剣に語っているお人のお言葉にはきちんと気持ちが乗せられてるんだなあって、そこはかとなく理解できるようになった気がするのです」


 そんな風に語りながら、ユーリはにこりと微笑んだ。

 なんだか、びっくりするほどあどけない笑顔である。


「……そうっすか。それなら、お礼を言わなきゃですね。ヒロさんがどれだけ困ったお顔をするか、楽しみにしてます」


「にゃっはっは。おしりを蹴られないようにガードが必要だねぇ」


 そうして試合前とは思えぬ和やかな空気を撒き散らしながら、瓜子とユーリは控え室に戻ることになった。

 まずはプレマッチの二試合であるので、本選の第一試合である愛音も同様だ。ただしそちらは、控え室の前に担当のセコンド陣が待ちかまえていた。


「プレマッチがビョーサツでオわったら、すぐにデバンだからねー。アイネは、サイゴのウォームアップだよー」


「押忍なのです! よろしくお願いいたしますなのです!」


 愛音のセコンドは、チーフがジョン、サブが柳原、雑用係がサイトーであった。

 ちなみにユーリは柳原がサキに変更され、瓜子は、立松、サキ、メイという布陣となる。しかしまあ、それはあくまで名目上の配置であり、セコンド陣が総出で三名の面倒を見てくれるというスタイルに変わりはなかった。


「でも、サキさんが邑崎さんの担当から外れるのは、ちょっと意外でした。ああいうアウトタイプのトリッキーな選手には、サキさんのアドヴァイスが有効なんじゃないっすか?」


 瓜子がこっそり呼びかけると、サキに「ターコ」と返された。


「赤鬼娘の古武術スタイルにはもう対策を打ってるんだから、重要なのはレスリングとグラップリングだろ。だったら、アタシの出番はねーよ」


「ああ、なるほど。……でも、前回セコンドだったサキさんも、一緒に雪辱を晴らしたかったんじゃないっすか?」


「セコンドがそんな私情をまじえてどうすんだよ、タコ。アタシはこの場で、高みの見物だ」


「それよりまずは、担当選手のケアだろ。お前さんはまた二試合連続になっちまったが、それだけ頼りにしてるんだからな」


 と、立松が苦笑しながらサキの頭を小突いた。

 確かにサキは、またもやユーリと瓜子のセコンドについてくれたのだ。むしろ、サキを愛音の担当として、瓜子とユーリのどちらかを柳原にすれば、そんな苦労もなくなるわけであるが――これは立松とジョンが熟考した上の配置であったのだった。


(つまり、あたしにもユーリさんにもサキさんが必要だって見なされたわけだよな)


 確かに瓜子たちは、サキの助言に何度となく助けられていた。最近は立ち技の攻防がメインであるため、レスリングを得意にする柳原よりもサキのほうが有用であったという面もあるのであろうが――それにしても、サブトレーナーである柳原よりもサキのほうが重用されているというのは、大した話であるはずであった。


(でも、サキさんだって本当は現役選手なのにな)


 この三月大会の時点で、サキの休養期間は一年と四ヶ月にも及んでいる。六丸からは去年の夏に、復帰まではあと半年から一年ていどであろうと診断されていたのだが――その頃からも、すでに七ヶ月が経過していたのだった。


 サキと同じぐらい休養していた時任選手は、鞠山選手と小柴選手に連敗してしまい、今回は試合も組まれていない。それにかつては赤星大吾も、膝の故障で引退を余儀なくされたのだ。

 やはり膝の故障というのは完治が難しいものであるし、いったん長きの休養を取ると、試合勘を取り戻すのも難しいのだろう。本来は大がかりな手術が必要であると診断されていたサキは、また以前のように華麗な試合を見せることがかなうのか――それは、瓜子の中にずっとわだかまっている不安感であった。


「……で、どーしておめーは、そんな哀れみの目で人様を眺めてやがるんだよ」


 と、サキが拳で瓜子のこめかみをぐりぐりと圧迫してきた。


「す、すみません。ちょっと色々と考えにふけっちゃって……今日もよろしくお願いします、サキさん」


「タイトルマッチだってのに、余裕だな。調子こいてっと、足をすくわれんぞ」


 サキであれば、瓜子の内心などすっかりお見通しなのかもしれない。瓜子は大いに恥じ入りながら、「押忍」と返すばかりであった。


 そうして《アトミック・ガールズ》の三月大会は粛然と開始され――ものの十分も経過した頃にはプレマッチの二試合も終了し、愛音と大江山すみれによる本選の第一試合が始められたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る