05 対話
しばらくすると赤星大吾の準備してくれたスペシャルメニューがテーブルを埋め始めたため、ユーリは食事に集中することに相成った。
そのラッセル車のごとき食べっぷりに、赤星弥生子と六丸は目を丸くしてしまっている。外見も性格もまったく異なる両名がそんな風に同じような表情を浮かべるのは、何とはなしに微笑ましかった。
「本当に、ほれぼれするような食べっぷりだ。……桃園さんは、これが遅い昼食だったのだろうか?」
「いえ。お昼にもしっかり食べてますし、夕食もきっちり食べると思いますよ。弥生子さんとの対戦以来、ずっとこんな感じなんです」
「……まるで、死にかけた獣が死に物狂いで獲物をむさぼっているかのようだ」
そうして赤星弥生子が感嘆の息をつくと、六丸がふわりと微笑みながら発言した。
「でも、弥生子さんもしっかり食べてますよね。これまでトレーニングを休んだ日はがくんと食欲が落ちていたのに、今回だけは例外みたいです」
「それはまあ、私もそれだけ消耗していたからな。身体が滋養を欲しているということなのだろう」
赤星弥生子の青白いオーラが薄らいでいるためか、二人の間にとても安らいだ空気が感じられる。それで瓜子が思わずもじもじしてしまうと、赤星弥生子が目ざとく振り返ってきた。
「どうかしたかい? 何か言いたげな顔をしているよ」
「あ、いえ。そんな大した話ではありません。自分のことは気になさらないでください」
「だけど私たちは猪狩さんの話し相手になるという名目で、この場に居座らせてもらっているのだからね。なんでも遠慮なく語らってもらいたく思うよ」
「いえいえ。それでもぶしつけなことは言えませんし……」
「ぶしつけであったのは、いきなり押しかけてきたこちらのほうだ。まあ、猪狩さんがどうしても話したくないというのなら、こちらも無理にとは言えないが……」
と、赤星弥生子がちょっぴり悲しげな目つきになってしまったため、瓜子としても内心をさらす他なくなってしまった。
「じ、自分はただ、お二人の時間を邪魔しちゃったんじゃないかって思っただけなんすよ。……邪推だったら、申し訳ありません」
「邪推? 話がよくわからないのだが……」
「それはほら、あれですよ。僕と弥生子さんが一緒に駆けつけてきたから、それまで一緒にいたんじゃないかと想像したってことじゃないですか?」
六丸がそのように説明しても、赤星弥生子はまだいぶかしげな顔をしていた。
「確かに私たちは同じ部屋でくつろいでいたが、それがいったい何だというのだ?」
「うーん。僕だって世間知らずで通ってるのに、弥生子さんにはかなわないなぁ」
六丸は子犬のような顔で笑いながら、瓜子のほうに向きなおってきた。
「えーとですね。僕は十七歳の頃から十年ばかりもこちらでお世話になっているので、赤星家の方々とは家族同然のおつきあいであるのです。だからまあ、一緒の部屋でくつろぐのが日常であったりするのですよね」
「そ、それじゃあご一緒に住まわれているということですか?」
「あ、いえ、部屋は別々なのですけれどね。こちらの五階はマンションのような造りになっていて、弥生子さんも大吾さんも別々に住まわれているんです」
「あんな男と一緒に暮らしていたら、一日で神経が焼き切れてしまうからな」
と、赤星弥生子は口をへの字にしながら腕を組む。
六丸は赤星弥生子との勝負で一本を取れたら結婚する約束なのだと、かつてグティがそのような内情をこぼしていたわけであるが――なかなか瓜子には理解し難い人間関係が構築されている様子であった。
(だけどまあ、あたしが口出しするような話じゃないしな)
瓜子はそんな風に判じ、話題を切り替えることにした。
「あの、あらためまして、先週の試合はお疲れ様でした。みなさんお元気だとメールをいただきましたけど、青田さんや大江山さんも大丈夫ですか?」
「ああ。ナナもすみれも、奮起しているよ。遺恨とかそういう話ではなく、桃園さんやドッグ・ジムの面々をライバル視しているようだ」
「そうっすか。それなら、何よりです。……それじゃあ、弥生子さんご自身はどうっすか?」
「うん? 私が、どうかしたかな?」
「いえ。ユーリさんとの試合で、何か思うところはあったのかなって……」
赤星弥生子は「ああ」と魅力的な顔で微笑んだ。
「そうだね。あんな試合は、私にとっても初めての体験だった。私は男子選手を相手取る心持ちで桃園さんとの勝負に臨み、第二ラウンドまでは過不足なく進められていたつもりであったのだが……まあ、テイクダウンを奪われて、けっこうなダメージを負うことになったものの、普段でもあれぐらいの苦境は珍しくなかったからね。私の試合を多少なりとも研究したのなら、それはわかってもらえるだろう?」
「はい。弥生子さんの試合は、八割ぐらい拝見したと思います」
「それは光栄なことだ。……だから私は、平常の心持ちで最終ラウンドに臨むことができた。しかし、どれだけの攻撃をヒットさせても怯まない桃園さんに……あれは、なんと形容するべきなのかな。私はきっと、恐怖しながら昂揚していたのだろうと思う」
まったく食事の手を休めないユーリのほうをちらりと見やりつつ、赤星弥生子はそう言った。
「桃園さんより強い相手など、これまで対戦してきた選手の中にいくらでもいたはずだ。何せ私は、百キロを超える無差別級の選手とも何度となくやりあってきたのだからね。それに、桃園さんより凄まじい気迫を持っていた選手だって、いなくはなかっただろう。だけど、たぶん……桃園さんより楽しそうに試合をする人間は、他にいなかった。試合に没頭していると脳内麻薬が分泌され、いわゆるランナーズハイの状態になることも珍しくはないのだろうが、それともまったく違っていた。桃園さんは脳内麻薬などに頼ることなく、心から試合を楽しみ……まるで求愛するように、私に殴りかかってきていたのだよ」
「ええ。ユーリさんは、そういうお人だと思います」
「うん。合宿稽古や過去の試合からも、その片鱗は感じていた。だけど、あのときの桃園さんは……本当に、モンスターのようだった。どんな痛みも、どんな苦しみも、すべて自分の力にかえて、相手を叩き潰そうとするかのような……それでいて、戦う相手を心から慈しんでいるような……その得体の知れない感覚が、私を恐怖させ、昂揚させたんだ」
そうして赤星弥生子は、見果てぬ何かを見据えようとするかのように目を細めた。
「ピーチ=ストームとは、よく言ったものだ。あれは本当に、ピンク色の竜巻に呑み込まれたような心地だったよ。そして、私は……気づいたら、自らもそのうねりの中で躍動していた。絶対に負けたくないだとか、赤星道場の面子だとか、そんなものも頭の中から吹き飛んでしまって……ただこのうねりの中でピンク色の怪物とたわむれていたいという心地にとらわれてしまったんだ」
「きっとユーリさんも、同じ心地だったんだと思います。だから、弥生子さんとの再戦を望んでるんだと思いますよ」
「それは何とも、光栄な話だ。まあ、私も怪物の端くれだろうしな」
と、赤星弥生子はくすりと笑った。
「だけど私は、自分ひとりの悦楽にひたることは許されない。同じ相手に連敗などはできないから、最低でも一年以上は猶予をもらおうと思っているよ」
「一年後でも二年後でも、自分はその試合を見届けさせていただきます」
「ふむ。……私がこれだけ大げさな言葉を並べたてても、君は苦笑いひとつ浮かべないのだね」
「自分は大げさだなんて思いませんでしたよ。むしろ、自分が抱いていた感情をうまい感じに言葉で説明していただけた感覚です」
瓜子がそのように答えると、赤星弥生子はいっそうやわらかい面持ちで微笑んだ。
「きっと、君は君で何かの境地に達しかけているのだろうね。だから私は、君たちに心をひかれたのだろうと思う。……いやもちろん、人柄にだってひかれているのだけれども」
「自分だって、弥生子さんのことは選手としても人間としても大好きですよ」
赤星弥生子は恥じらうように目を伏せながら、小さな声で「ありがとう」とだけ言った。
そんな赤星弥生子のことを、六丸はとても優しい眼差しで見守っている。二人がどのような関係であろうとも、とにかく六丸が赤星弥生子のことを心から大事にしていることだけは確かだった。
「弥生子さんが猪狩さんや桃園さんみたいな人たちと出会うことができて、僕は本当に嬉しく思っています。どうかこれからも、弥生子さんのことをお願いしますね」
「なんだ、それは? お前は私の保護者にでもなったつもりか? さきほども、私を世間知らずなどと言いたててくれたな」
と、赤星弥生子はいくぶん頬を赤らめながら、六丸の華奢な肩を小突いた。
六丸はどこか嬉しそうに微笑みながら、赤星弥生子と瓜子の姿を見比べる。
「そういえば、僕、弥生子さんに言いそびれていたことがあったんですよね。ちょうどいい機会なんで、ここで打ち明けさせてもらってもいいですか?」
「なに? どうして猪狩さんたちのいる場で、いきなりそのような話を持ちだすのだ?」
「猪狩さんたちがいるからこそです。……実は、レイ=アルバの一件が猪狩さんたちにバレちゃったみたいなんです」
「なに?」と、赤星弥生子は切れ長の目を大きく見開いた。
「どうして今さら、そんな古い話を……さては、グティか?」
「ご明察です。グティさんもそうまでハッキリ口にしたわけではないのですけれど、猪狩さんには見当がついてしまったみたいで」
赤星弥生子は眉を下げながら、瓜子に向きなおってきた。
「そうか。猪狩さんたちには、余計な話を聞かせてしまった。申し訳ないが、どうかその話は内密に願いたい」
「え、ええ、もちろんです。そんな話は誰にも言いませんし……そもそも確証のある話でもなかったんですよ?」
「でもきっと、猪狩さんたちは内密にしてくれていたんでしょう? だから、お礼を言っておきたかったんです」
そう言って、六丸はにこりと微笑んだ。
「今どきは、インターネットなんてものがありますからね。格闘技ブームの時代に世間を騒がせていた覆面MMA選手の正体が、僕だったなんて……そんな話が世間に広まったら、僕の実家の連中が赤星道場に殴り込んでくるところでした。だから僕は、試合でも実家で習い覚えた技はいっさい使わなかったんですけど……そんな言い分に耳を貸す連中じゃないもので」
「六丸さんのご実家が、古武術の道場なんすよね? それで、門外不出の技を世間にさらしたら、そんな騒ぎになっちゃうわけですか。でも……その古武術を使わないで《JUF》のトップファイターを撃破するなんて、すごすぎないっすか?」
「正確には、グティさんの父君から習い覚えたルチャ・リブレの空中殺法に、古武術の技をまぎらわせたんです。だからまあ、実家にバレるとけっこうまずいんですよ」
そんな風に語りながら、六丸はふわふわとした笑顔である。
それで瓜子は、かねてより抱えていた疑問を吐き出すことに相成った。
「六丸さんがそうまでして《JUF》で試合をしていたのは……やっぱり、卯月選手と対戦するためだったんですか?」
「はい。弥生子さんにすべての責任を押しつけて、テレビでチヤホヤされてる卯月さんのことが、どうしても許せなかったんです。……跡目争いから逃げ出した僕に、そんな資格はないんですけどね。だからまあ、同族嫌悪の逆恨みみたいなものです」
「それで実際に卯月選手との対戦までこぎつけて、しかも勝利したんですから、すごいっすよね。その試合は、自分もテレビで拝見しましたよ」
「いやあ、お恥ずかしい。古武術を織り交ぜた空中殺法なんて、初見殺しもいいところですからね。しょせん僕なんかは、人の裏をかく卑怯者です。アスリートでも格闘家でもなく、武術家くずれのゴロツキですよ」
「……ならば、お前から習い覚えた技術で勝ち星を拾う私も、同類だな」
と、あの赤星弥生子がちょっぴりすねたような面持ちでそのように言いたてると、六丸は焦った様子で手を振った。
「僕は実家にバレないていどの基礎技術を教えただけですし、それをMMAの技術に落とし込んだのはみんな弥生子さんの努力の結果です。古式ムエタイを応用する犬飼さんやカポエイラを応用するピエロさんなんかと、同じようなものですよ」
「MMAってのは、相手の裏をかいてなんぼの勝負です。だから自分は、六丸さんのことだって卑怯者だとは思いませんよ」
瓜子がそのように言葉をはさむと、六丸は申し訳なさそうに微笑みながら頭をかき、赤星弥生子がまたその肩を小突いた。
「それじゃあ、レイ=アルバの正体が六丸さんだってことは、絶対の秘密なんすね。赤星道場の中でも、知ってる人はあまりいないんすか?」
「うん。今となっては、赤星、大江山、青田の一家と……あとはせいぜい、ぜーさんぐらいのものだろう。この七、八年で、道場の顔ぶれもずいぶん変わってしまったからね」
「なるほど。こっちでそれに気づいたのはメイさんで、話を聞いたのは自分とユーリさんだけです。今後も絶対に秘密は守りますから、どうかご安心くださいね」
「ありがとう」と言ったのは、六丸本人ではなく赤星弥生子であった。
瓜子はほっと息をつきつつ、甘いチャイタで咽喉を潤す。
「そういえば、当時の《JUF》はあの徳久ってネズミ男が暗躍してたんすよね。よくあいつがレイ=アルバの参戦を許しましたね」
「あいつが望んでいたのは、興行の成功と赤星道場の破滅だったからな。赤星道場の出身である兄とレイ=アルバの活躍で《JUF》が盛り上がり、《レッド・キング》の影がいっそう薄くなることに、歪んだ喜びでも抱いていたのだろうと思う」
「かえすがえすも、見下げ果てたやつっすね。ついに何かの罪で起訴されたって聞きましたけど、その後はどうなったんでしょう」
「間もなく裁判なのではないかな。あいつが余計なことを口走らないか、その筋の人間が目を光らせているのだと聞き及んでいる。生命が惜しければ、すべての罪をあいつひとりでかぶるしかないだろうと思うよ」
そう言って、赤星弥生子はふっと息をついた。
「そんな話を執拗に聞きほじっている私も、大概だな。私はこれで十年以上も、あいつへの憎しみに呪縛されてしまっていたんだ。桃園さんとの試合を終えた今となっては……なんと愚かなことに心をとらわれていたのだろうと思うよ」
「それは、しかたのないことですよ。それぐらい、あいつは最悪な人間だったんですから。……でも、弥生子さんが少しでも楽になれたんなら嬉しく思います」
「ありがとう。ドッグ・ジムの面々とも、なんとか心情を打ち明け合うことができたし……これからは、邪心なくMMAに取り組みたいものだと願っているよ」
「弥生子さんなら、絶対に大丈夫ですよ」
そんな風に言ってから、瓜子は赤星弥生子に伝えたいと願っていた事柄をようやく思い出すことができた。
「あ、そうだ。お二人の試合が終わったらお伝えしようと思ってたんすけど……弥生子さんとベリーニャ選手の試合も、拝見しました。あの試合は、本当にすごかったです。ユーリさんなんて号泣ものでしたし、あの試合を観るためだけにパソコンを買おうかって悩んでるぐらいなんすよ」
「そう……なのか? あの頃などは、私もベリーニャもまだまだ穴だらけの未熟者であったはずだが……」
「そんなことが気にならないぐらいの大激戦だったってことっすね。あれ以来、ユーリさんは弥生子さんを強く意識するようになったんです。六丸さんには申し訳ないっすけど、レイ=アルバと卯月選手の一戦とも比較にならないぐらい、自分も興奮しちゃいました」
「ああ、なるほど。あの試合は、僕たちの試合と同じ日に開催されたんですよね。弥生子さんの大事な試合を拝見できなかったのが残念で、よく覚えています」
六丸がそのように言葉を重ねると、赤星弥生子は澄みわたった面持ちで微笑んだ。
「そういえば……あのときの私も、邪心にとらわれていた。ブラジリアン柔術などがもてはやされているから、日本の総合格闘技が衰退してしまったんだ、とな。だけど、ベリーニャと試合をしている内に、そんな気持ちはどこかに吹き飛んでいた。あの感覚は……桃園さんと試合をしたときと、少し似ているかもしれない」
「弥生子さんとベリーニャ選手の再戦も、ぜひ拝見させていただきたいですね。そうしたら、ユーリさんはまた号泣ものでしょうけど――」
そうしてひさびさにユーリのほうを振り返った瓜子は、呆気に取られることになった。すべての皿を空にした上で、ユーリはテーブルに突っ伏してすやすやと寝入ってしまっていたのである。
「猪狩さんは、気づいていなかったのかな? 桃園さんはもう五分ぐらい前からこの状態だったよ」
「は、はい。話に夢中で気づきませんでした。さっきもカフェで居眠りをしてたのに……」
「それだけ彼女の肉体が、滋養と睡眠を欲しているということだろう。この苦境を脱したら、彼女はまたさらなる怪物っぷりを披露してくれるのだろうね」
そんな風に言いながら、赤星弥生子は最後の微笑みを瓜子に投げかけてきた。
「では、我々もそろそろ失礼するとしよう。猪狩さん、今日はどうもありがとう。君たちの活躍を、心から祈っている。君たちは《アトミック・ガールズ》で、私は《レッド・キング》で……それぞれの灯火を守りつつ、また交わえる日を楽しみにしているよ」
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