05 無能な敵

 日は過ぎて、ついに十一月に突入した。

 試合までは三週間を切り、調整期間はもう目前に迫っている。調整期間に入ったならば、練習のペースを落として試合当日にベストコンディションにもっていくことを主題にしなければならないのだ。


 通常体重が重い選手は、いよいよ減量に苦しむ時期であろう。が、瓜子は二、三キロ落とすだけであるし、ユーリなどはそもそも契約体重の上限に達していない。もとより両名とも普段から食生活には気をつかっていたので、この時期に大きな苦労を抱えることはなかった。


 そんなわけで、格闘技の本業に関しては至極平穏なものであったのだが――好事魔多しというべきか、瓜子は副業のほうで多大な心労を抱え込むことになった。

 十二月の頭に発売されるという、ユーリのライブ映像作品に付随する特典用ブックレットの撮影地獄である。


 ちょうどつい先日、世間では『A・G・M』ことアスリート・グラフィック・マガジンが発売されたところであった。ユーリと瓜子にペアでグラビア撮影の依頼を申し込んできた、アレである。それを購入した灰原選手たちからの褒め殺しによって、瓜子がぞんぶんに意気消沈しているタイミングで、この日を迎えることになってしまったのだ。


 そして今日という今日こそ、瓜子は首をくくりたいような心境であった。

 それは何故かと問うならば。忌まわしき水着撮影の現場に、『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』のメンバーが集結するものと事前告知されたためである。


「ユーリさん……撮影スタジオに隕石が落ちる確率って、どれぐらいだと思います?」


「んー。わかんにゃいけど、冷蔵庫の中身を全部お鍋にぶちこんだら、たまたまチョコレートパフェが出来上がるぐらいの確率かにゃあ」


 瓜子とユーリが暮らすマンションの冷蔵庫には、チョコレートも生クリームも収納されていない。よってその日も撮影スタジオが消し飛ぶことはなく、無事に撮影地獄が開始されてしまったのだった。


 撮影スタジオに到着したユーリと瓜子と愛音の三名は、すぐさまドレッシングルームで布面積の小さな水着に着替えさせられて、メイクおよびヘアメイクである。この時点で、バンドのメンバーたちとはまだ顔をあわせていない。彼らが交通事故にあうことを願うわけにもいかない瓜子は、地獄の門番のように立ちはだかっている千駄ヶ谷に最後の悪あがきの言葉を投げかけることになった。


「あの、『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』も、たくさんの女性ファンがおられるはずですよね。そういう層から反感をくらっちゃう危険性はないのでしょうか……?」


「入念な企画会議の結果、過剰なスキンシップさえ避ければ問題はなかろうという結論に至りました。むしろ、女性人気の高い猪狩さんと邑崎さんが加わることでユーリ選手への反感がやわらぐのではないかという意見も多かったようです」


「愛音などがユーリ様のお力になれるのでしたら、いかなる苦労も惜しまない所存であるのです!」


「ありがとうございます。お二方のご協力には、私も心から感謝しています」


 瓜子の反論を封じるかのように、千駄ヶ谷は断固とした口調で言った。

 絶望の深淵を覗き込みつつ、瓜子は現実逃避のために別の話題を持ち出してみる。


「そういえば、先日メイさんからお伝えされたヴァーモス・ジムの一件はどうなりました? 何かお役に立てそうでしたか?」


「ええ。こちらもヴァーモス・ジムに関して内偵を進めているさなかでしたので、大いに参考となりました。会長のSNSのほうにまでは目が及んでいなかったため、大変ありがたく思っています」


「そうっすか。……運営陣に目にものを見せる作戦は順調なんすか?」


 瓜子はヘアメイクをされているさなかであったので、鏡ごしに千駄ヶ谷の冷徹な眼差しを突きつけられることになった。


「私たちが何を画策しようとも、《カノン A.G》の十一月大会はつつがなく開催されることをお約束いたします。猪狩さんたちは、どうか試合に力をお尽くしください」


「……はい、了解です」


 まるで千駄ヶ谷がその気になったら、十一月大会を閉鎖に追い込むことも可能であるかのような口ぶりである。舞台裏でどのような盤外戦が行われているのか、瓜子には想像することも難しかった。


 そうしてしばらくすると、ついに準備が完了されてしまう。

 すっかり見慣れない顔になってしまった自分の姿を鏡で再確認してから、瓜子は「よし!」と立ち上がった。


「もう覚悟が決まりました! こうなったら、一秒でも早く撮影を完了させましょう! ユーリさんも邑崎さんも、どうぞよろしくお願いいたします!」


「うん、りょうかぁい。……泣かないで、うり坊ちゃん」


「泣いてません! さあ、行きますよ!」


 瓜子は肩を怒らせながら、先頭を切ってドレッシングルームを出た。

 その途端に、通路にたむろしていた若者の集団と出くわしてしまい、たちまち委縮してしまう。しかしそれは愛すべきバンドのメンバーたちではなく、それよりももっと当世風の格好をした派手派手しい一団であった。


「あれェ? カノンなんちゃらに出場してるアイドルちゃんたちじゃん!」


 と、その中からサングラスを掛けた若者が進み出てくる。最悪なことに、それは《カノン A.G》でリングアナウンサーを務めている軽薄そうなラップチームのMCであった。


「へェ、そっちもココで撮影だったんだァ? 奇遇だねェ。俺たちも、これから新譜のジャケの撮影なんだよォ」


 通常でも、キーが高くてキンキンとした耳にひっかかる声音であった。

 千駄ヶ谷と愛音はすぐさまユーリをガードしたが、瓜子は驚きのあまり立ちすくんでしまう。その間に、その若者はにやにやと笑いながらさらに近づいてきた。


「ガウンなんか着てるってことは、もしかしてその下は水着なのかなァ? いいねェ、ちらっとでいいから俺にも見せてよォ」


「あ、いえ……すみません、時間がないんで失礼します」


「そんな冷たいこと言わないでさァ。俺と仲良くしておいて損はないよォ?」


 ますます浮ついた調子で言いながら、その若者はサングラスごしに瓜子の姿をねめ回してくる。どうもこの若者は過剰に香水をつけているようで、瓜子は鼻をふさぎたくなるほどであった。

 他のメンバーも興味深そうにこちらを見やっていたが、幸いなことにマネージャーらしき人物が「じゃ、スタジオに入りましょうか」と号令をかけたので、通路の奥のエレベーターに向かっていく。彼らもこのフロアにあるドレッシングルームで身なりを整えたところであったようだ。


 そうして他のメンバーたちはぞろぞろと遠ざかっていったのに、MCの若者だけは瓜子の前から動かない。なんとなく、テレビ局でチーム・フレアの面々と遭遇した日を思い出させるシチュエーションであった。


「ね、ウワサで聞いたんだけど、キミもあのチームなんちゃらってやつの候補だったんでしょ? 今からでも加入しちゃいなよォ」


「いえ。とうていそういう気にはなれません。あのお人たちとは、まったく意見が合いそうにありませんので」


「そっかァ。残念だなァ。……それじゃあ、敵情視察とかどう? よかったら、俺があいつらのジムまで案内してあげるよォ」


「え? あなたはチーム・フレアのジムの場所を知ってるんすか?」


 チーム・フレアの練習場所は、いまだマスコミにも明かされていないのだ。

 瓜子が思わず驚きの声をあげてしまうと、その若者は何か粘ついた感じで微笑んだ。


「うん、そうそう。ね、俺と仲良くしたらメリットあるでしょ? キミがジムまで来てくれたら――」


「申し訳ありませんが、撮影の時間が差し迫っています。それはそちらもご同様なのではないでしょうか?」


 と、ユーリのもとから離れた千駄ヶ谷が、凍てつくような声音とともに進み出てくる。普段以上の鋭さを持ったその声音に、瓜子は思わず首をすくめてしまった。

 が、若者はどういう神経をしているのか、いっかな動じた様子もなくへらへらと笑う。


「ちょっと、邪魔しないでくれるゥ? 俺、このコと喋ってるんだからさァ」


「私はこちらの猪狩さんの上司であり、本日の業務の責任者でもあります。貴方にこちらの業務を妨害する権利がおありなのでしょうか?」


「ちぇッ。うるさいオバさんだなァ。こんなババアが上司だと、キミも大変だねェ」


 瓜子は総身が粟立つ心地で、千駄ヶ谷のほうを振り返る勇気も持てなかった。

 若者は芝居がかった調子で肩をすくめると、懐から取り出した名刺を瓜子のほうに差し出してくる。


「ま、今日は俺も時間がないからさァ。いつでも連絡してよォ。……楽しいこと、いっぱい教えてあげるからさァ」


 瓜子は一秒でも早くこの場を収束させたかったので、とにかくその名刺を受け取ることにした。

 若者は満足そうに口の端を吊り上げると、「じゃあねェ」とようやくエレベーターのほうに向かっていく。

 瓜子がほっと安堵の息をつくと、千駄ヶ谷のしなやかな手の先が胸もとに差し出されてきた。


「猪狩さん。そちらの名刺は、私がお預かりいたします」


「あ、はい。どうぞ好きに処分しちゃってください」


「ええ、必ず。……猪狩さん。今後あの御方がいかなる場所でモーションをかけてこようとも、決して応じないとお約束ください」


「やだなあ。言われなくったって、あんなお人に興味はないっすよ」


「貴女の興味は関係ありません。いいですか? 絶対に、あの御方とプライヴェートの交流を持たないとお約束ください」


 千駄ヶ谷の手が、瓜子の肩をぐっとつかんできた。

 瓜子の記憶にある限り、千駄ヶ谷に手を触れられたのはこれが初めてのことである。瓜子はわけもわからぬまま、思わず「押忍」と答えてしまった。


「わかりました。あの御方とはプライヴェートの交流はもたないし、次に話しかけられたらもっと上手くかわせるように心がけます」


「はい。貴女の誠実なお人柄を信用いたします」


 千駄ヶ谷は瓜子の肩から手を離すと、逆の手につかんでいた若者の名刺をくしゃりと握り潰した。

 うろんげにこちらをうかがっていた愛音が、「どうしたのです?」と呼びかけてくる。


「いつもクールな千駄ヶ谷サンが、珍しくもエキサイトしているように感じられるのです。おトシのことを茶化されたのが不愉快だったのです?」


「…………」


「あやや! あ、愛音は常々、千駄ヶ谷サンのことを大人の魅力たっぷりのクールビューティーな御方であると思っていたのです! だ、だからあの御方の言い草がとても腹立たしかったのです!」


「……私個人に対する誹謗など、どうでもかまいません。邑崎さんもユーリ選手も、あの御方にはくれぐれも近づきませんように」


 千駄ヶ谷は握り潰した名刺をブリーフケースの中に収めながら、そう言った。冷たい眼光は相変わらずであるが、もういつも通りの千駄ヶ谷であるようだ。


「もちろん愛音とて、あのように軽薄そうな御方とはお近づきになりたくもないのです。そもそもあのようにどぎつい香水をつける殿方など、はなはだしく不快であるのです」


「そうであれば、幸いです。くれぐれも、ご用心を」


「あの御方は、そんなに危険人物なのです? やっぱりチーム・フレアの周囲には、ロクなお人が集まらないのですね」


 愛音がそのようにのたまうと、千駄ヶ谷はふちなし眼鏡の角度をなおしながら「いえ」と応じた。


「無能な敵というのは、えてして生半可な味方よりも有益であるものです。……ともあれ、撮影の刻限が近づいてまいりました。撮影スタジオに参りましょう」


 千駄ヶ谷の言葉は、どうにも謎めいていた。

 まあ、試合会場の外で行われる盤外戦に関しては、常に秘密主義の千駄ヶ谷であるのだ。どうせ問い詰めても絶対零度の眼光を返されるだけなので、瓜子もそっとしておくことにした。


 それよりも、今はまず目の前の撮影地獄である。

 千駄ヶ谷が無能の敵をどう料理するかはおまかせするとして、瓜子はまず今日の試練を乗り越えなければならなかったのだった。

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