02 レコーディング・後半戦

 初日のレコーディング作業は、無事に終了した。

 プロデューサーの判断で何回かのテイクを重ねたものの、けっきょくはどの曲も最初のテイクが採用という顛末になってしまったのだ。もしもプロデューサーが慎重な気性をしていなければ、その日の仕事は二十分足らずで終了していたのかもしれなかった。


 まあ何にせよ、その日のレコーディングは無事に終了したのだから、文句のつけようもない。

 というわけで、翌日はさっそく『ワンド・ペイジ』とのレコーディングであった。


 こちらの曲名は『ホシノシタデ』といって、アコースティック調のバラードである。歌詞の内容は、当然のように悲恋がテーマであった。


「どうしてまた、このように悲しい内容の歌詞なのでせう……元気いっぱいの歌だったら、ユーリだってシャカリキに頑張っちゃうのになぁ」


 潰れた大福のような面持ちで、ユーリはそのようにのたまわっていた。

 色恋沙汰の経験を持たないユーリは、恋人を瓜子に置き換えて感情を込めている。つまり今回の曲に関しても『ネムレヌヨルニ』と同様に、恋に破れた悲しみを瓜子との関係が破綻する悲しみに置き換えることになるわけであった。


「こういう曲に気持ちを込めると、去年のあの絶望的な一幕がまざまざと蘇ってしまうのだよ。ユーリにとっては、拷問以外の何ものでもないのです」


「ああ、はい、えーと……その節は、本当に申し訳ありませんでした」


「ケンカ両成敗なのだから、うり坊ちゃんが謝ることないよぉ。……というか、あの頃のユーリはうり坊ちゃんを失う覚悟を固めていたのだよねぇ。いったい何をどんな風に考えたらそんな覚悟を固められるのか、現在のユーリちゃんにはまったく想像もつきませんわん」


 と、最後には気恥ずかしそうに笑うユーリであった。


 そんなこんなで、レコーディングの二日目である。

 幸いなことに、本日は遅刻魔であるという山寺博人も定刻通りに姿を現してくれた。ひと月半前と同じように、長い前髪で表情を隠し、アコースティックギターのケースをだるそうに抱えている。瓜子たちを見ても、顎を引くような仕草を見せるだけで、口を開こうとさえしなかった。


「毎度ながら、愛想がなくてすみません。今日はよろしくお願いします」


 不愛想なメンバーの分まで、ドラム担当の西岡桔平が穏やかな笑みを振りまく。がっしりとした体格で、短い髪と無精髭が山男を連想させる、気さくで大らかな人物だ。

 最後のひとり、ベース担当の陣内征生は、相変わらず銀縁眼鏡の向こう側で目を泳がせており、山寺博人とはまったく異なる理由から、社交性と無縁である。よくもこうまで人柄の掛け離れたメンバーが寄り集まったものであった。


「そういえば、アトミックは何だか無茶苦茶になっちゃいましたね。ユーリさんや猪狩さんは、今後もアトミックで活動していくんですか?」


 と、そのように声をかけてくれたのは、もちろん社交的で格闘技ファンである西岡桔平であった。


「あ、はい。アトミックを、あんな人たちの好きにはさせておきたくありませんので」


「そうですか。だったら、全力で応援します。どうか頑張ってくださいね」


 昨日に引き続き、激励の言葉がありがたい限りであった。

 彼らと顔をあわせるのも三回目ということで、瓜子の心拍数もだいぶん落ち着いている。ただ、今日はどれほど素晴らしい演奏を聞かせてもらえるものかと、そちらの面で胸が高鳴るばかりである。


 スタジオに入室したユーリは、気合を入れるように自分の頬をぴしゃぴしゃと叩いている。

 すると、チューニングを終えた山寺博人が、前髪で見えない目をそちらに向けた。


『あのさ、まさかレコーディングで手を抜いたりしないよね?』


『ひゃい!? それはもう、玉砕覚悟で歌い抜くつもりでありますけれど……』


『玉砕覚悟ね』と、山寺博人はモニター室に向き直った。


『この人さ、数を重ねてもパワーダウンしていくだけだと思うんだよね。俺たちも、一発で決めるつもりでいくから』


「了解したよ」と、プロデューサーは苦笑まじりの声を返した。


「実は昨日のレコーディングでも、けっきょくファーストテイクを採用することになったんだ。心して聞かせていただくよ」


『うん。あともうひとつ。間奏とか、尺が変わるかもしれないから』


「ああ、そうなの? それじゃあどのぐらいの長さになるか、ユーリちゃんに伝えておかないと――」


『かもしれないって言ってんじゃん。実際にやってみないと、わかんないよ』


 それだけ言って、山寺博人はそっぽを向いてしまった。

 ちょっと子供っぽい口調が可愛いな、などという想念にとらわれかけて、瓜子は慌てて自制する。彼らとは別世界の住人でいたいと願う瓜子には、そんな雑念すら邪魔になってしまうのだ。

 プロデューサーは「了解」と告げてから、通話マイクのスイッチを切った。


「そんな即興でアレンジを変えられたら、一発OKは難しいだろうね。ユーリちゃんは、こっちの曲のほうが苦手みたいだからさ」


 それはユーリが精神力の消耗をふせぐため、ボイトレ中には感情を込めることを自粛していたためである。それで『ハッピー☆ウェイブ』のほうでは存分に熱情を込めていたものだから、ボイトレ中における仕上がりにずいぶんな差がついてしまったのだった。


(ユーリさん、頑張って)と、瓜子は心の中で念じる。

 そんな中、いよいよ演奏が開始された。


 スピーカーからは、陣内征生の奏でるアップライトベースのゆったりとした旋律が響きわたる。もともとはピアノのソロで始まるイントロを、彼らはベースに置き換えたのだ。

 そこにドラムの細かいハイハットと、ギターのアルペジオが静かに重なる。

 そして――ユーリのピンク色をした唇から、小鳥のさえずりのようにかぼそい声音が放たれた。


 それを耳にした瞬間、プロデューサーは「え?」と眉をひそめた。

 明らかに、ボイトレの際とは声音が変わっているのだ。歌詞やメロディは同一であるのに、まるで別人が歌っているかのようだった。


 やがてBメロに突入すると、空気がひりひりと張り詰めていく。

 ここから巻き起こる激情の奔流の予兆に、瓜子はもう涙を流してしまいそうだった。

 そしてサビでは、想像を上回る奔流が瓜子の心を呑み込んでいく。


 ユーリの歌声に呼応するように、『ワンド・ペイジ』の演奏も渦を巻いていた。

 ベースはヒステリックに、可能な限りの高音を奏で、ギターはその分まで重々しくリズムを刻む。ドラムの音数も、デモテープの比ではなかった。


 サビが終わると、大きな失墜感を漂わせながら、Aメロに舞い戻る。

 そこからBメロに至ると、もはやユーリの声音も涙声であった。

 そうして再び激情を爆発させたのちは、少し長めの間奏だ。


 エフェクターも通していないアコースティックギターであるというのに、山寺博人は凄まじい迫力でギターソロを奏でていく。

 ドラムはシンプルながらも力強く、ベースは流麗なる低音を奏でている。


 そのギターソロの終盤で、山寺博人はふいにシャウトした。

 この曲にコーラスはないので、マイクを通さない肉声だ。演奏によってほとんどかき消されたその絶叫が、瓜子の背筋を粟立たせた。


 そうしてギターが最後のコードをかき鳴らしたならば、Bメロに戻るはずであったが――そこで今度は、陣内征生が狂ったようにベースを打ち鳴らした。

 打ち鳴らす、としか言いようのないアクションである。陣内征生のずんぐりとした手の平がベースの弦を叩き、時おり指先が弦を引っかける。『ベイビー・アピール』のベーシストが時おり見せる、スラップ奏法に似たテクニックであるようだった。


 予告通り、間奏の長さが変更されてしまったのだ。

 しかしユーリは突如として披露されたベースソロとぶつかることなく、マイクの前でうつむいている。

 途中から山寺博人のギターもつんざくような音色でベースにからみつき、ドラムの手数もどんどん増えていく。もはや別の曲であるかのような疾走感だ。


 その疾走感が、ふつりと途切れた瞬間――ユーリの歌声が響きわたった。

 演奏陣も、示しあわせたようにBメロの演奏に戻っている。

 最後のサビでは、先刻の間奏をも凌駕する激しい演奏が繰り広げられた。

 しかし、ユーリの歌声はまったく負けていない。ユーリははっきりと涙をこぼしながら、かつての想い人に対する恋情を歌いあげていた。


 同じ激しさを保ったまま、曲はエンディングに突入する。

 ユーリのパートは、終了した。

 だが――ユーリはマイクをつかんだまま、シャウトした。

 まるでさきほどの山寺博人と同じように――そして、山寺博人と同じぐらいの切迫した叫び声が、今度はマイクを通して鳴り響いたのだった。


 その声音に鼓膜を叩かれた瞬間に、瓜子の目からこらえにこらえていた涙が噴きこぼれた。

 ユーリの叫びが、瓜子の心臓をぐいぐいと締めつけてくる。

 ユーリの抱いた悲哀と後悔と絶望が、そのまま瓜子の体内に押し寄せてきたような心地であった。


 そうして、『ホシノシタデ』のファーストテイクは終了した。

 ミキシング係などのスタッフは、呆然とした面持ちでたたずんでいる。

 そんな中、プロデューサーは滂沱たる涙をこぼしていた。


「何これ……リハと全然違うじゃない! ユーリちゃんは、どうしてこんな歌声を隠してたわけ!?」


 千駄ヶ谷が「どうか冷静に」とハンカチを差し出した。

 プロデューサーはそれをひったくって、やけくそのように顔面をぬぐう。


「……失礼。でも、なんだか詐欺にでもあったような気分だよ」


「これまでご指導を願っていたボイトレにおいては、あくまで基本の歌唱の体得を主眼にしておりましたため、ユーリ選手も感情をセーブせざるを得なかったのです。ご覧の通り、一曲を歌いあげただけで、あの有り様ですので」


 ユーリはマイクスタンドに抱きつくようにして、へたりこんでしまっていた。

 瓜子も自分の顔をぬぐってから、千駄ヶ谷に向きなおる。


「あの! ユーリさんに声をかけたいんすけど、いいですか?」


 千駄ヶ谷は瓜子を一瞥してから、プロデューサーに向きなおった。


「ユーリ選手に休憩を与えてもよろしいでしょうか?」


 プロデューサーが「どうぞ」と答えるのを聞き届けて、瓜子はスタジオに飛び込んだ。

『ワンド・ペイジ』の面々は、それぞれの人柄に見合った表情でユーリのことを見やっている。その視線をかきわけるようにして、瓜子はユーリのもとにひざまずいた。


「ユーリさん、頑張りましたね。とりあえず休憩をいただいたので、ゆっくり休んでください」


 ユーリは無言のまま、瓜子の手をつかんできた。

 たちまちその白い手の甲に鳥肌が広がったが、瓜子の手を離そうとはしない。瓜子は逆の手で、ユーリの涙をふいてあげることにした。


「……大丈夫ですか? ユーリさんは、相変わらずみたいですね」


 と、ドラムセットに陣取った西岡桔平が、眉を下げつつ微笑みかけてくる。


「でも、歌声のほうも相変わらず、最高でした。どう考えても、これがベストテイクでしょう」


「はい。そうであることを願います」


 瓜子がそのように答えたとき、ユーリがようやく面をあげた。

 泣き疲れた赤ん坊のような顔に、ユーリは弱々しく微笑をたたえる。


「ユーリ、頑張ったよぉ。……千さんたちは、OKをくれるかなぁ?」


「きっと大丈夫です。歌も演奏も最高でしたから、誰にも文句は言えないはずです」


 すると、スタジオ内のスピーカーから、千駄ヶ谷の冷徹なる声音が響きわたった。


『プロデューサーのご判断により、ただいまのテイクを採用することに決定いたしました。ユーリ選手も「ワンド・ペイジ」の方々も、お疲れ様でした』


「よかったぁ……」とユーリは脱力する。

 が、千駄ヶ谷の言葉はまだ終わっていなかった。


『ユーリ選手の体調を鑑みて、一時間の休憩をはさみます。レコーディング作業の再開まで、どうぞゆっくりお休みください』


「はにゃ? 今日のレコーディングは一曲だったはずでは……?」


『もしも時間にゆとりが生じれば、「ネムレヌヨルニ」の生演奏バージョンを録音するものと、昨日の内に話を詰めさせていただきました。「ワンド・ペイジ」の方々にはすでに了承をいただいておりますので、どうぞご心配なきように』


「えーっ! ユーリはそんな話、聞いてないですよぉ!」


『ユーリ選手の動揺がレコーディング作業の支障にならないようにと、あえて秘匿させていただきました。遅ればせながら、よろしくお願いいたします』


 ユーリは「えーん!」と泣きながら、瓜子の胸に取りすがってきた。

 仏頂面でギターを抱えていた山寺博人が、そこで声をあげてくる。


「今日は夜までスタジオを押さえてたんだから、たった一曲じゃ経費の無駄だろ。ぴいぴい泣いてないで、身体を休めとけよ」


「あのですね! ユーリさんがさっきの一曲でどれだけ消耗したか、わからないんすか? わからないなら、余計な口をはさまないでください!」


 瓜子は思わず、感情のままに怒鳴り声をあげてしまった。

 前髪で目もとを隠した山寺博人は、仏頂面のままわずかに身を引き――そして小さく、「ごめん」という言葉をこぼす。

 それを聞いて、西岡桔平は快活な笑い声をあげた。


「一時間と言わず、二時間でも三時間でも休んできてください。どうせ次も、一発で終わるでしょうから」


「そ、そ、そうですよ。余った時間は、僕たちが有意義に使わせていただきますので」


 と、極度に人見知りの陣内征生も、おずおずと笑いながらそのように言い出した。


「ユ、ユーリさんのバックで演奏するのはすごく楽しいから、マネージャーさんの申し出も二つ返事でオッケーしたんです。そ、それを隠されてたユーリさんはお気の毒ですけれど……いつか『ネムレヌヨルニ』のほうもリリースされたら、歌唱印税はユーリさんのものですよ。そ、それを励みに、どうか頑張ってください」


「馬鹿、どういう励まし方だよ」


「だ、だって、楽しいのは僕たちばっかりだから、ユーリさんにも見返りが必要じゃないですか。……ヒロくんだって、今日のレコーディングを楽しみにしてたもんね?」


「うるせえよ」と、山寺博人はそっぽを向いた。

 そうして二日目のレコーディングは、多少の波乱を含みつつも粛々と進行されていった。

 長年の憧れであった山寺博人を、おもいきり怒鳴りつけてしまった――と、瓜子が後悔と羞恥の深淵に突き落とされたのは、すべての仕事が完了し、『ワンド・ペイジ』のメンバーたちとも別れを告げて、ふっと我に返った後のことであった。

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