04 絶対王者

 うねるような大歓声の向こう側で、瓜子の入場曲である『Rush』がうっすらと流されている。

 まだ少し寝ぼけているような感覚の中、瓜子がその歓声とメロディにぼんやりひたっていると――コミッショナー氏の手によって、瓜子の腰に暫定王者のベルトが巻かれた。


 メイ=ナイトメア選手は、すでに担架で運び出されている。彼女はしばらく意識を失っていたため、ドクターの判断でそのように処置されたのだった。


『おめでとうございます、猪狩選手! 今のお気持ちは如何でしょうか?』


 リングアナウンサーにマイクを突きつけられて、瓜子はぎょっと身を引くことになった。


『えっと……すいません。まだちょっと実感がわかなくて……自分、勝ったんすよね?』


『はい! 腰に巻かれているチャンピオンベルトが、その証となります! 乱打戦を得意とするメイ=ナイトメア選手と真っ向から打ち合い、KO勝利をものにした! これ以上ないぐらいの見事な結果であるかと思われます!』


 観客たちも、凄まじいまでの歓声を張り上げてくれている。

 しかし瓜子は、いまだに地に足がついていなかった。


『第一ラウンドでは、メイ=ナイトメア選手の反則行為で試合が中断されることになりましたね! ダメージは大丈夫だったのでしょうか?』


『あ、はい。問題ありません。メイ=ナイトメア選手も、わざとではなかったんでしょうし……』


『え? いえいえ! あれは故意としか思えない肘打ちであったでしょう?』


『あ、そっちの話っすか。すいません。頭が回らなくて』


『それだけの激闘であったわけですね! 今年に入って五試合連続のKO勝利に、王座戴冠! 猪狩選手こそ、まさしく《アトミック・ガールズ》のニュースターでありましょう! サキ選手との王座統一戦も、心より期待しております!』


 そうして瓜子は、ようやくリング下に下りることを許された。

 そこで待ちかまえていたサキが、瓜子の頭をタオルでわしゃわしゃとかき回してくる。


「おめーがアタシをぶっ飛ばすところを期待してるとよ。せいぜい気張れや、ニュースター」


「いや、勘弁してくださいよ。……でも、サキさんと統一戦を行えるなんて、夢みたいっす。一刻も早く実現させたいっすね」


 瓜子がそのように答えると、サキはいっそう強い力で瓜子の頭をかき回してきた。


「そんな天使みてーなツラでにこにこ笑いながら、おっそろしいことを言うんじゃねーよ。……ま、そんなもんは実現するとしても、四ヶ月先だ。今はそいつの重みを楽しんどけや」


 サキは相変わらずの仏頂面であったが、その切れ長の目に浮かぶ光はやわらかかった。

 いっぽう立松とサイトーは、満面の笑みだ。そんなチームメイトに囲まれて花道を戻るうちに、瓜子の胸にもようやくふつふつと喜びの気持ちがわきおこってきた。


 そして、扉の向こう側で待ち受けるのは、誰よりも幸福そうな顔で笑うユーリである。

 ユーリは有無をいわさずに、牛のごとき怪力で瓜子を抱きすくめてきた。


「おっめでとう、うり坊ちゃん! すっごくすっごくかっちょよかったよ! これまでの試合の中でも、ダントツでかっちょよかったよ!」


「あ、ありがとうございます。……鳥肌は大丈夫っすか? ユーリさんも、これからタイトルマッチっすよ?」


 後半は小声で囁くと、ユーリも「だいじょーぶ!」と元気いっぱいに囁き返してきた。


「この幸福感の前には、悪寒や鳥肌も木っ端微塵なのです! ああもう大好きうり坊ちゃん! おめでとうねぇ。あとでたっぷりお祝いしようねぇ」


「はい。一緒に勝利をお祝いできるように、しっかり見守ってますよ」


 ユーリは名残惜しそうに身を引くと、あらためて右の拳を差し出してきた。


「ユーリもせーいっぱい頑張るよ! 結果はわからんちんだけど、死力を振り絞る所存です!」


「はい。結果は、後からついてきますよ」


 瓜子も笑って、ユーリの拳に自分の拳を当ててみせた。

 視界の隅では、スタッフの若者がもじもじしている。もうユーリの入場は目前に迫っているのだ。


「ウリコ、おめとうだねー。あとでゆっくりおイワいするからねー」


「……本当におめでとうございます。今日ばかりは、猪狩センパイのバケモノじみた力に感服したのです」


「ありがとうございます。ユーリさんを、よろしくお願いします」


 扉の向こうから、『リ☆ボーン』のイントロが聞こえてくる。

 最後に瓜子へと笑いかけてから、ユーリは花道に飛び出していった。


 ジョンと愛音とサキもそれに続き、その場には立松とサイトーだけが残される。

 そして――離れた場所に待機していた天覇館のメンバーがひたひたと近づいてきた。


「おめでとう。見事、怪物を退治できたようだな」


 とても静かな声音で、来栖選手がそのように呼びかけてきた。

 瓜子は背筋をのばして、「ありがとうございます」と応じてみせる。


「来栖選手も、頑張ってください。モニターを観ながら、応援させていただきます」


「それはありがたい申し出だが……君は桃園と懇意にしているのだろう? それなら、わたしではなくベリーニャを応援するべきではないのかな?」


「いえ。自分は小学生の頃から、アトミックの試合を拝見していました。来栖選手を応援しない理由はありません」


 来栖選手は目を細めて、瓜子のほうに右拳を突き出してきた。


「ありがとう。力を尽くすと約束する」


 あまりに恐れ多かったため、瓜子は両方の拳でタッチさせていただいた。

 そうしてセコンドの魅々香選手にも会釈をしつつ、控え室を目指して歩き始める。とたんに、サイトーが瓜子の顔に氷嚢を押しつけてきた。


「痛みはなくても、冷やしとけ。あんだけパンチをくらったんだから、明日はさぞかし愉快なツラになってんだろうな」


「押忍。それぐらい、安いもんっすよ」


「あと、そいつも預かっとくか。せっかくのベルトをぶっ壊されたら、たまったもんじゃねえからな」


 サイトーは瓜子の背後に回り込み、チャンピオンベルトを外してくれた。

 それはきっと、懸命な判断であったのだろう。瓜子が控え室に足を踏み入れるなり、想像以上の熱気が押し寄せてきた。


「このイノシシ娘! あんたは毎回毎回、予想のななめ上すぎるんだよ! ひやひやするような試合しやがってー!」


 やはり先陣は、灰原選手である。真正面から抱きつかれた瓜子は、そのままひっくり返りそうになってしまった。


「本当にすごい試合だったな。最後の打ち合いは、こっちも呼吸が止まっちまったよ」


「ふん。あの肘打ちでダメージゼロとか、どんな骨してるんだわよ」


 多賀崎選手選手と鞠山選手も、左右から瓜子を取り囲む。

 四ッ谷ライオットと天覇ZEROのコーチ陣も、拍手で瓜子を祝福してくれていた。それに、ほとんど交流のない選手やセコンドたちも、口々にお祝いの言葉を述べてくれている。


「あかりやトキちゃんは、あっちの控え室でうずうずしてるだわね。今日の打ち上げは、荒れるだわよ」


「はい。でも、ユーリさんと来栖選手の試合は、これからっすからね」


 瓜子は灰原選手にへばりつかれたまま、パイプ椅子に座らせていただいた。

 モニター上では、すでにフランスの国家と思しきものが流されている。ジジ選手は片足重心のだらしない格好で立ち尽くし、ユーリはリズムにあわせて身を揺すっていた。


「あらためて、今日はとんでもない日だよな。所属選手のふたりがタイトルマッチなんて、人生で初体験だ」


 瓜子の隣に陣取った立松は、感情を持て余しているような顔で笑っていた。


「しかしまあ、ここは桃園さんにも勝ってもらって、心置きなく楽しませてもらおう。……おい、猪狩。顔ばっかりじゃなく、左腕も冷やしとけよ。サイトー、テーピングで固定してやれ」


「了解。……ウサ公のネエチャン、ちょいとどいてもらえるか?」


 灰原選手はいったん身を離してから、今度は背中側におぶさってくる。瓜子は試合着のままであったが、これなら身体を冷やす心配もなさそうであった。


 そうして国歌清聴ののちにはコミッショナー氏からのタイトルマッチ宣言が為されて、ジジ選手のベルトが返還される。

 客席には、すでに期待の歓声が渦巻いていた。


『第九試合、ミドル級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします! ……青コーナー。百六十七センチ。五十五・九キログラム。フリー。無差別級王座決定トーナメント準優勝……ユーリ・ピーチ=ストーム!』


 大歓声の中、ユーリはいつもの調子でひらひらと両手を振っていた。

 本日の試合衣装は、タイトルマッチに合わせて作製された新作だ。流水のような風の中を舞う蝶々という和風のモチーフが洋風にアレンジされた、実に凝ったデザインとなる。ハーフトップにショートスパッツという小さな布面積の中で、優雅に舞う蝶の姿が見事に表現されていた。


『赤コーナー。百六十五センチ。五十六キログラム。ブロイFA所属。《アトミック・ガールズ》第四代ミドル級王者……ジジ・B=アブリケル!』


 ジジ選手はにやにやと笑いながら、大きく広げた両腕を頭上に突き上げた。

 彼女の試合衣装もハーフトップとショートスパッツだが、どちらもジム名がプリントされているだけで、あとは真っ黒だ。それはきっと、全身に刻まれたタトゥーを際立たせるためなのだろう。


 本当に、地肌のほうが少ないぐらいの、色とりどりの肉体だ。

 背中には巨大な赤い悪魔が描かれて、左腕は咽喉もとから顔面に、右腕は脇腹を回り込んで胸もとにのばされている。ハーフトップの下ではその鉤爪を生やした指先が乳房をわしづかみにしているのだろうと思うしかない構図であった。

 そして悪魔の顔はジジ選手の首筋で大きく口を開き、そこに牙をたてようとしているデザインとなる。和柄の鬼を思わせる凶悪な面相で、その目は黄色く輝き、牙の隙間から垂れた舌は青紫色で、毒々しいことこの上なかった。


 蜘蛛だのムカデだの蝙蝠だのが刻まれている右腕や、溶けかかった天使の刻まれた左腕などは日常的にさらされていたが、さらに右足には何体もの骸骨が陽気に踊っており、左足には魔女のような老婆や包帯まみれの少女などが描かれている。そうして隙間は青や緑の渦巻き模様で埋められているために、地肌の色さえもがキャンパスを彩る一色ぐらいの存在に成り果てていた。


 さすがにピアスは外しているが、髪はけばけばしいグリーンで、刈りあげられた頭の左半分にもトライバルのタトゥーが波打っている。目もとの隈取や左頬の『Gigi』の名前も消すことはできないのだから、もちろん健在だ。


 そんなジジ選手とユーリが、リングの中央で向かい合った。

 身長はわずかにユーリがまさっているが、体格は完全にジジ選手がまさっている。腰のしまったしなやかな体形であるが、肩と背中と両腕の筋肉といったら、魅々香選手以上の迫力であった。


「ほんと、すっげー組み合わせだね! 冗談ぬきで、天使と悪魔じゃん!」


 瓜子を背後から抱きすくめた灰原選手が、笑いながらそのように言いたてた。

 その発言に、多賀崎選手が「へえ」と声をあげる。


「桃園を天使よばわりか。あんたにはしては、珍しい言い草だな」


「へーん! あたしが向かい合ったら、女神と悪魔だけどねー!」


「あんたごときは、供物に捧げられたウサ公がお似合いだわよ。……まあ、この悪趣味な女と向かい合って気圧されない根性の太さは、ほめてやらなくもないだわね」


 と、鞠山選手がひかえめにユーリを評価してくれた。

 確かにユーリはいつも通りの朗らかな面持ちで、ジジ選手と向かい合っている。それがいっそう、両者の対比を際立たせているのかもしれなかった。


 ルール確認を終え、ユーリが両手を差し出すと、ジジ選手は上から鉄槌を振り下ろすような勢いでグローブタッチに応じる。

 そうして両者はそれぞれのコーナーに引き下がり、ついに試合の開始であった。


『ラウンド、ワン!』


 リングアナウンサーの宣言とともに、ゴングが鳴らされて――両者はゆっくりと、リングの中央に進み出た。

 ユーリはやはり、アップライトの体勢だ。まずはユーリのカウンタースタイルがどこまで通じるか、それが序盤の勝負どころであった。


 ジジ選手は、軽く前後にステップを踏んでいる。序盤は左ジャブで牽制し、距離をつかんだら一気呵成に攻めたてるというのが、ジジ選手のもっともポピュラーなスタイルであった。


 ただし、ゴングと同時に躍りかかって、秒殺で試合を決めるパターンも少なくはなかった。今回は、そのパターンではなかったようだ。


 ジジ選手はゆらゆらと上体を振りながら、間合いを詰めるタイミングを計っている。

 ユーリもわずかにステップを踏みながら、ジジ選手の攻撃を待ちかまえていた。


 意外に静かな立ち上がりで、両者が手を出さぬままに十秒ほどの時間が過ぎ――

 ジジ選手が、ふいに大きく踏み込んだ。

 鋭い、左ジャブである。

 それを待ちかまえていたユーリは、すかさず左ローを発射する。


 すると――ジジ選手の身が、かくんと沈み込んだ。

 ジャブを放った左腕も、そのまま前側にのばされている。そうしてユーリが左足を戻すより早く、その両腕が足をすくっていた。


《アトミック・ガールズ》最強のストライカーと名高いジジ選手が、いきなり両足タックルを繰り出したのだ。

 と、いうよりも――ジジ選手が《アトミック・ガールズ》のリングでタックルを見せるのは、これが初めてであるはずだった。


 ユーリはあっけなく倒されてしまい、なんとか相手の右足を両足ではさみこむ。

 しかしジジ選手はポジションキープなど眼中にない様子で、猛然とパウンドを振るい始めた。

『凶拳』の異名を持つジジ選手の拳が、頭部をガードしたユーリの両腕を容赦なく蹂躙していく。


 この勢いでは、さすがのユーリもスイープを狙うことができない。

 そしてジジ選手は、ユーリの脇腹にもパウンドを叩きつけた。

 ユーリは苦しげに身をよじりながら、なんとか腰を切ろうとする。

 だが、ジジ選手の猛攻は止まらなかった。再び頭部に狙いを定めると、スタミナ温存という概念も知らぬかのように、両腕を振り回す。その何発かはガードをした腕の隙間をぬって、ユーリの顔面やこめかみを殴りつけたようだった。


「おいおい。この勢いじゃ、試合を止められかねないぞ」


 多賀崎選手が切迫した調子で言いながら、身を乗り出す。

 そして瓜子も、それに負けないぐらい切迫していた。いかにアクティブなジジ選手でも、まさか序盤からこのような展開になろうなどとは想像していなかったのだ。


 ユーリもこれではならじと思ったか、ガードを解いて相手のほうに腕をのばす。

 それを強引に振り払って、ジジ選手はユーリの顔面に右拳を振り下ろした。

 ユーリは再び頭を抱え込み、無茶苦茶な勢いで腰を切り始める。

 びちびちと跳ね回るエビのような、ユーリならではの躍動感であったが――相手の左足をとらえていた両足は、完全にほどかれてしまっていた。


 ジジ選手はユーリの足をまたぎこえて、腹の上に移動する。

 ついに、マウントポジションまで取られてしまった。


 が――その瞬間、ユーリが猛然と身を起こした。

 腰をねじり、相手の胴体に組みついて、左の足裏をダンッとマットにつく。その勢いで、ジジ選手の腰が浮いていた。

 するとジジ選手は、その勢いに押されるようにして立ち上がり、ユーリの両腕を振り払った。

 ユーリは動物じみた敏捷さで追いすがり、ジジ選手の足につかみかかろうとする。するとジジ選手は、喧嘩じみた挙動でユーリの右肩を蹴り飛ばした。


 ユーリは後ろざまにひっくり返り、ジジ選手はバックステップで距離を取る。

 レフェリーは「ブレイク!」と命じて、ジジ選手に近づいた。厳しい表情で、何か注意を与えている様子である。


「今のは一歩間違うと、マットに膝をついてたピンク頭の顔面を蹴ってたとこだわよ。口頭注意未満の、軽い注意指導だわね」


「なんだよ、荒っぽいなー! 黒船女といい、もう反則は勘弁してよねー!」


 灰原選手は、ぷりぷりと怒っている。

 しかしジジ選手が蹴ったのは肩なのだから、反則にはあたらない。それでレフェリーも、念のための注意を与えるに留めたのだろう。


 しかしそれよりも、瓜子はユーリの姿に息を呑んでしまっていた。

 ユーリの左まぶたが切れて、下顎にまで血をしたたらせていたのである。


『タイムストップ!』を宣言して、レフェリーがリングドクターを呼びつけた。

 ユーリの血をふいたドクターは傷口をじっくり診察してから、レフェリーにひと声かけて、リング下に戻っていく。ドクターストップとなるほどの深手ではなかったのだ。


 会場には、安心したような歓声が吹き荒れている。

 しかし瓜子は、安心するどころの騒ぎではなかった。これまで見せたこともない両足タックルを使ってまで、ジジ選手は試合の主導権を握ろうと企てたのだ。


 ジジ選手も、全身全霊でユーリに打ち勝とうとしている。

 それは当たり前の話であるのに――瓜子は自分でも驚くほどに、心を乱してしまっていた。

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