02 覚醒
「途中までは、いいペースだったんだがな。最後に転がされたのは、スタミナが尽きたのか?」
瓜子の左腕をもみほぐしながら、立松がそのように問うてきた。
サキはエプロンサイドから、首裏と右肘に氷嚢を当ててくれている。ドリンクボトルを差し出してくれているのは、サイトーだ。
瓜子はその水で口をゆすがせてもらってから、「いえ」と答えてみせた。
「相手の勢いが止まらなかったんで、少し焦ったかもしれません。次からは気をつけます」
「そうだな。右も左もいい攻撃だったが、真正面すぎたから組みつかれたんだ。もっと出入りをシビアにして、組みつきを回避することを最優先に考えろ」
「押忍」
「さっきのグラウンドは横向きで倒れたもんだから、レッグドラッグまがいの形で固定されちまったんだ。そうそうあんな形になることはないから、グラウンドで上を取られても慌てるな。不安定なポジションで相手の腕を取っても、アームロックの餌食だからな」
「押忍」
「俺からは、そんなところだ。サキ」
「ああ。……あいつの打たれ強さは、さんざん話したろ。それでもおめーの攻撃をくらってノーダメージってことはねーから、慌てんな。数を重ねりゃ、ぜってーに倒せる。……おめーの拳は、鈍器みてーに痛えんだからな」
「押忍。……サキさんも、痛かったっすか?」
サキは氷嚢で、瓜子の頭を小突いてきた。
「おめーの寝技のしょぼさがバレたから、あっちはどんどん組みついてくるぞ。そいつはカウンターのチャンスだから、見逃すな。びびって引いたら、相手の思うツボだ」
瓜子が「押忍」と答えたところで、『セコンドアウト』のアナウンスが届けられた。
椅子から立ち上がり、対角線上のラニ・アカカ選手と向かい合う。予想通り、あちらはスタミナも十分な様子であった。
(鞠山選手とやりあったときと、同じような展開だな)
ただし瓜子のスタミナは、そのときよりもさらに削られてしまっていた。まだあと二ラウンドも残されているのかと思うと、気が遠くなるほどである。
(つまり……このラウンドでそれ以上に相手のスタミナを削るかダメージを与えるかしないと、勝ち目はないってことだ)
そんな思いを胸に、瓜子は第二ラウンド開始のゴングを聞いた。
相手はこれまでと変わらぬ力強さで、ぐいぐいと押し寄せてくる。
瓜子は足を止めて、それを迎え撃つことにした。
(ただこの突進を受け流すだけじゃ駄目なんだ)
瓜子は真正面から、左ジャブを打ってみせた。
もちろん相手は止まらずに、瓜子につかみかかってこようとする。
その腕をかいくぐり、相手のアウトサイドに回り込んで、右ローだ。
さきほどまでは、ここで距離を取って、また相手の前進を受け止める格好であった。
しかし、それを繰り返していても、いつか押し潰されてしまう。それが立証された以上、瓜子も展開を変えなければならなかった。
こちらに向きなおってきたラニ・アカカ選手にジャブを当てて、右のアッパーに繋げてみせる。
それをかわすために、ラニ・アカカ選手は身を引いた。
瓜子はさらに距離を詰めて、レバーブローを叩き込んでみせる。
それからすぐにアウトサイドへとステップを踏んで、ラニ・アカカ選手の腕をかいくぐってみせた。
この近距離ぎりぎりの位置をキープして、相手の組み合いを回避し続ける。
それが、瓜子の選択であった。
(立ち技にだって、自信があるんだろう? だったら、打ち返してみろ!)
瓜子は相手を挑発するように、二発のジャブを当ててみせる。
相手は長い右足を振り上げて、真下から瓜子の顔面を狙ってきた。
それをスウェーでかわしたならば、相手はすかさず踏み込んでくる。瓜子の上体を上げさせて、組みつきを狙ってきたのだ。
しかし瓜子は、インサイドへのステップでそれを回避してみせる。
そして、左のボディフックだ。
相手は怯んだ様子もなく、今度はジャブを振ってくる。
それはヘッドスリップでかわし、再びアッパーを繰り出してみせる。
相手は後方に逃げ、瓜子はそれを追う。
後ろに逃げながら、テイクダウンを狙うことはできないだろう。そのように考えて、瓜子は前蹴りを繰り出してみせた。
バックステップの最中に腹を蹴られたラニ・アカカ選手は、バランスを崩して尻もちをつく。そしてすぐさまマットに背中をつけると、瓜子に向かって足を広げてきた。
もちろん、グラウンドにはつきあわない。瓜子が身を引くと、レフェリーはラニ・アカカ選手で「スタンド!」を命じた。
そうしてラニ・アカカ選手が立ち上がったならば、こちらが先に前進だ。
あくまで、中間距離をキープする。パンチを当てるには半歩の踏み込みが必要であり、蹴りならばぎりぎり届くであろうという距離だ。
この距離をキープするには、尋常でなく神経を消耗する。
どちらにとっても、蹴り技と半歩の踏み込みを警戒しなければならない距離であるのだから、当然だ。
しかしまた、瓜子にとってはもっとも錬磨を重ねてきた距離でもある。
手足の短い瓜子は、まずこの距離を制してからインファイトに持ち込まない限り、なかなか勝機はつかめなかったのだった。
(集中だ。ここでラウンドの流れをつかむ)
瓜子はアウトサイドに踏み込みながら、左ジャブを当ててみせた。
相手は、右ミドルを放ってくる。ブロックした左腕が痺れるほどの力強さであったが、瓜子は怯まずに右ストレートを返してみせた。
瓜子の右拳が、相手の左頬にクリーンヒットする。
しかし相手も怯まずに、ぐいっと踏み込んでこようとする。それをアウトサイドに逃げて、右のボディアッパーを叩き込んだ。
それでも、相手の前進は止まらない。
長い左腕が、また瓜子につかみかかろうとしていた。
その腕をかいくぐり、低い姿勢で相手の腹に二発のパンチを叩き込む。
そうして半歩だけ引いて、また中間距離をキープした。
とにかく、相手の出鼻をくじくのだ。
この選手は、前進することで自分のリズムを作っている。それよりも先に瓜子が手を出して、このラウンドを制してみせる所存であった。
(スピードと回転数は、こっちのほうが上なんだ!)
瓜子はスピードを重視したワンツーを、相手の顔面にヒットさせてみせた。
さらに相手のアウトサイドに回り込み、右ローを叩き込む。
と――相手の左手が、瓜子の蹴り足を払ってきた。
瓜子がバランスを崩してたたらを踏むと、相手はすかさず肉迫してくる。
瓜子はなんとか踏みとどまり、右のボディストレートでその突進を食い止めた。
相手が前進した分だけ後退し、中間距離をキープする。
とたんに前蹴りが飛ばされてきたので、今度はこちらがそれを振り払い、半歩踏み込んで、左のショートフックを叩きつけてみせた。
(今のは、危なかった。もう迂闊にローは出せないな)
そして、まだまだ集中が足りていない。
すべてのシチュエーションで、自分が先手を打つ。それぐらいの気迫がなければ、ラウンドを制することなどできそうになかった。
瓜子は頭の芯が熱くなっていくのを感じながら、ボディアッパーを繰り出した。
これだけボディを当てているのに、相手は苦しそうな素振りも見せない。
だけどこれは、そういう相手であるのだ。
自分の攻撃をクリーンヒットさせても、相手の勢いは止まらない。その前提で、瓜子は攻撃を出し続けるしかなかった。
相手もいい加減に火がついたのか、これまでよりも速いリズムで手を出してくる。遠い位置からは前蹴りと右ストレート、近距離になれば左のフックと膝蹴りで、どの攻撃もまだまだ力強かった。
「気を抜くな! 相手は打撃戦の中で、組みつきを狙ってるぞ!」
立松の声に、心中で「押忍」と答えてみせる。
もとより、瓜子もそのつもりであった。
瓜子は相手の組みつきを最大限に警戒しながら、この中間距離に臨んでいるのである。
相手がいつそのひょろ長い腕をのばしてくるか。それを常に念頭に置きながら、自分の攻撃をぶつけていく。
瓜子の神経は、もはやショート寸前であった。
それでも、瓜子は手を止めない。
頭の中身が熱を帯びるいっぽうで、不思議と手足は軽かった。
ずいぶんスタミナは切れかかっていたはずなのに、考えた通りに身体は動いてくれている。何か、不思議な感覚であった。
これだけの乱打戦であるのだから、きっと観客席もさぞかしヒートアップしているのであろうと思うのだが――その歓声も聞こえない。
それでいて、セコンドの声はクリアであった。
目に映るのは、ラニ・アカカ選手の姿ばかりだ。
レフェリーは、どこにいるのだろう。
四方に張られているはずのロープすら、視界に入らない。瓜子の目は、ラニ・アカカ選手の小麦色の肌と、試合衣装の色合いだけに染めあげられていた。
その中に、ときおり飛び込んでくるのは、自分の両拳だ。
自分の拳が、ラニ・アカカ選手の肉体を叩いている。
右ストレートは顔面に、左のフックはこめかみに、ボディアッパーは腹の真ん中に、レバーブローは右脇腹に――なかなか的確に、相手の肉体をえぐっている様子である。
もちろん、相手の攻撃も何発かくらってしまっている。
ガードをしても、内側に衝撃が浸透してくるぐらい、ラニ・アカカ選手の攻撃は重い。特にその膝蹴りなどは、ガードごしでも骨身を揺さぶられるほどであった。
そして時おり、長い腕がにゅっとのばされてくる。
それをかいくぐり、さらなる攻撃を当てるのが、今の瓜子の存在理由であった。
だいぶ距離が詰まっているためか、第二ラウンドが始まってからは足へのタックルを狙われていないような気がする。なまじ身長差があるために、足へのタックルは難しいと考えているのかもしれない。
その代わりに、執拗に狙われるのは、胴タックルと上から覆いかぶさってくるような組みつきだ。
胴タックルにはアッパーで、上からの組みつきにはボディブローで対処する。パンチを打つ時間や空間がないときは、サイドステップで回避だ。
しばらくすると、ラニ・アカカ選手の右腕が下がり始めた。
さすがに、ボディが効いてきたのかもしれない。身長差のせいもあって、今日の瓜子はボディブローが多めになっていたのだ。
ならばと、左のフックを顔面に叩き込む。
すると、ガードが上側に戻された。
ならば、レバーブローである。
瓜子はただ、空いた場所に攻撃を繰り出すだけのことであった。
ラニ・アカカ選手は、じわじわと下がり始めている。
突進力で、ついに彼女を凌駕することがかなったのだ。
それを誇らしく思いながら、瓜子は前進してみせた。
前進して、左右のパンチを振るい続ける。ボディが効いてきたために、ようやく相手のガードにも穴が空き始めていた。
それでも、ラニ・アカカ選手は倒れない。
本当に、なんて頑丈な選手なのだろう。瓜子は一心に拳を振るいながら、頭の片隅で敬服しきっていた。
かつてここまで瓜子の拳を受けながら、立っていた選手が存在しただろうか。
瓜子の拳は、下顎やこめかみやレバーにも、容赦なく叩きつけられているのだ。その何発かはクリーンヒットしているのだから、普通であればダウンぐらいは奪えているはずであった。
しかし、ラニ・アカカ選手は倒れない。
倒れずに、まだ反撃の機会をうかがっている。
これでは、まだ足りないのだ。
瓜子は視界が白くなっていくのを感じながら、さらなる力を込めて拳を振るうことにした。
セコンドの声は聞こえているし、自分でも冷静なつもりであるのだが、身体を止めることができない。
実はすでに頭がショートして、正常な思考ではないのだろうか。
ただ――瓜子の中のもっとも奥深い部分から、『行け!』という声が聞こえてしまうのだ。
ここで手を休めてはいけない。
瓜子の中の何かが、そう叫んでいる。
だから瓜子は、その声に従うことにした。
何にせよ、それは瓜子の内側から発せられる声であるのだから、それに従うしか道はないように思われた。
ラニ・アカカ選手が、右のフックを振ってくる。
それをかいくぐって、レバーブローを叩き込んでみせた。
すると、空振りしたラニ・アカカ選手の右手が、瓜子の肩をつかんでこようとする。
それを左手で弾き返し、右のボディアッパーをめりこませる。
連続で腹にくらったラニ・アカカ選手は、たまらず長身を折っていた。
だが、ダウンをするほどではない。腕で腹をかばいつつ、また後方に下がっていく。
あともう少しだけ頭が低い位置にあれば、ハイキックを狙えるはずなのに――そんな思考がよぎった瞬間、瓜子は右足を踏み込んで、左のローを放っていた。
腹を守るのに必死であったラニ・アカカ選手は、そのローをまともにくらって、バランスを崩す。
そして――バランスを崩したため、頭の位置がさらに下がっていた。
これなら、届く。
瓜子は左の蹴り足でそのままマットを踏みしめ、右の足を振り上げた。
ラニ・アカカ選手は、まだ前のめりに崩れつつある。
そのせいで、打点がわずかにずれていた。
足の甲ではなく、脛の真ん中がラニ・アカカ選手の左側頭部に激突した。
やわな骨をしていたならば、こちらの足がへし折れていたかもしれない。
しかし瓜子はキックの修練でぞんぶんに脛も鍛えていたし――また、医者に驚かれるほどの骨密度であるのだ。
ラニ・アカカ選手は切り倒された大木のように、マットに倒れ伏した。
レフェリーが「ダウン!」と宣告する声を聞きながら、瓜子はニュートラルコーナーまで引き下がった。
視界はまだ、白く霞みがかっている。
しかし、ただの酸欠状態ではなかった。余分な情報はシャットアウトされ、自分と相手の動きだけが鮮明に知覚できる。これまでに、体感したことのない感覚であった。
(次はきっと、もっと動ける。頼むから、早く起き上がって!)
瓜子は心から、そのように祈っていた。
しかし――その願いが叶えられることはなかった。
レフェリーがテンカウントを数えるまで、ラニ・アカカ選手はマットに横たわったままだったのである。
瓜子は呆然とした心地で、ゴングが乱打される音色を聞くことになってしまった。
『二ラウンド、四分十五秒、猪狩選手のKO勝利です!』
瓜子の右腕が、レフェリーによって持ち上げられる。
とたんに、さまざまな感覚が瓜子のもとに舞い戻ってきた。
会場には、凄まじいまでの歓声が吹き荒れている。
咽喉や肺が、焼けるように痛かった。
無酸素ラッシュを仕掛けたときに生じる、お馴染みの痛みである。
膝は、わずかに震えてしまっている。
全身が熱を帯びていて、目に流れ込む汗が痛かった。
立っているのもしんどいぐらい、疲弊しきってしまっている。
何か、麻痺していた感覚がいちどきに戻ってきたような有り様であった。
「ったくよー、ずいぶんバケモノじみた勝ち方をしてくれやがったな」
と、いきなりタオルで頭をかき回された。
振り返ると、サキが目を細めて瓜子を見つめている。
そして逆側からは、小さくて重たい物体がどしんとぶつかってきた。
「まったくだぜ。我を失ってるのかと思いきや、こっちの声にはいちいち反応して動いてたしよ。あんだけ暴れ回りながら、よくもそうまで冷静でいられるもんだなあ?」
ぶつかってきたのは、もちろんサイトーである。それをこらえる力も残されていなかった瓜子は、力なくサキにもたれかかることになってしまった。
「えーと……自分、勝ったんすよね?」
「ああ? まさか、無意識でやりあってたとか抜かすわけじゃねえだろうな?」
「いや、そういうわけじゃないんすけど……なんか、夢の中でやりあってたような気分で……」
「寝ぼけたこと言ってんなあ。なんか言ってやれよ、立松っつぁん」
気づけば、立松も瓜子の正面に回り込んできていた。
サキとサイトーに左右から支えられた瓜子を見つめつつ、立松は初孫を迎えた好々爺のような顔で笑っている。
「文句なしのKO勝利だ。よくやったな、猪狩」
瓜子はまだ、意識も精神も安定していなかった。
しかし、何を迷うこともなく、「押忍」と心よりの笑顔を返すことができた。
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