ACT.2 そうる・れぼりゅーしょん#3 ~Final round~

01 南の島のオールラウンダー

 控え室に戻ってきたユーリは、サキの手によって入念にマッサージングを施されていた。

 愛音は鼻息を荒くしながら、ユーリの首裏に氷嚢を当てている。

 そんな至れり尽くせりの状況で、ユーリは「うにゅう」と難しい面持ちをしていた。


「あのですね、もしも尊大に聞こえたならば申し訳ない限りなのですけれども……ユーリちゃんは、そこまで疲弊しておらぬのです。おふたりも、ちょっと休まれてはいかがでありましょうか?」


「へん。確かにおめーは攻撃らしい攻撃もくらってねーし、寝技で暴れまくるのもいつものこった。おめーにしてみりゃあ、かるーくスパーでもこなしたような心地なんだろうな」


「いえいえ! 沖選手はさすがの寝技巧者でありましたので、ユーリちゃんも一秒たりとも気が抜けなかったのです! あともうちょっとでひっくり返せそうだったのに、それだけが残念だったにゃあ」


「あっちはもう、おめーにつきあう気力も体力も残ってなかったんだろ。……ジャリ、そいつも引っ込めろや。あんまり冷やされるとクールダウンしちまうってよ」


「了解なのです! やっぱりユーリ様は凄かったのです! 沖選手を相手に、無傷の完全勝利であったのです!」


「無傷は、あっちも同じことだけどな。気づいてたか? 二ラウンド通して、まともに当たった打撃は最後の牛のロー一発だったんだよ。こいつは格闘技界の歴史に残る栄誉と汚名かもなー」


 そんな風に言ってから、サキは立松を振り返った。


「ま、それはともかくとして、ノーダメージで次の試合に挑めるってのはありがてーこった。天覇のタコ坊主はどんな塩梅だったんだ?」


「あちらさんも、ほとんどノーダメージだろうな。スタミナにも、大した影響はないはずだ」


 そうして立松は、魅々香選手と沙羅選手の一戦についてをサキやジョンたちに聞かせてみせた。


「初っ端にテイクダウンを取った後は逃げ回って、最後の最後で打撃のラッシュか。あのタコ坊主が足を使うことを覚えたとなると、そこそこ厄介だな」


「ああ。しかし、桃園さんだったら寝技でそうまで抑え込まれることもないだろう。ポジションキープなら、魅々香選手より沖選手のほうが上のはずだからな。テイクダウンを狙われても、そうまで不利にはならないはずだ」


 コーチ陣が真剣に語らっているのを横目に、瓜子はあらためてお祝いの言葉をかけておくことにした。


「さっきも言いましたけど、決勝進出おめでとうございます。相手はまた手ごわいベテラン選手っすけど、ユーリさんなら勝てますよ」


「ありがとぉ。うり坊ちゃんも、頑張ってねっ!」


 身体を冷やさないようにジャージを着込んでいたユーリは、心から嬉しそうににっこりと微笑んだ。

 本当に、軽いスパーでもこなしたような様子である。最後の最後で相手がガスアウトしてしまったために、ユーリとしても不完全燃焼なのかもしれなかった。


 しばらくして、瓜子はさらなるウォームアップに取りかかる。

 ユーリと瓜子の試合が連戦でなかったのは、幸いだ。瓜子はじっくりと時間をかけて、自分の試合へと意識を切り替えることができた。


「さあ、もうすぐあたしらの出番だね」


 と、ふいに背後から声をかけられた。

 振り返ると、瓜子の次に出番を控えている亜藤選手が立っている。去年から、何度か軽い挨拶ぐらいはさせてもらっていたが、彼女のほうからこんな風に声をかけられるのは初めてのことであった。


「ラニは厄介な相手だよ。きちんと対策はできてるの?」


「押忍。考えつく限りのトレーニングは積んできたつもりです」


「ふうん。……おたがい今日の試合に勝てたら、王座挑戦の権利を巡ってやりあうことになるだろうからね。せいぜい健闘を祈ってるよ」


 それだけ言って、亜藤選手はさっさとセコンド陣のほうに戻っていった。

 激励してくれたのか、近い将来の対戦相手として挑発されたのかは、なかなか判断の難しいところであったが――ともあれ、指折りのトップファイターである亜藤選手にそのような言葉をかけられるのは、栄誉なことであった。


 亜藤選手は神奈川にあるガイアMMAというジムの所属で、レスリングを得意にするトップファイターだ。年齢は二十六歳で、《アトミック・ガールズ》のライト級においては『黄金世代』と称されるひとりであった。


 ライト級は層が厚いため、トップファイターと呼ばれる選手が数多く存在する。年齢を重ねたために試合から遠ざかっているベテラン選手も含めれば、六、七人にも及ぶことだろう。

 その中で、年齢もほどよく順調にキャリアを重ねてきた亜藤選手は、波に乗っているひとりであるはずだ。


 タイトル戦ではサキに敗北したが、イリア選手やラニ・アカカ選手にも勝ったことがある。メイ=ナイトメア選手に敗北した山垣選手にも勝ったことがある。仮にランキングを設定するならば、ライト級で三位以内には入りそうな実力者であった。


 もしも彼女がメイ=ナイトメア選手に敗北してしまったら、ライト級の手駒はもう三、四人しか残らないかもしれない。しかも、負傷中のサキと不確定要素の多いイリア選手を含めて、その人数であるのだ。

 思うに――そこまで追い込まれる前に、パラス=アテナは瓜子を手駒に育てあげたいと画策しているのではないだろうか。


(まあ、なんでもかまわないさ。メイ=ナイトメア選手とやりあえるなら、こっちは願ったりかなったりだ)


 そして今は、眼前のラニ・アカカ選手を打倒しなければならない。

 瓜子はまた、否応なく闘志をたぎらせることになった。


「よし。そろそろ出番だな」


 立松の号令で、控え室の出口に向かう。第四試合が終了したのだ。

 すると、居残り組の面々がそれぞれ激励の言葉をかけてくれた。


「頑張ってねー! 全身全霊で、うり坊ちゃんの勝利をお祈りしてるよっ!」

「ウリコだったら、ダイジョウブだよー。レンシュウのセイカをミせてねー」

「……ご武運をお祈りいたします」


 瓜子はそちらに手を振って、入場口を目指した。

 その場には第六試合に出場する選手が控えているので、その邪魔にならないように距離を取りつつ、サキにミットを持ってもらって、最後の暖気に取りかかる。

 その後も順調に試合は消化されていき――ついに、瓜子の出番であった。


『青コーナーより、猪狩瓜子選手の入場です!』


 そんなアナウンスの宣言とともに、大好きな『ワンド・ペイジ』の曲が流される。

 そのイントロを扉の裏で味わってから、瓜子は花道に踏み出した。


 歓声が、物凄い。

 これが、ミュゼ有明における満員札止めの破壊力であろうか。そういえば、瓜子がこの会場で満員の日に出場するのは初めてのことであったのだった。


 そして、自分の名をコールする声も普段より多いように感じられる。

 その中に「うりぼー!」という声が聞こえたような気がして、瓜子は思わず頬がゆるみそうになってしまった。


(なんだよ、まさかユーリさんのベストバウトDVDの悪影響か? ……定着しないといいんだけどなあ)


 そんな余所事に頭が向くぐらい、今日も瓜子はリラックスできていた。

 そうして無事にリングインすると、逆側の花道からはラニ・アカカ選手が入場してくる。

 ここ最近は愉快なコスチュームをした対戦相手ばかりであったので、その姿はひどく質実剛健な感じに見えてしまった。

 また実際、彼女はファイトスタイルも質実剛健そのものであるのだ。


 生粋のストライカーでもなく、生粋のグラップラーでもなく、奇矯なカポエイラ使いでもない。寝技も立ち技も高いレベルの、オールラウンダーだ。

 この選手を倒してこそ真のトップファイターであるという鞠山選手の評も、実に納得できるものであった。


『第七試合、ライト級、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』


 リングアナウンサーの声が、朗々と響き渡った。


『青コーナー。百五十二センチ。五十二キログラム。新宿プレスマン道場所属。《G・フォース》フライ級第一位……猪狩、瓜子!』


 さらなる歓声が、瓜子の頭上に渦巻いた。

 やはり、普段よりも自分の名を呼ぶ声が多いようだ。


『赤コーナー。百六十四センチ。五十二キログラム。AFジム・ホノルル所属……ラニ・アカカ!』


 ラニ・アカカ選手は、落ち着いた表情でひょろ長い右腕を頭上に掲げていた。

 映像で見た通りの、一見は温厚そうな風貌だ。黒髪黒瞳で小麦色の肌をしており、ひょろりとした体形で、面長の顔にくりくりとした目が輝いている。


 しかしやっぱり、その手足や胴体は瓜子よりもボリュームでまさっていた。

 彼女がひょろりとして見えるのは、顔が小さい上に首や手足が長くて、ついでに肩幅もせまいためであるのだ。


 身長は十二センチも差があり、体重は同等であるのに、長身の選手のほうが肉厚の体形をしているというのは、ほとんど詐欺のようなものである。

 しかしこれこそが、日本人選手と外国人選手の差であった。

 外国人選手は、その多くが日本人選手よりも骨格がしっかりとしている。肉よりも骨のほうが軽いのは道理であるため、骨が太いぶんサイズ感が増すのである。


 しかも瓜子は平常体重が五十四キロていどであるために、計量の後でリカバリーしたとしても、それ以上のウェイトになる道理がない。

 いっぽうラニ・アカカ選手は、五、六キロぐらいもリカバリーしていそうな質量であった。


 なおかつ瓜子は、もともと体重よりも細く見えると言われる体形である。

 よって瓜子は、一階級上の相手を眼前に迎えているような心地を味わわされることになった。


「それでは両者、クリーンなファイトを心がけて」


 ルール説明の後、レフェリーがグローブタッチを要求してきた。

 瓜子が両手を差し出すと、相手も同じように両手を差し出して、グローブの表面でちょんと触れてくる。


 近くで見ても、やはり愛嬌のある面立ちだ。

 しかしその黒い瞳には、試合を眼前にした選手に相応しい気迫が宿されていた。


「よし、びびらず当たっていけよ! まずは、距離をつかんでこい!」


 コーナーに戻ると、立松の激励が飛んでくる。

「押忍!」と応じて、瓜子はマウスピースを噛みしめた。


『ラウンドワン!』


 歓声の中、ゴングが鳴り響く。

 立松の指示通り、瓜子は臆せず踏み込んだ。


 ラニ・アカカ選手も、どちらかといえばインファイターである。

 真正面からの打ち合いを好み、足を使って逃げるような戦法は好まない。

 ただし、これだけの身長差だ。肩幅はせまいが、そのぶん腕が長いので、身長差以上のリーチ差であろう。これで相手に距離を支配されてしまったら、いいように殴られるだけであった。


(前後の出入りで、距離を作る)


 相手の手足が届かない位置から、瓜子は一気に踏み込んで、左ジャブを繰り出してみせた。

 相手の右腕に、浅く右拳が当たる。

 そうして瓜子が身を引くと、向こうもすかさず左ジャブを繰り出してきた。

 殴られたら殴り返し、蹴られたら蹴り返す。これまでの試合でも見せていた通りの、負けん気の強さだ。


 そして今度は、向こうからずかずかと間合いに踏み込んでくる。

 この押しの強さも、かねてより研究していた通りであった。


 瓜子はサイドにステップを踏みつつ、左ジャブから右ローに繋いでみせた。

 左ジャブはブロックされて、右ローはチェックされる。

 相手のジャブはこちらもブロックして、さらに追加の左ジャブだ。

 そこで欲をかかずにバックステップすると、右膝蹴りが飛んできた。その場に留まっていたならば、けっこう深くもらっていたかもしれない。それだけの身長差であるのだ。


 ひさびさの正統派な打撃の交換に、瓜子はふつふつと闘志をたぎらせることになった。

 ここのところはキックの試合もご無沙汰であるし、直近の試合はイリア選手、その前は鞠山選手となる。これほどのびのびと打撃を振るえるのは、実にひさびさのことであった。


 瓜子は前後にステップを踏みながら、ジャブとローを出し続けた。

 正面からではカウンターの危険があるので、相手のアウトサイドに踏み込みつつ、打撃を当てていく。いずれもブロックかチェックでしのがれたが、こうして相手に触れることによって、瓜子の中では着実に距離感が固まっていった。


「そろそろ組みつきも警戒しとけ! キックの試合じゃねーんだからな!」


 と、今度は頼もしきサキの声が飛んでくる。

 そう、彼女はこれだけ打撃技の圧力とディフェンス能力を有しつつ、寝技の巧みなオールラウンダーであるのだ。


 寝技の勝負では今の瓜子に勝ち目はないと、鞠山選手から逆さまの太鼓判をいただいている。

 瓜子は徹底的にグラウンドへの移行を嫌って、スタンドで勝機を見出さなければならないのだ。


 ラニ・アカカ選手は遠い距離からワンツーを放ちつつ、これまで以上の迫力で近づいてきた。

 その腹に、前蹴りを叩き込む。

 空気をぱんぱんに入れたタイヤでも蹴り飛ばしたような感触だ。それなりのクリーンヒットであったのに、相手は効いた素振りも見せない。


 しかし、前進の足は止まっている。

 ロープ際に追い込まれる前にと、瓜子はアウトサイドに回り込みつつ、相手の横っ面に左ジャブを当ててみせた。


 ラニ・アカカ選手は、さらに猛然と追いすがってくる。

 まるで、壁に迫られているような感覚だ。

 しかし瓜子も、ジムではユーリや男性陣を相手にスパーしていたし――それに、合宿稽古ではオリビア選手や多賀崎選手を相手取っている。


 感覚的に、もっとも近いのは多賀崎選手であった。

 上背はラニ・アカカ選手のほうがまさっているぐらいであったが、重量では多賀崎選手のほうがまさっている。この重圧感や速度感がもっとも近いのが、どうやら多賀崎選手であるようだった。


(多賀崎選手も、けっこう真っ直ぐ突っ込んでくるインファイターだったからな)


 それをすかして、ジャブやローを叩き込むというのは、スパーで何度となく繰り返してきたワークであった。

 やがてラニ・アカカ選手は、いくぶん焦れた様子で両足タックルを仕掛けてきた。

 瓜子は素早く両足を引いて、そのタックルを押し潰してみせる。

 多賀崎選手とは、組み技ありのスパーも重ねていたのだ。


 ラニ・アカカ選手はすかさず体勢を入れ替えてマットに背中をつけたが、瓜子はつきあわずに引き下がる。ラニ・アカカ選手の寝技は柔術がルーツであり、ポジションをひっくり返すスイープも大の得意であったのだ。


「スタンド!」


 瓜子が距離を取ったために、ラニ・アカカ選手も立ち上がらされる。

 今のは強引なタックルであったが、その表情から焦りは感じられない。オールラウンダーである彼女はまだまだ数多くの引き出しを有しているし、それに、長いラウンドを同じペースで闘えるだけのスタミナも有しているのだ。


(次は、どう来る?)


 スタンド状態に戻ったラニ・アカカ選手は、これまでよりも細かくステップを刻み始めた。

 そして、遠い間合いからいきなり右のハイキックを繰り出してくる。

 瓜子がスウェーでそれをかわすと、長い両腕がにゅっとのばされてきた。

 瓜子はほとんど反射的に左ジャブを放っていたが、ラニ・アカカ選手の突進は止まらず、両脇に腕を差し込まれてしまう。


「膝! 腹が空いてるぞ!」

「四ツに戻して、突き放せ!」


 サキと立松から、同時に助言が飛んでくる。

 瓜子はまず、相手の腹に右膝を叩き込んだ。身長差があったために、双差しの体勢では相手が屈むことになり、大きくスペースが空けられていたのだ。


 しかるのちに、右腕を相手の肩口からねじ入れる。

 双差しから、四ツの体勢に移行することができた。

 さらに、相手の長い腕がクラッチを組む前に、身体をねじって拘束から脱出する。

 そして瓜子は置き土産として右のローを叩きつけてから、バックステップで距離を取ってみせた。


 やはりラニ・アカカ選手の唯一の穴は、スタンド状態の組み技であるのだ。

 穴といっては言い過ぎなのかもしれないが、少なくとも打撃技や寝技ほど錬磨はされていない。


 鞠山選手は、もっと速かった。

 多賀崎選手は、もっと力強かった。

 そんな彼女たちと積んだ一週間分の修練が、瓜子の身には刻みつけられている。それをまざまざと体感できた一瞬であった。


(ついでに言うなら、ユーリさんはもっとべったりしてて、軟体生物に絡め取られるような心地だしな!)


 迫りくるラニ・アカカ選手に、瓜子は右ミドルを繰り出してみせた。

 レバーに命中したはずだが、相手も突進していたために、打点が少しだけズレてしまったようだ。

 相手の突進はステップでいなして、また横っ面に左ジャブを叩き込む。


 いいリズムであった。

 距離感も、しっかり構築されつつある。

 だが――瓜子は、そこはかとない違和感を抱かされていた。


(なんだ、この感覚は?)


 相手が右ローを放ってきたので、カウンターで左ジャブを当てる。

 片足タックルは、右の膝蹴りで撃退だ。

 再びのハイキックはスウェーでかわし、相手が体勢を整える前に右のローを叩きつける。


 さきほどから、瓜子の攻撃ばかりがヒットしている。

 しかし――ラニ・アカカ選手の重圧感は、これっぽっちも減じていなかった。


(あたしの攻撃が、なんにも効いてないのかよ?)


 ラニ・アカカ選手は、変わらぬペースでぐいぐい前進してくる。

 瓜子はガードの隙間から右ストレートを叩き込み、さらにレバーブローまで繋げてみせた。

 どちらも、クリーンヒットである。

 しかし、ラニ・アカカ選手の前進は止まらず――ついに瓜子は、頭を抱え込まれてしまった。

 同時に、鋭いクリンチアッパーが振り上げられてくる。


 瓜子はとっさに、両腕のガードでその拳を防いでみせた。

 そうして身をよじり、相手のクリンチから逃れようとしたのだが――踏み出した右足に、相手の左足が掛けられてくる。

 完全に重心を崩されて、瓜子は横合いに倒れ込むことになった。


 その上から、ラニ・アカカ選手が覆いかぶさってくる。

 横を向いた瓜子の腰に、どっしりと体重をかけられた。

 これでは、腰を切ることもできない。

 そうして死角から、パウンドが飛んできた。


 瓜子は左腕で頭をガードしつつ、右腕で相手の身体を押そうとする。

 すると今度は、正面から逆側の拳が飛ばされてきた。

 鼻っ面にパウンドを浴びて、瓜子の目の裏に火花が散る。

 いったいラニ・アカカ選手は、どのような体勢で瓜子を制圧しているのか。横向きの体勢で固定されてしまい、瓜子にはまったくなすすべがなかった。


「相手の右足を払って、正面を向け!」

「もう時間がねーから、相手もたたみかけてくるぞ!」


 立松とサキの声が、交錯する。

 相手の右足とは、いったいどこに存在するのか。ラニ・アカカ選手の上半身が邪魔になって、下半身の様子がまったくわからない。ただ、瓜子の両足はどういう形でかしっかりホールドされており、身体の向きを変えることなどはできそうになかった。


(とにかく、ラウンド終了まで粘るんだ!)


 相手にパウンドを打たせまいと、瓜子は正面に見えるラニ・アカカ選手の右手首をつかみ取ってみせた。

 すると、死角からのびてきたラニ・アカカ選手の左手が、瓜子の手首をつかんでくる。

 いったいどのような形になっているのか、それで瓜子の右手首があらぬ方向にねじ曲げられ始めた。

 肘と肩に、危険な圧力が掛けられていく。


(まずい!)


 瓜子は空いていた左手で、相手の指先ごと自分の右手首をつかみ取った。

 それで相手の圧力に対抗すると、ほんの少しだけ痛みが緩和される。

 だが、これでは片腕で綱引きをしているようなものだ。

 相手は自らの体重をも利用して、両腕で瓜子の右腕をひねり上げようとしているのである。こんな状態は、五秒とキープできそうになかった。


(早く……早く、ゴングを鳴らしてよ!)


 瓜子の指先から、じわじわと力が抜けていく。

 そうして、あらがい難い痛みが肘と肩に迫り寄ってきた瞬間――ゴングの硬い音色が響きわたった。


 相手は両腕の拘束を解いて、瓜子のもとから身を起こす。

 渾身の力を振るっていた瓜子は、しばらく立ち上がることもできなかった。


(これが……本当のトップファイターの実力か)


 第一ラウンドでここまで消耗させられたのは、初めての経験である。

 ただし瓜子は一度だけ、第一ラウンドで敗北した経験を有している。八ヶ月前に、サキにKO負けを喫した際のことだ。


(あたしはその、サキさんを目標にしてるんだからな)


 ならば、これしきのことで弱音を吐くわけにはいかない。

 瓜子は疲弊しきった手足に力を込めて、なんとか立ち上がってみせた。

 青コーナーではすでに椅子が準備されており、頼もしきチームメイトたちが瓜子の帰還を待ってくれていた。

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