02 地上最弱のプリティファイター

『赤コーナー。百六十七センチ。五十五・五キログラム。フリー……ユーリ・ピーチ=ストーム!』


 リングアナウンサーの紹介とともに、十八歳になったばかりのユーリが頭上にかざした両手をひらひらと振っていた。

 客席は、大いに沸いている。ユーリはこの試合の少し前に、十ヶ月がかりで作製されたドキュメント番組を同じスポーツチャンネルで放映されていたのだ。その類い稀なるルックスと色香によって、ユーリはデビュー前から数多くのファンを獲得していたのだった。


 瓜子は当時から《アトミック・ガールズ》の試合を視聴していたので、もちろんこの試合もリアルタイムで拝見している。わずか十ヶ月のトレーニング期間で、素人のグラビアアイドルがどれだけ動けるものであるのかと、眉につばをつけながら観戦していたのだった。


 この時代のユーリは、瓜子が生身で出会った頃と、ほとんど印象も変わらない。よくよく見れば、やはり多少はほっそりしているように見えなくもないが、ボディラインの起伏の度合いには変わりがないので、印象としては変わらないのだろう。


 栗色の長い髪をなびかせて、ユーリは心から幸福そうな笑顔である。

 ついにファイターとして、プロのリングに立てたのだ。瓜子は当時とまったく異なる心境で、その笑顔を見守ることになった。


「……対戦相手のこいつは、けっきょく鳴かず飛ばずで引退しちまったな」


 座卓に頬杖をついたサキが、ぽつりとそのようにつぶやいた。

 対戦相手も、これがデビュー戦となる新人選手であったのだ。ただしこちらはアマの大会で実績を積んでおり、戦績は六勝三敗というものであった。


 年齢はすでに二十五歳で、学生の頃に柔道の経験があり、段位は初段。硬そうな黒髪を短めに切りそろえた、いかにも実直そうな面立ちであった。


「こちらの選手は、やはり手ごわかったのでしょうか?」


 愛音が小声で尋ねると、ユーリは「う~ん」と悩ましげな顔をした。


「それが、ほとんど記憶に残されていないのだよねぇ。ユーリはもうリングに立てた感激で、忘我の極みであったのだよ」


 そんな言葉を裏付けるかのように、ユーリの動きはハチャメチャであった。

 ぶんぶんと両腕を振り回し、ほとんどガードもしていない。十ヶ月間とはいえみっちり稽古を積んできたというのに、それも頭から飛んでしまっている様子だ。


 いっぽう対戦相手もプロデビュー戦の緊張感からか、そんなユーリと同レベルの有り様になってしまっている。というか、おそらくはユーリの混乱が伝染してしまったのだろう。その結果、この試合はゴングが鳴った直後から、ノーガードで打ち合う乱打戦へとなだれこんでしまったのだった。


「さすがにこの時代は、牛の怪力具合もほどほどだったろうからな。今だったら、クリーンヒット一発で終わってたかもしれねーけどよ」


 確かに相手選手はユーリの猛攻に耐えて、同じだけの拳を返している。ユーリの偏向したファイターとしての能力は、ここからの一年ほどで着々と積み重ねられることになったのだ。


 それにしても、ユーリも対戦相手もタフである。フォームが乱れているために威力も半減なのであろうが、それでも数十発のパンチを延々と交換しているのだ。客席は、想像以上の激しい試合に熱狂の渦と化していた。


 その均衡が崩れたのは、試合開始から三分ほどが経過したのちのことである。

 相手の拳がユーリの下顎にヒットして、初めてのダウンを奪ったのだ。


 ユーリは棒のように倒れ込み、客席からは悲鳴のような声があげられた。

 レフェリーがカウントを取り始めると、「ユーリ!」の大合唱が開始される。その声に襟首をつかまれたかのように、ユーリはカウントナインでかろうじてファイティングポーズを取ることができた。


 栗色のロングヘアは乱れに乱れて、ユーリの顔や丸っこい肩にへばりついている。

 そしてユーリは、口から出血をしていた。肉感的な唇から、鎖骨のあたりにまで赤い筋をしたたらせている。

 レフェリーはいったん試合を止めてユーリの口内を確認したが、すぐに試合を再開させた。


 会場内には、まだ「ユーリ!」のコールが響いている。

 両者は、再びの乱打戦を再開させた。

 さすがにスタミナが切れてきたのか、両者はどちらも動きが鈍くなっている。

 すると今度は、ユーリの右拳が相手の左側頭部を撃ち抜いた。


 大した当たりには見えなかったが、疲れ果てているところに一発をもらって気持ちが萎えてしまったのだろう。相手選手は力なくへたり込み、レフェリーは容赦なく「ダウン!」を宣告した。


 客席は、沸きに沸いている。

 対戦相手はカウントシックスで立ち上がったが、その顔に最前までの覇気は残されていなかった。


 いっぽうユーリも同じぐらいスタミナを消耗しているが、こんな画面ごしでも瞳が明るくきらめいているのが見て取れた。

 口の端から血を垂らし、バケツで水をかぶったように汗だくであるのに、楽しくて楽しくてたまらないといった顔つきである。


 そんなユーリの様相にいっそう戦意を削がれたのか、対戦相手は試合の再開を命じられるなり、乱打戦を放棄してユーリに組みついた。

 ユーリはつんのめるようにして後ずさり、そのままロープに押しつけられる。相手選手は四ツの組手を取り、呼吸を整えているようだった。


 そこでユーリが相手の背中で両手をクラッチして、「えーい!」とばかりにマットへと引きずり倒した。

 すると今度は、マット上でもつれ合いである。現在のユーリからは想像もつかないほどの、お粗末で力まかせの攻防であった。


 上になったり下になったりを繰り返し、両者の動きはいっそう鈍くなっていく。

 そうして、間もなく第一ラウンドが終了しようかというところで、ユーリが相手の背中にへばりついた。


 相手はパウンドを怖がるかのように、亀の状態で頭を抱えてしまう。

 その胴体を、ユーリは両足ではさみこんだ。

 そして、オープンフィンガーグローブに包まれた右拳を、力まかせに相手の咽喉もとへとねじこんでいく。


 ユーリの圧力に耐えかねた様子で、相手の両足がマットの上にのばされた。

 ユーリの腕は、下顎ごと相手の首を巻き込んでいる。

 そうしてユーリが腕をクラッチして、おもいきり上体をのけぞらせると――真横に首をねじ曲げられた相手選手は、両足をばたばたと泳がせながら、ユーリの腕をタップした。


 ゴングが乱打され、歓声が爆発する。

 レフェリーはユーリの身体を相手選手から引き剥がし、ほとんど無理やりのように右腕を高く掲げさせた。


『一ラウンド、四分五十二秒! フェイスロックによるタップアウトで、ユーリ選手の勝利です!』


 ユーリはぜいぜいと息をつきながら、不思議そうに周囲を見回した。

 その顔に、じわじわと歓喜の表情がたちのぼってくる。

 それは――沙羅選手に一年以上ぶりの勝利を収めた、あの夜と同一のたたずまいであった。


(……当時のあたしは、なんて素人じみた試合だって呆れてたけど……)


 しかし今の瓜子の胸には、熱い激情が乱舞してしまっていた。

 油断すると、涙をこぼしそうになってしまう。ユーリがどれだけの覚悟と情熱をもって、トレーニングに打ち込んでいたか――それを知った瓜子の目に、それは当時とまるきり異なる光景に見えてしまったのだった。


 ここから、ユーリのファイター人生は始まったのだ。

 みっともなくて、泥臭くて、プロの選手としては赤点の内容であったかもしれないが、この試合があったからこそ、今のユーリがあるのである。


「……あははぁ。この試合って、こんなにしっちゃかめっちゃかだったんだねぇ」


 ユーリは、気恥ずかしそうに笑っていた。

 ユーリは研究の材料にでもならない限り、自分の試合を見返すこともないのだ。よって、この試合を映像で観るのも二年三ヶ月ぶりか、あるいは初めてのことなのかもしれなかった。


「すごいです! 感動です! 愛音もこの試合は録画したものを何十回と見返しているのですが、やっぱり涙が止まらないのです!」


 と、愛音のほうは素直に激情を爆発させて、ぼろぼろと涙をこぼしていた。

 サキは普段通りの仏頂面で、理央はきょとんと目を丸くしている。彼女は大晦日も、ずっとこんな面持ちで《JUFリターンズ》の試合模様を観戦していたのだ。


「ま、これだけ無茶苦茶に暴れ回れば、喜ぶ客もいるんだろうな。これでおめーの客寄せパンダ人生が開始されるわけだ」


 そんなサキの言葉とともに、画面上ではまたインタビューの映像に切り替えられていた。インタビュアーの言葉はテロップで表示され、当時を振り返るユーリの声だけが流される。


『本当は、チョークスリーパーを極めたかったんですけどねぇ。無我夢中で力を込めたら、フェイスロックになっちゃったんですぅ』


 試合模様を見返していないユーリは、おぼろげな記憶を頼りにのほほんとした言葉を垂れ流していた。


 そしてここからは、一年以上にも及ぶ悲しき試合模様である。

 それらはダイジェストで、さくさくと矢継ぎ早にお披露目されていった。


 ユーリのデビュー二戦目は、一ヶ月後の十二月。《NEXT》と共同で企画された、年末の特別興行であった。

《NEXT》でデビューをした若手選手と対戦し、試合早々にタックルをきめられて、パウンドの嵐であっさりレフェリーストップである。


 三戦目は、《アトミック・ガールズ》の一月興行にて、ユーリと同じくデビュー三戦目の若手選手と対戦し、三度のダウンを奪われてのTKO負け。

 続いて三月の興行では、まったく素性の知れない外国人選手と対戦し、これもあっさりマウントポジションを取られて、パウンドアウトのKO負け。

 五戦目は《NEXT》の興行で、昨年末に敗北を喫した若手選手とのリベンジ・マッチ。これもパウンドをくらいまくって、最後はチョークスリーパーを極められていた。


 六戦目は、何故かいきなりの強豪選手で、オーストラリアのオリビア・トンプソン選手の登場だ。

 昨年にリベンジを果たしたユーリであるが、ちょうどそれから一年前のこの試合では、スタンド状態でいいように攻め込まれて、三つのダウンを奪われる前にレフェリーストップされていた。


 七戦目は、オリビア選手よりも格下ではあるものの、《アトミック・ガールズ》で戦績を重ねた中堅の日本人選手であった。

 相手もグラップラーであったが、ユーリの立ち技が穴と見て、序盤から猛烈に攻め込み、三度のダウンを奪取していた。


 八戦目はまた外部の興行で、一昨年の夏に開催された《JUFリターンズ》である。ここでユーリは連敗記録をいったんストップし、ブラジルの強豪ノーマ・シルバ選手と引き分けることになった。

 ただし、親交の深い《NEXT》と異なり、こちらは試合映像を使用する許可が下りなかったらしい。何枚かの静止画像が表示されるだけで、両者の熱いグラウンド合戦を拝見することはできなかった。


 九戦目は、中堅の外国人選手に、あっさりとKO負け。

 十戦目は、初来日で実力未知数となる外国人選手に、パウンドの嵐から腕ひしぎ十字固めを極められて敗北。

 十一戦目は、《NEXT》で無名の若手選手と当たり、パウンドアウト。


 そして、十二戦目――瓜子が初めてユーリの試合を生で観戦した、昨年の一月大会である。アメリカの強豪ジーナ・ラフ選手に、チョークスリーパーで一本負けだ。


 およそ一年と二ヶ月で、十二試合。

 対戦記録は、一勝十敗一引き分け。

 それが、瓜子と出会った頃のユーリの輝かしき戦績であった。 


『あの頃はほんとに、暗中模索の日々でしたねぇ。流した血と汗は嘘をつかないの信念でお稽古を頑張っていましたけれど、まったく成果を出せませんでしたぁ』


 画面上のユーリは、さらりとそんな風に語っている。

 また実際、ユーリは当時もまったく落ち込んだりはしていなかったのだ。とにかくプロファイターとして生活できていることが幸福でたまらず、無邪気に笑いながら、ひたすらトレーニングに打ち込んでいたのである。


 デビュー前の十ヶ月と、デビュー後の一年二ヶ月で、ちょうど丸二年だ。その期間、ユーリは人の三倍ほどの苛烈なトレーニングに打ち込んで、人並み外れたパワーとスタミナと柔軟性、卓越したグラウンド・テクニックとフォームだけは綺麗な打撃技を習得するに至ったのだった。


『まわりのみんなが言ってる通り、転機となったのは沙羅選手との試合ですねぇ。プレスマンの人たちが、親身になってユーリを鍛えあげてくれたんですぅ』


『いったいどのようなトレーニングを?』というテロップが表示される。

 ユーリはカメラに向かって、にこりと微笑んだ。


『それは企業秘密ですけれどぉ、大先輩のサキたんがあれこれ戦略を練ってくれたんですぅ』


 その言葉が発せられると同時に、サキはユーリの頭を引っぱたいた。画面上では、サキの凛々しい立ち姿の画像とプロフィールなどが表示されている。


「このタコスケ。公共の場でおかしな呼び方を持ち出すんじゃねーって、なんべん言えばわかるんだよ?」


「だってぇ、サキ選手とかいうのはよそよそしくてイヤなんだもぉん」


 叩かれた頭をなでながら、ユーリは反抗的な顔でべーっと舌を出した。

 瓜子はサキに気取られないように気をつけながら、くすりと笑う。

 が、まったく笑っていられる立場ではなかった。


『それにあとは、後輩として入門してきたうり坊ちゃんですねぇ。当時のうり坊ちゃんはMMAの初心者でしたけど、うり坊ちゃんがそばにいてくれるだけで、もりもり力がわいてきたんですぅ』


 瓜子は、口に含みかけていたお茶をふきだしそうになってしまった。

 画面上では、やはり瓜子の宣材画像とプロフィールが公開されてしまっている。


「な、なんすか、これ? あんなコメント、絶対にカットされると思ってたのに!」


「カットされるわけないじゃーん。どなたが編集したのかは存じませぬけれど、モノゴトの本質をわきまえておられますわねぇ」


 ユーリは楽しそうに笑い、瓜子は溜息をつくことになった。

 そして、右の頬に強い視線を感じるが、そちらを振り返る気にもなれない。どうせそちらでは、ユーリ様を魂の奥底から敬愛している少女が肉食ウサギのような眼光を瞬かせているに決まっていた。


『コーチのジョン先生と立松先生はもちろん、サキたんとうり坊ちゃんなくして、今のユーリはありえませんでしたぁ。本当にもう、今すぐぎゅーっと抱きしめたいぐらい、ふたりには感謝してるんですぅ』


 瓜子とサキの気も知らず、画面上のユーリは満面に笑みをたたえていた。

 それは、ユーリがグラビア撮影の際に見せる笑顔よりも、さらに魅力的で輝くような笑顔であった。

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