「のばら」ただいま準備中(その二)
「おはようございます、奥さま」
「おはようございまーす、奥さまー」
「おはようございます、二人とも」
一階に降りていき、既に開店準備をはじめているスタッフたちと挨拶をする。
「……おい、私には挨拶なしなのかい」
「あははー、いらしたんですね店主さんの方も。つい、うっかり忘れちゃってー」
「これはお約束というやつを伴った冗談の一種というものなのでそんなに目くじら立てないでください。ということでおはようございます店主さん」
「あは、店主さんもおはようございまーす」
アルフと実に親しげに、冗談交じりに挨拶を交わす接客担当スタッフの二人。この店で働いているのは殆どはアルフと昔からのつきあいの人たちだった。そのため皆は基本的にアルフへの態度は容赦なく、そして親密さに満ちている。それをイヴはいつも羨ましく思う。
接客として働いてもらっているのは、ひとりはくるくると渦を巻く銀色の髪に、健康そうに小麦色に焼けた肌、それに彫りの深い顔立ち、といういかにも大陸南方の出身らしい特徴を兼ね備えた少女、マレイン。それにもうひとり、まっすぐな長い黒髪につぶらな真っ黒い瞳、出来の良いお人形さんのように可愛らしい娘……のように見えるドレス姿の小柄な少年、ヤナギ。
見た目がある意味では対照的なふたり。このふたりが「のばら」の店内でくるくると動き回り働いているのは、なかなかに華やかだ。お客の評判もすこぶる良い。
「というか、今日は一階に降りてくるの妙に遅くなかったですか。寝坊したんですか、いちゃついていたんですか。もしかするともしかしてその両方ですか。そういうのは僕たちの精神衛生上あまりよろしくないのでいくら夫婦と言えどももうちょっと慎んでください」
「う……ご、ごめんなさい……」
「……ヤナギ、お前」
ヤナギはお人形のような見た目に反して、言うことはばっさりとしている。なかなかに手厳しいのだ。
「えー、慎まなくていいと思うのになー。むしろー、もっといちゃつくといいんじゃないかなー。あ、でも営業中のお店ではやめといたほうがいいかもねぇー、あんまりやりすぎると、お客さん減っちゃうもんねー」
マレインはゆるく、間延びした、ふわふわとつかみどころのない話し方をするが、これでいて頭は良い娘なのだということをイヴは知っている。
「え、えーと」
これ以上からかわれてはたまらないと思ったのか、アルフはさっさと自分の聖域であるカウンター内の掃除を始めてしまっている。
なので、イヴが二人に指示をださなくてはならない。
「お店の方のお掃除は終わりましたかしら?」
「店内も終わったしー、お外の方も終わりましたー」
「まだ時間があったので、ここのスタッフルームを掃除しようかとおもっていたところです」
「花売りさんはもういらしたのかしら?」
「そっちはまだー」
「では、二人はスタッフルームの掃除をおねがいしますね。花売りさんが来るまで私はアルフとカウンターの方を」
と、そこまで言いかけて、スタッフルームの扉がノックされる。アルフだ。
「イヴ、花売り娘が来たみたいだよ。急いで出てやってくれる?」
「あ、えっと、二人ともおねがいしますね!」
「はぁーい」
「はい」
スタッフルームを出て、テーブルや椅子をよけながら「のばら」店内を移動する。こういう急ぎのときには、歩きやすい裾丈のドレスと、かかとの低いブーツはありがたいものである。
花売りの娘はいつも「のばら」の正面の両開きのドアではなく、店内横側にあるドアからやってくる。スタッフたちも、朝晩に店に出勤してきたり帰宅して行ったりするときはだいたいこのドアだ。これは、正面の扉をくぐるべきは茶を飲むお客のみというほうがよろしかろう、というアルフの美学からくるものだった。
今日は水仙がみずみずしくてきれいだったし量があったので、それを多めに。あとはクリーム色の薔薇とピンクの薔薇も少し買うことにした。
さっそく購入した花を生けるための花器を選ぶ。といっても、まともな花瓶といえるようなものはこの店にはあまりそろっていない。使わなくなった茶器に食器、薬の小瓶だったもの、ミルクの入っていた瓶などをどうにかこうにか花器として利用している。
こうして花と花器との相性を悩むのもパズルのようでなかなかに楽しくて、イヴとしては好きな仕事だった。
水仙を生けていると、店内横のドアを叩く音と、誰かいないのかと問う声。今度はパン屋がやってきたらしい。厨房側のドアの方がパン屋から近いし、いつも厨房側に回ってと言っているのにも関わらず、なぜかいつもこのドアが使われる。
「……あら、いつもいらしている方ではないのですね。厨房側にまわっていただけますか? いつもすみません」
イヴは水仙を生ける手を止め、ドアを開けて顔を出し対応する。
ところがパンを運んできた若者は、目をまんまるに見開いてイヴを見つめているばかりで、返事がない。
眠くてぼんやりでもしているのだろうか、パン屋さんの朝はとてもはやいというし。もしかしたら疲れていたり、あるいは体調があまりよくないのかもしれない、イヴがみたところ、彼は頬が赤くなっている。
「あの……大丈夫ですか?」
「……女神さま、だ……って、ふぇ、あ、あの、すみません!」
何か意味の解らない妙なことを呟いていた、かと思うと若者は唐突に飛び上がり、そのまま、パンの入った箱を持って脱兎の勢いで走って行ってしまった。
「大丈夫かしら、あの方」
寝言まで言うほどに、眠たかったとは。ひきとめて店内で少し休ませてあげたほうがよかったかもしれない。
「ま、大丈夫だと思うよあれは」
カウンターの中にいて見守っていたアルフがそう言葉を返してくる。
「どうせ、キミに見とれていただけなんだからね」
さて、店内の掃除がおわったし、花も生けた。
あとは何か不備がないかと店内をざっと見て回る。
だが
イヴは朝からなにも食べておらずミルクティーしかお腹にいれていないので、そろそろお腹の音がなりそうな気配がしている。
カウンターの掃除と整理などを終えたアルフを振り返ると、彼も同感だというような表情を返してくる。
「朝のまかないごはん、そろそろできているかしら?」
「パン屋がついさっき配達に来たばかりだからね。まだだとは思うけど行ってみるかい?」
「えぇ」
厨房は朝から仕込みやら、まかない作りに大忙しのようだった。
今日まかないを作っているのはこの店の“料理長”であるガルトだった。彼は今手が離せない程に忙しいらしい。アルフとイヴが入ってきても、目線だけでの挨拶を送ってくるのみだった。
女料理人のダーナも、開店後に使う野菜をざくざくと刻んでいる途中だったためにかるい会釈だけの挨拶だ。
ただ、菓子担当のサイベルは菓子を果物で飾りつけている手をわざわざ止め、律儀にも大きな体を直角に近いだけ曲げてお辞儀をして
「……おはよう、ございます……」
と、低い声で朝の挨拶をしてくれる。
「おはよう、サイベル」
「おはようございます、サイベル」
「まかないはまだできていないようだね、そろそろイヴのお腹から空腹を訴える歌声でも聞けそうなところなんだけど」
「何ですか、歌声とか。まったく包み隠せてませんので、素直におなかの音って言ってください! ……この場合余計恥ずかしいです」
するとサイベルは何も言わずにで背中を向け、自分の作業台から離れた。
そうして彼は厨房にある棚のひとつから小ぶりな籠をとりだしてきて、イヴ達のところまで戻ってくる。
「奥さま……これでも、よければ……その、どうぞ」
サイベルの差し出した小ぶりな籠のなかには、ビスケットがたくさん入っていた。プレーンな生地のもの、干しぶどう入りのもの、何かの種らしいものがまぜこまれたもの、ココアの粉が入った茶色のもの、と種類もさまざま。
「サイベル……あなたが天の御使いさまに見えるわ!」
この、体がやたら大きくいかつい容姿をした菓子職人のやさしさに、思わずイヴは抱き付いて感謝の気持ちを表した。
「御使いにしてはー、ちょっとばかりごつくないかなぁー」
「奥さまのセンスも気になるけれど、それよりなにより店主さん、いいのかなアレ。奥さまが他の男に抱き付いたりしていますけど」
割り当てられた掃除を終わったらしいマレインとヤナギも、いつのまにか厨房に来ていたようで茶々をいれたりしてくる。
「ぐ……ぐぐ……いいか悪いかでいえば悪い、許せない、けど、サイベルだからしょうがない、しょうがない……」
「サイベルはなんかそういうとこは、許されちゃう雰囲気なのですよね。それが果たして得なのか損なのかは微妙だけど」
「そんなことより三人とも、これ食べましょうよ!」
ちなみに、サイベルはイヴの抱き付き攻撃から解放されるとすぐに自分の作業にもどってしまった。
イヴと、アルフと、「のばら」の接客スタッフ二人は作業台の上にあるビスケットを立ったままでつまむ。
さすがに焼きたてと言うわけではなく昨日の営業で余ったもののようだが、それでもまだまだ美味しくいただけるし、なにより空っぽに等しいお腹をなだめる役としては充分だった。
このあとすぐに朝のまかないごはんもあるのだし二枚ぐらいにしておこうと思っていたのだが、そのおいしさでぺろりと三枚いけてしまう。
そして、イヴがビスケットの四枚目に手を付けるべきか迷っている間に、まかないのごはんが完成したようだった。
まだ出勤していなかったスタッフもやって来て、二階で働くメイドのラヴニカも呼び、アルフが全員分の紅茶を――まかないごはんのときにスタッフが飲む紅茶はミルクティーかストレートティーかぐらいは選べるが、どんな茶葉を使って淹れるかまでは選べないルールにしてある――淹れて、ようやく朝の食事をとなる。
「じゃあ皆、今日もいただきます」
「いただきます」
店主アルフとその妻イヴ、それにスタッフたちは各々のやりかたでいただきますをする、と、皆一斉にテーブル上の食事に向かってフォークやスプーン、あるいは手を突撃させる。
おなかが空いているイヴも勿論、フォークをサラダに進軍させる。今日のサラダは大きめに刻んだゆで卵と、緑の葉野菜と、赤いトマト、それらに白いドレッシングのかかったいかにもカラフルで美しい食欲をそそる品だ。
それを味わいつつ食べてから、塩味のミルク入りスープをひとくちいただく。
休むことなく、次は既に切り分けられているふかふかもっちりのパンを左手にとる。その白いキャンバスに焼いたベーコン肉をを二枚、それからサラダも載せて、オープンサンドにする。
それを、ひとくち、ふたくち、みくち……イヴはまるで晩秋のリスであるかのような勢いで、ひたすら食べる。味わう。
そんなイヴの食べっぷりを見て、今日のまかないを作ったガルトが微笑む。
「奥さまはいつも、とてもおいしそうに食べてくださるので、こちらとしても作り甲斐がありますよ」
イヴは自分のお皿にベーコン肉をとりわける手を止めて、応える。
「だって、ちゃんと食べないとおなかがすいてたまらないのですもの。でも、昔はこんなに食べたりはしなかったのよ。ガルトやダーナやサイベルのつくる食事は本当に毎日おいしいです」
「動き回るとご飯がおいしいものなんだよ。あと心身ともに健康だと、やっぱりご飯はおいしいよね」
と、会話の隙をついてアルフは、イヴが狙っていたとびきり分厚いベーコンのひときれを自身のお皿に確保してしまう。
「あっ……あああああああああああああ!」
「いただき」
「アルフー!」
食事の場で飛んだイヴの悲鳴と怒号に、スタッフたちの反応はさまざまだった。けらけらと笑いだす者、やれやれといわんばかりに溜息をつく者、仕方がないなぁ最近の若いものはといった反応をする者、みなかったきかなかったことにする者。
やがて、それほど長い時間はかからずに、今日のまかないごはんの皿はすべてきれいに空っぽになる。
それが合図であるかのように、「のばら」で働く者たちはすぐに席を立ち、皿を片付けるのだ。
そうして、各々がそれぞれの持ち場について――
イヴは喫茶「のばら」店舗正面の内鍵をかちゃかちゃと解錠し、ドアを開ける。
店の前には、すでにお客が何人か待っていた。イヴはにっこりととびきりの微笑みで、そんなお客たちにいつもの朝と同じ言葉を言うのだ。
「喫茶「のばら」開店です。ようこそいらっしゃいませ、お客様」
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