襲来・春の大風(その三)




 喫茶「のばら」の店主であるアルフが、母親にあたるエルゼを追い返した、その翌日。午前中のおやつの時間のこと。


 エルゼはひとり、喫茶「のばら」のテーブル席のひとつにお人形さんのようにお行儀よく、きっちりと背筋を伸ばして着席していた。


「紅茶はミスティエルでいいですかね?」

「ええ、ええ、それでいいですよ、構いませんよ、アルフ。結局ミスティエルは昨日は飲めませんでしたものね」

 なぜ、エルゼがここにいるのか……それは昨日「もう、帰ってください!!」と叫んだその後に、本当にぎりぎりのところでアルフはわずかばかりの冷静さをとりもどして「話は明日にしましょう」と付け足したからだった。

 今日は「のばら」は臨時休業にとしていた。

 ……それは、つまり、今日はエルゼは客ではない。

 これで、ようやく、ようやくで、外野をはさまずに、きちんと向かい合って話ができようというものだった。

「お茶菓子は、チョコレートでいいですね。今日は料理人たちにも休みをだしたので、手の込んだケーキ類などはお出しできないのですよ」

「えぇ、えぇ、えぇ、それでよろしいですよ」

 アルフたちは今日は「のばら」の従業員には全員、休みをとらせていた。

 いつも、二階のプライベートスペースでメイドとして働いてもらっているラヴニカにさえ、今日のところは街に出てもらうようにお願いしている。

 ……もっとも、全員休ませたと言っても、防音の魔法ぐらいは先にかけてもらうぐらいの用心はしているのだが。


「アルフ、その、やはり私も……席を外したほうがよいのでは」

 カウンターの中で紅茶を淹れていると、妻のイヴが、おずおずと遠慮がちにそう申し出る。

「……いや、ダメだ、イヴ、キミもいてくれ。いや、ちがうか、いてほしい。正直、ひとりでは向かい合う勇気がでない。キミも苦しいだろうけど、けど、けど」

 かちゃかちゃ、かちゃかちゃ、と、音が鳴る。茶器がぶつかって音を立てているのだ。らしくもなく、震えている。情けないことだ。

「……はい、アルフ。わかりましたわ」

 イヴはにっこりと微笑む。その微笑みはいつもと同じように美しいもののはずなのに、散りゆく花のようにはかなく悲しさをはらんでいると見えるのはなぜだろうか。

 あぁ、そうか……自分が今恐怖を感じているせいか。

 自分の手から、この美しさが、いまにもすりぬけてしまうかもしれないことが、失われてしまうかもしれないことが、奪われてしまうかもしれないことが、ただただ恐ろしい。

「イヴ」

 本当に、情けないことだ。妻を呼ぶ声は、もう、泣きそうな声音だと自分だからこそわかる。

「アルフ、私はどこにもいきませんから、いなくなったりしませんから、ね」

「イヴ……」

「約束しましたもの。あの日あのとき。……次の日も、その次の次の日だって、ずっとずっと一緒だと、約束すると、あなたはいってくださったでしょう? 私も約束しましたでしょう?」

 イヴは、あのはじまりの日のあのはじまりのときの、大切な思い出のことばをなぞりながら、今にも逃げだしたくて仕方がないアルフを力づけてくれる。

「そうだね。それがキミと、私の、約束だったね……ありがとう」

「どういたしまして、ですわ」

「……さぁ、行こうか」

「えぇ、行きましょう」


 これから自分たち夫婦は

 たったふたりだけでユレイファ王国に立ち向かうのだ。







 ことん、とわざと小さな音をさせて、エルゼベート・シレーヌ・ユレイファの前にミスティエル紅茶の入った薄く繊細でかすかに青色が混じった白の上等なティーカップを置く。

 自分たちの前にも、ミスティエルの入ったティーカップを置く。これは外側は真っ白だが、内側に青と紫の花の模様が描かれた、本当にとっておきの時だけに使うことにしている秘蔵の品物だった。

「おまたせしました、エルゼベート様」

 そうアルフが声をかけると、エルゼベートは伏せていた青い瞳をゆっくりと開く。今はまつげでさえも真っ白になってしまったが、その瞳はいまもなお、宝石とたたえられるほどの美しさをとどめている。

「そうね、わたくし、だいぶまちましたわねぇ……あぁ、あぁ、いったい、あとどのぐらいまたされるのでしょうか。ねぇ? アルフィーゼ。それに……イヴレッタ・ロゼ・エリピアード様?」

「エルゼベート様、いまは自分たちは、ただの、市井の喫茶店のあるじとおかみです。そのように仰々しい名でよばれても困惑するしかありません」

「あらあら、まぁまぁ、この子ったら。親からもらった名前すらも忘れてしまったとでもいうのかしらねぇ」

 いったいなにがおかしいのか、ころころと鈴が転がるように無邪気にエルゼベートは笑ってみせる。

「うふふふふふふふふふふふふふふ。ごめんなさいね。だって、ねぇ、アルフィーゼが意地悪をするものですから。我が子と思って育ててきた子に、いきなり他人扱いで「エルゼベート様」などと呼ばれてしまうだもの。わたくし悲しくて悲しくて悲しくて、つい意地悪をしかえしてしまいましたのよ、許してね?」

 泣きまねをして、おどけて見せて、そしてまたにっこりと無邪気にわらって許しを乞うてみせるエルゼベート。

 ……タヌキめ。

「それで一体、今回はまたなぜ、わざわざこちらに出向かれましたか」

「あらあらあらあら、わたくしは仰々しい理由がないと、こちらに来てはいけないのかしら」

「……はっきり言ったらどうですか」

「何を、かしらね?」

「あなたは何が目的でここまでわざわざ来たのですか、自分には、自分たちには――心当たりしかないのです。はっきりいいましょうか、こちらの最悪の想定はあなたが国王陛下から、なにかメッセージを――もう、刑の猶予期間は終わったのだと、そういう旨のことばを預かっているのではないかということです」

 びくり、とアルフの隣に座っているイヴの肩がゆれる。

 イヴは、亡国の女王イヴレッタ・ロゼ・エリピアードは、本来ならこんなところで喫茶店を経営しながら穏やかに日々を過ごしていられる身ではない。

 敗軍の将は斬首。そんな行いもいまだもって大陸北方ではよく行われているという。

 どのように好意的に前向きにやわらかく見積もっても、亡国の女王に課せられる刑罰は、幽閉よりもマシなものはありえはしないだろう。

 それを、アルフィーゼがあのときに「女王救出」などと言い出し、滅ぶ寸前だったエリピア王国の城からイヴレッタをさらい、王冠を奪ってきたのだった。


「国王陛下からのお手紙や伝言などはありませんよ、アルフィーゼ。あくまでもわたくしが個人的に来たものですからね」

「……何が、目的で」


「だ・か・ら! 昨日も言いましたでしょう?! 聞き分けのない子ですね!!」


 いままで、お上品に、おっとりおとなしく可愛らしく話していたエルゼベートが、いままでの態度がうそのように声を荒げて、髪を振り乱してヒステリックに

 叫ぶ。


「わたくしに! 早く! 孫の顔を! みせなさい!!」




 …………


 …………


 …………


 …………今、この人は、なんと、言ったのだろうか……?


 ……あの、言葉……本気、だったのか。


「……母上」

「やっと、やっと、ようやく母と呼んでくれましたねアルフィーゼ。……もう、呼んでくれないのかと思っていましたよ」

「母上、本気ですか」

「えぇ、孫を。……子供を。すくなくとも、わたくしは、あなたたちの子を、この手で抱きしめるまではお迎えが来たって受け入れられませんよ」

「……母上」


「だめですよ」

 エルゼベートの、そんな本心からの言葉を否定したのは……イヴレッタだ。


「エルゼベート様、それはなりませんわ」

 震える声だが、はっきりとした口調でイヴレッタはまっすぐに義母であるエルゼベートを見て、否定する。

 その菫色の瞳に宿る意志は、悲しいほどに強さがある。

 だけど、そんな悲しみを、エルゼベートは、否定する。

「もういいのですよ、いいのです、イヴレッタ様」

 そんな悲しみを、もう背負うてくれるなと、母は否定する。母だからこそ、否定してくれる。

「わたくしは、わたくしどもは、とても多くのものを、あなたから奪いましたね。わたくしどもは、これ以上をあなたから奪うつもりは、ありませぬ」

「だめです……だめなんです……」

「どうしてかしら」


「だめです。イヴレッタは……イヴを許さないのですから」


 ぎゅっ、とドレスの胸元をつかんで、苦しそうに、言う彼女は、イヴレッタなのか、それともイヴなのか。

「ねぇ」


「ねぇねぇ、あのね? わたくしは思うのですわ」

 もう、すっかり冷めてしまったミスティエル紅茶のカップに口をつけてから、エルゼは、母は、母として言う。

「そりゃあ、イヴレッタ陛下は人として、女性としてあまりにも不幸せに生きて、そして終わったのかもしれない。けれど、イヴさんが不幸せに飛び込むべき理由はないのですよ」

「……おかあ、さま」


 にっこりと、宝石ともたたえられる美しい青い瞳をほそめて、母はわらう。

「あぁ、ようやく、ようやく貴女もそうよんでくれましたね」




 それから、長いようで短い間、母と娘は抱き合って、おばかさんになったみたいに泣いて笑ってを繰り返したのだった。







「あぁ、せっかくのミスティエル紅茶だったけど、ずいぶん冷めてしまいましたね。アルフ、淹れなおしてくださいな。今度はそうね、グレーイスかモルグネがいいですわ。テンプールベルでもかまいませんことよ。お任せしますね」

「はいはいわかりましたっと」

「はい、は一回ですよアルフ」

「はい、母さん」

 と、そのときだった。


 くぅうううううー………。

 と、イヴの、多分、すっかり空っぽなのだろうお腹から、空腹を訴える歌声が聞こえてくる。

「「「……」」」


 家族三人は わらった。

 母エルゼは、手を叩きながら子供のように無邪気に、きゃらきゃらと。

 妻イヴは、すごくはずかしそうに赤く頬を染めながら、可愛らしく、くすくすと。


 そしてアルフは、遠慮なしに、お行儀なんてもう一切合切気にしないで、下品にげらげらとわらったのだった。



 それから、わらうことに気がすんだら、三人で厨房に立って、ありあわせの材料で昼食を作った。


 エルゼはエプロンをつけたこともなければ包丁を持つのもはじめてだった。リンゴの皮すらも剥いたことがないと判明した。玉葱のみじんぎりがうまくできないとむくれていた。

 イヴはオムライスを作ろうとしてフライパンを焦げ付かせてしまった。これは、明日ガルトやダーナが見たらおこられるかもしれない。というか怒られる。

 結局、オムライスを一番上手に作れたのはアルフだった。

 ただ、その比較的上手に焼けたオムライスも、エルゼとイヴにほとんどをたべられてしまったのだが。







 そしてさらに次の日の朝のこと。


 アルフとイヴの夫婦は、エルゼとエルゼのメイドである二人を朝食、つまりまかないごはんに「招待」した。

 エルゼはイヴと争うようにして、よく焼けたかりっかりのベーコン肉に手を伸ばしている。

 まったく、エルゼ母さんはちょっとは遠慮して、さっきからほとんどスープとパンしか食べていないおつきのメイドたちを見習ってほしい。……あ、とうとう、ヤナギとサイベルまでもが遠慮しはじめた。さすがに、これはいけない。

 仕方なく、アルフは朝食後にしようと思っていた話をここできりだすことにする。

「母さん、食べながらでいいので聞いてくれますか? というかお願いですから聞いてください」

「ん、なんですの?」

 口の中に食べ物をいっぱいにつめこんでいるはずなのに、母はもごもごすることはなく、ものすごくはっきりと話すことができるのだ。アルフも小さいころには練習したが、結局身につかなかった。

「母さん、昨晩イヴとも話し合ったことなのですがね」

「どう、なりまして?」

「子供は、まだにしようかと」

「……そう、ですか」

 ちょっとだけ、母はしぼんだようだ。美味しいごはんですらもなぐさめにはなってはくれないようだ。無理もない。孫の顔を見るまでは死ねないとまで言っていた母なのだから。

「まだまだ、夫婦二人の甘い生活ってやつを楽しみたいですからね。というわけで、孫の顔をお見せするのは多分妹夫婦のほうが先になりますかと」

 アルフはからりとそう言って、隣に座るイヴを抱き寄せる。

「ご、ごはん中ですわ、よ、アルフ……」

「……まったく、お前という子は」

「十数年、十数年ですよ? 自分の半生より多い時間をかけて恋い焦がれたのです。一年や二年そこいらではまだまだ味わいつくせませんので、ね」


「ちょっ、あの、アルフ……今は、ごはん中ですわ、それに、皆もいる、のに」

「あぁ、ごめんね。ごはん中にお行儀を悪くしたお仕置きはあとでいっぱい受けるから、だから、ね、今はキスさせてくれるかな」

「……まったく、あなたってひとは」


 あきらめたように微笑むとイヴのほうから、アルフの唇にキスをする。


 そのキスは、 とても温かで、甘い、やわらかなミルクティーの味がした。

 

 



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