ミント茶に砂糖(その一)


 飾り気のない白の頭布をかぶりなおしながら、交易商人の妻ウィラータは太陽をかざし見る。


 この辺りは、大陸西方では暑い気候だとは聞いているが、ウィラータの暮らしている大陸南方の砂だらけの街にくらべればはるかに涼しく、太陽の光もやさしくやわらかい。もっとも、まだ春にもならない季節だからかもしれないが、ウィラータは四季ということばの意味は知っていても、年間を通して気候があれこれ変わるというのはあまりぴんとこない。

 頭布をつけているのは、生まれ育った場所での厳しい太陽の光を避けることからくる風習からだった。

 大陸西方の住人にはそれでは暑くないのかと聞かれることはある。たしかに、このあたりのじめついた空気では多少蒸れる感じはするが、それでもウィラータは地元の風習であり自分の長年の習慣である頭布をはずすつもりはなかった。

 ウィラータはもう五十歳を超えている。お肌もそれ相応に年を取り、それ相応にしわやシミもできている。これ以上太陽の光で肌をいためても、愉快な結果とはならないことは目にみえていることだった。

「もうすぐ街につくぞウィラータ……日が沈む前には宿に入れるだろう」

 荷馬車の御者席から夫であるサーディクの声がする。

 その声にウィラータが応えるよりも先に、ぎいぃいいいいいぃいいぎゅぃいいいいいいいいいぎぃりいいいいいいいいいいいいいい、と車輪が不穏な音をたてる。そろそろ危険だろう事は、車輪専門の職人ではない夫婦でもわかる。

「ええ……この車輪も、そこまでなら持ってくれると信じたいですね、あなた」

 妻は御者席の夫には聞こえないように、そっとちいさなため息をつく。


 荷馬車の車輪がだいぶ危険なことがわかったのは、前の宿場町――町と言うよりは村といったほうがいいような規模だったのだが――を出発してだいぶ進んでからのことであった。

 前の宿場町に戻っても、修理をしてもらったりあるいはすぐに代わりの車輪が手に入るかさえも微妙なところであったし、なによりそこまで車輪がもってくれるかもわからない。

 そこで、サーディクとウィラータの夫婦は地図を見て、今日宿泊する予定だった宿場町にむかうのではなく、ルートを変更してサフィロという名前のそこそこ大きな街へ向かうことにしたのだ。予定していたルートからは外れるが、サフィロの方が距離的にはぐっと近い。

 とはいえ、長い旅をしているとこのようなアクシデントはしょっちゅうなので、夫婦ともにさほど今回の事は気にしていない。

 というよりは、今回の事も含めたこの旅のアクシデントをいちいちに気にしていたら三十五年近くものあいだ夫婦としてやってこれなかっただろう。


 そもそも、この旅だってサーディク旦那様の気まぐれのような思いつきからだったわね……。


 ウィラータは荷馬車にゆられながら、思い返す。


 あれはそう、夫サーディクの五十歳の誕生日のことだった。

 子供やまだ小さい孫たちも全員集まっての、盛大な誕生日のお祝いのあとの夜。

 静寂につつみこまれている寝室のベッドに腰かけて、何もいわずじっと虚空をにらむようにしていた夫。最初はごちそうがおなかにもたれたのか、それとも孫たちにまとわりつかれて疲れてしまったのかと思っていた。だが、どうもそうではないようだった。

 虚空をにらんでいた夫は、やがて泣き出しそうな瞳になり、それから……それからようやくウィラータも部屋にいることに気づいてくれたのだ。

「どうしたのサーディク、今日のお祝いでいろいろあって疲れたのかしら?」

「そうじゃないんだ、ウィラータ」

「じゃあ、あなたの大好きな緑色の貝殻のオイスターがあったのに、息子たちに全部食べられてしまったからむくれているのかしら?」

「からかわないでくれ、ウィラータ」

「わかりましたあなた。一体どうしたというのかしら?」

「……これからのことを考えていたんだよ」

 夫の日に焼けた顔には、深いしわがいくつもあった。そのなかでも眉間のしわをいっそう深くして、彼は言う。

「俺は今日でもう五十歳になった」

「そうですね」

「もう、俺は、人生を半分以上は過ごしてしまった。俺はあと五十年も生きられないだろう。いや、そもそも……だ。そもそも六十歳の誕生日すらこうして迎えられるかどうか、すら」

「……そう、ですね」

 妻はただ夫の背中をなでる。ウィラータとて、もう数か月もしないうちに同じ五十歳となるのだ。

 この時代、長命とされる種族ならともかく人間の身であっては百年という時間を生きることはまずできない。 

 夫はしばらく悲しみと、そして恐怖に大きな背中を震わせていた。

「がむしゃらに、ただただ一生懸命に、仕事をしてきた。働くこと、稼ぐことで、子供たちにいいものを食わせてやれる、おまえにもいいドレスをきせてやって、宝石で飾った絹の頭布をつけさせてやれる。……家族にも楽をさせてやれて、いい生活ができる、と……そう、思っていたのだ……」

「今の私や子供たちがあるのは、あなたが身を粉にして、懸命に働いてくれたおかげですよ」

「だが、だが、こうして年をとって振り返ってみると、自分のそんな人生のなんてむなしいことか。若い時にもっと、もっと、もっとしたいことやりたいことがあったと、気づいてしまったんだ」

「時間は、わたしたちの、人の力で戻すことはかないませんよ、サーディク。たとえどんなに、どんなに、お金を積んだって」

「だから後悔しているのだよ……もっと、もっと、お前ともいっしょに見たいものがあったし、食べたいものもあった、やりたいこと、訪れたい場所、たくさん……あった、の、だ……」

 サーディクは涙をこぼす。

 どんなに辛い時でも苦しい時でも、歯を食いしばって耐え、決して涙を流すことがなかった夫が、泣いている……。

 やがて、時間がもたらすだろう残酷にして平等なる死の門の存在。

 人のチカラではどうしようもないそれが訪れるのが、それをくぐるのが、恐ろしいのだと、サーディクはしばらくの間こどものように涙を流し、そして

 

「そうだ」

「え?」

 唐突に、サーディクの涙が止まった。

「そうだ、旅に出ようじゃないか、ウィラータ!」

「どういうことなのか説明してちょうだいサーディク旦那様。あなたはいったいどういうわけでそんな結論に至ってしまったというの?」

「今からでも取り戻せばいいのだよ、一緒に旅行をして、珍しい景色を見て、美味しいものを一緒に食べて、楽しもう。そう、二人だけの旅をするんだ!」

 

 そうして、その夜の決断から数か月後……ウィラータの誕生日。

 夫婦は、大勢の子供や孫に見送られ、屋根付きの荷馬車ひとつとそれをひく荷馬2頭だけをお伴として、旅に出たのだ。

 大陸南方にある砂と風とが支配する街を出て、はや数か月。今は大陸西方の街道を行く、というわけだ。

 生涯ではじめて生まれ故郷を出てウィラータはそれまで見たことのないものを見たし、いろんなことを体験した。そして、さまざまな美味しいものも食べたり飲んだりした。

 大陸南方にどこまでもどこまでも広がる南海を初めて見たし、大海原を行くための大きな帆船を見るのも、もちろんそれに乗り込むのもはじめてであった。

 南海に点在する島々では、そこにしかないという珍しいフルーツのジュースも飲んだし、みたこともないような美しい大きな花を頭に飾ってもらったし、それにまとわりつくきらびやかな蝶々を見たし、極彩色のあでやかな鳥たちが飛びまわるのもたくさん眺めた。

 最初はしぶしぶサーディクにつきあっていたウィラータも、いまではすっかり旅に魅了されていた。

 

 というわけで、今現在のような、馬車の車輪が壊れかけているというアクシデントもふくめて、夫婦は楽しんでいたのだ。





 

 荷馬車の車輪が完全に壊れてしまう前に、そして日が暮れて城門が閉ざされてしまう刻限となる前に、サーディクとウィラータ、それに荷馬車と二頭の荷馬はサフィロの街の城壁へ、なんとかたどり着くことができた。


 サフィロは、大陸西方でも指折りの大国にのしあがったユレイファ王国の王家直轄領ということだったので、街に入るための「おしらべ」をずいぶん受けることになるのかと思っていた。

 が、城門の衛兵は思っていたよりもひとなつこい、それでいてなれなれしくない、ひとことであらわすとひとあたりのいい者達であった。しっかりとしたいい上司にいい仕込みを受けているのかもしれない。

 衛兵はサーディクとウィラータの持っていた通行証の裏書の名前を見て、ずいぶんと驚いたような顔をしていたが、取り立てて騒いだりもせずにきちんと夫婦と「そのお伴たち」を街へいれる手続きをしてくれる。

「宿はもう決まっているのかい? それと、荷馬車の車輪を直してくれるところも、知らんでしょう?」

「決まっていないな。いい宿屋、それに腕のいい修理人の工房を教えてくれないかい」

 サーディクはそっと財布をとりだそうとする。こういうときにお決まりの心づけの銀貨を渡そうとしたのだが、それは当の衛兵本人によってさえぎられた。

「結構ですよ。そちらさんが善意であったとしても、こっちは給金以上のものを受け取ったら上にお叱りを受けちまうんで……それと、どうせ上司に叱られるなら、もっと色気のある叱られ方をしたいもんで、ね」

 衛兵が冗談めかして言う。

 他の衛兵たちもこの言葉を聞いていたようで、それぞれの仕事の手は休めずに、うんうん、と力強くうなづいていた。

 どうやらここの衛兵たちの上役は女性で、それもたぶん……美人、らしい。

「宿は、こっちの通りにある「白百合の丘亭」がいいだろうと思うよ。大き目の馬車も厩に止められますし、ちょいと宿代のほうは高いですが、ベッドはふかふかでリネン類はとても清潔だという評判だし、食事もなかなかにうまい。……まぁ、南方から来たお人の口に合うかはわからんですが」

「ふむ」

「車輪の修理や交換は、街のこっちの通りにある工房でしてもらえる。ただ今はちょいと注文が立て込んでるようなんで、待たされるかもしれないんだが……」

「……なるほど、まぁ仕方がない、か」

 街の簡単な地図を描いてくれながら、衛兵は丁寧に親切に(それも無料で、だ)教えてくれる。

 サーディクはついでとばかりに、こんなことまで聞いてみる。

「このあたりに、徒歩で安全に行ける範囲で、珍しい景色や植物があったり、うまい食べ物があったりしないかね?」

「見てのとおり、このサフィロの街は山と湖、サフィーリ山とサフィーラ湖があるんで、そこが名所といえば名所かねぇ。サフィーリの山頂は一年中雪と氷が融けないんで、南の人にとってはそれなりに珍しいかな、と」

「あぁ、あの山頂の白いのは雪だったのか」

「……あれが、雪なのね」

「あー……、一応、言っとくと、登ってみるのは止めといたほうがいいですよ。たとえ真夏だったとしても軽装備でほいほい気軽に登れるような山ではないんで。ちゃんとした装備を整えて、案内人や護衛まで雇うとなると、けっこう値もはるんでね。サフィーラ湖から眺める程度ならまぁ安全だろうと思われるんで止めやしませんが」

「湖にはなにか変わったものはあるのかい?」

「まぁ、ただの湖ですよ。湖水はそれなりに綺麗ではあるんですがね。山からの雪融け水が流れ込んでるんで栄養があって美味いとかいって、都会からはるばる医者やら料理人やらが来ることもあるが……あぁ、そうそう……」

「ん?」

「湖のそばには、小さい神殿というかほこらがあるんです、白くてきれいな石でできた神殿というかほこらが。そこには女神像らしいものがおさめられているんですが、どんな神さまなのかさっぱりわからないというか言い伝えも文献も残ってないもんで、俺たちは勝手に湖の乙女サフィーラの像って呼んでいますよ。魔法使いや歴史研究者たちが言うにはなにか失われた時代の高度な魔法だか呪いだががかかっているとかいないとかで……まぁ石像とはいえわりと結構なべっぴんさんなんで湖にいったなら見ておくのもいいかもしれませんぜ」

 そこで、他の衛兵たちから茶々が入る。

「お前、べっぴんさんを見るなら喫茶「のばら」は是非とも行っておくようにって勧めておかなくていいのかー?」

「馬鹿いうな、「のばら」の奥さんもそりゃー美しいお人だが、我らが隊長どののほうが、こう、なんというか尻がきゅっとしていてだな」

「おい」

「そこから伸びるすらりとした細い脚もまぶしくて」

「おい」

「ついでにいうと胸も手のひらに収まるだろう愛らしいサイズ」

「――ほう?」

 衛兵の背後から、怒りがこもった若い女の声。

「こんのっ、馬鹿ものどもがぁっ!!」



 尻がきゅっとしていて細い足がまぶしい……ついでにいうと胸も愛らしく小さなサイズの、この城門の衛兵隊長による「うちの馬鹿どもがお引き留めしてもうしわけない、どうぞ早く街に入ってくれ」という言葉を受け、サーディクとウィラータ夫婦はサフィロの街に入ったのだった。



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