覆面作家企画参加作品

木兎 みるく

覆面作家企画5 透明な口付け

 粒の細かい雨が乾いた地面を濡らしていく。傘に雨の当たる音が、うるさすぎず心地好い。

 この雨であの蝸牛も生き返るかもしれない。隣の家の小さなおばあさんが掌に乗せ、なぜか懸命に息を吹きかけていた、白く乾いた蝸牛。あの殻の奥から灰白色の頭がまた顔を出したら、おばあさんは微笑むだろう。握りしめられていた綿が解放されて膨らむ時のように、暖かく、ほう、と。

 せっかく穏やかな気分で歩いていたのに、しばらくしてズボンの裾がしっとりと重くなっているのに気づいてしまった。思わずため息をつく。足に布が張り付く感触が気持ち悪い。霧雨はこんなにも軽やかなのに、どうしてそれに濡れた布はこんなにもべたつくのだろう。

 やがて細い坂道に入り、そこを抜けると目的の場所にたどり着く。淡い水色の紫陽花に囲まれた、無人の日本家屋。数年前まで仕えていた三条家の、元屋敷だった。

 綺麗なものを選んで紫陽花を一枝折る。そして形だけ軽くノックをして、屋敷に入った。もう二年以上も使われていない屋敷は、埃や泥で汚くなっているので、土足であがる。何度もこうして屋敷に入ってきたのだが、この感覚にはどうしても慣れない。靴を脱いで上がれるよう、自分で掃除をしようと思ったことも何度かあったが、掃除用具を持ってくるのが面倒くさくて諦めてしまったのだった。

 傘を玄関に立てかけ、歩くたびぎしぎしと音をたてる長い廊下を、泥と水でますます汚しながら奥へと進む。目指すのは一番奥、かつて病気がちだった三条家のご子息、ゆかり様が寝ていらした部屋だ。

 勤めていた頃使っていた、使用人用の更衣室。厳かだった客間。奥様と大奥様の部屋へと続く廊下への分岐。物置。何にも使われていない、余っていただけの部屋。それら全ての前を通り過ぎた先の、一番端の部屋。それがゆかり様の部屋だ。

「佐江子が参りました」

 障子の向こうに声をかけると、少し離れたところから返事がきた。

「入っていいよ」

 カラリ、障子を開ける。この部屋だけは昔のまま綺麗なので、靴を脱いで畳にあがった。

 布団は敷かれたままだったが、部屋の中にゆかり様はいらっしゃらない。縁側に続く障子が開いているので、そこから庭に出ていらっしゃるのだろう。椿の美しい和風の庭。外は本来雨が降っているはずなのに、部屋から見える庭は晴れていた。

 お釈迦様の微笑む、壁の掛け軸と、瓶というより壷に見える空の花瓶は、いつものままだった。外で手折った紫陽花を花瓶に入れる。

「外はもう紫陽花が咲いてるんだ」

 庭からゆかり様が小走りで戻ってこられた。頭に椿の花をさしている。

「はい。とうに椿の花は落ちて、瑞々しく光る新しい葉を出し始めています」

「もうみんな落ちたの。それはいいね。僕、実は椿って嫌いなんだ。枯れた後しばらくしわくちゃのまま木に残るでしょ。それである日ぼとって落ちて、雨が降るとべちゃべちゃになる。ほんと汚いよ。だから僕は椿にだけはなりたくなくて、お気に入りの鏡を紫に塗ったんだ。ちゃんと効いてくれて嬉しかったよ」

 布団の横、机の上の鏡に目をやる。つやつやした朱色の、丸い手鏡。

「そういえば椿って、武士にとっては縁起が悪いって言われてたらしいね。ぼとって落ちる花が、首が落ちるみたいだって。でも僕、武士の首と椿の花は全然違うと思う。斬り取られた首って、すごく潔いじゃない。本人の死に様がどうだったかは関係なくね。だって首だけなんだよ。そこだけあれば誰だかわかる、まさにそこだけ。余計なものは一切なし。生首ってそのあり方が美しいよね。椿とは大違い。まあ頭しかないって、見た感じを想像するとちょっとお間抜けだけど」

 こういう話をするとき、ゆかり様はその瞳をうっとりと色めかせ、大人の女性のように笑われる。その瞳は、人を理由なく不安にさせる、と、使用人の間で噂されていた。驚いたことに、今は亡き奥様までそれに賛同し、眉をひそめていらっしゃったようだ。実の母親であるというのに。私もそれを否定はしない。今だって意味もなく胸がざわめいている。しかしこの感覚は嫌いではなかった。

「どうして嫌いな花を頭にさしているんですか?」

「だって似合うでしょ? 黒髪に赤が映えて」

「ええとても。赤が黒を引き立てています」

「ふふ」

 髪を誉めると、ゆかり様は今度は子供らしい笑顔を見せられた。ゆかり様はご自分の髪がとてもお好きなのだ。お祖母様に「緑の黒髪」だと誉められて以来、とても大事に手入れされていた。当時私は、男に対してその誉め方はどうなのだろうと思ったが、なるほどゆかり様の髪はつやつやしていて、春に顔をだす新芽のような生気を持っている。ゆかり様のお体で唯一、生き生きと輝いている部分だった。何しろゆかり様の体は細く白く、ご存命だった頃から幽霊のようだったのだ。

「ねえ、今でもちゃんと綺麗?」

「もちろんです」

「良かった」

 布団の上にすとんと座り、手鏡を手に取って、ゆかり様は髪を梳き始めた。紫に塗られた鏡で、果たしてちゃんと見えていらっしゃるのだろうか。それにそもそもゆかり様自身、鏡に映るのだろうか。

「ねえ、今日は何しに来たの」

「涼みに来たんですよ。外は暑いんです」

「またそんなこと言う。僕に会いに来た、ってどうして言えないの」

「女々しい男性に会いに来る趣味はありませんから」

「女々しい、ねえ。男の人に会ったことがないからわからないや」

「一度もですか」

「多分」

 そういえば、旦那様はゆかり様がお生まれになってすぐに亡くなっていたし、使用人は私も含め全員女だった。ご病気のせいで屋敷から出られなかったゆかり様が、男性にお会いしたことがなくても不思議では……

「お医者様は男性ではありませんでしたか?」

「そういえばそうだね。でも、あのおじいさんから男らしさを学ぶのは無理じゃないかな」

「そうですね」

 ゆかり様は再び視線を鏡に戻された。紫鏡。きっと、絵の具で塗るような無粋な真似はなさらなかっただろう。お祖母様の庭に忍び込んで藤を摘み、絞って染料をお作りになったのではないだろうか。白い手は淡紫に染まっただろう。きっとお似合いだったに違いない。藤の几帳の中を進まれるゆかり様。部屋から抜け出して来たので、裸足のまま湿った土を感じていらっしゃる。その足元に、小さな蜂が落ちている。藤を摘むため上ばかりご覧になっていても、その儚い命にゆかり様はきっと気付かれただろう。まだ息があり、小さく羽根を震わせている蜂を、淡紫の指でそっと摘み上げる。そして傍らに見つけた銀の蜘蛛の巣にそっと乗せるのだ。宿主はやがてこの贈物に気がつくだろうが、ゆかり様はそれを見届けることなく藤を摘む作業に戻られる。全ては無感動に行われる。これはゆかり様にとって、あまりにも与えて当然の慈悲なのだ。

「何?」

「失礼いたしました。つい見惚れてしまって」

 ゆかり様はこういった視線に慣れておいでかもしれないが、あまりじっと見られ続けていい気持ちはなさらないだろう。私は鞄から本を取りだした。涼しくて静かな部屋で本を読む。いつも私がここに来る目的はそれだった。



 涼しげな名前の老人が、正論をとうとうと並べ立て、胸を張って死刑になった。若者を集めて説教をしていたというその人は、名前に似合わぬ見苦しい姿のお年寄りだっただろう。

 しかし私の想像の中の彼は、かわいらしい少年だ。反抗期を向かえた、口の立つ生意気少年。知らないということの濁りのない美しさにとりつかれ、まわりの大人達をやり込めては喜んだ。彼の残した正しさは、空のガラスコップを弾いた音のように綺麗で、同時に柔らかみがなく無意味だ。人はあんな風には生きられない。

「私はあなたの言うことが何一つ理解できません。ですがそのことだけはよくわかりました」

 そう言ったら彼は褒めてくれるだろうか。濁りない純粋な瞳を、嬉しそうに細めて。その笑みは孫を見つめる老人のものであり、そこで始めて私は彼が無邪気な少年ではなく、優しくも頑固な老人であったことを思い出すのだ。

 そんな適当な想像をしつつ本から顔を上げると、外はすっかり暗くなっていた。雨が止んだかどうかまではここからでは確認出来ない。

「ゆかり様、」

 いつの間にか布団で寝息をたてていらしたゆかり様に声をかける。普段ならこのまま帰るのだが、今日は一つお伝えしなければならないことがある。

「ゆかり様、」

 お体を揺することが出来れば楽なのだが、あいにく私ではゆかり様に触ることが出来ない。ゆかり様は自由に何にでも触られているご様子なのに、私には触れることが出来ないのは一体どうしてなのだろう。私だけがここのものとは違い、変わりゆく存在だからだろうか。

「ゆかり様」

「……んー佐江子、まだいたの」

 三度目の呼びかけで、やっとゆかり様が目を覚まされた。眠そうに目をこするご様子がかわいらしい。

「お耳に入れたいことがございます。実はこのお屋敷、一週間後に取り壊されてしまうのです」

「ふーん」

「私にはゆかり様のために屋敷を買い取るようなお金はありませんので、残念ですがお別れです」

「そうだね。僕多分地縛霊だから、ここが無くなっちゃったら成仏するしかなさそう」

 ゆかり様はさして気にしていない様子であくびをされた。瞳のすみの涙は、ただあくびをしたために出たもので、屋敷が壊されることをお嘆きになる様子はない。

「ですから今日は本当は、お別れをしたくてゆかり様に会いに参りました。嘘をついてすみません」

「わかってたよ。いつもとなんか違ったもの」

 ゆかり様の手が私の頬へと伸びる。頬をなぞるその手の感触は、私には全く感じられない。おそらくゆかり様にも。

「目を閉じて」

 言われるままに目を閉じると、ゆかり様が近づいてくる気配がした。言いつけを破りこっそり目を開けると、すぐ目の前にゆかり様のお顔。あの魅惑的な瞳は、やわらかな瞼の下に隠されている。少したってやっと、互いの唇が触れていることに気がついた。口付け。何の感触もしなくても、それは確かに口付けだった。

 ゆかり様が離れていかれる気配がしたので、慌ててまた目を閉じる。

「病気が関係なくていいけど、変化がないからね。この状態にもそろそろ飽きてたんだ。だからちょうど良かった」

 もういいだろうと目を開けると、ゆかり様はやはり笑っていらっしゃった。その笑みは、咲き誇る椿のように艶やかだった。



 二週間後、私は再び屋敷を訪れた。もちろん屋敷は跡形もなく、紫に色を変えた紫陽花と、花のない椿だけが残っていた。



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