第18話 魔遊の苦悩
ここ数日、魔遊は食事をのぞいて、自室からまったく出なくなっていた。
ただひたすらベッドに横になって、考え事をしていた。
一体、自分のやったことはなんだったのか? メタトロンを殺したことで英雄気取りになったつもりでいた自分が恥ずかしい。所詮自分などセラフィム候補などではない。オファニムに任命されたが返上したい。
ずっとこの思考がぐるぐると頭を回っていた。だが、それほどつらくはない。考え事をしている間は、他人の思考が入ってこないから。
考えるのをやめると、72階のドミニオンズ隊員たちの言葉が頭の中に流れ込んでくるのだった。中には魔遊こそセラフィムだとか、救世主だとか褒めてくれる言葉もあったが、それと同数かそれ以上に、憎しみや妬みや怒り、誤解も含めた負の感情で満ち満ちていた。
それらは魔遊を苦しめた。痛み、悲しみ、虚しさ、無気力、自己否定感……。それらに対して怒りの感情は沸かない。事実、だと受け止めていたから。だから、頭はひどく痛む。苦しみの中でもがき続けて、あがいてもあがいても、どこにもつかまるところはない。
所詮自分など取るに足らない存在なのだと言い聞かせて感情をごまかす。行き着くところは、自己嫌悪の波に飲まれて、気持ちが深く落ち込んでしまうのだった。
なぜ自分はこんなにも苦しまなければならないのか? なぜ皆自分のことを呪うかのように負の感情を抱き続けているのか? 頭に入ってくる負の感情は止めどもなく流れ込んでくる。寝ていても悪夢を見る。起きていればなおさらだ。
魔遊は以前から人の多い場所に行くと、周囲の人の負の感情を感じ取ってしまう傾向にあった。だからなるべく人のいない場所、日本人街から出ないようにしていたのだ。子供たちは純真だから負の感情などほとんどない。そこが魔遊にとって一番居心地が良かった。
今は新型のノックヘッド・ドミニオンズ・カスタムを装着して、以前よりも負の感情を受けやすくなったようだ。このARK社72階にはわずか十数名しかいないにもかかわらず、まるで数百人もの負の感情が流れ込んできているかのように増幅されているのだった。
「俺は必要とされてないのではないか? 存在しなくてもいいのではないか?」
やがて魔遊はほかの隊員たちと顔を合わせるのも嫌になってきた。視線が気になってきたからである。
しかも隊員たちと同じ空間に居合わせるということは、負の感情がさらに強烈に流れ込んでくるからだった。だから、食堂での食事は早々に済ませ、視線を痛いほど浴びながら食堂をさっさと出て行ってしまうのである。
変わった行動を取るようになった魔遊を一番に心配したのは、向かいの部屋のラマシュだった。食事中わざわざ隣の席にやってきて、心配の声掛けをしてきたが、魔遊は無視し続けた。今の魔遊にとって情けすら、嫌味に感じられていたからである。
そしてついに魔遊は食堂にも姿を現さなくなった。
一日、二日は、ただの体調不良だろうと、隊員たちは大して気にとめていなかったが、四日、五日ともなるとみんなして噂しだした。何かただならぬことが起きているのではないかと、心配の声が出始めた。
これまで平静を装っていた安堂博士もさすがに憂慮し、アザエルが様子を見に行くことになった。
自室の扉は中から鍵がかけられるが、マスターキーを使えば外から開けることが出来る。
博士の部屋から借りてきたマスターキーを持ったアザエルは、魔遊の部屋の前に立ち、まずはノックしてみた。反応がない。扉を開けようとするが鍵がかけられている。ドンドンと強く扉をたたく。反応がない。大声で呼んでみる。やはり反応がない。
仕方なくアザエルはマスターキーを使って鍵を開けた。素っ気ない部屋のベッドの上で、魔遊はうつ伏せになっていた。アザエルはそっとベッドに近づいて魔遊の顔をのぞきこんだ。半目に開いた目は虚ろで焦点が定まっていない。アザエルは一瞬背筋が凍りつくような錯覚に陥ったが、目がアザエルを確認して動くのを見てホッと胸をなでおろした。
「生きてはいるようだな。どうだ? 起きれるか? あとパンと牛乳を持ってきてやったぞ。腹が減ってるだろう?」
魔遊が生きてることが分かり、魔遊賛成派の護やラマシュたちは部屋に押し寄せてきたが、アザエルが追い出した。ふたりきりで話がしたかったからだ。
振り返ると魔遊はベッドで起きた魔遊が、パンをかじっている。健康上は問題なさそうだ。
アザエルは机の椅子に座ると、パンを食べる魔遊を見た。落ち着いた様子に見える。見た目だけなら普通なのだ。先日の毛手碓とのやり合いでも落ち着き払っているように見えた。なにか不満でもあるのか。
「さて、魔遊。どうして食事を食べに来ない?」
魔遊はモグモグとパンを食べ飲み込んでから、やっと口を開いた。
「みんなが俺を攻撃している」
「攻撃? みんなが? みんなって誰だ?」
「みんなはみんなだ。ここにいるドミニオンズの連中みんなだ」
「おいおい、待ってくれ。少なくとも俺は魔遊を攻撃してないぞ。護だってそうだし、ラマシュもだ。誰かに何か言われたのか?」
魔遊は首を横に振った。
「何も言われてないのに、攻撃されたとはどういうことだ?」
魔遊は黙り込んでしまった。アザエルは困ってしまった。
「教えてくれないか? 困っているのなら力になる。俺はドミニオンズの隊長という立場だが、それを抜きにしても今魔遊が困っていることを解決してやりたい」
アザエルは身を乗り出した。それを見た魔遊は何度か口を開きかけてはやめ、を何度か繰り返してから、ようやく口を開いた。
「ここのドミニオンズの連中の負の感情が頭に流れ込んでくるんだ。嫌な感情ばかりでとても苦しい。自分はこの世の中に必要とされていないのではないか? この世から消えてしまえばいいと思うんだ」
アザエルは魔遊の言葉に驚きを覚えた。そこまで思いつめていたとは思っていなかったからだ。そして合点がいったように大きくうなずいた。
「ネガティブ・ジェネレイターの欠点だな。毛手碓も似たようなことをたまに口にする。ネガティブ・ジェネレイターは自分の頭の中の負の感情を増幅して、相手の頭に流入させる智力だが、逆に相手の負の感情が自分の頭の中に入り込んでくることがあるらしいな。毛手碓もそれで苦しんでいる時がある。あいつの場合、その苦しみがある程度たまると、怒りに変換されるようだ。物に当たったり、他人にひどく当たったりと。魔遊の場合は自分で抱え込んでしまうのだな。厳しいことを言うようだが、それを乗り越えないといけないと、俺は思う。なぜなら魔遊はネガティブ・ジェネレイターという智力とずっと付き合っていかなければならないからだ。他人の負の感情が入ってくるのは苦しいかも知れない。俺だって、隊長という役目上部下からは嫌われている部分があるから、嫌な噂を聞いて落ち込むこともある。それから、ここだけの話、俺もこのドミニオンズにいてもいいのかと、とても迷っているんだ」
魔遊は顔を上げた。アザエルは不敵な笑みを浮かべている。
「ARK社やドミニオンズの体質が気に入らない、というのが一点。もう一点は、今捕虜としているヴァーチャーズの女スパイにヴァーチャーズの事を聞いて、ヴァーチャーズがとても気になっている。どんな組織なのかって。彼女に聞いたらセラフィムはひとりとは限らないらしい。そしてセラフィムが新世界を生み出す瞬間を見たヴァーチャーズの人間がいるらしい。さらに魔遊のことをとても買っていた。ヴァーチャーズに欲しいそうだ」
アザエルの言葉に、魔遊の顔に表情が戻ってきた。どうやら話の内容に興味を持ったらしい。
「俺を必要としている? それは本当か?」
「ああ、そう言っていた。しかし、ドミニオンズだって魔遊を必要としているぞ」
「ここは居心地が悪い」
「そうか負の感情が来るんだったな。だが、物は考えようだ。確かに魔遊のことをよく思ってない奴もいるかも知れない。でもな、俺や護、ラマシュやその他の連中はお前に好感を持っているぞ。好感の感情というのは入ってこないのか?」
「本当に自分が必要とされていると実感できるものが欲しい。形で見えるものが」
「そうだろ? 魔遊が望むとおりにみんなから必要とされていることが分かれば、ドミニオンズでの生活も充実できるわけだ。だから、護やラマシュたちともっとふれあいの場を作ってみたらどうだ?」
「ヴァーチャーズの女はどこにいる?」
魔遊はアザエルの提案を無視するように質問した。
「それを知ってどうする?」
「会って話がしたい」
「話をして、ヴァーチャーズにでも寝返るつもりか?」
「わからない。とにかく話を聞いてみたい。セラフィムのこと。自分のこと」
「そうか。本来なら安堂博士の許可がいるが、特別に面会させてやろう。だが、このことは誰にも言うなよ」
アザエルの念を押す言葉に、魔遊は黙ってうなずいた。
ドミニオンズ隊員の部屋が並ぶ廊下の一番端の部屋の前で、アザエルがドアにもたれてぼんやりとしている。それを見た隊員が何をしているのか? とたずねるが、アザエルは曖昧な返事をしてごまかしている。隊員は不思議そうな顔でホールへ向かう。
本来この部屋は空き部屋で普段は使われていない。ドアの鍵が外からかけることはできるが、中からは鍵を外すことができない、特殊な部屋になっている。反省部屋、と安堂博士は呼んでいるが、規律違反を犯したドミニオンズ隊員を一時的に閉じ込めておく監禁部屋である。度々問題行動を起こす毛手碓がよくお世話になる部屋だ。とはいえ、鍵の施錠が違うだけで、部屋の中身はほかの普通の部屋と同じなので、あまり反省をさせる意味はないようにも思える。
今はヴァーチャーズのアスドナを監禁するのに使っていた。
そして反省部屋の中ではアスドナと魔遊がふたりきりで対していた。
「魔遊。メタトロンを倒したそうね。そしてそこにたどり着くまでに、相当数のパペットを駆逐したそうね。全部アザエルから聞いたわ。やっぱりあなたはわたしたちが見込んだ通りの人だった。ぜひともヴァーチャーズに欲しい人材だわ。魔遊、あなたはセラフィム候補よ」
アスドナは初めて72階にやってきた時以来の、ようやく念願の魔遊との一体一での対話に興奮気味だった。よもや再び話が出来るとは思ってもみなかったのだ。ふたりとも。
「ドミニオンズも俺のことをセラフィム候補だと言っている。オファニムにも任命された。メタトロンのことは思い出したくない」
魔遊は無表情のまま、淡々と答えた。メタトロンの件は虚しさしかなかった。
「変なことを聞いてごめんなさい。ただ、魔遊の功績を褒めたかっただけなの。ドミニオンズの言ってるセラフィムはとても曖昧で、ハッキリしないものよ。仮にセラフィムになれたとして、そのセラフィムがどうなるのか? までは考えてないように感じられるわ。ただ単に世間から注目を集めるため、ARK社の宣伝目的でセラフィムの名前を使ってるだけのような気がするわ。世の中にセラフィムという救世主のイメージを植え付けて、乱れた世の中を救ってくれるという甘い言葉を使って、実際の混乱している世界から目を背けさせようとしてるだけよ。それから世間的にセラフィムという言葉はARK社が故意に流した情報操作、と認識されているみたいだけど、残念ながらヴァーチャーズの方が先に使ってた言葉よ」
アスドナはARK社のやりかたを糾弾した。少し熱っぽく語ってしまったことに気恥ずかしいものを感じていた。だが魔遊は感心しながら聞いていた。
「ヴァーチャーズの言うセラフィムとはどんなものなんだ?」
魔遊は率直に疑問をぶつけた。
「今の乱れた世の中から、新しい世界を作り出す創造主になる者のことよ。これは誰にでも可能性があって、複数のセラフィムが出現することもあり得るの。これはこの間言ったわね。智力が強ければ強いほどセラフィムに近くなることが分かっていて、魔遊クラスの智力なら十分合格よ。いつセラフィムになってもおかしくないレベルよ。その時は、ヴァーチャーズの博士から詳しい話を聞いておくといいわ。だからヴァーチャーズに来て欲しいの。博士を始め、みんな魔遊のことを待っているわ」
期待されている魔遊はとてもくすぐったい思いだった。だが、ここはドミニオンズの反省部屋である。
「しかし、お前は今捕虜になっている。どうやって俺をヴァーチャーズに招くつもりでいるんだ?」
「問題はそこね。わたしが捕虜になっていなければ……。せめてマン・マシーンを装着できれば。ああ、そういえば、ドミニオンズのサーバーには恐ろしいビッグデータが棲んでいたわね。サーバー迎撃用パペットのダーク・イエロー・スライムとは違う、攻撃型のビッグデータだったわ。しかも自分で判断して侵入者を攻撃してくる。恐ろしい存在だわ。うかつにサーバーには入れないわね。ああ、ごめんなさい。余計なおしゃべりをしてしまったわね。魔遊がマン・マシーンをここに持ってきてくれさえすれば、後は何とかするわ」
「それは無理だと思う。どこにあるかわからない」
「アザエルが知ってるんじゃないかしら?」
「教えてくれるだろうか?」
「彼もヴァーチャーズに興味を持っているから、うまく彼を取り込めば不可能じゃないかもしれないわ」
魔遊は少し考え込んだ。このままドミニオンズにいるべきか、それともアスドナの言葉を信用してヴァーチャーズに行くべきか、心が揺らいでいた。
アスドナの言葉をすべて信用したわけではないが、ドミニオンズよりはマシな考え方をしている様な気がしたのだ。もし自分がヴァーチャーズでこの智力を生かせられるのなら、アスドナの言うとおりにしてもいいかもしれないと思えてきた。
「少し考えさせてくれ」
魔遊は決断を避けた。心が揺らいでいて、どちらに転んでも好転する気がしないのだった。やらずに後悔するよりは、やって後悔したほうがいい? いや、やってしまってすべてを台無しにしてしまうのが怖いのだ。
即決してくれなかった魔遊を残念そうに見つめるアスドナを置いて、魔遊は部屋を出た。アザエルが外で待っていた。そして部屋に鍵がかけられた。
「どうだ? いい話ができたか?」
「余計混乱してきた。どうしたらいいのかわからない」
「はははっ。答えは急に出せるもんでもない。じっくりと考えることも必要だ。だけどな、案外一番最初に直感で思ったことが正解だったりもするんだ」
アザエルは魔遊の肩をポンとたたいた。アザエルはニコニコ笑っている。その様子に魔遊は気持ちが楽になる思いだった。
魔遊は自室に戻ろうと部屋のドアを開けた。そこへあわてた様子の馬火茂がやってきた。いつも落ち着いている馬火茂にしては珍しいことだった。
「魔遊、大変だ。緊急事態だ。李美耽とベルゼバリアルたちが、過激派グリゴリ集団のアジトを潜入捜査していたら、戦闘になって今劣勢だとメッセージが来た。応援要請をしている。魔遊、俺と一緒にメガフロートに行ってくれないか?」
「え、それは俺じゃないといけないのか?」
一瞬、魔遊は躊躇した。李美耽とベルゼバリアルともあろうものが、グリゴリなんかに苦戦をするのか? という疑問だ。
「そうだ。魔遊じゃないとダメだ」
魔遊は自分に出番が来たことに一瞬やりがいを感じたが、アザエルを振り返った。だがアザエルはすでに自室に戻っていた。
まだドミニオンズでも自分を必要としている人がいる。それなら全力でぶつかる覚悟だ。
「聞いたわよ。わたしも行くわ」
振り返るといつのまにかラマシュがいた。
「わたしだってドミニオンズ隊員なんですからね。いつもいつも待機じゃあつまらないわ。いいでしょ? 馬火茂」
「まあ、仕方ない。ラマシュも着いてこい」
「他にも隊員がいた方がいいんじゃないか? アザエルとか護とか」
「いや、これは以前から李美耽が秘密裏に行っていた情報に基づいての行動なので、アザエルは知らない。というより知られたくない。何事もなかったかのようにやりたいんだ。あと護は今医療室で訓練の最中だ。オファニムになるための厳しい訓練をしている」
馬火茂は急かしている様子だ。確かに急ぎたい気持ちはわかる。
「それから、安堂博士の許可なく外出してもいいのか?」
「そんなのは建前だ。みんな勝手に外に出ている。博士も黙認してるさ」
かくして、馬火茂、魔遊、ラマシュの三人だけで、73階の飛び出し口からメガフロートへと飛行していった。
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