第7話 詩亜のオルガン
朝の日本人街。
魔遊は教会の寝室の布団の上で寝転がっていた。目は覚めていたが、体が言うことを聞いてくれなかったのだ。昨日、アングリー・ブルを倒すために智力を一気に放出したため、頭がひどく痛む。脳がひどい疲労で、それにつられて体も動かないのだった。
すぐ横には美雪がいた。ふわふわさんを抱きしめてとても嬉しそうだ。と同時に体の動かない魔遊を心配してずっとそばにいてくれている。少し離れた所にも、数人の子供たちが魔遊を気づかって心配そうな顔をしている。
教会の寝室は六畳ほどの広さで板の間だ。畳やベッドなんていう贅沢品はない。ここに魔遊、詩亜、そして子供達が一緒になって同じ部屋に寝ている。街外れにある富裕層の廃棄物処理場から拾ってきた布団を板の間に敷き詰めて寝床の完成だ。
寝室の外からオルガンの音色が聞こえてくる。そして子供たちの合唱。詩亜が音楽の授業をしているようだ。どうやら童謡のようである。
今、魔遊はひどい罪悪感にさいなまれていた。智力を放出し体が動かない自分が不甲斐ないせいもある。調子に乗って、グリゴリ団の一員として暴れまわった後の虚しさもある。破壊ばかりして何も生み出さない自分の智力が呪わしくもある。
様々な感情が入り乱れて、魔遊は何もする気になれなかった。ただ子供たちの顔を眺めているしかできなかった。いや、顔向けすることすらおこがましい。
薄い板一枚へだてた隣の部屋では、何やら機械音が聞こえてくる。丸越のおっちゃんの工房だ。なにかを作っているのか修理しているのか。ちなみに日本人街には電気は来ていない。電線はあるが、各建物に引かれていないのだ。これは中国当局から厳しく取締をされており、電気料金を支払う能力の無い日本人たちには使わせない措置だ。だが、おっちゃんを始め、街のエンジニアは電気がないことには仕事にならないから、勝手に自分で電線を引っ張っている。いわば電気泥棒になり、見つかれば処罰の対象だが、仕事にならないからという理由でなかば黙認されていた。
魔遊は自分のことを誘ってくれたヴァーチャーズのことが気になっていた。もしかしたら自分たちがセラフィムかもしれない。その言葉が響いていた。
今の乱れた世界を救ってくれるというセラフィム。ただの噂ではなく、ヴァーチャーズが本気で探している存在であることがわかっただけでも大きい。救世主と呼んでもいい存在がもし存在するのなら、世界はもっと暮らしやすいものとなるに違いない。
魔遊は、もし自分がセラフィムだとしたら? と考えてみた。まず教会の子供たちが何不自由なく暮らせるようにしてあげたい。そして日本人街の全員、裕福にしてあげたい。世界中の人々がいがみ合いをやめ、平和な世の中にしたい。とにかく、昨日の後悔、今日の不幸、明日の不安を消し去ってあげたい。それから……
いつの間にか魔遊の周りに子供たちが集まっていた。美雪にいたってはぬいぐるみを抱いたままくっついている。そしてみんな一様ににこやかな顔をしている。魔遊と子供たちの周りを青白い霧が包み込んでいる。子供たちに安心しきった顔を見て魔遊は胸をなでおろした。自分でもやれることがあるのだと言い聞かす。
子供たちを連れて寝室を出ると、礼拝堂ではまだ詩亜がオルガンを弾いていた。自慢のオリジナル曲を子供たちと一緒に歌っている。
ひとりで飛ぶより、ふたりで飛ぼう
ふたりで飛ぶより、三人で
だって翼が多い方がいいじゃない
あなたの翼を見せてよ、私の翼も見せるから
恥ずかしがらずに
汚れてたっていいじゃない、折れてたっていいじゃない
みんなで支えるから
広い空の向こうにきっと何かが待っている
だからあなたと一緒に確かめに行きたい
山だって海だってこえられるはず
そう、この空も宇宙の果てまでも
FLY TO THE INFINITY
「詩亜、その曲の弾き方教えてくれよ」
魔遊が声をかけると、詩亜と子供たちが一斉に振り返った。
「魔遊、起きても大丈夫なの? もっとゆっくり寝てていいのよ」
童顔の詩亜は姉か母親のような声で言った。
「大丈夫だ。心配ない」
だが顔色はまだあまり良くなかった。元々色白の上にさらに青白くなっている。
「昨夜、丸人におぶさって帰ってきたときはホントに心配したのよ。大怪我でもしたんじゃないかって。無事で良かったわ。あんまり心配させないでね」
詩亜の心配など気にもとめない魔遊は、オルガンの鍵盤の前に来ると適当に弾いてみた。でたらめな音が鳴る。
「わたしだけじゃなくて、子供たちも心配してたのよ。聞いてる? 昨夜のグリゴリでの行動は護から聞いたわ。無茶苦茶だわ。あなたは大丈夫かもしれないけど、もっと他の人のことも考えて行動して」
「でも誰かが行動を起こさないと、この世はよくならない」
「だからって、争いごとをするのが正しいことなの?」
「何が正しいかなんてわかるもんか。ただ、この世の偉い人間はみんな間違っていて、悪だということは分かってる。奴らを倒さない限りいつまでたってもこの世はよくならない」
「そんなことないわ。世界中、今よりもっと世の中が良くなるように話し合いをしてるはずよ。そこに魔遊が出て行って、政治的な活動をするのはおかしいわ」
「じゃあ、神様が悪いんだ。こんな世界にした神様のせいだ。人と人が分かり合えない不完全なこの世を作った神様に文句を言ってやりたい」
「……」
詩亜は黙り込んでしまった。ショックを受けたような顔をしている。その表情があまりに深刻だったから、今度は魔遊が心配する番だった。
「すまない。詩亜にあれこれ言ってもしょうがないよな。子供たちにも聞かせることじゃないし」
魔遊と詩亜とのやりとりをじっと見つめていた子供たちは、どうしたらいいのか分からない顔をしている。
「いいの」
詩亜は顔を上げた。と言いつつも、目には光るものがあった。それほどまでに傷つけてしまったのかと、魔遊は自分の行き過ぎた言葉に悔いた。
「そうね。神様が悪いの。神様が……」
詩亜はまるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「魔遊、オルガンの弾き方、この間教えたところ覚えてる?」
「あ、いや、忘れた」
「しょうがないわね。まず指の置き方から、右手の親指はドの位置よ。後の指は順番に並べていくだけ。簡単な童謡くらいなら右手だけで弾けるから、練習あるのみよ」
詩亜は椅子に座って、古ぼけた木製のオルガンを弾いてみせた。荒城の月だった。
「ちょっとこれは楽しくなれる曲じゃなかったわね。ごめんね」
「俺はあの曲が弾きたい」
「あの曲?」
「FLY TO THE INFINITY」
「え、わたしのオリジナル曲? いやだ恥ずかしいわ。これはちょっと難しいなあ……。楽譜にドレミファソラシドと指番号書いておくから、どの音をどの指で弾くのか分かるようにしておくわ」
楽譜を真剣に見入る魔遊に詩亜はちょっと気恥しかった。ところが、暗号のような楽譜に魔遊はすぐに飽きてしまった。
「まずは簡単な曲からよ。さ、練習しましょ」
詩亜は椅子の半分に座り直すと、魔遊を隣に座らせた。ここから猛特訓が始まるのだった。
あまりの魔遊の下手さに子供たちは笑い転げたりもした。魔遊は何度もくじけそうになった。その度に詩亜が励ましの言葉を投げかける。
いつしか礼拝堂の中は、青白い霧に包まれていた。
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