終章 天帝の花嫁
終章 天帝の花嫁
ふわりと額を何かに撫ぜられた気がして、かさねは目を覚ました。なんだかずいぶん長いこと眠っていた気がする。ずきずきと痛んだこめかみを揉んで、寝返りを打つと、褥に半身を投げ出すようにして眠っている男がいた。
「うおう!?」
奇声を上げて、褥のうちで身を引く。
「な、な、なにゆえ、イチがそばで眠って……」
呟いているうちにさまざまな記憶が一気に戻ってきて、かさねは目を伏せた。
「ああ、そうであったの……」
天帝の花嫁を探して六海にやってきたこと。紗弓に出会ったこと。大地将軍が龍狩りをしたこと。目の前で龍神を失ってしまったこと。それから先の記憶は千々に乱れ、いったい何があって、どのようにして褥に寝かせられたのかは定かでなかったが、大きな腕がずっと囲うように抱き締めてくれていたのは覚えている。手を伸ばして、黒髪に指を絡める。やわらかな感触に目を細めていると、微かに眉根を寄せてイチが目を開いた。
「イチ」
男の顔を見たかさねの声はかすれていた。寝起きのせいもあるが、それよりも男の目の色に言葉を失ってしまったのだった。
「なにが……なにがあったのだ?」
「ああ。起きたのか、あんた」
「そうではない。そうではなくて、そなた、目の色が」
天帝のことほぎを告げる金のまなこは今や、片方が灰色に転じていた。単に金の虹彩が失われたのではあるまい。それは天の恩寵が片目ぶん、消失したことを意味していた。
「何故……? 龍神が消えてしもうたせいか? かさねのせいか?」
「ちがう」
短くこたえて、イチはさして頓着していない様子で目をこすった。
「あれはもういらなくなったから、欲しい奴にくれてやった」
「だが……。きれいな目であったのに」
「なら、あんたが覚えていてくれ」
灰と金の眼差しを向けて、イチはめずらしく少し笑んだ。
(いつもなら、こやつが笑うと胸が弾むのに)
代わりに、胸に空いた穴にすぅっと冷たい風が通り抜ける心地がした。唇を噛んで、かさねはようやく半身を起こした。あたりへ首をめぐらすと、屋敷のつくりには覚えがある。
「ここは……六海屋敷か? かさねはどれくらい寝ておった?」
「三日だ。いい加減、頭を殴って起こそうかと考えてた」
「……自然に目覚められて何よりじゃ。紗弓どのは?」
「いなくなった」
イチはばつが悪そうに肩をすくめた。
「いなくなった?」
「あんたを取り戻してすぐのことだ。あの娘が俺の前に現れた」
泣き腫らした碧眼をきつく眇めて、紗弓はかさねを抱くイチに言い放ったのだという。
――あんたたち人間を、私は決してゆるさない。
胸にあった七色の鱗がみるみる白い肢体を飲み込む。一頭の若い龍になった紗弓は六海の海に溶け入るように消えた。娘を失くしたことを知った上善は正体もなく泣き崩れたという。
「左様か……」
顛末を聞いたかさねは静かに顎を引いた。
立ち上がって、襦袢のうえに羽織を引っ掛ける。
「海を見たい。ついてきてくれるか?」
「……ああ」
イチは一度顔をしかめたが、止めることまではしなかった。差し伸べられた手に「よい」とわらい、下駄に足を入れる。イチの話では、大地将軍はこの三日の間に兵を連れて、地都に戻っていったのだという。坂をくだり、海に面した浜に出ると、潮のにおいがぷんとくゆった。脱いだ下駄の鼻緒をつまんで、波打ち際を歩く。空から射す光が海面に反射してきらきらと輝いた。風になびく髪を押さえ、はるか水平線を見渡すと、六海の海はどこまでも青く、漠々とひろがっていた。ああ、と吐息をこぼす。
「龍神はいなくなってしもうたのだな……」
「ああ」
「なのに、こんなに穏やかじゃ。どうしてだろう。せつないのう……」
隣を歩くイチは何も言わなかった。足を止め、互いちがいの眸を海へ向けている男を仰ぐ。向き合うふたりの間に、雲間から陽が射した。
「そなたが選ぶ道はふたつきり」
男の胸に指を突きつけて、かさねは苦くわらった。
「『ここでかさねに盗まれるか、今すぐ恋に落ちるかじゃ。どうする、イチ?』」
再会したときをなぞるように言った言葉は、今はまるでちがってかさねのうちに響く。
――望みは何でも叶えられると思っていたのだ。
この手で。この足で。力いっぱい飛び出せば、つかみとれると信じていた。絶対に。
けれど、現実はちがう。あれほど願ったのに、かさねは龍神を救えなかった。天帝の花嫁も逃がしてしまった。六海の地に自らの手で青空を取り戻すことすら、できなかった。かさねが信じていたこの手もこの足も、ずっとずっと小さく、力のないものだったと知る。
「――なんてな」
肩をすくめて歩き出そうとしたかさねの手を、しかしイチがつかんだ。
「やるよ」
と言う。
「あんたが欲しいなら、盗まれてやる。けど、無論タダじゃくれてやらない。あんたにそれができるだけの器があったらの話だ」
金と灰のまなこを眇めて、イチは試すように言った。
「『どうする、かさねどの?』」
その互いちがいの双眸に囚われたまま、動けなくなる。なんという。なんというタチのわるいおとこなのだと思うと同時に、くるしいほどの感慨が押し寄せた。何もできなかったかさねを。かさね自身も諦めかけたかさねを。イチはまだ信じていてくれる。
泣き笑いのような表情がこぼれて、かさねは一度深く俯いた。
(どうするか。そんなのは決まっている)
ほどけたこぶしを握り込む。息を吸って、勢いよく顔を上げた。
「受けてやろう。そなたは必ずこの莵道かさねがいただいていく!」
転んでも。泣いても。息が潰れて立ち止まってしまっても。
この手で。この足で。
また駆け出していく。
――もう二度と、何も奪わせないから。
そのとき、空から一羽の白い鳥がかさねとイチの前に舞い降りた。翼を振ると、みずらを結った清楚な少年の姿に転じる。小鳥、と呟いたかさねに、少年は奥ゆかしく碧眼を伏せた。
「かさねさま。イチ。孔雀姫がお呼びです。すぐに天都へ」
*
小鳥が案内した天都の客殿の一室に、孔雀姫は座していた。
「六海の件、狐の朧より話を聞いた。……苦労をかけたな」
労わるように言って、かさねとイチを中へ招く。昼でも薄暗い客間には、明かりがひとつ灯され、清めの香が焚かれていた。ひと払いがされているおかげで、部屋には孔雀姫とかさね、イチ以外は誰もいない。
「すまなかった。あなたに待ってもらったというのに、龍神を死なせ、天帝の花嫁たる紗弓どのはどこぞやへいなくなってしまった」
「その件だが」
俯いたかさねに、孔雀姫はさらりと首を振った。
「あの者は天帝の花嫁ではなかった」
「そうなのか?」
「ああ。『地都の西、六海の地に乙女あり。その身に花を宿す――』。何故気付かなかったのだろうな。あれはこれから六海の地に現れる乙女を指しただけの告げであったのに」
独白めいた苦笑をこぼし、孔雀姫はおもむろにかさねの手首をつかんだ。右腕から胸にかけて淡く浮かんでいた痣は今や、あかく、綻ぶように花を咲かせていた。
「夢告げは明かされた。――天帝の花嫁はそなただ。かさねどの」
目を大きく開いて、かさねはその言葉を聞いた。
【六海龍神編・完】
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