七章 つづらかさねのかさね道 3

 記憶のいちばん初めにもぐっていくと、たいてい喉の渇きと、頬をくっつけた床の冷たさに行きあたる。身体が自分の意志でまったく動かない。幾度も悶えて、嘔吐し、吐くものがなくなってもまだ苦しんで、床に爪を立てる。

 「けがれ」を移された直後の身体はいつもこうだった。「俺」の役割は「壱烏」の代わりをすること。壱烏の代わりに、わるいものをすべて引き受けること。

 天の一族は、清浄の一族である。

 その身体は清らかであるがゆえに脆く、少しの穢れも受け付けない。「陰の者」はそんな天の一族を守るために、一族ひとりひとりにつけられる奴隷だ。地上からさらってきた赤子に「陰の者」たる烙印を押すと、乳に混ぜて毒を与え、玩具の代わりに剣を教え、そうして天の一族の楯となるよう育てられる。

 だけど、天の一族にどうしても「陰の者」が要る理由は別にあった。けがれである。清浄な地にいても、なお蓄積され「けがれ」を移す依代。それが彼らだ。いちばんめ。にばんめ。さんばんめ。よんばんめ。「けがれ」を移されるごとに彼らは弱り、たいていは二十を待たずに死ぬ。そして新たな、ごばんめ、ろくばんめの「陰の者」が生まれていく。

 イチは壱烏の「いちばんめ」の「陰の者」だった。

「陰の者」にしてはめずらしく、イチは天都で生まれた。母は一族の長の正妃。二十一年前に母が生んだ双子の子ども。それが壱烏であり、イチである。双子の子どもは、天都では忌むべきものであったから、母は先に生まれた壱烏のほうを皇子とし、あとに生まれた「いちばんめ」には印を押して、「陰の者」に落とした。まるでささやかな神の手違いのように「いちばんめ」は物心ついてまもなく「陰の者」の老に預けられ、さまざまな術を教えこまれた。剣の稽古も、馬の稽古も耐えられたけど、どうしても「けがれ」を移されることだけは苦手だった。それをされると、「いちばんめ」の身体はとたんに重く、冷たく、口を開いた深淵に丸のみされるような恐怖に駆られるのだ。その日も小さな房でままならない身体を抱えてひとり震えていると、てん、てん、と何かが跳ねる音が外でして、鮮やかな鞠が彼の前に飛び込んできた。

『だれか、いる?』

 入口に小柄な人影が差して、誰何する。五つか六つ――彼と同い年くらいの少年は、ひと目で高貴とわかる若草色の水干を揺らして、おそるおそる中をのぞきこんだ。

『入るな』

 ぴしゃりと言うと、少年は足元に鞠と一緒に転がっていた彼に驚いた様子で、顔を強張らせた。

『きみはだれ?』

『だれだっていいだろ。この鞠、あんたの?』

 喘息混じりにかろうじてそれだけを訊くと、少年がうなずいた。手で押した鞠が力なく転がり、少年の腕におさまる。鞠を大事そうに抱きしめて、『ありがとう』と少年が小さな声で言った。彼の言いつけを守って部屋に入ろうとはせず、それでも好奇心を隠しきれない様子で敷居の向こうから彼をうかがってくる。

『でも、きみはどうしてこんなところにいるんです?』

『知らない』

『知らないって』

『近寄ると、けがれが移る』

 面倒になって彼は言ってやった。「けがれ」のことを口にすると、たいてい天都の住人は顔色を変える。こう言えば、少年も一目散に彼から逃げるに違いなかった。

『それはたいへんだ』

 すぐに背を向けるだろう後姿を追うことにも疲れて、彼は重たくなった瞼を閉じた。眠りともつかないまどろみに沈んでいるうちに、身体のうちの震えが少しでも引くことを祈って。不意にあたたかな手のひらを額に乗せられた。触れた箇所からじんわり伝わるぬくもりに、彼は瞬きをする。さっきの少年だった。

『へいきですか?』

『――……』

 無論、なにも癒されやしない。

 彼が抗っているのは、人肌で温まるような種類の凍えではないからだ。けれど、どうしてか身体の芯のこわばりがほっと解けた心地がして、ゆるゆると目を閉じる。

 それが血を分けた兄。生涯のあるじ。

 壱烏との出会いだった。

 気付けば、短い間眠っていたらしい。ぼんやり目を開けると、身体の震えは少しおさまっていた。

『起きました?』

 額に置かれていた手のひらがそっとのく。夕日が射し込む格子窓を背に、壱烏は鞠を抱いて彼のかたわらに座っていた。

『……あんた、』

『壱烏です』

 言葉を続けようとした彼を制し、壱烏は微笑んだ。

『それがぼくの名前。きみの名前は?』

 ひととき思案し、彼は首を振った。老たちは彼を『雛』と呼んでいたが、それはあくまで『陰の者』として未熟であることを意味するだけの言葉であり、壱烏が言う『なまえ』とは違う気がする。

『なまえ、ないんです?』

 驚いた風に尋ねられ、彼は視線をそらす。

 ない。なにもない。

 おまえとちがって、おれにはなにもない。

 名前も。未来も。同じ胎から生まれたはずの母の愛ですら。

 自覚してしまうと、それはひどくむなしいことのように思えた。震えは引いたはずなのに、胸に石を詰め込まれたような気分になって、彼は唇を噛む。この子どもと話すことがつらかった。

『君は――』

『壱烏様!』

 壱烏が口を開きかけたとき、老をはじめとした『陰の者』が数名部屋に飛び込んできた。彼を慌てて引き離し、地にぬかづく。

『申し訳ござません。わたくしどもの『雛』が』

 一斉に額づいた大人たちに少し驚いた様子で、壱烏はふるふると首を振った。首根っこをつかまれて外に出されようとしていた彼のほうを見て、

『イチ』

 と呼ぶ。

 それが何を指しているのか、彼には最初わからなかった。目を瞬かせた彼をのぞきこみ、壱烏が微笑む。

『ぼくは君をイチってよぶことにします』

 壱烏の白い手のひらが頬に触れた。

ぬくい、ひとの手のひら。

『い、ち』

『そう、イチ。はじめてできた、ともだちだから』

 ――その言葉に、俺がどれほどすくわれたか、おまえはたぶん最後まで知らなかったろう。

 イチは目を開いた。

 頭から水を浴びせられたらしい。木格子越しに目をやると、記憶よりずっと老いた老の姿があった。七年前、すでに隠居を始めていた老は、壱烏とイチが天都から追放されたあとも生き延びていたらしい。

「じいさま」

「馬鹿ものが。出戻りおって」

 その言葉の奥に微かな情を感じ取って、イチは苦くわらった。

「お役目は、果たしたのだろうな」

「……ああ」

「なら、いい」

 老は鼻を鳴らして、にぎり飯を投げた。受け取って半身を起こす。身体を動かすと、まだ肩が痛んだが、毒は抜けたらしく、悪寒や発熱はおさまっていた。

「馬鹿め。捕まるならもっとうまくやれ」

「……俺はどうなる?」

「処罰を望んでいる者もいる。だが、最後は長の御心次第だ。あすの天の一族の詮議ですべては決まる」

「その詮議には孔雀姫も来るのか」

「あの方も天の一族の姫ゆえな」

 老の返事に、そうか、とイチは顎を引いた。

 正直、こうなることを予想しなかったわけじゃない。天門をくぐるまで、天都の者たちを「壱烏」で騙し通せるとはイチも思ってなかった。イチが壱烏を名乗ったのは、孔雀姫たちに、地都の壱烏は偽であると暗に知らせるため。それに、イチがただのイチとして天門を叩いたとしても、門前で追い返されるのが関の山だったろう。壱烏の名を騙ったゆえに、イチは詮議の場で孔雀姫にまみえる機会を得た。

「かさねは? 菟道の娘だ」

「あの娘なら、孔雀姫さまが保護された。もうじき菟道の棟梁が迎えにくるそうだ」

「そうか」

 かしゃん、と外から軽い音がして、イチは眉をひそめる。床に開いた錠が落ちていた。

「じいさま?」

 いぶかしげに、イチは老の顔を見た。皺の深く刻まれた面によぎる憔悴の色を見取って、どうやら本気らしいと悟る。

「もうろくしたな、じいさま。天の一族の忠実な僕だったあんたが情にほだされたか」

「どうせ、くたばり損ないの老いぼれよ。知り合いの死はもう見飽きた」

 おい、と老が肩越しに扉のほうへ声をかける。そこから顔を出した少女と少年を見て、イチは舌打ちをした。被衣からこぼれ落ちた髪は白銀。こんな珍しい髪を持つ知り合いをイチはひとりしか知らない。

「かさね」

 しかし呼ばれた当人は唇を尖らせて、そっぽを向いている。孔雀姫の侍従の少年――確か小鳥といったか――が仕方なくといった様子で「かさねさま」と声をかけるが、どこ吹く風だ。

「ひどい面よのう、イチ」

 たっぷりと間を開けたあと、かさねが冷ややかに言った。

「……おかげさまでな」

 少女の目に映る自分は、確かに頬がこけて無精ひげが生え、もとより悪い目つきも隈のせいでさらに凶悪さを増していた。普通の女なら目をそらしたくなるだろう。しかしかさねは視線を離さなかった。

「かさねは今とても腹を立てておる。何故だかわかるか」

「――……」

「イチが本物の壱烏でなかったことにではないぞ。思えば、そなたは最初からまるで皇子には見えんかったわ」

「騙されるあんたもあんただけどな」

 言い返せば、かさねはむっとした様子で口をへの字に曲げた。薄く口端に笑みを引っ掛け、格子を握り込む。こちらが膝をついているせいで、かさねのほうが目線が高いのが少し新鮮だった。

「俺はあんたを騙して利用した。わるいとは思ってない。けど、あんたが腹を立てるのは当然だ。恨み言くらいは聞いてやろうか」

「ほう? では、償いにそこで裸踊りでもしてくれるのかのう」

 腕を組んでかさねは意地悪く目を眇める。

 視線が絡み合ったのはほんの一時だったが、やがてかさねのほうが疲れた様子で息を吐いた。もうよい、と呟く。

「イチ。かさねはな、そなたが結局一度もかさねを信じてくれなかったことに腹を立てておるのじゃ」

 先ほどまでと打って変わってその声は静けさを帯びている。肩透かしを食らった気分になり、イチは口をつぐんだ。考えていたよりずっと深く目の前の娘を傷つけていたらしいことに気付き、急に動揺する。なじられることにも、恨まれることにも慣れているのに、イチはこういう顔に弱い。

「孔雀姫にそなたと壱烏皇子のことを聞いた。そして頼まれた。詮議の前に、そなたをここから逃がしてやってほしいと。かさねと小鳥はそれゆえここに来たのじゃ」

「……孔雀姫が?」

「詮議次第では、そなたは壱烏のもとへ戻れなくなるかもしれない。孔雀姫はそれを案じておった」

「壱烏のもとへ、か」

「イチ」

 薄く自嘲したイチの手をつかんで、かさねが尋ねる。

「そなたが天都をめざしたのは、壱烏のためなのだろう? なら、大地将軍は退けられたし、偽の壱烏のことも明らかにできた。もうよいではないか。はよう壱烏のところへ戻れ」

「ちがう」

 ぴしゃりと告げると、かさねは眉根を寄せた。

「ちがう?」

「俺が天都をめざしたのは、壱烏に孔雀姫への伝言を頼まれたからだ。トウも、大地将軍も、本当はどうだってよかった。孔雀姫に直にまみえるまでは、だから、地上に降りることはできない」

「……罰せられてしまうかもしれないのに?」

「俺は壱烏のイチだから」

 そう口にすると、不思議と穏やかな気持ちが胸に広がった。

「壱烏の願いをかなえてやりたいんだ」

「壱烏とはいったいなんなのだ……」

 みるみる顔面を蒼白にさせ、かさねは震える声でなじるように呟く。

「そなたばかりをかような目に遭わせて、ひとり高みで見物か? 壱烏とはいったいなんなのだ。イチ。壱烏はいったいどこにいる?」

 赤い眸に溢れんばかりの水膜が張る。それを奇妙な気持ちで眺め、ああそうか、とイチは今さら気付いた。かさねは「イチ」を案じてくれている。壱烏ではない、ただの「イチ」を。案じて憂いてくれるのだ。気付いたとたん、やわらかな感慨めいたものが押し寄せて、イチは唇を噛んで震えている少女の眦に指を滑らせた。眦にたまった涙がこぼれて、指先を濡らす。あたたかかった。

「じいさま」

 なりゆきを見守っていたお節介な元上役を呼ぶ。イチの顔を見た老はそれだけですべてを察した様子で、「てめえもたいがいあほうだな」と肩をすくめた。

「こいつらを連れてってくれ。俺は行かない」

 ――イチ。僕についてきてくれますか。

 あれは、壱烏が天都を追放される前日のことだ。春の花びら交じりの風に黒髪を揺らしながら、壱烏は遠方を見つめて問うた。ああ、とイチはうなずく。不安も迷いもまるでなかった。壱烏のいる場所が俺の場所で、壱烏の行く場所なら、どこへだってついていくつもりだった。

 首にかかったままの口琴をたぐり寄せ、イチは夜闇に架かった黄金の月を仰ぐ。

 そう。さいごまで。

 おまえの道は、俺が綴るから。

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