七章 つづらかさねのかさね道
七章 つづらかさねのかさね道 1
額に置かれた冷たい手に気付き、大地将軍は目を開けた。
「
思わずといった様子で真名を呼んだ女がほっとしたように眦を緩める。あたりを見回すと、地都の私邸のようだった。
「わたしはどれくらい寝ていた?」
「三日ほど。燐圭さまをはじめとした皆さまが、日向三山の登山口に倒れていらっしゃるのを旅人が見つけたのです。痛みませんか」
身を起こそうとすると、女が手を伸ばして支える。そして気付いた。燐圭の右腕は包帯で巻かれていたが、肩より先の感覚がない。頬を引き攣らせ、燐圭はくっと咽喉を鳴らした。
「……腕を喰われたか。やられたな」
いつか地神に喰われるやもしれん、ということは想像していた。だが、まさかこれまで地神を斬り伏せてきた太刀のほうに喰われるとは。
「太刀は?」
「持ち帰りました。カムラを呼びましょうか」
「ああ」
うなずくと、しばらくして鞘におさまった太刀を抱えてカムラが現れた。カムラはこの太刀を鍛えた刀鍛冶の一族でもある。
「しずめ、とあの少年侍従は言っていたな」
「姉君の飾り玉のことでございましょう。姉君のあらたまを太刀に、にぎたまを玉に憑かせましたので」
「飾り玉が割れると、刀が暴れ出した」
「そういうことも、ございましょう」
カムラは伸び放題になった白髪の頭を俯かせた。言わなかったのか、となじりたくなり、そういえば俺も一度も聞かなかったのだ、と思い直す。己の持つ刀の力すら知らずに振るっていたのは、確かに思い上がりに他ならない。失笑が漏れた。静かに笑い出した燐圭に、女は不安そうに眉をひそめ、カムラは少し首を傾げた。
「打ち直しましょうか」
今は沈黙している太刀を見つめてカムラが静かに問う。カムラの黒々とした目は、虚無の底をのぞくようだ。あるいは、カムラはただの鏡で、己の魂の底をのぞいているだけなのかもしれぬ。なんと底無きことよ、と大地将軍の胸中に、諦めのような、深い愉悦のような異なる二種の感情が広がった。これだから、この世はおもしろい。
「そうしてくれ。その間はしばらく、地都のまつりごとに専念するとしよう。天都にも睨まれているだろうしな」
肩をすくめ、大地将軍は尋ねた。
「して、我が屋敷にいらっしゃる皇子どのは?」
「それが……」
カムラが呆れた様子で首を振る。
「いつの間にか姿をくらましておりまして」
ゆるさない、とトウは思った。
大地将軍に伴って天都にのぼった兵に話を聞くと、トウが対峙した青年は壱烏本人ではなく、その「陰の者」であったらしい。「いちばんめ」のことをトウは知らなかった。壱烏付きの「陰の者」でも、トウはいちばん年下で、「いちばんめ」とともに育てられることはなかったし、壱烏の御前に上がったときにはもう、「いちばんめ」は影のようにトウたちに顔を見せることはなかったから。それに、イチの容貌は壱烏に瓜二つだった。七年の月日が経ったとはいえ、トウでも見分けられないほど。
イチ。それは、いちばんめ、を意味する。壱烏の「いちばんめ」の陰の者。
トウが顔も見たことがなかった「いちばんめ」は、壱烏にことのほか愛されていた。何しろ、壱烏は死にかけた「いちばんめ」を救うために禁忌を犯し、天都を追われたのだから。壱烏が天都を追放されたとき、ほかの「陰の者」はめいめい好き勝手に地上へ降りていったが、「いちばんめ」だけは壱烏から離れなかったと聞く。
(つまり、すべて「いちばんめ」のせいだったわけではないか)
(それなのに「イチ」はのうのうと生きて、あまつさえ壱烏を名乗り、私の前に現れた)
壱烏にすべてを狂わされてきたトウにとって、それは到底看過できるものではなかった。
とはいえ、イチは今トウには手の届かない天都にいる。
滴る汗を拭い、トウは伸びた野草をかき分けた。三日三晩、寝食を忘れて歩いてきたせいで、トウの花顔には無精髭が生え、絹衣は身体にまとわりつくだけのぼろ布に変わってしまっている。そうして、たどりついたのは霧隠山。その中腹に積まれた山犬の死骸の前だった。
「かような姿になって、ひとがさぞ憎かろう」
山犬はがらんどうの目をトウに向けている。トウはたもとから取り出した香木をひとかけ、山犬の額に置いた。招魂香という。火をつけると、ちりちりと端から煙が上がる。トウは目を細めた。
「霧隠山の地神よ。ひとに斬られたあわれな神よ。その恨み、晴らそうとは思わないか」
はじめ、白い煙がたなびいていただけの香木は次第に瘴気を纏い始める。憎悪を抱えたまま、あちらにもこちらにも向かえずさまよっていた魂が咆哮を上げた。今や激しく燃え始めた黒い炎をトウの薄暗い目が見つめる。
「その手伝い、このトウがする。『イチ』を殺せ」
炎はいつしかトウ自身をも包んでいた。燃え盛る炎のなかで、もっと、もっと燃えよ、とトウは念じる。強い憎悪を抱いた魂は、強力な呪のみなもとになる。もはや呪そのものとなった男は山犬に転じ、ひらりと前脚を蹴ると、天都の方角へ跳躍した。
*
夢を見ていた。同じ夢を何度も。
前を歩くイチの痩せた背をかさねは追いかけている。ちっとも縮まらない距離に歯噛みし、見えない横顔に向けて問いを繰り返す。
『本当に、イチ?』
『本当に、ぜんぶ嘘だった?』
『のう、イチ?』
答えてほしいのに、夢の中のイチはちっともこちらを見てくれない。
「かさねさま」
あてがわれた一室でころんと寝返りを打つ。昼下がりから、寝台でごろごろとしているかさねを見て、孔雀姫の侍従である小鳥少年は呆れた風に首を振った。
「姫もたいがいのいぎたなさですが、あなたはその上を行くようですね」
「ほっとかれよ。かさねは今腐っておるのだ」
言い返し、かさねは小鳥少年を仰いだ。
「だいたい、かさねをいつまでここに留め置くつもりじゃ」
「申し訳ありません。『陰の者』の処罰の詮議が天都で進められているので」
小鳥少年が済まなそうに目を伏せる。
目を覚ましたとき、かさねは天門の外にある客殿で寝かせられていた。普通であれば、地の者であるかさねはすぐに地に返されるところだが、イチの詮議のため、とどめおかれたらしい。客殿をあてがったのは小鳥少年のあるじ――孔雀姫であるという。
「かさねさまからのお話はおおかた聞き終えました。そう長くお引き止めはしないかと。菟道の棟梁へも迎えの文を送りました」
「父さまに?」
「心配しておりましたよ」
ふんとかさねは鼻を鳴らす。
「かさねを狐に嫁がせた父さまぞ」
「どのようなお気持ちで嫁がせたかまでは、わからないでしょう」
話しながら、小鳥少年は運んできた菓子をかさねの前に並べていく。木の実の和え物や、米を練って焼き、砂糖をまぶした菓子などもあった。孔雀姫は何かとかさねに気をかけてくれているらしく、侍従である小鳥少年をつけて、世話をさせていた。
「詮議と言うたが、イチは? どうなるのじゃ」
「陰の者」であることが露見したイチは、かさねとは別所で、壱烏の名を騙ったことや、大地将軍を天都へ引き入れたことの詮議を受けているのだという。大地将軍のことはかさねも小鳥少年の「ひいじいさま」から仔細を訊かれた。
「天帝が深い眠りについている今、天のことは天の一族の長たる壱烏さまの御父上に一任されている。その御心次第でございましょうね。ただ、あの者は壱烏さまの『陰の者』として七年前にともに追放された身。追放された者が天都に戻ることは固く禁じられておりますので……」
「イチは罰せられるのか」
「長の御心次第です」
本当に見当がつかないらしい。小鳥少年はみずらを結った髪をふるりと揺らして、目を伏せた。
「気にかかるのですか」
「うむ?」
「『イチ』はあなたをさらって引きずり回し、身分を偽って騙したままこの天都まで案内をさせたのでしょう? あなたも十分、ひどい仕打ちを受けたように思うのですが」
「……そうじゃな」
木の実を箸でつまみながら、かさねは重い嘆息をする。
イチが壱烏ではないと知って、それまで気にかかっていたさまざまなことに説明がついた。イチがいつもやたら他人事めいて「壱烏」の話をしたのも。他人に絶対に自分の身体を触れさせなかったのも。あの獣のような身のこなしや、毒への耐性があったわけも、「陰の者」だったからと考えれば、説明がつく。壱烏に従者はいないと言っていたイチ。そうではない。イチこそが壱烏の従者であったのだ。
「イチは何故、天都をめざしたのだろう」
ぽつりと呟いたかさねに、小鳥はうなずいた。
「わかりません。じいさまの詮議では話さないようです。大地将軍と天都の争いを止めるために天都にのぼったのやもしれませんが……、大地将軍を天都に手引きしたのでは、と疑っている者たちもいる」
「阿呆め。何故何も話さん。それでは立場が悪くなるばかりではないか……」
苛々と呟いたかさねに、小鳥は苦笑する。
「かさねさまはイチを案じてくださっているのですね」
「それは」
花茶の水面に波が立ち、しょんぼりとする己の顔が映った。「イチ」は壱烏ではなかったものの、もとは天都に属した者。かさねをさらって連れ回した侘びとして、孔雀姫の取り計らいで、莵道の狐には天の恵みたる甘露珠を渡す代わりに、こたびの輿入れは取り消された。かさねにとっては万事解決である。だが。
(ほんにこれでよいのか)
(父さまの迎えを待つ、それだけで)
「ところで、かさねさま」
花茶を淹れた急須に新たな湯を注ぎ足しながら、小鳥少年が口を開いた。
「なんだ?」
「もしご加減がよければ、書庫にお越しにならないかと。孔雀姫からの御言伝です」
「書庫?」
「アルキ巫女たちが各地を歩いて集めた地図がおさめられている場所です。菟道の方なら興味があるのではと」
「行く!」
久方ぶりに目を輝かせたかさねに、小鳥少年は老成した苦笑を返して、「では、案内しましょう」と片付けのための采女を呼んだ。
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