ダヴィウォア紀行
@fw_no104
一日目
栄えある旅の初日に大変に不本意なことであるが、ぼくは今、隣国のーー情けないことには国境の山を一つ超えただけのーー村の宿屋にいる。
あまりに残念すぎるので、できたら出直すか、明日、希望の光が昇ってきたところから書き直そうかとも思った。とはいえ、旅はもう始まってしまったのだから、出立後の悲しい状況について書き記しておこうと決めたのだ。
もしかしたら、今後もこういうことーーぼくにとって非常に都合が悪く不名誉なことーーは起こるかもしれない。道を間違えるとか、強盗に遭うとか、だまされて身ぐるみはがされるとか。
そのたびに、ぼくは悩むだろう。これを赤裸々に書くべきか否か。もし今、今日、ここで、嘘をでっちあげてしまったら、ずっときれいごとだけの記録になってしまうだろう。そうしたら、読み物としておもしろくないばかりか、記録としての信憑性もなくなってしまう。それでは、ぼくの子孫に申し訳がたたないではないか。
いや、誰もこんなもの読まないかもしれないけれども。少なくとも、ぼくはぼく自身に正直であろうと思う。だから今ぼくは、本来ならば、もっと先の町を目指して進んでいるであろう時間に、山を越えてすぐの宿屋の一室で、まぶしい光に照らされた春浅い山々を恨めしげに眺めながら、やや固く薄っぺらい寝具に身を持たせ、寝間着のままでこれを書いていることを告白しなくてはならない。
誓って言っておくが、寝坊をしたわけではない。いやむしろ、そっちの方がよかった。笑い話ですんだ。別に急ぐ旅ではないのだから、そういう日だってあるだろう。昼に起きて、だらだら次の町を目指したって、誰も待ってはいないんだから、自由だ。
だけど、そうじゃないんだ。
なんなんだこの記録は。今読み返してみたら、もう大半がぐずぐずと言い訳ばかりだ。それも恥ずかしいが、自分が書いてあるとおりだとすると、これもある意味正しい記録であり、消し去るわけにはいかないとも言えるわけで・・・・・・。
とにもかくにも、ぼくが今いるのは、隣国、「ラ=ヴィアパーン=ダ=ヴィスト」である。通称、『知識の谷』だ。
国土は細長く、大きく三つに分かれている。名前の通り、周りは険しい山岳地帯で、その谷間にそって人々が暮らしているのだ。そしてなにより、ここには膨大な数の書物が集められている。世界中から知識を求めて人が訪れ、優れた書物を新たに残していく。人工の何倍もの貴重な書物が、あちこちの建物にぎっしり納められているのだ。
いや、「らしい」。
何分にも、それはすべて、ぼくが聞いて知っていることだ。隣国でありながら、まだぼくは一度もこの国を実際に訪れたことがない。
ぼくに言えることは、辺境の村というのは、まあ、どこも似たり寄ったりで、もっと言えば、あまり国をまたいだ気がしない。言葉も似ているとはいえ、方言というのか、我が国の言葉がなまっただけのように聞こえる。風習もさほど変わらず、山々の眺めや田畑の様子ーーつまりは、最低限そこの小さな窓から見える村の生活は、あまり我が国とかわらないようだ。
それどころか、宿屋の女主人ときたら、知識の谷に住んでいるくせをして、全く物わかりが悪かった。
ぼくが、家を抜け出したのは、昨日の夜半のことだった。春になったら、と思っていたのだが、何かといろいろあって・・・・・・いや、正直に言えば、今年は三回も熱が出たせいで、なかなか準備が進まなかったので・・・・・・当初の予定より出発が遅れてしまった。しかし、思っていたより夜風は冷たかった。とはいえ、そんなことで逃げ帰っていたら、男じゃない。
だから、首が回らないほどに襟巻きをぐるぐる巻きにして、ぼくは旅立った。だって来年にはまた冬がくるのだ。しばらく家には帰らないつもりだから、つまりはこんなことでへこたれているわけにはいかない。
それに、いったん家を抜け出した以上、迅速に町を離れる必要があった。考えてもみたまえ、もし、見つかったらどうするんだ。連れ戻されてーーそうなったら、さらに抜け出すのが難しくなる。
今なら、大丈夫だ。家の者は誰も、ぼくが逃げ出すだなんて思ってもいないのだから。
意気揚々とはいかず、寒さに首を亀みたいに縮めながら、ぼくは愛用のダヴィウォアに乗り込んだ。舵の左下にあるくぼみに、石をはめ込む。
本当は、これはやりたくない。使ったらものすごく疲れるからだ。だが、一晩で山を越えて行くには、どうしてもダヴィウォアに飛んでもらわなくてはならなかった。地面を歩かせていたのでは、すぐに追いつかれてしまう。朝になってぼくがいないことに気がついた家の者に!
正直、道中のことはあんまり覚えていない。
本当は、夜空の美しさとか、星明かりに照らされた木々とか、珍しい夜の鳥との遭遇とか、そういうわくわくするようなーーヘラー=グレインやエリック=マックウェイが書くようなーー場面を書きたいのだが、無理だ。
なにより、暗くてよく見えないし、ぼくのダヴィウォアはーー制作者として分かっていたことではあるがーーほんの少し飛ぶのがやっとだ。
はじめは、針葉樹の梢をひっかけないようにーーついでは、岩肌に激突しないように、細心の注意を払っていなくてはならなかった。景色なんて見ている暇はない。
その上、山の上はもっともっと寒かった。出掛けに暖かいスープを持ってきていたのだが、操縦に必死で飲む余裕なんてない。しかも、切り立った岩山は、ぼくの繊細な乗り物を停めて置いておくような場所もない。そんなことしたら、脚が折れるか、底に穴があいてしまっただろう。
なによりもっとも不幸だったのは、石を使ったせいで疲れたことではなくて、途中から、腹が痛くなったことだった。これが、昨日起きた、もっとも不本意で不名誉なことだ。
だからぼくは、とにかく必死で山を越えた。
行き先をヴィアパーンにしたことに、大した理由はない。家の前の道が東西に伸びていて、東にずっといけば、ヴィアパーンだというだけだ。もちろん、知識の谷を堪能したい気持ちがあったから、東に向かったのだけれども。
とはいえ、ぼくの予定では、夜半に山を越え、次の朝までダヴィウォアを働かせて、中心部近くに達するつもりだった。そのために、昨日の昼間は具合が悪いと嘘をついて、部屋で寝ていたのだ。
にもかかわらず、ぼくはさしあたって、手近な村に立ち寄ることを余儀なくされた。その時点で、追っ手とか、寝心地の良さそうな宿とか、そういう考えは全くなくなっていた。とにかく、ここよりも暖かい場所で、ぼくを休ませてくれるところがあれば、なんでもよかった。
いや、ぼくは今、嘘をついた。
山を越え、下っていくと同時に、ぼくの腹具合も同じように下っていった。だから、正確にはこうだ。用を足させてくれる場所があれば、なんでもよかった。
幸いにも、ぼくは村と、一軒の宿を見つけることができた。外観がどんなだったかは、記憶にない。看板が出ていたことだけを確認して、ぼくは宿の扉をたたいた。
時間は遅かったと思うが、しばらくして太った女性が何か言いながら扉を開けた。その、「しばらく」が当時のぼくにとってどれだけつらかったか、わかっていただけるだろうか。
「すみません、泊めていただきたいのですが」
ぼくは、なるべく平静を装って言った。宿の女主人はぼくを胡散臭げに眺めた。そんなことしている暇にぼくを中に入れてくれ!
「あんた、その後ろの変なのは、なんだい」
彼女は、ぼくの後ろをたっぷり肉の付いた顎で示した。
ぼくは、うめき声をあげた。
「気味が悪いねえ」
というつぶやきには、そんな乗り物に乗っているやつを泊めてやるつもりはないという意志が、はっきり現れている。
その、とぼくは前髪をかきあげた。そのときになって、自分がじっとりと汗ばんでいることに気がついた。こんなに寒いのに。
「これは、単に地面を歩くだけの乗り物です。厩に入れさせていただければ・・・・・・飼い葉も必要ありませんし、暴れて逃げ出すこともありません・・・・・・いたって、その」
「けどねえ・・・・・・気色が悪いよ、なんだい、その脚は」
彼女はものすごく嫌そうな顔をしていたと思う。あんまり覚えていないけれど。
「すみません、しかしですね」
愛するダヴィウォアを批判されて黙っていられるぼくではなかった。体調が万全であれば、もっとうまいこと、言いくるめられたかもしれない。不幸なことに、このときのぼくは、立っているだけで精一杯だった。そんななか、ダヴィウォアの正当性を主張しようとするぼくを遮って、彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。
「ま、いいさ。あたしは触らないからさ。自分で持っていってくれるっていうならね」
ほっとしたぼくの前に、手が突き出された。今、ここで料金を払うのだろうか。早く中に入れてほしいのだが。
「旅券」
彼女は、ぐいぐいっとさらに手を突き出した。
「は・・・・・・? ここで、ですか?」
「当たり前だろ。こーんな不審な乗り物に乗って、こーんな夜中に来たんだ。改めさせてもらうよ」
そんなばかな、とぼくは混乱した。
わかっている、どこかでこれを言われることは。しかし、隣国との境に検問はないし、それはもっとずっと後のことでーーそのときまでにどうするか、決めようと思っていたのだ。偽造するにしても、旅の途中で誰かに頼むつもりだった。ヘラーだってそうしていたし。それに、遠くで改められた場合なら、身元が通報されることはないと思っていたのだ。
それを、こんな、いわば、目と鼻の先で!
「なんだい、見せられない理由でもあるのかい?」
意地の悪そうな声になって、彼女は言った。
ぼくは必死で頭の中でいいわけを考えた。
そうさ、よく考えろ、この人は、ぼくが家出中の身だとは知らないんだぞ。ちょっと、お忍びで旅をしている途中だって、だから騒がないでくれって言えば。あながち間違いじゃないし。
黙っていてくれたら悪いようにはしない。ちゃんとお金は持ってます。
ところが、鞄に手を伸ばしたとき、ぼくの腹部を猛烈な痛みが襲った。今まではどうにかぼくの方が勝っていたのだが、ついに反撃が始まったらしい。
もう、平静なんて装えなかった。片方の手で腹を抱えながら、ぼくは扉のところの柱にすがりついた。そこだけはなぜかよく覚えている。柱は年季が入って傷だらけだったが、きれいに磨かれていた。
「なんだい、どうしたんだい、具合が悪かったのかい」
女主人が、一転して心配そうな声を出した。答えたのは、ぼくの口ではなくて、腹の方だった。だいたいの人にこの状況なら納得していただけてーーぼくが今すぐ行くべき場所を示してくれたのだ。
いったん、用を足せばどうにかなる問題じゃなかったらしい。
もういいから、とすまなさげに言われながらも、ぼくはなんとか大事なダヴィウォアを宿の裏手に移動させた。実際、彼女には動かし方が分からなかっただろうし、仕方がない。
そしてすぐに、また厠に戻る。しばらく廊下(あてがわれた部屋に戻る前に引き返すことになった)と往復を続けて、最後にはただ痛いだけになって、階段の下でうずくまっているところを、女将に助けられてようやく暖かい部屋で休むことになった。
「なんか、暖かいものでも食べるかい」
白湯を枕元に置いてくれながら、彼女は聞いてきた。ぼくは力なく首を振った。食べたら吐くと思う。特に、石を使った後だから。
それをみて、彼女は困った笑いを浮かべた。
「だいたい、それならそうと、早く言えばよかったんだよ、我慢なんてしてないでさ。そもそも、わざわざうちの厠まで我慢しなくたって、どこででもすりゃよかったじゃないのさ」
そんなこと、できるわけないじゃないか! 女性のくせになんてことを言うんだ。君には恥じらいというものがないのか!
ぼくは、まだ痛む腹を押さえながら、心の中で反論した。それとも、違って見えないのは表面だけで、風習はずいぶん違うのかもしれない。
何を思ったか、彼女はそんなぼくに大きなため息をついてみせた。
「ま、何よりも、あんた、そんなにひ弱ななりで、こんな時期に山なんてうろついてるから、こんなことになるんだよ」
理不尽だ。
理不尽すぎる。
ぼくは、確かに自分に比べて丈夫そうなしっかりした胴体を見送りながら、脱力した。いや、とっくに力はなかったんだけれども。
そして、明け方、また腹が苦しくなって飛び起きてみたら、思った通りにしばらく吐き下して、今に至るのだ。
今も、あまり調子がいいとは思えない。なんとか、座っているだけならどうにか、という感じだ。
なんなんだ、旅の記録を書くはずだったのに、これではぼくの体調を切々と訴えただけじゃないか。
悔しい。明日こそは、意気揚々と出立してやる。
ただ一つ、幸いなのは、いくらなんでもぼくの戦線離脱が早すぎたために、この村で寝ているとはさすがに家の者も思わないだろうという点だ。ただ、当初の予定が狂ったことは否めない。旅券の件と併せて、あともう少し休んだら、真剣に考えてみる必要があるだろう。
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