七章 神をも《斬り》滅す具現/黒刃の狗神

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 地下の大広間を抜け出た鳶雄は、刃と共にエレベーターまでの直線を駆け

る。そこで待ち構えていたのは、ウツセミと化している同級生たちだった。

まるで、あの広間を逃げ出した者を待ち受けていたかのような配置だ。その

背後に指揮するように立つのは、背広を着た男性二人組。どちらも手で印を

結んでいた。機関員だろう。

「どいてくれ――ッ!」

 鳶雄は叫びながら、突進していく。刃が素早く同級生の使役するウツセミ

のバケモノを夜陰鈎で両断していった。薔薇ばらと思われる巨大な植物のウツセ

ミ、クワガタに類似した昆虫のウツセミが瞬時にして、足下の影より出現し

かぎのブレード――ハーケンによって切り払われる。

 ふと見れば、壁にもハーケンは突き刺さっていた。視線を送れば、壁に擬

態していたカメレオンに酷似するウツセミの姿があった。壁に張り付き、姿

を消していたのだろうが、ハーケンにより腹部を貫かれている。すでに絶命

しており、そのまま廊下にぼとりと落ちた。……自分では察知できなかった

ものを刃は即時に見抜いて攻撃を加えたのだろう。獣特有の気配の探り方は、

鳶雄が持ち得ないものだ。

 ……否、それだけではない。明らかに刃の雰囲気がここにきて様変わりし

ていたからだ。刃の小さな体から発生している影が広がっており、廊下の一

部を丸々漆黒に染め上げていた。床が、壁が、天井が、子犬の体躯たいくと比較に

ならないほどの影に呑み込まれていた。その黒き影から、無数のブレードが

生えそろう。刃が一歩足を踏むと、廊下に広がる影も前に進む。

 これを見て機関員は目を見開き、全身を震わせていた。手に持っている呪

術の札を離して下に落とすほどに小さな犬に恐怖していた。

「くっ!」

 恐怖を振り払いながら、再び懐から札を取り出そうとする機関員の一人。

だが、壁の影より伸びてきたハーケンの一振りが、取り出した札を的確に

いた。札がダメとなれば、印を結べばいいと機関員が手の型を変えようと

するが――足下より出現したハーケンが喉元に一瞬で届く。

 この刹那せつな の攻勢に鳶雄は言葉を失っていた。刃は……すでに認知していた

のだ。彼らの持つ札が、手の印が、超常現象を生み出す代物だとすでに熟知

していたのだ。そのため、術が発動する前に崩す。札を、手の印を、相手の

戦意を――。

 ウツセミのバケモノのように命まで奪わなかったのは、主である鳶雄が人

殺しを善しとしないためだろう。その主の心中すら察してこの子犬は動いて

いる。

 それを鳶雄だけでなく、機関員の二人組も理解したのか、彼らは敵意をな

くし、かまえていた両手を下におろした。

 機関員たちは刃に視線を送りながら、ぼそりとつぶやく。

「……本能的に共鳴して力を高めたのだろうな。あの氷と炎の戦いを見て

……」

「……十三種のうち、数種もここに集えばこうもなろう。一種だけでも事象

ゆがむと言われるものが、いくつもあるのだ……」

 鳶雄は、彼らのつぶやきを意にも介さずに一歩詰め寄って力強く言った。

「エレベーターは認証式でしたよね。――上まで案内をお願いします」

 戦意をがれた彼らに鳶雄の言葉を拒否できるほどの強さは残っていな

かった。

 エレベーターにて、上階に上がった鳶雄と刃を待ち構えていたのは――あま

の同級生たち。ウツセミのバケモノを傍らに配置させて、扉から出てきた

鳶雄と刃に襲いかかってきた。

斬れスラツシユッッ!」

 主の命を受けた刃が、黒い弾丸と化してウツセミの群れに飛び込んでいく。

同時に通路いっぱいにいびつなブレードが生えていった。そのブレードの切っ先

はウツセミのバケモノたちの核を正確に突いたようで、一撃のもと、倒れ伏

していく。

 圧倒しているかのように思えて、数の暴力は激しく、間髪入れずに押し寄

せてくるバケモノたちに刃が対応しきれず、吹っ飛ばされることもあった。

「刃ッ!」

 鳶雄は、手を伸ばしてくる同級生たちを振り切って、突き飛ばされた刃を

正面からキャッチした。これぐらいのフォローができねばこの子犬の主は名

乗れないだろう。鳶雄自身も、同級生に道を阻まれ、み合い、取っ組み合

いに発展した。しかし、刃がウツセミのバケモノを倒すことで、彼らも意識

を失い、その場で倒れ込んで大事には至らなかった。

 あちらは、こちらに致命傷を与えることすら意に介さないが、こちらとし

ては彼らを傷つけるわけにもいかない。最低限の防衛措置で難を逃れようと

したが、鳶雄の体にはあちこちに擦り傷ができあがっていた。殴られ、蹴ら

れながらも、同級生を突き飛ばす程度に反撃をとどめたからだ。乱闘のせい

か、着ていた制服は破れ、息も絶え絶えだった。

 それでもなお、ウツセミと化した同級生たちは次々とここへ向かってくる。

鳶雄は、刃の鼻に頼る。刃は、通路に残っているであろう紗枝の匂いをた

どって走り出した。鳶雄はそれを追う形で、その場から駆け出す。

 通路を進むなかで、突如として照明がすべて落ちて暗黒となった。敵のわな

かと一瞬思ったが、すぐに非常用の照明が淡くともる。そして、慌ただしい

警戒アラート音が建物内全域に鳴り響き出した。

『非常警戒発令。非常警戒発令。外部より、敵対組織の接近あり。五大宗家

からのエージェントと思われる。繰り返す。外部より、敵対組織の接近あり。

五大宗家からのエージェントと思われる。各員、持ち場を離れ、緊急時のマ

ニュアルに沿って――』

 通路に設置してあった赤のランプが激しく明滅していく。

 ……非常警戒発令? 外部より五大宗家が近づいてきているというのか? 

この場所が、五大宗家にバレたということか。各宗家に黙って『四凶計画』

を発動して、メディアをあそこまで騒がせた『虚蝉機関』を五大宗家の者た

ちが見逃すはずもなく、アジトが割れれば攻めてくるのは必定といえる。

 ……だとすると、時間はない。紗枝を救い出さなければ……。だが、ここ

で鳶雄はある不安事項に思考が行き当たる。

 いや、待て……。五大宗家は、このアジトにいる同級生やその肉親の存在

を確認したときに、そのあとどうするつもりだろうか? 無事に帰す? そ

んなこと、するはずがないだろう。彼らは不備を正す一族だと聞いた。なら

ば、同級生やその肉親たちは――。

 ふいに鳶雄は振り返る。そこには、ここに至るまでに襲いかかってきた同

級生たちの通路に倒れ込んだ姿があった。ウツセミのバケモノを失い、彼ら

は気を失ってその場に倒れたのだ。魔方陣によって、転移することはなかっ

た。当然なのかもしれない。あれで運ばれる先はここなのだから、転移する

必要なんてない。

 倒れ込む同級生たちを見て、鳶雄は苦渋の表情となる。

 ……彼らをここで救わねば、二度と助けることはかなわないのではないか? 

たぶん、機関の連中は、ここを襲撃されたら迷うことなく、このアジトを放

棄して身ひとつで逃げるだろう。そうなったら彼らは……。

 鳶雄ひとり短時間で運び出せる人数ではない。あの装置から彼らの肉親を

離す作業も必要だ。ならば、ラヴィニアならどうだ? 彼女の魔法なら――。

ダメだ。彼女は下で強力な魔女と死闘を繰り広げているだろう。仮に退けた

としても救出が今すぐに叶うというわけにはいかないだろうことは、異能力

に疎い鳶雄でも理解できる。

 では、救える人間だけ、救う……? 紗枝とその肉親だけ救う……?

 そこまで考えて鳶雄は壁に頭を打ち付けた。

 ――最低の発想だ。

 ……自分は、決めたんだ。紗枝だけじゃなくて、皆を救うと。佐々木を、

皆川夏梅の友人を、鮫島綱生の友人を、全員を――。

 ……諦めるのは嫌だ……ッ! こんな理不尽に身をゆだねられた彼らをこの

まま放置するなんてこと、できようはずがない……ッ! 全員を救う! 全

員を救いたい!

 ……じゃあ、どうすればいい……?

 答えの出ない苦悩にさいなまれる鳶雄。こうしているうちにも紗枝は、どんど

んと離れていっているのかもしれない。考えている時間はない。答えを模索

する時間は許されていない。

 苦悶くもんの表情を浮かべる鳶雄だったが、そこに声がかけられる。

「――人間とは、わからないものだ。同じ人間をゴミのように実験に使うと

思えば、神仏のような情けですべてを救おうとも考える。まったくもって、

度し難い存在だ」

 そう嘆息混じりに吐きながら現れたのは、ウェーブのかかった長い黒髪の

男性だった。ローブのようなものを羽織っている外国人の男だ。

 男は鳶雄と――刃を一瞥いちべつしたあとに言った。

「……『総督』の組織の者だ。おまえたちのおかげで侵入は案外容易たやすかった

ぞ」

 ……『総督』の組織。となると、グリゴリの関係者か? 確かに言い知れ

ないプレッシャーのようなものを全身から放っており、刃も警戒を強めてい

た。

 男はローブを翻しながらこう述べる。人差し指を通路の奥へ示した。

「『いぬ』よ、この先に己の死に様を模索する男が、おまえを待っている。行

け。ここに運ばれた人間どもの始末は俺に任せろ。そういう仕事も任されて

いるからな。本来、例の魔女どもの存在確認だけをしに来たのだが……」

 男は視線を下に落とした。まるで地下で行われている魔法使い同士の戦い

を知っているかのようだった。男は息を吐いてもう一度述べる。

「ほら、言ったはずだ。さっさと行けとな」

 男は指先を倒れ込む同級生に向ける。すると、その下に魔方陣が展開して、

パァッと輝いたのちに彼らの姿が消えた。転移させたのだろう。

 鳶雄はおそるおそるく。

「……あなたの名は?」

 男は、おもしろくなさそうにしながらこう答えた。

「……グリゴリの幹部、コカビエルだ」

 それだけ確認すると、鳶雄は「頼みます」と一礼してからその場をあとに

した。もう、この怪しい男にすがるしかここの状況を打破できないだろう。

 走り去る鳶雄の耳に、

「……俺はセイクリッド・ギアに興味がないと言ったはずだ、アザゼルよ」

 そう吐き捨てる男――コカビエルの声が聞こえてきたのだった。

   


 通路をさらに進んで鳶雄と刃が行き着いたのは――上階にあるであろう広

い展望室だった。壁の大半がガラス張りになっており、外を一望できる。見

やれば、眼下には緑の景色――。一面に広がる森の木々が見えた。ここがど

こかの山中であることがわかる。

「いい景色だろう? このアジトで唯一私が好きな場所でね」

 突然の声。そちらに視線を送れば、姫島唐棣の姿があった。その隣には、

巨大な黒い獅子を伴う紗枝が位置している。

 姫島唐棣は、外に目を向けながら言った。

「私たちは、人里離れた山の内部に長年を費やして隠しアジトを設置してい

てね。ここがそのひとつだ。この展望室も山の一部を利用して造っている。

結界が張られているから、外部からではここを視認できないだろう。だから、

誰に見られることなく、この風景を一望できるのだよ。素敵すてきだとは思わない

かね?」

 口元を笑ましながらそう漏らす姫島唐棣。やはり、ここは――彼らのアジ

トは山のなかにあるようだ。どの辺りの山かは外を一望しただけではわから

ないが、自分たちがいた町より遠くにあるのは確かだろう。

 彼は息をひとつ吐くと、頭を振ったのち、会話を切り替える。

「――ウツセミ、キミたちの同級生をそう呼称しているのはなぜだか、わか

るかね?」

 鳶雄が答えずとも、姫島唐棣はその場を歩き出しながら話を続けた。

「我らの組織名から由縁があることはわかるかもしれないが……。虚蝉とは、

その名のごとくだ。――『人間』を意味する。そして、蝉の抜け殻。空っぽ

であること。……由緒正しき異能の一族に生まれながら、その家に沿った力

を有さず、あるいは方針に従えぬ事情を抱えてしまった者たち。宗家の者た

ちにとってみれば、家の求める力を有さなかった者は、『異能力者ひと』にあら

ず。ただの『人間むのう』だ」

 自嘲する彼の瞳は――薄暗く、輝きを灯していなかった。

「我らは価値観を否定された空っぽの存在――『虚蝉』だ」

「……じゃあ、同級生みんなのことをそう呼ぶのは……?」

 鳶雄の問いに姫島唐棣は肩をすくめる。

「――あのような力を与えられても、それもまた人間ひとである。……よく覚え

ておくといい、幾瀬鳶雄よ。こちら側では、『人間』という定義は人の数だ

け答えを変える。いずれ、キミもそれに直面するだろう」

 ……『人間』の定義。いまそれについて鳶雄は明確な答えを持ち合わせな

いが、そのことは姫島唐棣も十分承知のようだった。

 彼は、懐から――独鈷とつこを取り出した。両端がとがったきね型の法具だ。姫島唐

棣が小声で呪文を唱えると、独鈷は独りでに宙に浮かぶ。そのまま彼の周囲

をくるくると回り出した。すると、いつの間にか独鈷が二個になる。見間違

いかと思っていたが、独鈷の数はさらに増えていき、三個、四個、五個……

十を超える数となって、彼の周囲を飛び回った。

 姫島唐棣はその状況で言った。

「……私はね、幼少の頃から、このように法具の扱いにけていた。これに

関してだけは、姫島のなかでも、特出した者のひとりだった」

 さらに彼は両手から錫杖しやくじようをも取り出した。一歩、また一歩と鳶雄のほうへ

歩み寄り始める。そのなかでも彼は話を続けた。

「我が姫島家は、神道の一族だ。古くより火之迦具土神ヒノカグツチと、その系統に属す

る神々を信仰していてね。自然と火に通じる異能を持って生まれる者が多

かった。……私は、その力に恵まれなかったよ。信仰する火之迦具土神、そ

の系統の神々にも一切加護を受けることができなかった。結果、私はいまこ

こにいる。――宗家の有り様に適合できなかった者は、たとえ宗家の出だろ

うと、ここにおととされる。それが、彼らが古くから厳守することわりだ」

 つまり、彼は姫島の力――炎の力を有さなかったばかりに『虚蝉機関』に

いるということか?

 鳶雄は気になったことを訊く。

「……ひとつ、訊きたい。『四凶』や俺の能力も日本神話の神さまから発生

したものだというのか?」

 姫島唐棣は首を横に振る。

「……いや、神器――いわゆるセイクリッド・ギアという異能は、日本の

神々がつくり出したシステムではない。それは、キリスト教――聖書の神が創

造したとされるものだ。ゆえに我らとは本来ならば相容あいいれぬ存在だ。異教、

異端そのものだろう」

 ……刃は、その火之迦具土神とは関係がない? キリスト教の神が、関与

しているということか……。予想外の真実に鳶雄は当惑していたが、脳裡のうり

浮かぶあの情景に得心したのもまた事実だった。

 幼少の頃に出会った黒い天使――。鳶雄たち生き残り組をかくまう組織――グ

リゴリ。姫島唐棣の話から、鳶雄は少しずつ理解しかけているものがあった

のだ。バカげた話だろうが、それでもすべての話の大筋で辻褄つじつまが合う。

 姫島唐棣の操る独鈷の先が、すべて鳶雄と刃を捉えた。

「もうすぐ、五大宗家の手の者がここにたどり着くだろう。なるほど、キミ

とあの少女と出会った瞬間に私は詰んでいたということだ」

 彼は「くくく」と含み笑いを発した。

「アザゼル『総督』は、最初から見定めていたというわけだ。……まあいい

だろう。同志である者の大半は、同盟を組んだ『魔女』たちのもとに退却す

るはずだ。ここで培われた技術は、そこでさらに発展することだろう。『四

凶計画』の続きをするもよし、魔女たちが求める悲願を叶えて利用するもよ

し。それぞれの思惑で宗家への復讐ふくしゆうを完遂すればいい。――だが、私はそう

はいかない」

 姫島唐棣が、鳶雄の前に立つ。彼は自嘲しながら、こう述べる。

「――姫島鳶雄よ。私の願いを叶えてくれ。叶えさせてくれ。姫島が生んだ

闇の狗を禍々まがまがしいやいばに塗り替えたいのだ。そして、その禍々しい刃で死にた

いのだ。私は、奴らの手で死にたくはない。死ぬのなら、キミの黒き刃にて、

死にたい。――これがわかるか?」

 鳶雄は理解不能の言動を繰り返す姫島唐棣に激高した。

「ふざけるなッ! あれだけのことをして! これだけの悲しみを生んで! 

最後に死にたい!? しかも、俺に殺してくれというのかよ!? ふざけるな! 

ふざけるなよッ! それにな! 俺は……俺は、姫島なんかじゃないッ! 

幾瀬だ! 幾瀬鳶雄だッ!」

 怒声を張り上げて訴える鳶雄だったが、それでも姫島唐棣は薄い笑みを浮

かべるだけだ。

「いや、キミも姫島だ。じゃなければ、ここにはいないだろう。そういうも

のを引き込むのだよ、五大宗家の血というものはね。特にキミの持つ力は何

よりも黒い。真っ黒だ。その暗黒を抱いたまま、無知と綺麗きれい事を口にするキ

ミをけがそう。はみ出し者同士の戦いとしては最高だと思わないかね?」

「イカレてるよ、あんたはッ!」

 叫ぶ鳶雄に呼応して刃が飛び出した! それに合わせて姫島唐棣が宙を飛

ぶ独鈷数個を刃に向かわせる。刃は、頭部から片刃のブレードを生やして、

独鈷のひとつを打ち落とした。――が、それ以外の独鈷は宙で軌道を変えて、

刃の側面から鋭く突っ込んでくる! 回避しようとする刃の動きに合わせて、

独鈷も動き回り、ついには子犬を捉えて腹部に突き刺さった! 刃が「きゃ

んっ!」と悲鳴を漏らして独鈷の一撃で床に打ち付けられる!

 刃は全身を震わせながらも立ち上がる。独鈷の攻撃は強烈だったようで、

刃は「カハッ!」と血の塊を口から吐く。あの刃が一撃でここまでのダメー

ジを受けるなんて……。独鈷に込められた男の呪術――法力は強力だという

ことだ。

 しかし、それでも刃は諦めず、赤い瞳を輝かせる。姫島唐棣の足下の影よ

り、ハーケンが飛び出す! だが、それはすでに彼も見ている攻撃だ。予想

していたように軽やかにかわして、横薙ぎに払われた錫杖によって破壊されて

いく。

 そうこうしているうちに宙を飛び回る複数の独鈷が、今度は鳶雄に照準を

定めて、襲いかかってくる! 直撃するという直前に鳶雄の足下より、ハー

ケンが飛び出て盾の格好となるが、独鈷は当たる寸前に弧を描きながら宙で

軌道を変えて、ハーケンを躱し、鳶雄に飛来した! すべもなく、鳶雄の

全身に複数の独鈷が打ち付けられる!

「……ぐわっ!」

 肩、背中、腕、腰、足、あらゆるところに独鈷は打ち付けられて、鈍い音

を立てる。途端に激痛が襲ってきて、鳶雄はその場で膝からくずおれた。頭

部に当たらなかったのは幸いだったが……それはわざと狙いをつけてこな

かったのだ。頭を狙えば即時に勝負がついてしまう。彼はそれを望まなかっ

た。

 ……左腕と右足が激痛と共にまるで機能しなくなった。だらりとする腕と

足。……骨折しているのだろう。腕はともかく、足をやられたのは致命的

だった。……もう、鳶雄は動き回ることができなくなったからだ。

 主の危機に瀕して、刃は全身から黒いもやを発生させて、いっそう力を高

めようとするが、子犬自身もすでにダメージが深刻だ。何度も何度も口から

血を吐いている。内臓を負傷しているのだ。このままでは、刃も――。

 そこに黒い獅子も戦線に加わる。巨体を揺り動かして、「ぐるるる」と低

うなり声を放っていた。刃も負けじと威嚇するが……。姫島唐棣に黒い獅子。

戦況は絶望的だ。

 刃が、獅子の足下の影からハーケンを撃ち出すが、獅子は横に跳んでそれ

を回避する。獅子が大きく息を吸い込んで、腹部を膨らませた。次の瞬間、

獅子は口から巨大な炎を刃に目掛けて吐き出した!

 刃は口から血を伝わせながらもその炎を避ける。獅子は間髪入れず、足下

の影を広げていく。瞬時にその巨体が影のなかに沈んでいった。影だけが残

り、その影が四散して展望室全体に走って行く。

 獅子の作り出した影はそのひとつひとつが意思を持っているかのようだっ

た。四散したそれぞれの影が刃を執拗しつように追う。分断した影のひとつが、駆け

回る刃を捕らえた。影がうごめいて刃の体に絡みつく。

 分かれていた他の影もそこに合流していって、再び大きな影を作り出す。

そこから獅子は浮かび上がってくる。影に捕らわれた刃が、体に生やしたブ

レードで影を斬り払うが――それと同時に獅子の前足による一撃が振り下ろ

された。

「きゃんっ!」というか細い悲鳴が展望室に響き渡った。床に何度かバウン

ドしたあと、刃はぐったりと横たわったまま、起き上がることはなかった。

「刃――ッ!」

 相棒の、分身である子犬の姿に、鳶雄は絶叫して体を引きずりながら近づ

こうとした。

 うような格好の鳶雄を、姫島唐棣も、黒い獅子も、追撃するようなこと

はなかった。もう、戦局が覆らないことをわかったからだ。相手は、どちら

も鳶雄たちよりはるか格上。それがいっぺんにかかってくれば、敗北は必至

だった。

 涙を流しながら、鳶雄は床を這いずり回って刃のもとにたどり着く。激痛

など、刃のもとに行くことに比べればなんてことはない。早く、すぐにでも

子犬を抱き寄せたかった。力のない自分のために、必死になって戦ってくれ

た小さな相棒。刃は、まだ息があったが、その命がついえる寸前なのは鳶雄で

もわかる。

「…………ありがとう……ごめん、ごめんよ……俺が……弱いから……こん

なことに巻き込んでしまって……ごめんよ」

 鳶雄は刃を抱きかかえて、ただただ礼と謝罪を口にしていた。

 姫島唐棣は首を横に振りながら言う。

「……キミは私をイカレていると言った。それは当然だ。ここに身を寄せた

ときから、私は正常な精神ではいられなかったのだよ。だがな、幾瀬鳶雄。

キミがここで禍々しき刃に転じなければ、この状況を抜けたとしても先は明

るくない。姫島の血を引いて生まれたときから、キミが通常の人間と同じ生

活を送ることは無理だったのだよ」

 嘆く姫島唐棣に対して、鳶雄は嗚咽おえつを漏らしながら訴える。

「……俺は……ただ、普通にいたかっただけだ。また、あの生活に戻りた

かっただけだ……。紗枝と、皆と、あの高校で学生を続けたかっただけだ

……っ! どうして、あんたたちはそれを壊す……? なんで……俺と紗枝、

刃をここまで……っ!」

 そう、幾瀬鳶雄は――失ったあの生活を取り戻したかっただけだ。紗枝と、

同級生たちと過ごしたあの高校での生活を、また送りたかっただけ。普通の

高校生が望む、当たり前の日常を欲しただけだ。

 異能を持ち得ても、彼はどこにでもいる十七歳の高校生に過ぎないのだか

ら――。

 涙を流す鳶雄の頬をなでる者があった。鳶雄は、姫島唐棣は、それを見て

驚愕きようがくする。

「……ここにきて、自我を取り戻したというのか?」

 姫島唐棣はその者の行動に目を見開いて驚いた。

 紗枝が、頬に涙を伝わせながら、鳶雄の前に立っていたからだ。紗枝は、

鳶雄の抱える刃の頭をなでる。その頭部には、いまだブレードが生えていた。

 彼女は、やさしげな表情を浮かべて鳶雄に一言告げた。

「……ごめん……ね。つらかった……よね?」

 紗枝が――刃を抱き寄せる。その頭部に生えたブレードが、紗枝の胸を貫

いた――。誰が見てもそれは――致命傷になる行動だ。

 刃を抱いたまま、紗枝が力なくその場で横たわっていく。鳶雄は、倒れ込

んだ紗枝を抱きかかえた。呆然ぼうぜんとする鳶雄の頬を紗枝が微笑ほほえみながらなでた。

「……泣かないで……鳶雄……」

 鳶雄はその手を取って彼女の名前を呼ぼうとするが、突然のことに声は出

てこない。

「……私は……また会えて……うれしかったよ……」

 微笑を浮かべたまま、鳶雄の手から、彼女の手が滑り落ちていく――。

「……………」

 言葉を失う鳶雄。首を横に何度も振り、現実を受け入れずにいた。

 鳶雄は――救いたかった。

 東城紗枝という少女を――。

 家族を失った彼にとって、彼女は唯一の大事な存在だった。誰よりも救い

たかった。

 横たわる彼女を抱き寄せながら、鳶雄は声にならないものを絞り出す。

「……あぁ……あ、うあぁぁぁぁぁ……ぁぁぁぁぁ……っっ!」

 ……ただ、生きていて欲しかっただけだ。

 ……ただ、何事もなく、平穏に過ごしたかっただけだ。

 ……ただ……。

 ……ただ……いつもの日常を紗枝と生きたかっただけだったんだ……。

「あぁぁぁあああああああああぁぁぁぁぁ…………ぁぁああああああっっ!」

 すべての望みを絶たれた鳶雄は、絶望に苛まれ、慟哭どうこくした。

 それを見ている姫島唐棣だったが、その懐より謎の発光現象は生じていた。

彼もそれを察知して、懐より木箱を取り出した。それは、東城紗枝の家で鳶

雄よりも先に姫島唐棣が奪取していたものだ。鳶雄の祖母である朱芭あげはが遺し

たもの――。

 姫島唐棣がその木箱を開けると、そこにあったのは小さな水晶だった。水

晶は青白い発光現象を起こしていた。

 突如、その水晶から声が生じる。

『この封印が解かれたということは、残念なことですが、鳶雄の力を悪用し

ようとする者が現れたか、あるいはあの子に異能の害意が加わったというこ

とでしょう』

 声の主に鳶雄は覚えがあった。それはいとしい彼の肉親であった祖母の声だ。

「……幾瀬鳶雄の祖母、朱芭殿の声を記録した水晶ということか」

 姫島唐棣はそう断じた。

 水晶より発する祖母の声は続く。

『あの子に悪意を持って接した者たちに言いましょう。私はこの子を誰より

も思いやりを持ったやさしい子となるよう育てました。何せ、あの子は……

生まれながらにして「擬いものの神」の禁じられた手段を有していたのです

から』

 それを耳にした姫島唐棣の表情は――一変する。先ほどまですべてをはかな

に見ていた彼の双眸そうぼうは、驚きに満ちていた。

「…………ッッ! 禁……手だと……!? そんなバカなことが……ッッ!」

 水晶の祖母の声は、恐ろしげに語る。

『悪意を持ってあの子に近づいた者たちに告げまます。そこまでして、あな

たたちがあの子に害意を加えるのであれば、神殺しの刃をその身で以てとく

と味わうといいでしょう。――その魂すら、残らず切り刻まれなさい』

 水晶の声はなおも続く。今度は鳶雄にやさしく訴えかける。

『――鳶雄、ごめんなさいね。辛かったでしょう。怖かったでしょう。あな

たに真実を伝えないまま先にくことを許してちょうだい』

 いつも厳しくもやさしかった祖母の声。いまの鳶雄にとって、それは絶対

だった。何よりも心身に浸透していく。まるで祖母にやさしく頭をなでられ

ているかのような錯覚を覚えながら、水晶の声に耳を傾ける。

『けれどね、鳶雄。もう、いいのよ? もう、怖がる必要はないわ。泣く必

要はないわ。――うたいなさい。あなたは忘れているけれど、いまなら思い出

せるはずよ。だから、謳いなさい。――禁じられた刃狗かみの歌声を』

 その祖母の声を聞いて、鳶雄の脳裡に浮かび上がる記憶があった。記憶の

奥底に封じられたままだった記憶――。

 幼い時分ある日、とある神社に連れていかれた鳶雄は、本殿内でそれを言

い聞かせられた。

 ――いいかい、鳶雄。

 幼い鳶雄の額に指で何かの文字をなぞっていく祖母。

 ――もし、本当にどうしようもなくなったとき、あなたを救ってくれる

『呪文』を教えてあげるわ。

 鳶雄の傍らには――いつの間にか大型の黒い犬が座っていた。

 ――けど、それは最後の最後まで取っておくんだよ?

 犬の赤い目が鳶雄を捉える。途端に胸が高鳴るのがわかった。

 ――その『呪文』は、鳶雄からすべてを奪うからね。

 祖母が鳶雄を抱き寄せながら、耳元で『呪文』を教えてくれる。

 ――ヒトを終えなきゃいけなくなるのよ。

 すると、黒い犬は――赤い目を細めながら姿を消していった。

 その一連の記憶を、いままさに鳶雄は思い出したのだ。同時に、祖母から

教え込まれた『呪文』も頭のなかによみがえる。

 鳶雄は紗枝と刃を抱き寄せながら、ふっと笑う。


 いいよ、ばあちゃん。

 俺は……ヒトを終えてもいい……っ。

 俺と……紗枝から平穏を奪った連中が……許せないんだ。

 だから、ばあちゃん。

 俺は――唱えるうたうよ。

 俺を、俺たちを、理不尽が襲うのなら、俺も、俺たちも、理不尽で返そう

……っ。


 鳶雄はそれをついに口にしていく――。

《――人を斬れば千までこう》

 鳶雄と、刃を、どす黒いもやが覆っていく。それはしだいに広がり、展望

室を埋め尽くしていった。

《――化生斬るなら万まで謳おう》

 折れた腕と足に黒いもやがかかり、瞬時に痛みを消し去っていく。

《――暗き闇に沈む名は、極夜を移すまがいの神なり》

 その場をで立ち上がる鳶雄。ぐったりとしていた刃が――足下に広がる黒

い影、否、闇のなかに沈んでいった。

《――なんじらよ、我が黒き刃で眠れ》

 鳶雄の全身に黒いもやがかかり、それは肉体に張り付いて、同化していく。

彼の形が徐々に徐々に変じていき、人の形をしながらも人とは違うモノに

なっていった。

 さらに闇が鳶雄の横に大きく盛り上がり、形をなしていった。それは、前

足となり、後ろ足となり、尾となって、大きく開かれた口となる。

 彼の横に生じたのは、漆黒の毛並みを持つ一匹の大型犬――いや、《狗》

だった。

《――愚かなものなり、異形の創造主かみよ》

 鳶雄が最後の一節を口にすると、漆黒の《狗》は、透き通るほどの遠吠とおぼ

をしていく。

 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォ

オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン……。

 姫島唐棣と黒い獅子の眼前に現れたのは、闇の衣をまとった人型の獣と、

その傍らに立つ闇を吐く大型の《狗》――。

 姫島唐棣は、二体の漆黒の獣を見て、恍惚こうこつとしていた。

「……素晴らしい」

 そう口にする彼を、二体の獣が赤い眼でめつける。

 闇の衣に包まれた幾瀬鳶雄――獣はき出しの鋭い牙をのぞかせながら唸っ

た。

 

――こいつを斬れるのであれば、俺は『人間バケモノ』でいい。


              ///


 皆川夏梅が、ヴァーリと共に『虚蝉機関』のアジトと思われる施設に入っ

てある程度の時間が経過していた。施設中に鳴り響く警戒音。ヴァーリの

リークを受けて五大宗家から放たれたエージェントが近づきつつあるなかで

夏梅は、培養槽から取り出された同級生たちの肉親を転移の魔方陣に次々と

送っていた。

 このアジトに侵入してすぐに、機関員のひとりを締め上げてここの場所を

吐かせたのだ。来てみると、すでにこの部屋の装置は機能を停止しており、

あとは彼らを取り出すだけだった。夏梅はグリフォンに突風を発生させて、

手早く培養槽をすべて破壊させた。

 ヴァーリはこの光景を見て、

「用意のいいことだ」

 と、ひとり不敵な笑みを見せていた。誰がこの部屋の装置を停止させたか、

心当たりがありそうだった。

 夏梅は同級生の肉親たちをヴァーリの描いた魔方陣で、グリゴリの施設に

送るだけではなく、通路で倒れていた同級生たちも拾い上げて魔方陣の中央

に連れていった。

 まだアジト内でうごめくウツセミのバケモノもいたが、巨大な獣に変化し

ているグリフォンの敵ではなく、『四凶』と化したたかが起こす突風によって、

切り刻まれていった。

 培養槽に入れられていた同級生の肉親たちは、この場にいる限りすべてグ

リゴリの施設に転移させた。ウツセミを失い倒れていた同級生たちも魔方陣

でジャンプさせている。

「ヴァーリ! 気配とか探れる? まだここにあっちに送ってない同級生は

いるかな?」

 問う夏梅。ヴァーリは瞑目めいもくして、気配を察知しようと感覚を研ぎ澄ませる。

「……いるな」

 その報告に夏梅は覚悟を決める。時間がかかってもいい。五大宗家のエー

ジェントと鉢合わせしてもいい。全員救う! 同級生はすべて救い出すの

だ!

 その決意を胸に抱いて、ヴァーリに気配の方向を訊こうとしたときだった。

ヴァーリが突如、天井――上階のほうへ顔を向けた。

 驚いたかのような表情を浮かべたと思えば、いきなり怖いぐらいの笑みを

浮かべる。

「……これもいいな」

 興奮しているヴァーリだったが、息を吐いて自制したのちに夏梅に言った。

「残りは俺が拾うさ。皆川夏梅は上を目指せ。そこに『狗』――幾瀬鳶雄が

いる」

「け、けど!」

 自分も全員を助けたい! その気持ちが先んじるが、ヴァーリは首を横に

振る。

「ウツセミの生徒たちよりも、上の『狗』を止めないと、二度と帰ってこな

いかもしれないぞ?」

 そう言うヴァーリ。同時に夏梅は、この室内に起こった現象に言葉を失う。

 ――あらゆるところから、歪な形の刃が生えてきていた。

 見覚えがあった。当然だ。それは幾瀬鳶雄の持つ子犬――刃が放つ歪なブ

レードと酷似していたからだ。あれは物陰から生えていたはずだ。しかし、

これは違う。あらゆるところから無尽蔵に生え出している。天井から、床か

ら、壁から、機器類から――。これはこの部屋だけのことではないだろう。

おそらく、このアジト自体に歪なブレードが生えてきているのだ。

 この現象を見て、夏梅はヴァーリの言葉の真意を本能で理解した。

「わかったわ。まずは幾瀬くんのところに行ってくる!」

 そう告げて、夏梅はヴァーリにあとを任せてこの場を駆け出した。

 通路を駆けて、非常用の階段から一直線に上へ向かう。階段のあらゆると

ころから、ブレードは次々と出現していった。彼女はぐんぐんと駆け上がっ

ていき、階段の一番上まで上って一気に通路に出た。その先にある大きな両

開き扉を視認する。

 部屋の前まで駆けた夏梅は、扉を触った瞬間にぞわっと全身の毛穴が開く

感覚を覚えてしまった。瞬時に、体中がおののいた。中にいる何かに恐れを抱い

たのだ。姿を消して夏梅に付き従っていたグリフォンも巨体をあらわにしつつ、

全身を震え上がらせていた。

 生唾なまつばを呑み込んで中に入った夏梅が眼にしたのは――。

 刃だらけの異常な世界だった。暗い室内の至るところから、あらゆる形の

刃が無数に生える。ぐのものもあれば、弧を描くものもあり、ジグザ

グの形のものまであった。

 暗がりの領域にいくつかの光明が浮かんでいる。その光明に照らされて姿

を現しているのは、錫杖を持った中年の男性とその傍らにいる巨大な獅子。

そして、漆黒の不気味なオーラを放ち続ける二体の獣だった。

 一体は、大型の黒い犬だ。ブレードを体から生やしてはいないが、刃の面

影がある。あの子犬が順調に成長すれば、こうなるであろうという姿形だ。

 もう一体は――犬のフォルムを持った黒い人型のバケモノだった。犬と同

様の突き出た口に、ピンと立った耳。口に剥き出しの鋭い牙が見える。腕は

人間のものと似ているが、爪はすべて鋭利に生えていた。足は犬同様の形で

はあるが、二足で立っている。腰に生える尾っぽは六本――。

 夏梅の登場を察したのか、男性がこちらに視線を送りながら言う。

「……皆川夏梅かな? ふふふ、いいところに来た。はじめまして、私は姫

島唐棣だ。この名を聞けばなんとなく察するだろうか?」

 姫島唐棣――。『虚蝉機関』の者だ。夏梅は所見だが幾瀬鳶雄と鮫島綱生

の前に現れた人物だと理解した。

 姫島唐棣は視線を再び前の黒い二体の獣に移す。

「……あれがなんだかわかるかね?」

 そう問う姫島唐棣は、自身の周囲に浮かばせていた複数の法具――独鈷を

黒い獣のほうに向かわせる。異能を有した法具は、宙を縦横無尽に動いて黒

い獣に襲いかかった!

《斬ル切ルキルきるKill 伐ル剪ル斬ル切ルキルきるKill 伐ル剪ル斬ル切ル

キルきるKill 伐ル剪ル斬ル切ルキルきるKill 伐ル剪ル斬ル切ルキルきる

Kill 伐ル剪ル斬ル切ルキルきるKill 伐ル剪ルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ

ウウウウウウウウウウウウウウッッ!!》

 黒い人型の獣のほうが、呪詛じゆそめいたものを口から吐き出した。耳にするだ

けで精神がおかしくなりそうなほどに力を持った怨嗟えんさの一声。

 姫島唐棣が放った独鈷は、直撃することはなかった。天井から、床から、

壁から伸びてきた数多のブレードにて、すべての独鈷が切り刻まれたからだ。

 この結果に姫島唐棣は驚くどころか、狂喜した。

「……すでに私の独鈷も通じぬか。見たまえ、皆川夏梅」

 彼が指さす方向にはガラス張りの壁があった。おそらく、ここは展望室で

あり、外の風景を観察するためのものだったのだろう。それが――黒く塗り

替えられていたのだ。そこから望める風景は、暗黒に包まれた山林の世界―

―。空の情景すらも黒く染め上げて、この一帯全域が漆黒に包まれていた。

 ……夏梅がこのアジトにたどり着いたときはまだ日が昇っていた。こんな

に早く日が落ちようはずがない!

 見れば、山林のところどころからも巨大な歪なブレードが次々に生えて

いっている。その周囲のすべてが、異様な形の刃によって埋め尽くされる勢

いだった。

 ……夏梅は再び黒い獣に視線を戻す。もう、夏梅は理解していた。あの黒

い人型の獣が鳶雄であることを。室内の一角に横たわる少女の姿も視認でき

ていた。

 ……それを見て、夏梅はおおよその見当はついた。大きな悲しみの末に、

彼は至ったのだ――。

 ――獣と化すことに。

 鳶雄の前に立つのは、黒い獅子だった。

 黒い獅子は勇ましく咆哮ほうこうを上げたあと、その身を足下に広がった影のなか

に沈ませていく。影となった獅子は、影を四散させて部屋中を駆け回った。

それぞれが意思を持つかのようにうごめくなかで、鳶雄は静観するだけだっ

た。すると、両腕を大きく上に上げて、一気に振り下ろした。刹那、部屋中

に数え切れないほどの膨大なブレードが床から生えて、天井に達していく! 

ブレードの一部が黒い影を捉えており、捉えられた影が再び形をなして獅子

となった。

 獅子は――ブレードによって串刺しになっていたが、巨大な体躯を激しく

揺り動かして無理矢理そのブレードを破壊する。解放された獅子は、床を高

速で駆け出して鳶雄との距離を詰めるが、鳶雄も瞬時に消え去り、音だけの

見えない攻防戦が始まり出した。

 夏梅に捉えきれないほどの速度で鳶雄と獅子が動き回り、戦いを演じてい

るのだろう。黒い獣二匹が戦うなかで、取り残されたもう一匹の黒き《狗》

――刃がゆっくりと室内を歩き出して、赤い双眸を怪しく輝かせる。

 ズンッ! と刃の後方に太く巨大な一本のブレードが出現した。黒い獅子

がそれによって貫かれている。刃は、気配だけで獅子の動きを察知して主で

ある鳶雄のフォローをしたのだ。姿を現した鳶雄は正面から獅子に近づいて

いく。

 獅子は貫かれたまま鳶雄に向かって口から火炎を吐くが――。鳶雄は一切

臆することもなく、避けることもなく、真っ直ぐに立ち向かい、両手を鋭く

火炎のなかに突き出していった! 火を吐く口の奥深くまで両手を突き立て

る!

《殺ス頃ス比ス転ス戮ス轉スころすコロス殺ス頃ス比ス転ス戮ス轉スころす

コロス殺ス頃ス比ス転ス戮ス轉スころすコロスゥゥゥゥゥウウウウウウウウ

ウウウウウッッ!》

 怨嗟の絶叫を発した鳶雄は、口に潜り込ませた両手を一気に力強く開いて

いった!

 獅子はその身を真っ二つに裂かれて、床に転がった。絶命したであろう獅

子の身が、闇に溶けて消えていった――。

 夏梅はこの世のものとは思えない情景に戦慄せんりつしながらも見ていることしか

できなかった。動けば――おそらく、自分も敵と見なされる。それほどまで

にいまの鳶雄と刃は恐ろしく禍々しいオーラを放ち続けているのだ。

 獅子を討ち滅ぼした鳶雄と刃。次の目標は、姫島唐棣だろう。

 しかし、この場に現れる第三者がいた。銀髪の少年――ヴァーリだった。

 ヴァーリはこの光景を見て、全身を震わせながらも狂喜の笑みを浮かべる。

「……皆川夏梅を視認しても元にもどらないとはね。……アザゼル……ッ! 

話が違うじゃないか……ッ! 何が、『天龍に比べたら、かわいい狗』だ

……ッ! これは……このバケモノは……ッ!」

 打ち震える少年の声以外にも、聞き覚えのある声は室内に響き渡る。

『周囲の景色すらも塗り替えて動き回る黒い獣か。まったく、俺が出会う

神滅具ロンギヌスは曰く付きばっかだな』

 ヴァーリが肩に乗せるドラゴンのぬいぐるみ――その口が勝手に動いて、

『総督』の声を発していたのだ。

『総督』は、姫島唐棣に話しかける。

『よう、機関長殿』

「――っ! ……グリゴリか」

 声を聞いてすぐに察する姫島唐棣。

『どうだ? イレギュラーなそいつの力は?』

 皮肉げな『総督』の声音。

「……これは『狗』なのだろう? 神を滅ぼすとされる具現のひとつ……黒

き刃の狗のはず」

『ああ、そうだ。その通りだ。そいつは神をも断つという黒刃だ。だが、ど

うにもな、その少年は生まれながらにしてセイクリッド・ギアが発現してい

たそうだ』

「それは特に珍しいことでもあるまい? 問題は生まれながらに――」

 姫島唐棣の言葉に『総督』は続ける。

『ああ、そうだ。――幾瀬鳶雄は、生まれながらに至っていた』

「…………そんなことがあり得るというのだな……」

 不敵に笑む姫島唐棣とは裏腹にヴァーリは、「イレギュラーなんてもの

じゃないな」と目を細めていた。

『総督』は続ける。

『幾瀬鳶雄の祖母は、生まれながらに世界の均衡を崩すだけの力を有した孫

に封印を施した。それも何重にもだ。おまえたちはそれを無造作に無遠慮に

乱暴なまま触れた――。見たかったんだろう? すべてを投げ打とうとも、

この姿を見るためによ? それは代価だ。存分に見て楽しんで斬られていく

といい』

 それを聞いて、姫島唐棣は含み笑う。

「……くくく、『雷光』の件といい、これといい、姫島の血は呪われつつあ

りますぞ、叔父上……っ!」

 笑う彼の表情は、これまでにないほどに醜悪に、しかし、満足げな笑みを

作っていた。

 姫島唐棣は、一歩前に出た。その顔は満ち足りている。

「――キミを一本の禍々しき刃にできた」

 鳶雄に一歩、また一歩と歩み寄る。独鈷を再度飛ばしていくが、それもま

たすべて打ち落とされてしまう。手に持っていた錫杖で攻撃しようにも、刃

の足下の影より生じたブレードにて、腕ごと切り落とされてしまった。腕を

失いながらも姫島唐棣はさらに近寄っていく。

 ――鳶雄は静かに腕を横にいだ。

 眼前というところにまで迫って、姫島唐棣は言った。

「五大宗家を、『姫島』を滅ぼしてくれ」

 そう告げた姫島唐棣の頭部は、弧を描くように床から突き出てきたブレー

ドによって肉体より切り離されていった――。

 


黒い獅子、姫島唐棣を破った鳶雄と刃――。

 それを見守っている夏梅とヴァーリだったが……。

「――で、どうだ? ヴァーリよ、『赤』と出会う前の退屈しのぎになりそ

うか?」

 そう言いながら、この場に姿を現したのは、あごにひげを生やす男性だった。

背広は着崩しているが、精悍せいかんな顔つきをしている。

「……想像以上だよ、『総督』。――いや、アザゼル。ていうか、来ている

なら、このドラゴンからわざわざ声を出すな」

 にやけるヴァーリの頭部をなでる『総督』と呼ばれた男性。

 夏梅に視線を移して、男性は自己紹介をする。

「初めまして、皆川夏梅。俺が『総督』のアザゼルだ」

 この男の人が『総督』――。声だけだった存在にようやく会えた夏梅だが、

感慨にふけっている場合でもない。

 まずは、眼前の幾瀬鳶雄をどうにか止めねばならないのだ。そう思慮する

夏梅の横にひょっこり姿を現したのは、ボロボロの格好のラヴィニアだった。

「少し遅れたのです、夏梅」

「ラヴィニア!」

 軽く再会のあいさつを交わす二人だったが、『総督』――アザゼルの姿に

ラヴィニアが言った。

「お顔を出すなんて、よほどのことなのですね、アザゼル総督」

 そう言いながら、変貌を遂げた鳶雄に視線を送る。

「……なるほど、よほどのことなのです」

 見ただけでラヴィニアは理解した様子だった。

 アザゼルが問う。

「ラヴィニア。……奴らは逃げたか」

 ラヴィニアが息を吐く。

「申し訳ないのです」

「いや、最初から奴らが厄介極まりないのはわかっていたよ」

 肩をすくめるアザゼルは、鳶雄に目を向けた。

「さて、ラヴィニア、ヴァーリ。――あれを止める。力を貸せ」

 一歩前に出るアザゼルのあとを追うようにヴァーリが動き出す。

「まったく、後始末ばかりだ。――俺はいつ暴れられるんだか」

 ラヴィニアもボロボロの帽子を脱いで、鳶雄のほうに歩を進める。

「トビー、帰ってきてもらうのです。私はまだ話し足りないのですよ?」

 三者が一定の距離を取る。ヴァーリが背中より光り輝く翼を生やし、ラ

ヴィニアが足下に魔方陣を展開して魔法力を高め、同時に傍らに氷の姫君を

呼び寄せた。

 冷気が漂い出した室内で、アザゼルが首をこきこき鳴らして――背中より

十二枚の黒い翼を出現させる!

 ラヴィニアが手を広げると、それに呼応して氷姫も同じ仕草しぐさをした。部屋

が一瞬で凍り付いた。無数に生えるブレードすらも凍り付かせてしまう、ラ

ヴィニアの氷の世界。鳶雄と刃も氷漬けにされた。しかし、すぐに彼らを包

む氷にヒビが入った。

「幾瀬のばあさん! あんたが使った呪法を使わせてもらうぞ!」

 アザゼルは懐より、経典らしきものを取り出した。手で印を結びながら、

経典を広げていく。経典は光り輝き、幾重もの文字を空中に浮かび上がらせ

る。浮かび上がった文字は、力を帯びて鳶雄と刃の周囲に漂い出した。文字

は連なり、一本の縄のようになって、鳶雄と刃を縛り上げ始める。

 氷漬けと共に経典より生じた文字が鳶雄と刃を束縛した――。

「ヴァーリ! いまなら力を奪える!」

 アザゼルの号令を聞いたヴァーリは、光翼を羽ばたかせて素早く鳶雄たち

に詰め寄り、それぞれ一度だけ触れた。

 銀髪の少年は宙に浮かびながら指を鳴らした。

「――半減だ」

Divideデイバイド!!』

 力ある音声が室内に鳴り響き、鳶雄と刃がまとっていた力が一気に弱まった

のが夏梅にも感じ取れた。さらに『Divideデイバイド!!』という音声は、ヴァーリの光

翼の輝きと呼応しながら発せられていく。

 しだいに力を失っていく鳶雄と刃。見れば、外の風景も徐々に暗闇が晴れ

て、巨大なブレードにもヒビが入り出していた。しばらくして、鳶雄はその

場で膝を突き、最後には倒れ伏した。それと同時にこの領域の闇もはらわれて、

数多のブレードも崩壊して散っていった。

 鳶雄を覆っていた黒い衣も剥がれて、普段の彼の顔を覗かせてくれる。刃

も力を失い、その場で伏していく――。

 アザゼル、ヴァーリ、ラヴィニアの共同作業により、鳶雄が起こしていた

であろう超常現象のすべてが収まり、本来ある情景が室内に戻っていた。ガ

ラス張りの壁からも正常となった見事な山林の風景が広がる。

 これらを確認して、アザゼルが息を吐いた。

「――っと、一丁上がりってか。神道の姫島が、仏教の経典に明るいなんて

な。そりゃ、追放されるぜ、幾瀬のばあさんよ」

 そんなことをつぶやくアザゼルを置いて、夏梅は元に戻った鳶雄のもとへ

駆け寄った。

「幾瀬くん!」

 倒れる鳶雄の息を確認する夏梅。彼は……息をしていた。

 生きている! 生きているのだ……っ! 大型の犬と変貌した刃も横たわ

りながらも息をしているのが視認できる。

 ラヴィニアが夏梅の肩に手を置いた。

「皆、無事なのです。さ、帰るのですよ、夏梅」

 夏梅はあふれ出る涙を手で拭いながら、うなずいた――。

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