五章 再会/虚蝉

  1

 

このマンションの住人であり、新たな仲間(?)でもある銀髪の少年

ヴァーリと出会った三日後――。

「刃? 刃、どこだ?」

 早朝、鳶雄は起床するなり、ある変化に気づいた。

 ――刃が、そばにいなかったのだ。

 目の前に顕現して以降、自分のもとから少したりとも子犬は離れたことが

なかった。不思議に感じて、鳶雄はベッドの下、ベランダまで調べてみたの

だが……。もしや、姿を消しているだけかと思い、声をかけてみたり、心の

なかで念じてもみたが、やはり出てはこなかった。

 ……消失、するのかは鳶雄自身わからないが、遠くに離れていない感覚だ

け感じ取れる。気配とでも言えばいいのか、それを五感以外のところで察知

できていた。日に日にその感覚は強まっていく。

 この三日間で呼んだり、念じれば刃はすぐに姿を現した。しかし、それが

今朝になって叶わなくなったということは……刃が近くにいながらもここに

来られない状況にあるということか? それがどのような状態にあるか見当

の付かない鳶雄ではあったが、部屋を出て刃を探すことにした。

 部屋の扉のカギはかかっていなかった。いや、寝る前にかけたのは確実だ。

しかし、いま部屋を出るときにカギがかけられていなかったことから、刃が

開けたのだろうと思い至る。ただの犬にそのような芸当を見せられたら仰天

するが、刃であれば額の突起物を伸ばしてカギを解除するぐらいやってのけ

そうだ。

 共同フロアにも、給湯室にも刃がいなかったことから、もしやと思い、夏

梅の部屋に歩を進める。チャイムを鳴らそうとするが……ドアが半開きだっ

た。いぶかしげに感じながら、鳶雄はおそるおそるチャイムを鳴らす。しかし、

返事はない。――が、中から誰かが話す声だけは聞こえてきた。

「――――」

「――――っ!」

 女の子二人の声だ。……部屋の主である夏梅と、ラヴィニアだろうか? 

何やら大きな声が発せられていた。どうしたものかと思慮する鳶雄だったが、

ふいに部屋の扉がバンと勢いよく開け放たれる。

 半開きのドアから飛び出してきたのは――刃だった! 全身をびっしょり

と濡らしている。主である鳶雄を見かけるなり、背後に回ってブルブルブル

と全身を震わせた。水しぶきが鳶雄にかかってしまう。

「刃、探したんだぞ。……風呂にでも入っていたのか?」

 自分が寝ている間に部屋を抜け出て夏梅のもとに行っていたのかと鳶雄は

状況を飲み込んだ。そのまま、風呂に入れられたのだろう。考えてみれば、

出会ってから一度も風呂に入れてなかった。ただの犬ではないが、それでも

鳶雄が反省するべき点である。

「……幾瀬くん?」

 ふいに夏梅の声が聞こえてきた。鳶雄が、視線を声のするほうに向けてみ

ると――開け放たれたドアの先、廊下に立つ全裸の少女の姿があった。

 ……スレンダーな肢体が、生まれたままの姿で立っている。いやしかし、

服の上からわからない質量もそこにあった。突然のことに、鳶雄も夏梅も全

身を強張らせて固まってしまうが……さらにそこへ追い打ちとばかりにもう

ひとりの少女が現れた。

「トビーなのですか? 刃ちゃんを迎えにきたのですね」

 風呂場から全裸のままで出てくる金髪少女――ラヴィニア! こちらも夏

梅に負けない女性らしい凹凸が強調された身体だった。以前にベッドの上に

現れたときにはわからなかったものが、視線の先にある。

「…………な、なななななななっ」

 この状況に徐々に赤面していき、ついには風呂場に戻ってしまう夏梅。鳶

雄も顔を下に向けて「ゴメン!」と謝るしかなかった。まさか、半開きの扉

の向こうで、このような状況が生まれていたとは予想もできなかった。

 風呂場から夏梅が叫ぶ。

「……朝起きたら、ラヴィニアがいつものように私の部屋で眠っていて! 

けど、今回は刃ちゃんを抱きながら寝ていたの! その流れで……皆でシャ

ワーを浴びることになって……ああもう!」

 説明をしながらも動揺した様子の夏梅だ。当然だろう。同い年の異性に裸

を見られれば、女子なら誰でも動揺する。それは鳶雄も同じだ。

 しかし、このなかでも一名だけ空気を読めずにいる者もいる。ラヴィニア

が全裸のまま、扉から出てきて鳶雄の手を取った。

「トビーもシャワーに入るのです」

 裸体を隠すことすらせずにそのようなことを言い出してきたのだ! 鳶雄

はたまらなくなり、夏梅に向かって叫んだ。

「皆川さん! ラヴィニアさんを早く止めてくれっ!」

 このマンションは健全な男子にとって、恵みのようでもあり、試練のよう

にもある。



 朝、例のビデオを見せられた部屋に集う面々――鳶雄、夏梅、鮫島、ラ

ヴィニア、ヴァーリ。

「……ったく、ここに顔を出してみりゃ、何があったんだか……」

 半眼でそうつぶやくのは鮫島だった。妙によそよそしい鳶雄と夏梅の姿に

どこか勘づくところがあったようだ。あのようなことがあった直後だ。二人

の態度に変化があってもおかしくはない。結局、夜中に部屋を抜け出した刃

は、寝ぼけて自室から出てしまっていたラヴィニアに捕まり、夏梅のところ

に上がり込んでいたようだ。経緯にも驚くが、刃の行動にも興味が尽きない。

……夜中の散歩をしたかったのだろうか。

 そのようなことがあった朝でも、鳶雄は朝食の準備だけは完了していた。

 テーブルの上に並べられる一品一品。今日の献立は、目玉焼きにウイン

ナーとソテーしたほうれん草を添えたもの、焼いた鮭の切り身、色とりどり

のサラダ、味噌汁といったごくごくありふれたメニューであった。だが、味

噌汁は出汁を取ったものであり、目玉焼きもウインナーも鮭の切り身も、焦

げひとつ見当たらない完璧なものだった。白米も、わざわざ圧力鍋で炊いた

ものであり、炊きあがったばかりのせいか、米粒ひとつひとつが見事に立っ

ていた。ちなみにサラダにかかっているドレッシングも鳶雄のお手製だ。

「こんなものしか用意できなかったけどいいかな?」

 遠慮気味にそう言う鳶雄。正直言うと、亡くなった祖母と幼馴染みである

紗枝にしか自身の料理を食べてもらったことがないため、毎食の調理に自信

がない。

 だが、このような追い詰められている現状のなかでまともな食事にありつ

ける、夏梅はその喜びに満ちていた。

「わーおっ! やっぱり、幾瀬くんをお料理当番にして正解だったわ!」

 皆がいただきますをする前に鮫島が味噌汁をすすっていた。途端に表情を破

顔させる。

「やっぱ、うめぇな」

 不良の舌も唸らせるものがそこにあった。鮫島同様、ラヴィニアもひたす

らパクついていた。

「トビーのお料理は最高なのです」

 夏梅も手早く「いただきます」と言ったのちに箸を進めだした。

「うーん、美味しい!」

 夏梅からの評価は今日も上々だったようだ。誰も箸を止めないため、どう

やら今朝の献立も成功したようだと鳶雄は安堵の息を漏らした。食事の当番

に任命されてからというもの、皆の機嫌を損なわないメニューを心がけてい

る鳶雄であった。ここにいるメンバーは日常を逸した状況に置かれている身

の上だ。食事ぐらいはまともなものを作って振る舞いたいと心に決めていた。

 ――と、無言で箸を進めるヴァーリの姿を見て、夏梅がイタズラな表情を

浮かべる。

「あーら、ヴァーくんったら、随分と夢中になって食べているじゃない? 

カップ麺さえあれば食事なんてどうでもよかったんじゃないの?」

「……勘違いするな。この食事から得られる栄養分に興味があっただけだ」

「栄養分ときましたか。まったく、素直じゃないんだから」

 カラカラと笑う夏梅。ヴァーリも文句を言いながらも箸を止めなかった。

そう、この歳の男子が朝からカップ麺なんて不健全だ。こんなありふれた食

事でよければ、毎日でもこの子に食べさせたほうがいいだろうと鳶雄は感じ

ていた。

 夏梅とのやり取りを受けて鮫島が「くくく」と笑いを漏らす。

「ルシドラ先生は生意気盛りだからな」

「むっ、鮫島綱生。そのルシドラとはなんだ? 俺のことか?」

 ヴァーリが眉を吊り上げて鮫島に問う。

「ああ、ルシファーでドラゴンなんだろ? なら、略してルシドラでいい

じゃねぇか」

 鮫島の言葉に機嫌を損なったのか、ヴァーリは口をへの字に曲げる。

「むむっ、違うぞ。俺は魔王ルシファーの血を引きつつも、伝説のドラゴン

 『白い龍バニシング・ドラゴン』をこの身に宿すという――」

「あー、はいはい。ルシドラルシドラ」

 ヴァーリの『設定』を軽く流してしまう鮫島に少年もついに異を唱える。

「むぅ、皆川夏梅。この不逞ふていやからに俺の貴重性をもっと強く言い聞かせない

とダメだぞ」

 子供のようなやり取りをする鮫島とヴァーリの姿に夏梅も息を吐くばかり

だ。

「ったく、食事中にケンカしないの」

 夏梅はウインナーのひとつをグリフォンに放り投げると、鷹はそれをうま

くキャッチして飲み込んでいく。独立具現型とされる刃、グリフォン、白砂

も食事をするが、それは通常の動物――鷹や猫、犬の食事ほど気を遣う必要

はなく、主が与えるものは肉でもフルーツでもなんでも食べた。いままでひ

とつも異常が見られないのだから、本物の動物のように食べ物に制限がある

わけでもなさそうだ。

 そもそも刃たちに食事が必要なのかどうかさえ、鳶雄はわからないでいる。

今度、『総督』と話すことがあれば、その辺りを訊きたいものだ。

「ヴァーくん、いい子いい子なのです」

 ラヴィニアは不機嫌なヴァーリの頭部を撫でていた。

「だから、俺の頭を撫でるな! 子供じゃないんだぞ!」

 普段クールな少年は、このようにちょっとからかうだけで年相応の顔を見

せてくる。

 非日常のなかでも、この食事風景だけは鳶雄にとって癒やしのひとつだっ

た。

 


食事を終えた面々は、ミーティングを始めていた。

 ――あれから三日過ぎ、ようやく次の行動に出ようと決めていたからだ。

「それで、どうする? 今日、動くんだろ?」

 食後のコーヒーをぐいっといきながら、鮫島が鳶雄たちに訊いてくる。

 夏梅はうなずき、『総督』から得ていた例のファイルをテーブルの上に広

げた。この一帯周辺を記した地図だった。

 夏梅が地図を前に言う。

「ええ、動くわ。とりあえず、前に言った通り、同級生の遺族の動向を探り

ましょう」

 そう、三日前に夏梅はウツセミと化した同級生たちの遺族が、どこも謎の

引っ越しをおこなっていることに気づいた。どの家庭の引っ越し先もわから

ずじまいだったのだ。

「あれだけ大きな事故があったのだから、これだけの集団失踪をメディアが

気づかないというのもおかしな話よね」

 それは夏梅の言う通りだった。あれだけ国内を騒がした事件だ。その遺族

がこぞっていなくなれば、メディアのどこかが気づくだろう。しかし、その

ことは報道されていない。不自然なほどに取り沙汰されていなかった。

「……機関、というよりも五大宗家が事前に情報統制したとか?」

 鳶雄がそう口にする。この国の古くから裏側にいるという異能力の集団。

それぐらいの力があってもおかしくはないのではないかと鳶雄は思う。

 これに夏梅も肯定的にうなずいた。

「……仮にどこかのジャーナリストが勘づいて動いたとしても、消されてい

るでしょうね」

「まず間違いなく、消されていると思うのです」

 ラヴィニアも静かに怖いことを口にしていた。

 ヴァーリも腕を組みながら言う。

「彼らの大本――五大宗家は家に連なる者から出た不備は正すという絶対の

戒律があるそうだ。『虚蝉機関』のはみ出し者たちは、現時点で五大宗家か

ら粛清の対象となっているだろうな。同時に機関が出した不備をも宗家の者

たちが抹消し始める。つまり、五大宗家に触れる者は誰とて許さないという

スタンスだ」

 ……関わった者は、すべて消すということか。それは、機関の者たちが、

宗家を見返すためにおこなっている『四凶計画』に関わった者も含まれる

……? となると、自分たちも――。

「…………」

「…………」

 自分と同じことに思い至ったのか、夏梅も鮫島も渋い顔をしていた。自分

たちだけではなく、親しい者にも非日常の手が伸びるということを案じたの

だろう。

 夏梅、鮫島は家族について、あまり口にしなかった。二人は生まれと育ち

に事情を抱えているようで、深くは語ってくれなかったのだ。ただ、『総

督』の組織が『四凶』をはじめとした生存組と親しい者たちを保護下に置い

ているそうで、現状では『虚蝉機関』の者もおいそれと手は出せないという。

 あくまで『現状』だ。今後、状況が変わればその限りではなく、保護しき

れないことも起こるかもしれないと警告されている。身内をさらわれて自分た

ちを招き寄せるために使われたらたまったものではない。

 不幸中の幸いといえばいいのか、鳶雄には肉親と呼べる者はすでにいな

かった。祖母が亡くなった時点で、家族というものを鳶雄は失っている。だ

が、自分は……『姫島』に連なるとされている。いずれ奴らにもそう見られ

る可能性は高い。……今後、それを理由に狙われても不思議ではないのかも

しれない。

 夏梅が頭を横に振ったのち、あらたまって言った。

「どちらにしてもこちらも動かないと狙われっぱなしなだけで現状を打破で

きないわ。――動きましょう」

 鳶雄もその意見に賛成だ。動かなければ、紗枝に行き着かないだろう。恐

怖に縮こまったままでは、彼女と再会できそうもないのだから。

 夏梅が会話を続ける。

「同級生の引っ越し前のおうちに行こうと思うの。何か、手がかりがつかめる

かもしれないから。……何ひとつ残さずに消え去るなんてことはあり得ない

はず。それに――」

 夏梅が視線をラヴィニアに向けた。ラヴィニアがひとつうなずく。

「はい、そのお家に行って、私が探索系の魔法を使うのです。きっと、何か

見つかると思うのです」

 魔法で探索ができる、か。しかし、ラヴィニアの目的も謎が多い。彼女

の組織が追っている者とやらが、『虚蝉機関』に協力しているそうなのだが

……。五大宗家のはみ出し者たちは、いったいどこまで手を広げているのだ

ろうか……?

 異能集団、魔法使い……。知らない世界、非日常な出来事……。これが夢

であればどれだけ楽なことか。

 鮫島が夏梅に問う。

「同級生ったって、二百人超えてんだぞ。どこから当たるつもりだ? 手当

たりしだいか?」

「それは――」

 夏梅は言い淀みながら、鳶雄に視線を向けていた。

 

 

 2


 移動は電車とバスでおこない、目的地の近くに着いてからは徒歩で住宅街

のほうへ向かう。大きな通りから少し離れたところに、東城紗枝の自宅は存

在していた。なんの変哲もない二階建ての家屋だ。

 そう、鳶雄たちは、紗枝の家に向かうことで意見を合致させた。これには

夏梅の直感も含まれている。

 夏梅はマンションで言った。

「彼らは、鮫島くんの友達と、幾瀬くんの幼馴染みの名前を口にしたわ。少

なくとも彼らは同級生のなかで私たちが特に親しかった者を認識しているは

ず。つまり――」

 その言葉に鳶雄が続く。

「関連のありそうなところに俺たちが顔を出すかもしれないと予想を立て

る」

 首を縦に振る夏梅。

 それは同時にあちらが、こちらの赴きそうな場所に罠を仕掛ける可能性も

非常に高いことを意味する。すでにあちらは幹部を二人も釣り出された上に

顔も見られており、計画の内容もある程度まで知られた手前がある。

 それに比べ、こちらは日に日に力を増しているのだ。あちらの行動が慎重

になり、関連した場所にも目を見張って罠のひとつでもかけていてもなんら

おかしくはないということだ。

 それ以前に自分たちが『総督』の組織――グリゴリと関係を持ったことは

あちらも認識している。同級生の遺族たちが一斉に引っ越ししている不可解

な行動にこちら側が気づくと予測するだろう。

 夏梅が言う。

「あちらとしても、こっちが友人知人を助けたいことはわかっているでしょ

うから、いつまでも身を潜めてはいないだろうと踏むわ」

 鮫島が肩をすくめた。

「俺らが力をつけてきてるから、調子に乗って関係する場所に現れるかもし

れねぇって奴らが思ってもおかしかねぇわな」

 うなずく夏梅が鳶雄に目線を向けながら、はっきりとこう断言する。

「こっちが力をつけている上に幾瀬くんというイレギュラーな人が飛び込ん

できている現状……あっちとしても次に仕掛けてくるなら、これまで以上の

ものを投入してくるでしょうね。それが杞憂きゆうだったとしても、同級生の家で

手がかりがつかめたとしたら前進できる。どちらにしろ、彼らに繋がる何か

を得られる可能性は高いと思うの」

 そういう意味で同級生の元自宅に赴くのは、進展が望めるということか。

……夏梅の言った後者はともかく、前者である「これ以上のものを投入して

くる」という予想は実に恐ろしげだ。

 しかし、あちら側の立場で考えてみれば、いままでの仕掛けが効かなく

なったとしたら次の一手に移るだろう。それはこれまで以上の手で攻める意

味合いを示す。

 ……こちらが力をつければ、戦いも苛烈化していく……。三日間の特訓が

功を奏せばいいが……付け焼き刃に等しいとも言える。紗枝に一歩ずつ近づ

くなかで、不安も増す一方である。

 そして、マンションでの話し合いの結果、足を運ぶ先は紗枝の家というこ

とになった。理由は、引っ越しの手がかりをつかむのもそうだが、何よりも

鳶雄――祖母に繋がるものを探したくなったからだ。

「……ばあちゃんが紗枝のご両親と親しくしていて、生前に死後のことも含

めていろいろと話したと聞いたからさ」

 そう、祖母の葬儀のあと、紗枝のご両親に呼び出されて、頼まれたものが

いくつもあると聞かされた。生活面でのこと、金銭面でのこと、それは多岐

にわたった。

 そのなかに、成人したあとに孫に見せてあげてほしいと懇願されたものも

含まれていると、事前に聞かされていた。

 紗枝の両親は連絡もなく引っ越しをしたため、その辺りが曖昧になってし

まっていた。いま思えば、人の良かった紗枝のおじさんとおばさんが別れの

あいさつもなく旅立ったという点以上に、祖母の遺品についてまったく言及

してこなかったなどあり得ないことだ。おじさんとおばさんが紗枝を失った

ショックで距離をおきだしたと勝手に解釈していた自分の認識の甘さに腹が

立つほどだった。

 そのため鳶雄は、遺品が気になって仕方がなくなった。その代物は紗枝の

家にあったと思われる。引っ越しが完了しているあの家にいまそれがあると

は思えないが……。しかし、引っ越し先が判明すれば探しに行ける可能性が

強まる。

 祖母が遺したものはおそらく『姫島』に関連するものか、自分のこの異能

に関するものだと思われる。前者であれば、自分の出自と敵の実情を少しで

も知れるだろう。後者は刃の力に関してわかることがあるかもしれない。ど

れも情報として確実性に欠けるが、見つければ逆転の一手になる可能性を秘

めている。

 いま、鳶雄たちにとって自分の能力や敵に関する情報はひとつでも重要だ。

それらを加味して、紗枝の家に行くことに全員で同意したのだった。

 ただ、ヴァーリのみが、

「悪いが、俺は『総督』の個人的な頼み事を聞かないといけない立ち位置な

んでね。今日、キミたちとは行動を共にできない」

 そう言い残して、先にマンションを出て行った。

 そのため、紗枝の家に向かっているのは、鳶雄、夏梅、鮫島、ラヴィニア

の四名のみである。バイクでの移動に慣れていた鮫島は、電車での移動中、

「……どうにも電車は慣れねぇ」

 と、ぼやいていた。

 さて、その四名で紗枝の家の前にまで来たわけだが……。

 少し離れたところから見ても、生活感がまるで感じられない。窓がすべて

閉まっており、表札の名前も消えている。手入れされていない庭の草は伸び

きっていた。

 おばさんが庭で草花に水をまいていた記憶が蘇る。おじさんは休日に庭の

椅子に座ってよく本を読んでいたものだ。

 この庭で、ゴールデンレトリーバー相手に悪戦苦闘もしたんだったな……

と、鳶雄は懐かしむ。

 そのことを思い出すと同時に、紗枝の笑顔が蘇る。この家のどこを見ても

彼女との思い出が脳裏に浮かび上がり、胸をしめつけられるが、いまはそれ

を抑えて家の様子を探らねばいけないのだ。気持ちを切り替え、家の観察を

再開する。

 気のせいか、周囲の民家からも人の気配がしない。いま自分たちがいる場

所が、ひどく寂しく感じる。昼間なのに、雰囲気が暗い。以前はこんなことは

なかった。しかし、いまは周辺から、あまりに生活感が伝わってこないのだ。

 四人は、門を開け、玄関の扉前にまで足を運んでいた。カギがかかってい

るかどうか確認する。玄関の扉は簡単に開いた。鳶雄と夏梅はカギがかけら

れていないことがわかると、全員と顔を見合わせる。

 鮫島が家を見上げながら言った。

「……すでに誰も住んでいないとはいえよ、カギぐらいは閉めるだろうよ。

じゃなきゃ、この土地の管理者はとんだ無能だ」

 そう皮肉を口にしながらも彼は肩に白い猫を乗せる。いつ何が起きてもい

いように警戒を強めたのだ。

 これを、罠と見るか否か。

 ラヴィニアが言う。

「というよりも、この家を中心にこの一帯は人払いの術がかけられているの

です。私たちのような異能を有する者以外に認識できなくされているので、

ある意味、管理されているといえば管理されているのですよ。日本の方術、

神道、陰陽道は、この手の『隠す』『退ける』といった『祓い』の力に秀で

ているのです」

 ……つまり、この家は普通の人間に知覚できないようにされているのか。

自分たちがこの家を捉えることができるのは、セイクリッド・ギアや魔法を

得ているから? しかし、そうなるとこの家だけじゃなく、他の同級生の家

もこうなっているのだろうと予測できる。

 セイクリッド・ギア――刃とグリフォンを自分たちの近くに置く。ここに

何があるかはわからないが、一度人目のつかないところへ足を運べば、そこ

はウツセミの領域。いつ襲われてもおかしくないのだ。こうしている間も、

ウツセミはうしろから近づいてきているかもしれないのだから。

 おそるおそる扉を開け、玄関へ侵入していく。玄関には、鳶雄が目にした

ことのある小物や額に入れられた絵。以前来たときに見たそのままの風景

だった。

 ……引っ越ししたというのに、家財道具一式移動していないというのか?

『虚蝉機関』がおこなった行動は、やはりただの引っ越しではないというこ

とだろう。

 閉めきられているため、昼間なのに家のなかは薄暗い。そのなかを四人は

進んでいく。玄関では靴を脱がなかった。いつでも駆け出せるようにしてお

く。

 夏梅は懐中電灯を点灯させ、暗い室内を照らしていった。

 まずは、一番近くの部屋。静かにドアノブを回し、少し開けてなかにライ

トを当てて確認する。――何もないようだ。

 室内はテーブルやソファもそのままだ。引っ越し自体はされていないとい

うことだ。移動したのは――人。紗枝の両親のみ。おそらく、他の同級生の

家でもこうなのだろう。

「手分けして、調べましょう。何か見つかったら、例のラヴィニアの魔法で

相互連絡よ」

 鳶雄たちは夏梅の意見にうなずき、ラヴィニアの魔法で作られた光の結晶

を耳に入れたあと、二手に分かれて奥へと足を進めた。



 鳶雄とラヴィニア組は、扉を開けリビングに進む。テレビやテーブル、枯

れた観葉植物が目に入る。観葉植物は葉が落ち、床に散らばっていた。

 キッチンにも冷蔵庫や電子レンジなどの家電が残っている。電気は止めら

れていたが、冷蔵庫のなかはそのままになっており、腐った食材が異臭を

放っていた。水道の蛇口をひねるが、さすがに水は出ない。

「…………」

 時折、ラヴィニアが立ち止まって床に杖で円陣を描いて呪文らしきものを

唱えている様子だった。光の軌跡を生みながら円陣が床に浮かび、儚はかない輝き

を発したあとで消えていく。

 ……魔法、というやつなのだろう。事前に聞いていた話通りであれば、彼

女がしているのは、ここの住人の足取りを探るものだと思われる。

 足音が聞こえ、警戒するが、現れたのは夏梅と鮫島だった。彼女たちもこ

ちらを確認すると、頭を振る。あちらも何も見つけていないようだ。

 四人はリビングの真ん中に立ち、改めて辺りを見渡していた。

「ここ、そのまま?」

 夏梅の問いに鳶雄はうなずいた。

「ああ、まんまだ。引っ越しはされていないね。いなくなったのは――おじ

さんとおばさんだけだ」

 それが鳶雄の答えだった。物が残され、住人だけがいなくなっている。つ

まり、『虚蝉機関』が欲したのは、陵空高校二年生の肉親――。それが何を

意味するのか、鳶雄たちは知らないが、嫌な予感を覚えてならない。

 鳶雄は人差し指を上に向けた。

「俺、二階のほうを調べてみる」

 鳶雄の提案に、夏梅も「じゃあ、私たちはこのまま一階をもう少し調べて

みるわ」と応え、四人は再び分かれた。

 鳶雄とラヴィニアが、一度玄関のほうまで戻り、階段を上ろうとしたとき

だ。二階に人影らしきものを視界に捉えた気がした。ラヴィニアに視線を配

らせれば、同様に感じ取ったのか、上に目を向けている。彼女は耳を押さえ

て言った。

「……夏梅、シャーク、警戒をしておいてほしいのです」

 それは戦闘を覚悟しろという通告だ。一気に住宅内を緊張の空気が支配し

始めていた。

「……刃」

 鳶雄は、静かにパートナーを呼び、先導させる。生唾を飲み込みながら、

子犬のあとに続いて階段を上っていく。

 刃は小さな体で一生懸命階段を一段一段上っていった。先に二階についた

刃は、鼻をひくひくとさせながら臭いを嗅ぐ。特に何もないとわかると、尾

をこちらへ向けて振ってくれた。少し安堵して、鳶雄は階段を上りきる。

 刃の存在は大きい。こんな小さな体だが、なんと心強いことか。ひとり

だったら、人影を見かけただけで恐怖に包まれ、パニックになっていたこと

だろう。

 緊張のなかで、脳を動かせるのは刃や仲間たちのおかげだ。

 二階に上がった鳶雄は、紗枝の自室へと足を向ける。埃が目立ってきた廊

下を進み、紗枝の部屋のドアノブをゆっくりと回した。

 この部屋には、何度も入ったことがある。他の女の子の部屋がどんなもの

だかわからないが、室内はいつでも整理整頓がされており綺麗だった。

 ベッドや机はそのままにされていた。机の上には、何も置かれていない。

鳶雄は、机まで近づき、そのひきだしを開けていく。なかには教材やノート

が入っていた。

 紗枝の机を調べるのは気が引けたが、それでもひきだしを開けていき、鳶

雄はとあるノートに気づいた。取り出すと、それは紗枝の日記だった。

 手にして、ペラペラとめくっていく。他愛もない日記だ。よく読めば自分

のことに関しての記述が多くて心底気恥ずかしくなり、直視できない。だが、

ひとつひとつおもしろおかしく書いてくれてはいたようだった。

 旅行前日の日記に目が留まる。

『五月○日晴れ 明日はついにハワイへ旅行だというのに、鳶雄の具合は完

治していない。一緒に行きたかったけど、仕方ないよね。明日は朝一に鳶雄

の顔を見てから、空港へ向かおうと思う。明日は早い。早く寝なきゃ』

 その日の記述を最後に、日記は途切れていた。当たり前だ。持ち主はいま

不在なのだから――。

 ラヴィニアが魔法を床に刻んだのが終わると、紗枝の部屋をあとにして、

鳶雄たちはおじさんおばさんの部屋に足を向ける。

 二階の奥にある紗枝の両親の部屋――。……この家から消えたのが、紗枝

の両親だけとわかったいま、鳶雄の祖母が紗枝の両親に託したとされるもの

が、この家に残っている可能性は高まった。

 紗枝の両親の部屋に入った鳶雄は、申し訳ない気持ちを抱きながらもタン

スや棚を調べていった。だが、それらしいものは一切見つからない。――と、

クローゼットの奥に金庫を見つける。もしやここに……と鳶雄が意識を向け

た。

 そのとき、キィという部屋の扉が開く音。鳶雄とラヴィニアがそちらに振

り返ると、扉の向こうにひとりの少女が立っていた。その姿に見覚えがある。

当たり前だ。

「紗枝!」

 目の前に現れたのは、幼馴染みである紗枝その人だ。こちらをジッと見つ

めている。

 ……ようやく、会えたっ!

 目元が潤み、いますぐに駆け寄りたい気持ちに駆られるが、それを必死に

堪えた。

「紗枝、俺だ。わかるか?」

 しかし、鳶雄が呼んでも、こちらの姿を捉えても、紗枝に変化はなかった。

目の前の紗枝は薄く不気味な笑みを浮かべるだけだ。鳶雄の視線がとあるも

のを捉える。

 左手に数珠――。

 それは、見覚えのあるものだった。祖母から譲り受けた大切な数珠である。

旅行の前に紗枝に渡したものだった。

 鳶雄は悲愴な表情を浮かべることしかできなかった。

 いままでの経緯から鑑みれば、彼女もまたウツセミとなっていることだろ

う。だとしたら、彼女をその状態から救わなければ意味がない。

 だが、安易に刃に命令は出せない。紗枝を斬るなんてこと、できようはず

がない。

 ラヴィニアもこちらの様子を察して、静観していた。

「やはり、斬れないかね」

 第三者の声が廊下から聞こえてくる。部屋に入ってきたのは――三つ揃え

の背広を着た初老の男性。見覚えがあった。そう、それはあのデパートでの

戦闘のときだ。童門と名乗った男を助けに現れた謎の男性……。その男が眼

前に現れたのだ。

 ……この男は、童門に『姫島』と呼ばれていた。

 精悍な顔つきの男が静かに口を開く。

「私は姫島唐棣はねずと言うものだ。すでに知っているかもしれないが、『虚蝉機

関』という組織の長をやっている」

 そうか、この男が一連の事件を起こした組織の長――。

 ……いきなり、敵の親玉が登場したということになる。まさか、紗枝を

伴って現れるなどと露ほどにも思わなかった。

「……五大宗家」

 鳶雄がそうぼそりとつぶやく。

 それを聞いて男――姫島唐棣は興味深そうにあごに手をやった。

「ふむ、どうやら黒き翼の一団より情報は得ているようだ。ならば早い。

――『四凶』を有するキミたちを迎え入れたいのだ」

「…………」

 自分はその『四凶』ではない。彼らの計画からすれば、イレギュラーな存

在だ。

 しかし、男は口元を笑ます。

「むろん、キミのことも欲しいと思っている。幾瀬鳶雄。――いや、姫島鳶

雄と呼んだほうがいいのだろうか?」

 ……こちらのことをすでに調べているようだ。

 男――姫島唐棣は話を続ける。

「キミは知らないだろうが、キミのおばあさん――朱芭あげはは『姫島』宗家の一

員だったのだよ。残念ながら姫島の望む力にあまり恵まれず家を出されてし

まったが……」

「……俺は幾瀬だ。姫島は祖母の旧姓に過ぎない」

「キミがそう思っても、この国の裏で動く者たちにとっては姫島の血は大

きい。しかし、皮肉だ。宗家を追われた者の系譜に『狗』が生じようとは

……」

 姫島唐棣は、視線を下に向けて、刃を捉えていた。その瞳は暗く、感情を

一切乗せていない。先ほどの笑みも作られたもののように感じ取れた。

「……正直言うと、私の本懐は半ば果たされたと思っている。――幾瀬鳶雄、

キミの登場でね。あの姫島から『雷光』の娘以上の『魔』が生まれた。しか

も、正確には『雷光』の一件以前に誕生していたことになる。これほどの喜

劇はないのだよ。神道と『朱雀』を司りし姫島が『朱』ではなく、『漆黒』

を生みだしているのだから。キミを認知したあとの『姫島』宗主の顔を思い

浮かべるだけで、私は十分に満たされるだろう」

 男は首を横に振る。

「だが、我が同胞たちの心中はそうはいかない。……最後まで『計画』に準

ずるのがあの組織を束ねる者のつとめなのだ」

 …………。

 ……男は理解のできないことを口にする。鳶雄は、姫島唐棣が何を話して

いるのか、まるで解することができない。ただ、彼が口にする言葉の端々に

怨恨めいたものが根深く渦巻いているのは感じ取れた。

 男はかまわずに続けた。

「幾瀬鳶雄、私たちに力を貸してはくれまいか? いや、仮に私たちを斬り

伏せたとしても、そのときは――私たちに代わり、五大宗家のバケモノたち

を倒してはくれまいか?」

「……勝手な言い分だ。しかも意味のわからないことばかり……っ!」

 一方的な物言いに鳶雄は不快感を露わにしていた。この期に及んで力を貸

せとまで言ってくるとは……っ! 何よりも紗枝の隣でそのようなごと

のたまうのがたまらなく感情を逆なでてくれる。

 男はそれを見て初めて感情の乗った笑みを愉快そうに浮かべた。

「……キミを一本の禍々まがまがしい刃に仕立てあげるのが、私のつとめなのかもし

れないな」

 男が指を鳴らす。刹那――姫島唐棣の隣に立っていた紗枝が一歩前に出て、

左手を横にぐ。すると、彼女の足下の影が、意思を持ったようにうごめき

だして、部屋全体に広がっていく。闇に支配される室内。広がった影が盛り

上がり、形を成していった。

「――これは」

 目を見開いて驚愕するしかない鳶雄の前に現れたのは――部屋の大半を埋

め尽くすばかりの巨大な一匹の獣。漆黒の毛並み――たてがみを有した獅子だった。

世界最大の獅子であるバーバリライオン以上と思える体躯たいくをしている。殺気

にまみれるギラついた金色の眼光。剥き出しの鋭い牙を覗かせて、低いうな

り声をあげていた。

 ぞわっと全身の毛穴が広がり、冷たいものが伝わっていく感覚――。肌に

突き刺さるようなプレッシャーから、鳶雄は強制的に思い知らされる。……

この獅子は、いままで戦ったウツセミとはまるで違う。根本的な『作り』か

らして、桁違いのバケモノだと――。

 全身を恐怖に震わせる鳶雄だが、刃だけは獅子を前にしても果敢に、一切

ずに、威嚇の姿勢を崩さなかった。それは相手との実力差を把握でき

ずにいたずらにうなり声をあげているものではない。

 ――主を守るため、小さな体を必死に沸き立たせて対峙しているのだ。

 刃のあまりにも健気で忠義な姿に、鳶雄は感動すら覚えて逃げる素振りも

恐怖におののく姿も決して見せなかった。そんなことをすれば、刃の勇気を裏切

ることになる。それだけは絶対にしちゃいけない。それがこの子犬の主とし

ての役目なのだ。

 姫島唐棣は紗枝の影から出現した獅子の横に位置して言う。

「……私たちに協力してくれている魔術師の一団と共に開発しているものだ。

――『勇気を失った獅子カウアドリ・レオ』と呼んでいる。我々の『四凶計画』の中核を担う

実験のひとつだ。東城紗枝だけが唯一、この試験体に適応できた」

 ……紗枝が、この獅子を使役しているというのか? 獅子から漂う雰囲気、

身にまとう殺意があれらと一線を画すのは嫌というほどわかる。

 ラヴィニアが珍しくも忌々しそうに獅子をめつけながら男に言う。

「……獅子……三体のうちの一体はすでに顕現化できつつあるというのです

か。『彼女たち』の実験は実を結ぼうとしているのですね?」

「……『灰色の魔術師グラウ・ツアオベラー』の少女よ。伝える時間があるのなら、フェレス卿に

伝えておくといい。――彼女たちは本気だと」

 それを聞いてラヴィニアは心底不快そうな声音で漏らした。

「…………不愉快な限りなのです」

 ラヴィニアが杖を男に向けるなかで、鳶雄の耳に魔法の通信手段を介して

夏梅の声が聞こえてくる。

『幾瀬くん! この家、囲まれているみたい!』

 ――っ!

 それを聞いて背後を振り返る鳶雄。部屋のベランダに目を向ければ、そこ

には怪物――ウツセミを伴った同級生の姿が見受けられる。敵意に満ちた視

線でこちらに殺気を放っていた。二階のこのベランダにも来ているというこ

とは、家の周囲、庭にもウツセミが群がっているに違いないだろう。

 ちらりと目線を姫島唐棣に向ける。男は肩をすくめた。

「ここでやり合うかね? 私は別にそれでもかまわない。――が、ひとつ提

案だ」

 男は指を一本あげながらこう続ける。

「キミたちがよければ、我々の研究施設に案内しよう。キミたちが求める同

級生もすべてそこに待機しているし、彼らの肉親も健在だ。考えたまえ、こ

の獅子と、この家を囲む多くのウツセミを退けるのは、いかにキミたちとい

えど無事には済まない。こちらとしても、できるだけ穏便にキミたちを招き

たいのだが?」

 それは彼らが自らアジトに招くことを意味している。もっとも、無条件で

こちらが拉致されることにも相違ないが……。しかし、追い求めていたもの

がすべてそこにあることも事実だ。

 ――チャンスとみるか、絶体絶命とみるか。

 どちらにしても、ここを切り抜けるには犠牲が伴う。勝つのは……正直、

現状では無理に等しい。『影からの刃』を限定条件ながら、三日間の訓練で

習得しつつあるが、この獅子と姫島唐棣を前にしたら、決め手に欠けるに違

いない。

 あの童門という男ですら、ウツセミ以上の力を持っていた。そのような異

能の使い手を束ねる男が、童門よりも弱いわけがないだろう。

 何よりもこの狭い室内では、『影からの刃』はもちろん通常の攻撃だろう

と、動きに制限は生じる。刃の小さな体ならここでもある程度は動けるだろ

うが……紗枝にまで被害が及ぶ可能性はあまりに高い。

 ……では、逃げるか? いや、たとえ逃げるとしても、誰かが必ず深手を

負う。

 …………。

 ……どうにも考えあぐむ状況で、ふいに姫島唐棣が懐から何かを取り出す。

 ――正方形の桐箱だった。

 呪術めいた文字の札が貼られている箱。それを見て、鳶雄はすぐに思い至

る。

 それが、祖母が紗枝の両親に渡したであろう自分のルーツに繋がるもの

――と。

 姫島唐棣が言う。

「そこの金庫に入っていたものだ。先に拝借させてもらった。何、まだ私も

見てはいないよ。どうかね、幾瀬鳶雄くん? これの中身と――」

 男が、紗枝に指をさす。

「どちらも欲しいのだろう?」

 こちらの神経をさわるようなことを平然と口にする男。……紗枝に視線を配

らせてみても、彼女は鳶雄のことを感情のこもった目で見てはくれない。

 ラヴィニアが鳶雄に言う。

「……ここの判断はトビーに任せるのです。きっと、夏梅もシャークもわ

かってくれるのですよ。私も正直言うと、彼らの施設とやらに物凄く興味が

あるのです」

 鳶雄の心のなかを察してくれたかのようにラヴィニアはそう言ってくれた。

 鳶雄は数秒ほど顔を伏して、苦渋に満ちた表情を浮かべたのち、耳を押さ

えて夏梅と鮫島に告げた。

「……皆川さん、鮫島。――ここは退いてくれ! かまわずに行ってくれ! 

あとで必ず合流できるから!」

 鳶雄が選んだものは――夏梅と鮫島を逃がすことだった。全員あちら側に

行くことはない。可能性は複数残しておいたほうがいいだろう。そのために

自分とラヴィニアがここに残り、夏梅と鮫島を逃がす。奴らの狙いはあくま

で『四凶』だ。ならば、該当する二人は真っ先に逃がすべきだ。

『――ッ! ちょ、ちょっと、幾瀬くん!? 何を言って――』

『幾瀬! 上で何かあったんだな!?』

 驚く夏梅をよそに鮫島は鳶雄の言葉の真意になんとなく勘づいているよう

だった。

『いくぞ、鳥頭! あの魔法少女がついてりゃ幾瀬もそうそうやられはし

ねぇだろ! それなら俺らはここに集まった奴らを引き寄せて外で一気に叩

いたほうがいいだろうよ!』

『け、けど! ああもう! 幾瀬くん、ラヴィニア、死んだら許さないから

ね! 必ず迎えに来るわ!』

 ウツセミを退けながら去っていく仲間の声を聞きつつ、鳶雄は男を睨めつ

ける。

 男は息を吐く。

「なるほど、自分たちだけ残って、『四凶』を逃がすか。全員で戦うのと、

全員で逃げるのより遙かに賢明な判断だ」

 姫島唐棣は、そう言うなり手で印らしきものを結んで室内の空間を歪ませ

る。歪んだ空間からふすまが出現した。神々しい朱色の鳥が描かれた雅な作りだ。

襖が開くと、その先には見知らぬ建物の一室が見て取れた。場所を超えてポ

イントとポイントを繋ぐ『門』のようなものなのだろう。

 姫島唐棣が、招くような仕草で鳶雄とラヴィニアに言う。

「さあ、くぐりたまえ」

 刃を抱えた鳶雄は心中でこう話しかけていた。

 ――刃、悪いが最後まで付き合ってもらうぞ。俺は、内部からこいつらを

食い破って、紗枝と皆を救う。

 恐怖に身を裂かれそうになりながらも、鳶雄の戦意は揺るがなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る