堕天の狗神 -SLASHDØG-/石踏一榮

ファンタジア文庫

一章 帰還/襲撃

 それは、彼にとって夢か幻だったのか。けれど、記憶には確かにこびりつ

いている。

 幼い頃――小学校に上がったばかりの七つの時分、冒険と称して隣町の廃

墟に遊びに行ったときのことだ。

 一月の冬空、雪がまばらに降り出してきたなかで、その者は彼の目の前に

現れた。

 ――黒い天使だった。

 背中に黒い翼を生やした男。自分の父親と同い年ぐらいか、ちょっと上か、

それぐらいに見える黒い羽の天使。

 天使の男は身を屈め、自分と同じ目線でこう言った。

「……そうか、おまえがそうかもしれないのか」

 彼の頭をなでながら、男は笑みを浮かべる。

「もし、あれが宿っているのなら、いずれおまえの世界が一変する。だが、

まあ、絶望はするなよ? 何せ、おまえは――」

 彼の胸に指を突き立て、こう述べた。

「十三種のなかで、唯一『神』を冠するんだからな。たとえ、それが偽りの

『神』であっても――」

 男の言っていることが、よくはわからなかった。わからなかったが――鮮

明に記憶には残っている。

 一緒に探検に来ていた友人の呼ぶ声に反応して、彼がもう一度男のほうに

顔を向けたときには――すでに黒い天使はそこにいなかった。

 それは、彼にとって夢か幻だったのか。



   序章



 五月初旬――。

 高校生活――いや、生涯一度きりしかない高校の修学旅行を前にして、

幾瀬いくせ鳶雄とびおは欠席を余儀なくされた。

 昨日、体調を崩したのだ。熱が一向に下がらず、体には力が入らない。頭

はボーっとするし、足もともフラフラだ。

 GW明けとはいえ、油断をしていたわけではないのだが……それでも突然

の体調不良だった。医者からも安静を言い渡された。

「それじゃ、お土産は買ってくるから、ちゃんと寝てるのよ?」

 玄関先で笑顔を浮かべてそう言うのは、セミロングヘアーの少女。鳶雄と

同じ高校の二年生で同級生だ。そして幼馴染でもある、東城とうじよう紗枝さえ 。イタズ

ラっ子の笑みだ。

「……ああ」

 マスク越しの不機嫌な口調で鳶雄は返した。

 彼女は出発前に、鳶雄の様子を見にきたのだ。鳶雄にとってみれば、嫌味

でしかない。

 修学旅行の内容は、ハワイ諸島を豪華客船でクルージングする十日間のツ

アーだ。

 鳶雄には、初の海外旅行となるはずだった。学生の時分だ、楽しみでない

わけがない。重苦しい我が身がなんとも、恨めしかった。

 紗枝は不機嫌な表情を浮かべる鳶雄の額を小突いた。

「旅行なんて、大人になればいつでも行けるわよ。そのときは私も付き合っ

てあげるから、今回はガマンなさい」

「……アホか。俺は今日行きたいんだよ。それにどうせ付き合うっていって

も、俺のオゴリとか言うんだろ?」

「当たり」

 紗枝はカラカラと笑う。鳶雄は息を吐きながら、小突かれた額をさすった。

 ひと通り鳶雄をからかった紗枝は、バッグを持ち上げる。

「さて、私はそろそろ行きますかね」

「あ、ちょっと待って」

 鳶雄は、紗枝を引き止めるとズボンのポケットから、数珠を取り出す。

 それを紗枝の左手首につけてやる。

「死んだ祖母ばあちゃんが、俺が遠出するときに必ずつけてくれたんだ。俺は、

行けないから、こいつに道中守ってもらってくれ」

 紗枝は数珠を見やると、ありがたそうに手でさすっていた。

「ありがと」

「あと……その、なんていうかさ、気ぃつけろよな」

 鳶雄は、熱で真っ赤な顔をさらに赤くさせながら言う。

「何に?」

「その……病気とかウィルスとかさ」

「それはあんたでしょ」

 皮肉で返されて、鳶雄はマスクの下の口をへの字に曲げた。

 玄関を開けると、紗枝は最後に振り返って言ってくる。

「行ってくるね」

 彼女は少し寂しげな表情を浮かべて、旅立っていった。



 同級生たちが旅立って四日後――。

 成田からホノルルまでは飛行機で移動となる。そこから、港にて『ヘヴン

リィ・オブ・アロハ』号に乗船して、今頃はカウアイ島からハワイ島に着い

たころだろう。

 同級生が豪華客船で料理に舌鼓したつづみしたのち、各島をめぐり、異文化交流を堪

能していると思うと恨めしく思えてくる。

 体調が少しずつ回復してきた鳶雄は朝遅く起きて、ブランチの用意をして

いた。

 鳶雄は、両親の顔をよく覚えていない。

 物心つく頃には、両親は亡くなっており、中学生になるまで、祖母に育て

られたからだ。その祖母も中学生のときに亡くなった。それ以降、彼は両親

と祖母の遺した遺産だけで生活してきた。祖母の知り合いという家政婦さん

に生活の面倒を見てもらっていたため、高校生まで特に不自由もなく過ごせ

てこられた。

 いちおう、覚えのない親類とやらが後見人――保護者となっているようだ

が、これといって接触はしてこないし、遺産に手をつけるようなこともな

かった。

 そのため、高校生になってからは、マンションの一室にて一人で暮らして

いる。紗枝が夕飯を作りに来てくれるのが救いだった。

 その日の朝も誰かによる食事の用意などあるはずもなく、鳶雄は目玉焼き

を作って、食パンと共に食べ始めた。

 同級生たちはすでに優雅な朝飯を済ませたであろう。そう思うと、悲しく

なる。

 テレビをつけ、ボーっと見つめながら、パンをかじっていた。

『いまだ行方不明者の捜索が続く状態ですが――』

 鳶雄は特に集中もせずにテレビを見ながら黙々とパンをかじる。

『乗船していた修学旅行中の陵空りようくう高校の生徒たちと教員たちの安否が――』

 なに……?

 鳶雄は聞き覚えのある高校の名前を聞いて、突然立ち上がりテレビに張り

ついた。

 テレビには上空から撮られた海上の映像。そこには、まるで映画のワン

シーンのように煙を上げながら船体のほとんどが海に沈んだ豪華客船が映し

出されている。

 何かの聞き間違いじゃないかと思った。あり得るはずがない! そんな非

日常なことなど、自分のもとに降りかかるはずがない!

 そう心中で繰り返す鳶雄だったが、テレビのスーパーには無慈悲なまでに

『ヘヴンリィ・オブ・アロハ号、謎の海難事故!』と表示されていた。

 再度確認した客船の名前に、鳶雄は目を大きく見開く。冷たいものが背中

を通りすぎる。呼吸と動悸が激しくなり、心臓がバクバク鳴っているのがわ

かった。

 鳶雄は携帯電話からWeb の情報を集める。

 一面記事に記されたニュースを見ていく。その内容に鳶雄は全身を震わせ

た。

『豪華客船、海難事故!』

『修学旅行中の悪夢!』

『乗船していた高校生二百三十三名の安否は不明――』

『行方不明者は絶望的――』

 高校の名前は、陵空高校――。

 鳶雄と、彼の幼馴染である紗枝の通っている高校だった。

 ――行ってくるね。

 鳶雄のなかで、幼馴染の遺した最後の言葉が蘇る。少し寂しげな表情を浮

かべていた紗枝。……それは、一緒に行けないことを意味したものだったの

か。

「……紗枝」

 力なく、鳶雄はその場に座り込んだ。


 その日、幾瀬鳶雄は幼馴染の東城紗枝を含む同級生二百三十三名を失った

――。



   一章 帰還/襲撃



 七月。本格的に暑さが増してきた頃――。

 下校中の幾瀬鳶雄は、友人と電車の車内――扉付近で雑誌を広げていた。

「やっぱさ、こっちのサスペンションのほうがいいかもなー」

「こういうのなら、河川敷ら辺のジャンク置き場で拾ったほうが早いんじゃ

ない?」

 鳶雄の意見に、友人は半眼で嘆息する。

「バーカ。そんな、誰が乗っていたかわからない単車のパーツなんか取りた

くねぇよ。ヘタすると、処分に困った事故車かもしれないだろ? やっぱ、

金を貯めて買った新品のパーツを組み込むからこそ、ロマンが広がるんじゃ

ないかぁ!」

 熱く語る友人は、目をキラキラと輝かせていた。

 最近、バイクにハマったらしく、学校で禁止されているバイトを嬉々とし

てこなしているそうだ。

 ちなみに、普通自動二輪の免許取得も鳶雄たちの学校では校則違反である。

見つかれば、一発で停学はまぬかれない。

 しかし、高校二年生だ。男子がバイクや車に興味を持つのは自然といえる。

「鳶雄も免許取れよ。二人でツーリングしようぜ! 絶対楽しいって!」

 ここ最近、彼は鳶雄に何度もそう誘ってきていた。

 鳶雄もまったく興味がないわけではない。だが……。

「ああ、悪くはないよな。……けど、いまはそんな気分じゃないかな」

 鳶雄は苦笑いを浮かべながら、答えた。

「そうか、そんな簡単に忘れられないよな……」

 友人は、ふいに車内の中吊りに視線を移した。

『いまだ原因不明! ヘヴンリィ・オブ・アロハ号の沈没事故! 事件には

米国の影が』

 鳶雄もそれを見て、顔を少しだけ陰らせる。

 二か月前、鳶雄は事件の真っ只中にいた。

 同級生二百三十三名を乗せた豪華客船の沈没事故。その生き残りとして、

鳶雄は連日マスコミに追われた。

 それもそうだろう。日本の高校生が大勢乗った船が海難事故を起こせば、

一大ニュースだ。毎日のようにどの局でもトップニュースとして扱われ、マ

スコミは事件の遺族、関係者にところ構わずインタビューしてきたのだ。

 亡くなった同級生の合同葬儀も、そうした騒動のなかで行なわれた。鳶雄

は、生き残った生徒の一人として参列したが、葬儀中ずっとフラッシュが止

むことはなかった。

 鳶雄のほかに生き残った生徒数名も、しばらくは通学できる状態ではな

かっただろう。

 好奇の視線が彼らに降り注ぐせいもあるが、それ以上に深刻な問題もあっ

た。

 少し前まで賑やかだった同級生たちが突然いなくなる――。教師も事故で

亡くし、心のケアをしてくれる者も多くはない。事件のこと、その後の世間

の目、心の中にそれらを受け入れて整理するには時間が必要だった。残され

た生徒たちは、マスコミに追われながらも自宅で事件のほとぼりが冷めるま

で過ごすしかなかった。

「あれから、生きてた人は見つかってないんだろ?」

 友人の問いかけに、鳶雄は目を伏せる。

「ああ、生き残ったのは修学旅行に参加できなかった者だけ。……そいつら

は、俺を含めても十人に満たないよ」

 同学年で生き残ったのは、鳶雄同様に修学旅行に参加できなかった生徒だ

けだ。旅行に参加した生徒、教師に生存者はいない。

 真っ二つに折れてしまった船は、片側は海底に深く沈み、もう半分の船体

で捜索が続けられた。そちらから回収されたのは、数名の教師の遺体と、船

に乗り合わせていた乗員の遺体のみだ。捜索した範囲では、生徒の死体は一

体も出てこなかった。海底に沈んだほうに残っているのかもしれないとサル

ベージでの捜索が進んだが、予想以上の難所に沈んでおり、引き上げは困難

を極めていた。現在も回収のめどが立っていない。

 テレビでは沈没事故に対して様々な説が唱えられ、なかにはゴシップめ

いた話も飛んだほどだ。連日胡散うさん臭いコメンテーターが『隣国の秘密兵器

だ!』とか『超自然現象のせいだ!』、『UFOの仕業だ!』などと、バカ

らしいことこの上ないことを言っていた。

 ――が、沈没事故の原因は不明のままだった。

 胡散臭い説が流れたとしても仕方ない面はあった。

 しかし、日本人は話題に飽きやすい。事件になんの進展もなく、一か月が

過ぎた頃には政治家の汚職問題のほうが大きく報道され、沈没事故のニュー

スは徐々に小さく扱われていった。

 生徒たちの遺族が、不思議と騒がなかったせいかもしれない。当初は「責

任をとれ!」など声をあらげていたものの、そのうち少しずつ表に顔を出さ

なくなっていったのだ。

 その頃には、生き残った鳶雄たちの受け入れ先の学校が各々決まった。も

う、いままで通っていた陵空高校には通えるはずがない。同級生みんなはもういな

いのだから。

 生き残った生徒たちはバラバラに散らばり、初登校のときにはマスコミや

近所の人から、好奇の視線も注がれた。

「あのときはスゴかったよ。正門の前にマスコミのカメラやらが連日群がっ

ていたからな」

 友人はその光景を思い出したのか、渋い表情を浮かべる。

 彼曰く、毎日のように登校中にコメントを求められてウザかったらしい。

 最初はいろいろとれ物のように扱われ、面倒な目にも遭ったが、最近

やっと話しかけてくれる生徒も現れて、ようやく平穏が訪れつつあった。こ

うやって一緒に下校できる友人もできた。

 初夏――七月に入り、事件も取り沙汰されなくなった頃、騒乱も落ち着き

を見せたところで、自分なりに冷静になることができた。そこで初めて同級

生の死を深く感じられるようになれたのだ。

「まあ、辛いと思うけどさ、いまの生活になれることに徹したほうがいい

ぞ? あんまり嫌なことばかり考えてると、心身に悪いと思うしよ」

 友人に背中をたたかれながら、励ましの言葉をもらう。その言葉が素直に

いまの鳶雄にはありがたかった。

 そうこうしているうちに、電車は友人が下車する駅に到着する。

「あ、じゃあ俺ここで降りるから。またな。元気出せよ」

 彼は笑顔で鳶雄にガッツポーズを見せると電車を降りていく。鳶雄も「あ

あ、またね」と短く返事をして、手を振った。

「…………」

 一人車内に残った鳶雄は息を吐く。

 ゴメン――。

 鳶雄は心中で、友人に謝った。

 新しい友人との間には、まだ深い溝が存在している。それは、いまだ埋ま

る気がしなかった。

 


 電車に揺られながら、鳶雄は空を眺めていた。

 一人になると、こうやってボーっとどこかを見つめる時間が増えている。

 ふいに携帯電話を取り出し、鳶雄はメール画面に視線を落とす。受信メー

ルの大半が、保存状態にされ、消えないようになっていた。

 アドレスは、事故で亡くなった友人たちからのもの。事件前日まで彼らか

ら送られてきたメールだった。一人電車に乗りながら、メールを確認してい

くのが日課になっている。メールを見るたび、クラスメイトの顔が浮かび、

懐かしさと共に寂しさも得る。発信できない返事のメールは、溜まる一方

だった――。けど、その送れないメールを打つのが、唯一の彼らとの接点の

ようにも思えて、鳶雄はつい打ってしまう。

 そして、確認していくなかで、ひとつのメールで指が止まる。送信者は紗

枝――東城紗枝。鳶雄の幼馴染の女の子。

『いまから飛行機! 快適な空の旅へ向かいま~す。じゃあ、またね。ちゃ

んと寝てんのよ!』

 空港から発信されたであろうメール。それが、彼女からの最後の連絡と

なった。

 新しい生活が始まり、慣れてきた今になって、鳶雄は一人、部屋で泣くこ

とが多くなった。大きな喪失感が一気に襲い掛かってきたからだ。

 昼休み、屋上でバカな話題で盛り上がり、下校時にはカラオケやゲームセ

ンターで友人と一緒に騒いだ、あの日々の思い出。

 共に高校まで歩んできた紗枝――。近くにいるのが当たり前だった。いつ

も見せてくれていた彼女の微笑みが忘れられない。

 ――あの日々は返ってこない。

 修学旅行へ出発する当日、寂しげな表情で出て行った紗枝の姿――。

 そんな顔をする理由を訊くことは二度とできない。

 永久に失った大切なもの。もう、鳶雄には返ってこない。

 


 鳶雄は本来降りる駅には降りずに、ふたつ前で下車した。

 本屋に寄ったり、ゲームセンターで時間を潰すためだ。

 一人、広いマンションに戻ると、日中よりも同級生たちのことを多く考え

てしまう。一度頭に浮かべてしまうと、翌日家を出るまで脳裏から消えるこ

とはない。

 喪失感が彼の心を激しくむしばんだ。

 できるだけ、本を立ち読みし、ゲームセンターでゲームに興じる。そうし

ている間だけ、苦痛は和らげられる。

 午後六時が過ぎ、七時になった。日が昇っている時間が長い夏場とはいえ、

七時ともなれば日が暮れだす。

 鳶雄はラスボス戦まできていた格闘ゲームに負けると、ため息をひとつつ

いて帰路につくことにした。仕事を終えたサラリーマンなどがまばらに街を

歩いている時間帯。鳶雄は虚ろな瞳で歩いていた。

 横断歩道に着いたときだった。ふと車道をはさんで向かい側の歩道に視線

が移り、鳶雄は目の前の人影を捉える。瞬間、双眸そうぼうを大きく見開いた。

 見覚えのある少女の姿がそこにあったからだ。

 ――紗枝。

 視線の先に存在する、あり得ないはずの人影――。それを見つけ、鳶雄の

動悸が激しくなった。

 幼い頃からお互い成長を見続けてきた仲だ。見間違えるはずがない!

 前へ飛び出そうとしたとき、歩行者信号は赤を示していた。飛び出そうに

も、仕事帰りの人々が壁となっていて、うまく進めない。

 早く青になれよ! 紗枝が……、紗枝がいるんだ!

 焦る鳶雄の目には、紗枝のもとに集まる数名の男女の姿。それを確認して、

鳶雄はさらに驚愕きょうがくした。

 その面子めんつのなかに、行方不明のはずのクラスで仲が良かった男子、佐

々木ささき弘太こうた がいたからだ。佐々木は、紗枝たちと話しこんでいる。そして、紗枝と

佐々木を含む集まりは、どこかへ歩き出した。

 飛び出したい! けれど、信号はまだ変わらない。

 信号と歩いていく紗枝たちの集団を交互に見る。信号が変わったときには、

集団は視界に捕捉できるギリギリの位置を歩いていた。人を掻き分け、鳶雄

は走り出す。

 生きていた――。

 まだ本人かどうかわからない。精神の病んだ自分が作り出した幻影かもし

れない。

 だが、まだ死体は海から上がっていない。死体は見つかっていないのだ。

 死んだとは限らないじゃないか。二百人以上もいたのだ、どこかの島に数

人ぐらい流れ着いて生き残ったとしても不思議じゃないはずだ! 冷静さを

欠き、幻想に駆られた思いが彼のなかで生じてグルグルと回る。

 鳶雄は、ただ夢中で集団を追いかけた。

 


日は落ちていき、夕闇の色が濃くなってきている。

 鳶雄は息をあげながら、集団を追いかけた。しかし、数分前に再び捕まっ

た信号によって、集団の行方を見失った。

 少しずつ、人気のない場所に歩みが進んでいく。

 電灯の明かりが点きだし、しんと静まり返る道を進む。そのとき、視界の

隅に近くの工事現場に入る人影を見つけた。

 追いかけ、工事中の建物の前に立つ。そこはマンションを建設中の現場

だった。不思議なことに工事現場の入り口は開いており、簡単に侵入できて

しまう。

 鳶雄は、誰も見ていないのを確認したあと、現場へと足を踏み入れた。鉄

骨やら木材やらが置かれた敷地内を進んでいく。

 電灯の光などここまで届くはずもなく、暮れなずむ空のせいで、視界は悪

い。鳶雄は携帯電話のカメラの証明を点灯させ、それを頼りに歩みを再開す

る。

 奥の角を曲がったときだった。人影がひとつ立っている――。

 鳶雄はその後ろ姿に見覚えがあった。学校の制服ではなく白のシャツを着

ているが、それは追っていた集団の一人でもあり、今年の春まで共に同じ学

校に通った友人の後ろ姿に間違いない。

「……佐々木?」

 鳶雄は、恐る恐る話しかける。

 佐々木と呼ばれた少年は、無視して背中を向けたままだった。……前方に

もうひとつの気配を感じる。……誰かいるのだろうかと意識を向けるが、ど

うにも人のようには思えない。

「佐々木……なんだろ?」

 再度、鳶雄は呼びかける。すると、少年はこちらへと顔だけ向けた。彼が

体ごと振り返ると、見えなかった奥の様子もライトに照らされて目に飛び込

んでくる。

「――ッ」

 鳶雄は言葉にならない声を出して、後ずさった。

 奥で……巨大な何かが咀嚼そしやくをしているからだ。その何かがこちらに気づい

て頭部を向けてくる。……大きなトカゲのような生物だった。その生き物の

口元は、血にまみれている。舌をチロチロと出して眼を怪しく輝かせていた。

 その近くに立つ少年は確かに佐々木だ。佐々木に違いない。鳶雄は確信し

た。

 そのとき、ごろりと何かが転がる。そちらに灯りを向けると、そこには胴

から離れた犬の頭部が転がっていた。

 頭部には深い傷跡。片側の目玉が周囲の肉ごと削り取られている。

「ひッ」

 鳶雄は小さな悲鳴をあげて、体を強張らせた。

 トカゲがその犬にかぶりついていく。……先ほど聞こえてきた咀嚼する音

は……このトカゲが犬を食らっている音だったのだ……っ!

 目の前の佐々木は無表情のまま、鳶雄を見つめ、小首を傾げていた。白い

シャツの胸元は犬の返り血で赤く染まっている。

 佐々木――。彼は佐々木だ。同じクラスメイトで、いつもカラオケやゲー

センに行った友人だ。常にイタズラな笑みを浮かべていたのに、いまの彼は

感情がないように鳶雄を見つめてくる。「佐々木」と、もう一度呼びたいの

に声が出てこない。それは体と心が恐怖で支配されているからだ。

「おまえ……、なにしてるんだよ?」

 それは、鳶雄がなんとかしぼり出せた言葉だった。

「……つけ……た」

 佐々木から声が発せられる。聞くことに集中しなければ聞こえないほどの

声量だ。

 次の瞬間、眼前の少年はこの世のものとは思えない笑みを浮かべた。口元

を薄く開き、目元を細め、不気味な笑みを鳶雄へ向けていた。

 犬を食らっていたトカゲが、食事を止めてこちらに体を動かす。双眸から

は感情を一切感じることができず、その姿は獲物を捉えた動物のそれだった。

 鳶雄の全身をぞくりと冷たいものが通りすぎたとき、佐々木の姿をした何

者かが、ゆっくりと口を開いていく。

「やれ」

 ヒュッという空気を裂くような音が聞こえたと思ったら、後方でバチンと

いう鈍い音も耳に届く。そちらへ顔だけ向けると、壁に斜めに立てかけられ

ていた木材が真っ二つに切断されていた。さらに風切り音が鳶雄の耳元を通

りすぎて、戻っていく。

 鳶雄が前方に視線を戻すと、トカゲの口からは触手のようにウネウネとう

ごめく長い舌がだらしなく伸びていた。唾液が舌を伝って地面へ落ちていく。

 触手めいたものの先端には、爪か牙のように鋭く硬質であろう突起物がつ

いている。

 鳶雄は頬を横に薄く切られていたことに気づく。頬をなでると、手に血が

ついた。耳元を通り過ぎたときにやられたのだ。

 ……トカゲの……バケモノ?

 少なくとも鳶雄の知っているトカゲの常識を超えた生物だ。三メートルは

あるであろう巨体。知りうる限りだと、コモドオオトカゲが思い出せるが、

あれにこのような触手めいた舌があるなどと聞いた覚えもない。

「……みつけた……」

 佐々木の姿をしたそれはそう言いながら、不気味な笑みを浮かべて、こち

らへ近づいてきた。応じるようにトカゲのバケモノが佐々木の前に出る。

 鳶雄は咄嗟とつさ の行動で足元に置かれていた丸棒の鋼材を手にした。震える手

で鋼材を手にして、バケモノに向けて構える。

「じょ、冗談なら止めてくれよ、佐々木……」

 彼は無理やり口の端を上げて笑みを作ってみるものの、恐怖で頬の肉が引

きつってしまっていた。

 トカゲのバケモノは鋼材を構える鳶雄など意にも介さないように距離を縮

めてくる。それに応じて鳶雄は少しずつ後ずさっていく。

 彼は不気味にうごめくバケモノの舌から目を離すことができなかった。直

感的に、触手のような舌から目がそれたら死に近づくと思ったからだ。

 あの舌がどれほど伸びるかはわからないが、ある程度距離が取れたらこの

場を逃げ出したほうが賢明である。鳶雄はそう判断していた。

 じりじりと少しずつ後ろへと下がって距離を稼ぐ。

(絶対にあの触手から目を離してはダメだ)

 鳶雄はズボンのポケットに手を入れた。

 硬い感触が手に伝わってくる。ゲームセンターで両替したときに余った硬

貨だ。

 鳶雄はポケットの中で硬貨をつまみあげると、それをトカゲのバケモノに

向かって放り投げる。硬貨はトカゲのバケモノの舌によってなんなく払い落

とされてしまうが、逃げるには十分な隙が生じたと鳶雄は感じた。

 彼は一気に走り出すつもりで逃げの姿勢を作るが、伸びてきた触手が視界

に飛び込んでくる。鳶雄は反射的に鋼材の丸棒で防御をしようと構えた。丸

棒に舌が巻きついていく。

「く……」

 棒に巻きついた触手を振りほどこうとするが、信じられない力が丸棒から

伝わってくる。

 抵抗むなしく、鳶雄が手にしていた鋼材は触手のような舌によって、奪い

取られてしまった。トカゲのバケモノは佐々木の手による指示によって、奪

い取った丸棒を遠くへ放り投げる。後方から乾いた金属音が聞こえてきた。

 得物えものをなくした鳶雄のもとへ、トカゲのバケモノは一歩一歩確実に迫って

くる。

 鳶雄は腰が引け、恐怖に包まれていた。再び逃げようとしたが、足元を舌

にすくわれて、その場に転んでしまう。立ち上がろうとしても、トカゲのバ

ケモノは眼前にまで近づいてきていた。

 この光景を見て、冷笑を浮かべる佐々木の姿をした者。トカゲのバケモノ

の舌がウネウネと動いて、牙のような先端が鳶雄に狙いを定めた。

 やられる!

 そう覚悟したとき、鳶雄とバケモノの間を何かが猛スピードで通りすぎる。

 ……数秒待っても何も起こらず、不思議に思った鳶雄がバケモノのほうに

ちらりと視線を向ける。――すると、舌の先端が分断され、トカゲのバケモ

ノは言葉にならない声をあげていた。

「そう簡単にやらせてあげられないわね」

 突然、後方から若い女性の声が聞こえた。声の主が、足音と共に鳶雄の隣

に現れる。どこかの学校の制服に身を包む少女。年は同じくらいだ。髪をう

しろでまとめてアップにしている。

 鳶雄はその女生徒をどこかで見たことがあったように思えたが……いまは

混乱状態のためか、完全には思い出せなかった。

 少女は鳶雄を一瞥いちべつすると、一歩前に出た。

「相手をしてあげる」

 そう言って、トカゲのバケモノに向かって、手を前へ出した。佐々木が女

子の挑発に乗って、トカゲのバケモノに手で指示を出す。トカゲは長い舌を

しならせて攻撃しようとする。――刹那、鳶雄と女子の間をすさまじい速度

で通過していくものがあった。それは高速でバケモノの横をかすめて闇へと

消えていく。

 一拍おいて、バケモノの舌が静かに落ちた。そして首に切れ目が生まれ、

地面へと頭部が落ちていく。胴体もガクリと地面に倒れこんだ。

 同時に佐々木の姿をした者も意識を失ったかのように、その場でくずおれ

ていく。

 恐怖に包まれ、困惑状態の鳶雄にもそれは理解できた。トカゲのバケモノ

は――死んだのだ。首を落とされて生きている生物など、存在しない。たと

え、それが自分の常識外のものだろうとも――。

 前方の暗闇から、羽ばたきが聞こえ、大きな猛禽類――鷹らしき鳥がこち

らへと向かって飛んでくる。鳥は、少女の腕に止まり、主にじゃれた。少女

も「よしよし」と鳥の頭をなでている。先ほど、鳶雄の横を通過していった

のはどうやら少女の腕に止まる鳥のようだった。そうなると、バケモノを倒

したのもこの鳥なのだろうか?

 疑問はあるが、いまは助かったことに鳶雄は安堵した。静かに息をつく。

 ――が、安堵しているのもつかの間、地に伏す格好の佐々木が謎の発光現

象を起こしていく。それは絶命したばかりのトカゲのバケモノも同様だった。

青い光は、地面に何かの円形を描きだし、見たこともない文字を刻んでいく。

……まるで、ゲームや漫画で出てくる「魔方陣」のように思えた。その魔方

陣のようなものは、目を覆いたくなるほどの一層まばゆい輝きを放つ。……

閃光が止んだあとで、その場を見やると、そこには佐々木とトカゲのバケモ

ノの姿はなかった。

 ……狐につままれたような現象が、眼前で繰り広げられていき、鳶雄は呆

気に取られて、言葉すらも発せられなかった。

「幾瀬……くん、よね?」

 少女はこの現象に驚きもせず、鳶雄の顔をのぞき込んで訊いてくる。

「そ、そうだけど……。君は誰……?」

 鳶雄もそう返す。見覚えはある。けれど、それが明確に思い出せない。確

かにどこかで見たことがあるのだ……。

「私は、皆川みながわ夏梅なつめ 。知ってる……わけないか……。直接話したことないし、

私も名前と顔が一致しなかったしね。この写真見なきゃ」

 夏梅と名乗った少女は、スカートのポケットから携帯電話を取り出し、画

面を見ていた。どうやら、携帯電話の画像に鳶雄の写真があるようだ。夏梅

は携帯電話の画面を、「これ」と言って見せてきた。

 そこには、見覚えのある風景と共に、懐かしい友人と話している自分が

写っていた。

 それを見て、鳶雄は直感した。

「キミ、もしかして――」

 鳶雄が驚きの声を出して言おうとしたとき、夏梅はにんまり笑みを浮かべ

ながら鳶雄の言葉を続けた。

「そ、私はあなたと同じ陵空高校二年生の生き残りよ」





「私、白玉クリームあんみつをひとつとドリンクバー。ええと、幾瀬くんも

何か頼む?」

「いや、俺はいい」

 鳶雄は首を横に振った。

「じゃあ、それで」

 夏梅の注文を受けて、ウェイトレスは厨房へと向かっていく。

 佐々木の姿をした何者かと、トカゲのバケモノの襲来後、二人はファミレ

スに足を運んでいた。夏梅が、「話があるから、どこか落ち着ける場所に行

きましょう」と言い、ここまで鳶雄を連れてきたのだ。

 彼女がドリンクバーの飲み物を取って席に帰ってきたのを確認したあと、

鳶雄は会話を切りだす。

「どういうこと?」

「なにが?」

 鳶雄の問いに、夏梅は軽い口調で問い返してくる。夏梅の態度に少しムッ

とした鳶雄は、眉間を寄せて再度問う。

「アレはなに? 話ってそのことだろ?」

『アレ』とは、先ほど遭遇した鳶雄の友人――佐々木とトカゲのバケモノの

こと。あのバケモノは何なのか? 鳶雄はそれが訊きたかった。対面の席に

座る夏梅は、少なくともあのバケモノの存在を知っている様子だ。

「見たとおり、バケモノとその飼い主よ」

 夏梅はさらりと答えてきた。鳶雄が質問をしようとするが、彼女は続けて

くる。

「同級生の姿をした彼らと彼らが使役するバケモノ、名前は『ウツセミ』っ

て言うんですって。えーと、独立具現型の試作タイプ――とからしいわ。彼

らとあのモンスター、併せて『ウツセミ』なんですって」

 そう言う彼女は、アイスコーヒーのグラスについた水滴を指につけて、

テーブルに『ウツセミ』とカタカナで文字をつづった。

「ウツセミ?」

 聞き覚えのない単語に、鳶雄はいぶかしげな表情を浮かべる。

「そ、ウツセミ。正式名称は他にあるけれど……。まあ、彼ら――って、女

の子もいるんだけど、ウツセミたちは先日の事故で行方不明中の陵空高校二

年生の姿をしているの」

「なっ……」

 絶句する鳶雄。夏梅は真剣な面持ちのまま、さらに話を続けていく。

「私も詳しいところまではわからないけど、あの海難事故に遭った私たちの

同級生二百三十三名は、現在、全員さっき会ったバケモノを付き従えている

みたいなの」

 彼女は、信じられないことを次々に口に出している。

 合同葬儀以来の、あの事故の生き残りとの出会い。だが、彼女と陵空高校

での面識はない。

 同じ境遇の者との出会いは、あまりに鳶雄の理解できる範疇はんちゆうを超えていた。

 夏梅は困惑した顔の鳶雄を確認したのか、ため息をひとつついて自分の

バッグを手に取る。

「いきなり、こんなこと言っても私が変人みたいだわ。とりあえず、あとで

改めてそちらに伺うからさ、いまは――」

 彼女はバッグから取り出した白く丸い物体。ソフトボールほどの大きさだ。

「これを幾瀬くんに渡すのが、私の役目ってことで」

 夏梅はその白く丸い物体をテーブルの上に載せる。恐る恐る鳶雄は手に

取った。

 なんの変哲もない丸い物体。だが、そのとき自分の心臓の大きな鼓動と共

に、丸い物体も脈動する。

「うわっ」

 情けない声を出して、鳶雄は丸い物体をテーブルの上に手放した。

「大切にしたほうがいいわ。それないと死ぬから」

 夏梅は、ウェイトレスが持ってきた白玉クリームあんみつをスプーンです

くいながら、さらりと不吉なことを言ってくる。

 彼女は幸せそうに白玉を口に運んでいく。

「死ぬって、どういうことだよ?」

 夏梅の不吉な物言いが鳶雄は気になった。

「ウツセミはね、どうやら私たち、あの旅行に参加せずに生き残った生徒を

狙っているようなのよ。実際、あなたも狙われたでしょ? 最近、私も狙わ

れているわ」

「そんなバカな話、信じられるわけないだろ?」

「信じる信じないは幾瀬くんの勝手だけど、また襲いかかってくるのは事実

よ。ああやって撃退していかないと、殺されちゃうかもしれないわ」

 ふいに先ほど魔方陣のようなものの光に包まれて消えていった佐々木とバ

ケモノが脳裏に蘇る。

「……光に消えていった」

「うん。なんだかね、使役しているモンスターを倒すと、使っているほうも

気を失っちゃうみたいなの。――で、あの発光現象と共に消えちゃう。ファ

ンタジーよね」

 カラカラと笑う彼女。解せない気持ちだけが鳶雄のなかで渦巻く。

 夏梅がスプーンをこちらに向ける。

「だから、その『タマゴ』は大切なの。無力で普通の高校生な私たちにとっ

て貴重な武器ってやつ?」

 夏梅は窓の外へ目を向けた。鳶雄も彼女の視線を追うように店内から外を

眺める。人が行き交う歩道に植えられた街路樹の枝に、先ほどの鳥が止まっ

ていた。鳥はこちらをジッと見つめている。遠目でもわかるほどに鋭い眼光

だ。

「さて、ウチの鷹ちゃんをいつまでもお外で待たせるのは忍びないので、そ

ろそろお開きにしましょうか?」

 白玉クリームあんみつをたいらげた夏梅は、席を立つ。

「ちょっと!」

 まだ訊きたいことのある鳶雄に夏梅は真正面から顔を近づける。その突然

の行動に鳶雄はドギマギするが、彼女はにんまり笑って鳶雄の耳元に口を近

づけた。鳶雄の鼻孔に、夏梅の髪から流れてくる甘い香りが入り込んでくる。

「あとで、キミの家に行くから」

 意味深な言葉を耳元で告げて彼女は去っていった。

 しばし呆然としていた鳶雄は、真っ赤になっている顔を手で叩く。頭もぶ

んぶんと振った。

「……つーか、俺の家、知っているのか?」

 そんな疑問を口にしながら、彼女が置いていった丸い白い物体に視線を向

ける。

『タマゴ』――。

 何かが生まれるのだろうか?

 先ほど、手に伝わってきた脈動は、生々しかった。

 不気味に思いつつも、鳶雄はその『タマゴ』とやらを自分のバッグに入れ

たのだった。

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