第四話 甲州の嵐(一)
四方を山々に囲まれた東国の山国、甲斐。
この甲斐を支配する守護大名は、甲斐源氏の名門・武田家だった。
武田家の一族はこの日、甲斐の国都である府中に集い、緑に包まれた大草
原で祝いの宴を開いていた。
隣国の西信濃・
武田家当主の武田
かわいがっている娘の
この戦国の時代、国同士・大名同士が同盟を結ぶ場合、当主が男であれば
婚姻同盟が、当主が姫大名であれば当主のもとに義妹を送る義姉妹同盟が一
般的であった。
武田信虎も諏訪頼重も男だが、昨今では当主が女性であることもまれでは
ない。
当世流行の姫大名である。
戦国時代では、大名家の家督相続の際、家督を巡って親と子・あるいは兄
弟の対立が繰り返されてきた。
だが、下克上の時代である。いかに名門大名といえど一族同士の血で血を
洗う内紛が激化すれば、隣国に国を奪い取られてしまうことにもなりかねな
い。
そのため、いつしか「最初の嫡子が姫であってもその姫に家督を継がせ
る」というしきたりのようなものが武家の間で発生し、定着しつつあった。
甲斐武田家と信濃諏訪家の場合は、ともに当主が男であったため、婚姻同
盟が結ばれたのだ。
この日の宴には、諏訪頼重をはじめとする諏訪衆も招かれていた。
舞台上では、諏訪太鼓を打ち鳴らす
「これで甲斐と諏訪の絆は固く結ばれ申した。信虎どの、今後は互いに一族
衆としてよろしくお願いいたす」
まだ若い諏訪頼重は、独特の雰囲気を持っていた。
諏訪家は「
なのである。
なにしろ、日ノ本建国の神話に登場する神・
甲斐の
も、この信濃に根付いた神の一族を駆逐することは困難だった。武田信虎は
甲斐を統一したのち、隣国の信濃を奪おうと長らく戦い続けてきたが、信濃
の民に「神氏」としてあがめられている諏訪家を滅ぼすことを断念し、若い
当主・諏訪頼重に娘の禰々を嫁がせることにしたのだった。
「おう、頼重どの。今日より武田家は諏訪の一族。甲斐源氏と諏訪家がひと
つになった記念すべき日である。わが悲願である信濃攻略のあかつきには、
諏訪神社に広大な土地を寄進しよう」
広大で南北に長く延びている信濃には統一勢力はおらず、村上、小笠原、
諏訪、木曽などさまざまな大名国人が割拠している。
甲斐から信濃へ進出するルートは二つある。ひとつは北信の佐久地方へと
厳しい山を越えて迂回する難路。もうひとつが、現代でも中央自動車道とJ
R中央本線が通る、平坦な大道をまっすぐに進んで西信濃に出るルートだ。
信濃攻略のためには、大軍を素早く移動できる後者のルートを選び、信濃の
中央部に位置する諏訪を奪うべし、これこそが兵法の常道だった。信濃最大
の要所である諏訪さえ盗ってしまえば、諏訪を起点として信濃各地を奪うこ
とが可能になるからだ。
しかし諏訪は「神氏」であり、諏訪家と諏訪の民の抵抗は激しかった。武
田信虎はついに諏訪を攻め滅ぼすという路線を放棄し、諏訪家と同盟して取
り込むことにしたのだ。信虎は蛮勇と残虐で知られる無類の戦争狂だが、生
き延びるため・領土を奪うため・権力を掴むためならば
ることも多々ある、そんな複雑な男なのだった。
「禰々よ、頼重どのに挨拶をいたせ。お前の夫であるぞ」
「はい、父上さま! 頼重さま、ふつつかものですがよろしくお願いしま
す!」
「これはお美しい。さすがは東国きっての名門・甲斐源氏の嫡流にございま
すな」
「禰々は妻に似おってな。まだ子供だが、わしにとっては目の中に入れても
痛くない娘よ」
「ひまわりの花のようでございます」
若い貴公子の諏訪頼重にとって、先代の時代から執念深く信濃に攻め入り
続けてきた武田信虎はその
だったが、その信虎がついに「神氏」諏訪家と共存する道を選んだことは事
実上、頼重にとっては勝利と言える。
神代より続いてきた諏訪家を滅ぼすということは日ノ本の神々に叛逆する
ということであり、そのような無法は性残忍で野望のためなら手段を選ばな
い信虎をもってしてもとうてい不可能なことだったのである。
「ところで頼重どの。今後も信濃での戦で捕らえた捕虜は、甲斐に送り奴隷
とする。女子供は売り飛ばし銭に換える。よろしいかな」
「戦の常、致し方ありますまい。ただし諏訪の民は」
「むろん。諏訪は武田家の一族じゃ。武田は、敵には容赦ないが、一族を大
切にする」
「父上さま、今日はわたしと頼重さまのめでたい門出を祝う日ですよ! そ
んな悲しいお話は明日になさってくださいませ! 民を奴隷にだなんて」
「おう、そうであったな」
「戦場で相まみえた信虎どのはまことに恐ろしげな猛将でございましたが、
こうして同族となってお会いしてみると存外に子煩悩なお方ですな」
「敵と『裏切り者』には情けをかけず、一族は命を懸けて守りぬく。これが
武田の家風よ、頼重どの」
さりげなく『裏切り者』という言葉を強調する信虎のすごみに若い諏訪頼
重は内心(やはりこの男は猛獣だ)とひるんだが、そのような猛獣にも親子
の情はあるのだと思うと意外と言えば意外であり、内に甘いからこそ外には
残虐になれるのかもしれぬとも思った。
敵には容赦せぬが、ひとたび縁戚となった以上、裏切らない限りは一族と
して遇され、保護される。
それが武田家のやり方らしい。
ただ、信虎の長女で世継ぎである若き姫武将・武田
え方が少し異なるという。
そして諏訪頼重が危険を冒して府中へじきじきに乗り込んだ最大の目的は、
実はこの武田勝千代にあった――。
宴の主役である諏訪頼重・禰々の二人から少し離れた位置に、武田一門衆
がほぼ勢揃いしていた。
当主・武田信虎の子供たち。
みな、容貌魁偉な信虎には似ておらず、それぞれの母に似た子ばかりで、
いわば美男美女の集まりだった。
ただ、揃いも揃って視線が鋭いのは、ここだけは全員信虎に似たのだろう。
「幼い妹の禰々に先を越されてしまいましたね、姉上。婿取りよりも戦働き、
姫武将は大変ですね」
姉の勝千代を戦場で補佐したい、と望んで姫武将となった武田次郎が、妹
の
次郎は文武両道でありながら、決して出しゃばらず、常に姉をたてるよく
できた少女だ。
性格は柔和にして芯が強い。
ゆえに信虎に「女ながらわが子たちの中では、武将としていちばん出来が
いい」と見込まれている。
「……そ、そうね。あ、あたしにも、い、戦働きってできるかしら……」
次郎の隣でおどおどしている長身の姫武将が、長女の勝千代。
嫡子である勝千代は武田家の跡取りなのだが、幼い頃から病弱で小心ゆえ
に、次郎を跡取りにしたい信虎に「本来ならば他家に嫁がせるべきところな
のに」と煙たがられている。
勝千代がただの姫ではなく槍をとって戦う姫武将になる道を選んだのも、
合戦が好きだからではなく、知らない異国の男のもとに嫁がされるのが怖い
からだった。
勝千代は、緑の山々に囲まれたこの美しい甲斐を出たくないのだ。
木陰で静かに好きな書物を読みふけるのが、気が弱い勝千代にとって唯一
の楽しみなのだ。
「次郎ちゃん。ね、禰々ちゃんはだいじょうぶかしら」
「はい、姉上。禰々は幼いけど利発な子ですし、諏訪頼重どのはさすがに神
氏。噂に違わぬ貴公子です。女人の扱いにも慣れていますし、禰々をいじめ
たりはしないでしょう」
「そ、そうではなくて。その……ふ、夫婦になったら、こ、子供を作らなく
てはいけないのでしょう? 小さな禰々ちゃんに……その……えっと……だ、
だいじょうぶかしら?」
「子供を作る? そういえば、子供ってどうやって作るのでしょう姉上?」
「ふぇっ? え、ええと、それは、そのっ」
「なんだよ。おぼこいくせして好色本で覚えたのか? 勝千代の姉上は耳年
増だな!」
勝千代の隣で酒をがぶ飲みしながら笑っている少年が、太郎。
勝千代と次郎の弟で、信虎の長男。姫武将のしきたりがなければ嫡男とし
て武田家の跡取りになるべき存在だ。
信虎の性格をもっとも強く受け継いだ太郎は、生まれつき気が短く粗野そ
のものだが、育ちがいいせいか、信虎とは違って正義感が強い一面がある。
とはいえ、生まれた順番としては勝千代と次郎より遅く、しかも武将とし
てはあまりにも短気で切れやすいので、さしもの信虎も太郎を武田家の後継
者にしようとは考えていない。
もし姫武将の風習がこの戦国時代の日ノ本に根付いていなければ事情も
違ったのだろうが。
「禰々だって、子だくさんな親父どのの娘だ。すぐに赤ん坊をぽこぽこ産む
だろう。ネズミみたいに増やすぜ!」
「た、太郎ちゃん。あ、あたしは、好色本なんて読んでいない……もん」
「姉上、好色本ってなに? 太郎は知ってる?」
「へへっ。純真な次郎姉さんはともかく、勝千代の姉上は絶対好色だからな。
姉上は親父どのの女好きの血を受け継いでいるに違いねえ。目つきがよ、親
父どのにいちばん似ているからな!」
「あ、あたしは女の子よ……女好きなわけ、ないわ。くすん」
「こら太郎。姉上をからかうのはそのくらいにしなさい。まったく、顔を合
わせればこうなんだから」
次郎が、半泣きになっている勝千代をかばうように酔っ払っている太郎の
軽口を止めた。
「あ、ありがとう。次郎ちゃん……くすん、くすん」
「はいはい。姉上も、自分の弟の軽口に震えていないで、きりりとして。太
郎は凶暴で戦場では嬉々としながら人を斬るけれど、武田家の者には誰より
も優しくて甘いんだから」
「ひ、人を斬る……ぶる、ぶる」
「もう、姉上。姫武将になったからには、それくらいで怯えないで。家業で
しょう?」
「う、う、うん。そ、そうだね次郎ちゃん。あ、あたしも、次の合戦では
……ぜ、ぜ、前線に」
「はいはい。前線には出なくていいので、どっしりと
るってね。姉上は武田家の次期当主なのだから。なでなで」
「……う、うん。そうだね次郎ちゃん。えへへ」
太郎が「かーっ」と苦々しげに声をあげた。
どこの武家に、妹に頭を撫でられて喜ぶ姉(しかも次期当主)がいるのか、
と言いたいらしい。
「ったくよ。次郎姉さんは姉上を甘やかしすぎるぜ。飲むかい? うぃうぃ」
「勝千代の姉上は酒が苦手だからぁ~。わたしがいただくよ~」
三女の孫六が、太郎の手から盃を奪って飲み干した。
芸術家肌のひょうひょうとした少女である。
外見は長女の勝千代に生き写しだが、いつも趣味で妙な格好をしているの
で簡単に区別できる。
今日の孫六は、なぜか禅僧姿だった。
「なんだ、いたのか孫六」
「今日の宴の様子を絵に描いておこうと思ったのサ。かわいい禰々の門出だ
し。おかわり!」
「門出か。定も駿河へ行って、
ん離ればなれになっちまうな」
「だいじょうぶ、太郎はずっと甲斐サ。なぜか父上の子は女ばかりで男が少
ないから。父上が太郎を手放すはずがないよ~」
「そういや父上は、こんどは今川義元の妹を俺の嫁にしたがっているらしい
な。よほど駿河との同盟関係が大事らしいや」
「駿河から送られてくる塩がないと、山国の甲斐は干殺しにされちゃうから
ね~」
「しかしお前も、勝千代の姉上同様にどこにも嫁ぎそうにねえな」
「わたしは毎日、絵を描いたり詩を詠んだりと忙しいからサ。西国では最近、
茶道というものが流行っているらしいんだけど、甲斐の山奥までは茶人は来
ないよね~。つくづく、甲斐って田舎だねえ~」
「孫六も少しは働けよ」
「いや。疲れるもの」
孫六はどこか浮き世離れした少女だったが、大名家の子供たちともなると
一人か二人はこの孫六のような風流人が育つものらしい。
「しっかし、祝いの席なのにごちそうが『ほうとう』だなんて。甲斐は山国
で米が取れないんだからしょうがないとはいえ。白いお米が食べたーい」
おどおどしていた勝千代が、「出番が来た」と手をあげた。
「あ。孫六ちゃん。あたし、ほうとうを削るの得意なの。見ていてね」
「勝千代の姉上は、飯作る時だけは包丁を持てるんだよな」
「そうそう。姉上、孫六。諏訪家から白米が届けられたそうよ。しばらくは
「ほんと~、次郎姉さん? お米が食べられるよ、やったあ!」
「かーっ。さっすが田んぼがある国は違うな! すげえや! さっさと信濃
を
「……ほうとう、美味しいのに……くすん」
「そういえばよ。駿河に定が養子入りした時には、魚がたっぷり贈られてき
たよな!」
「駿河には海があるからね、太郎。海の幸は採っても採っても採り尽くせな
いというわ。海はどこまでも続いていて、果てしがないかのように広いん
だって。それに」
「……そ、それに、港での貿易でたくさんの利益を得られるそうね……珍し
い南蛮の品物も船からあがってくるとか……
「へえ。種子島ってなんだ、姉上? 食えるのか?」
「え、えっとね、太郎ちゃん」
「種子島とは最新式の武器よ、太郎。鉄砲とも呼ぶわ。鉄の弾を弓矢よりも
速く遠くまで飛ばす筒なの」
「次郎姉ちゃんには聞いてねえよ! 勝千代の姉上を甘やかすなよ!」
「甘やかしてなんてないわよ。あなたが凶暴な表情で姉上を威嚇するから」
「俺は素でこういう顔なんだって! つか姉ちゃんが姉上より先になんでも
答えてしまうから、親父どのだってだな。姉ちゃんのほうを跡継ぎにしよう
かなんて迷いだすんじゃねえかよ」
「わたしはそういうつもりじゃ。妹が姉を補佐するのは当たり前のことだも
ん」
「姉上はほっとくとごろ寝して本を読んでばかりだ。多少は厳しく育てたほ
うがいいぜ」
「……くすん。ま、孫六ちゃんは、お米とお魚、どっちが好き? それとも
種子島?」
「あー。わたしは、南蛮の絵画がほしい。日ノ本の絵とはまるで違うんだっ
て~」
「なんだよそれ。食えない上に戦にも使えないじゃねーか」
武田家のきょうだいたちが集まると、常にこうして騒がしくなるのだった。
武田家が集まった祝いの席で、異変が起きた。
武田信虎は、酒乱の気がある。
もともと気性が荒い男だが、酒が回ると理性を失って感情を爆発させるこ
とが多い。ことに、この数年はそうだ。年齢を重ねることで、抑えが利かな
くなってきたのかもしれない。
娘婿となった諏訪頼重と、勝千代・次郎・太郎・孫六の四人を引き合わせ
ている時に、信虎はいつもの癖で人見知りしている長女・勝千代に対して怒
りを爆発させたのだ。
「勝千代! お前はなにを怯えておる、この小心者が! 諏訪頼重どのはお
前の妹の夫、すなわちお前の義弟ではないか!」
「ご、ごめんなさい、父上」
「本来ならば、諏訪頼重どののもとにはお前を嫁がせるつもりだったのだ。
それをなんぞや、甲斐を出て他国で暮らすのは恐ろしいなどと泣き言をいい
よって、戦が恐ろしいくせに姫武将になるとは! 武田家の家督は、勇猛か
つ冷静な次郎が継ぐべきだったのじゃ! 惰弱なうぬに武田家の当主がつと
まるはずがない!」
「ひっ……ご、ごめんなさい……」
勝千代は幼い頃から、信虎と顔を合わせるたびに、こうしてしつこく言葉
で責められてきた。
殴られたことも何度もある。
臆病な勝千代は、信虎を見るだけで震えが止まらなくなるのだった。
「次郎よ、そなたには今日より『
長女で家督後継者の勝千代を差し置いて、先に次郎を元服させるというこ
とは、勝千代を廃嫡して次郎を後継者に据えると宣言したようなものである。
しかも信虎は、娘婿となった諏訪頼重の前で、そう公言したのだ。
次郎は「それは順番が違います、父上」と抗議したが、信虎はすでに泥酔
しているらしく、目が据わっている。
「勝千代は家督を継ぐ勇気など持たぬ、どうせ逃げだすわ。わしが死んだの
ちに武田家を切り盛りするのは、次郎、そなたの役目じゃぞ!」
妹の次郎に対しては、信虎は甘かった。
次郎は信虎が荒れ狂っても、いささかも顔色を変えず常に落ち着いている。
そこが、次郎が「勇猛かつ冷静だ」と信虎に評価されるところだった。
そんな次郎と比べれば、信虎は勝千代の臆病っぷりが鼻についてならない。
勝千代は身体も弱い。
暇さえあれば、書物ばかり読んでいる。
こやつはとても戦国大名の器ではない、さっさと諏訪に嫁がせてしまえ、
さすれば家督を次郎に譲ることができると信虎は考えて一時は勝千代を諏訪
へやろうと画策したのだが、勝千代の小心ぶり・用心深さは信虎の予想以上
だったのだ。甲斐から出て行くことを怖がり、また、知らない男と夫婦にな
ることも恐れて、勝千代はかえって「姫武将になります、甲斐で暮らしたい
んです」と自分の進路を「もののふ」の方向に決めてしまった。
せっかくの祝いの席で、信虎は勝千代を怒鳴っているうちにそのことを思
いだしてきて、いよいよ許せなくなってきた。
「父上。姉上の慎重さこそ、今の戦乱の世では武器となります。それにお心
の優しい姉上には、家臣たちに慕われる徳があります。この優しさは、父上
やわたしにはないものです。姉上こそが、これからの武田家を支え発展させ
てくれるでしょう」
それなのに、当の次郎は、今日も姉の勝千代をかばっている。
勝千代が家臣たちに慕われていることは事実だ――信虎は武田の血をひく
一門には甘いが、家臣など召し使いか下僕程度にしか考えていない。気に入
らない家臣を平然と手打ちにすることもしょっちゅうだった。今日も、「寝
過ごして宴に遅れた」という理由で一人を斬り捨てている。
家臣団は、いつも信虎の逆鱗に触れることをはばかって戦々恐々としてい
る。
うかつに
領民に至っては、年貢を搾取する奴隷扱いだった。
信濃を切り取るための無茶な合戦をやらかすたびに、信虎は自国である甲
斐の領民たちからなんだかんだと理屈をつけてはあらゆるものを徴発した。
だが、甲斐は山国で米が取れず、産業も遅れている。領民たちはもともと
貧しいのだ。その貧しさに戦争狂の信虎が追い打ちをかけるように搾取して
くるのだから、たまらない。
甲斐の領民たちは、信虎の合戦の犠牲となって、飢えていた。
それに対して、勝千代は虫も殺せないような優しい少女で、しかも一門だ
けでなく家臣たちや領民に対してもその優しさは変わらない。
この優しさは、勝千代が当主となってもおそらく変わらない天性のものだ
ろう、とみな思っている。
甲斐の家臣団も領民たちも、だから、早く勝千代に当主となってもらいた
かった。
むろん、それを表だって信虎に言えば、たちどころに首が飛ぶ。
信虎に対して勝千代への期待を口にできる者は、次郎だけであった。
「次郎。そちは不徳の姉に対してまことに優しいのう。それにひきかえ勝千
代、お前は妹である次郎の背中に隠れて震えているだけとは、なんというめ
めしさ! 女であろうが武将の道をいったん志したのならば、武将らしくふ
るまえ! ふるまわぬか!」
親父どの少しばかり飲み過ぎだぜ、と太郎が信虎を止めようとするが、止
めてもかえって信虎が興奮することを知っている孫六が、そんな太郎の腕を
無言で引っ張っている。
勝千代の母・大井の方がこの場にいないことだけが、救いだった。
大井の方は今、禰々と二人きりになって、別れを惜しんでいる。
「よいか。女というものは男に嫁いで子をもうけ、家のために尽くすのが本
来の仕事ぞ! 姫武将などという仕事は、次郎ほどに器量ある女でのうては
つとまらぬわ! まして、名門・甲斐源氏の嫡流たる武田家を継ぐとなると
――勝千代、うぬが当主となれば武田家は滅びるであろう!」
「……くすん、くすん」
「姉上、父上はお酒を召されて
「娘婿の諏訪どのに対しても恥ずかしい! 勝千代よ、わしに手討ちにされ
たくなくば、今ここで次郎に跡継ぎの座を譲ると言え!」
一門の結束が固いはずの武田家だが、当主・信虎と跡取り娘の勝千代との
不仲は、その武田家に暗い影を落としていた。
不仲というよりも、昔から信虎が一方的に勝千代を「惰弱だ」と嫌ってい
るのだ。
最初の子だっただけに、自分にまるで似ていない小心な勝千代を見ている
と腹立たしくてたまらないのだろう。
信虎が自分にもっとも似ている子だと思っているのは長男の太郎だが、こ
れは短気・粗暴にすぎて、思慮が浅い。甲斐の国主は武勇だけではつとまら
ないことを信虎は充分知っている。なので、さしもの信虎も太郎は後継者候
補から早々と外していた。ただ、太郎は父親譲りの猛将であるから、槍働き
には期待している。
また、武将にならない道を自らの意志で選んだ姫たち――今日諏訪頼重に
嫁いだ禰々や、すでに今川義元の義妹となり駿河へ行った定ははじめから後
継者候補にはならない。
風流道楽の道を突き進む孫六も後継者候補から外れている。
そもそも、長子でしかも姫武将となった勝千代が家督を継ぐのが道理なの
だが、その勝千代はこのようなていたらくで、さりとて嫁ぐのも他家へ出る
ことも拒んでいる。
信虎は道理を曲げてでも、武将としての器量をすでに明らかにしている次
郎こそを後継者にしたいのだった。
この席で次郎を先に元服させ「信繁」という名を与えたのも、勝千代に甲
斐守護職をあきらめさせるためだった。
勝千代に当たり散らす信虎のいつものかんしゃくで、座はしらけつつあっ
た。
「……信虎どの。宴の席です、今日はただ祝おうではありませんか」
諏訪頼重は(やはり武田家は一枚岩ではない。噂通り、信虎と嫡子・勝千
代との関係は最悪の状態にある)と目を輝かせていた。
もっとも、家督相続を巡って父子が争うのは、戦国ではよくあること。
ならばこその長子相続のしきたりなのだが、それにしても信虎の勝千代に
対する憎悪丸出しの態度と言動は、諏訪頼重にしてみれば異常だった。
「いや、まだある。勝千代、お前は家臣の
家を継がせ、自分の名から一文字与えて「
いか。自分のもとに取り込むつもりか。そうやってお前は、わしに忠誠を誓
う家臣団の絆にひびを入れるつもりじゃ」
「の、信房は、将来の武田を担う若き姫武将ですから、その……た、武田の
重臣になるにふさわしい家格を……あ、与えたくて……」
「馬場家はこのわしが断絶させたのじゃ! 覚えておろう。かつて工藤、内
藤、山県、馬場の四人は、家臣の分際でわしに無謀な戦をやめよと諫言して
きおった。ゆえに、四人とも切腹させ、家は断絶。その馬場家を勝手に復興
させるなど」
「あ、あの四人はただ、父上のために諫言を」
「家臣ずれが、主君にもの申す資格などないわ!」
教来石景政は勝千代と同年代の姫武将で、家格は低かったが、戦働きを重
ねてこのところ台頭してきた。いわば、叩き上げの武将だ。
巨大な
である。
だが、由緒ある武田家では、古来より戦は男のものという古い価値観が根
強く残っているので、姫武将の地位は低い。
信虎政権で重鎮となっている「武田四天王」のうち、政治感覚に長けた
の男武将だ。彼らはみな、信虎が若い頃からともに戦ってきた古参である。
四天王の中でただ一人、引退した「四人目」
を継いだ若い
家臣団の中では例外的存在だったが、飯富兵部は幼い頃から太郎の小姓をつ
とめてきた、いわば太郎の幼なじみなのだ。それ故に実力を認められて出世
できた。「女ではないか」と嫉妬する者はいるが、太郎に斬られることを恐
れて口に出せない。太郎は飯富兵部を実のきょうだいのように慕っている。
太郎の前で家族を罵倒すれば、太郎は瞬間に切れる。その者は、確実に首が
飛ぶ。
だが教来石には、そのような後ろ盾がない。しかも無口で、なにを言われ
ても反論することがない性格ゆえに、彼女は「信虎さまに身体でも売ってい
るのではないか」などと陰口を叩かれ、やりづらそうだった。
勝千代は、どこか自分に似ている彼女をほうっておけなかったのだ。
「ち、父上。こ、これからは男女の区別なく、人材を集める時代です。ひ、
姫武将も男武者同様に功績をあげれば出世できる、そのような武田家にして
こそ、戦国の世を生き残れると……その……」
勝千代自身は「家格」というものに価値を置く古い人間ではない。だが、
多くの人間はそうではないということも知っている。
勝千代は、武田軍団の重鎮となるにふさわしい格、つまり家名を彼女に与
えることが武田家と甲斐のためになると思い、教来石に断絶した馬場家を再
興させたのだった。
だが信虎は、諏訪頼重の前で面目を潰された、と思った。
こともあろうに婚姻の宴の場で、勝千代が自分に反論してくるとは!
「黙れッ、さからしい! お前は、自分を姫として他国へ嫁がせようとした
このわしに当てつけておるのか!」
「け、決して、そ、そのような意図は。うう……ぐすっ」
「すでに家督を継いだ気分でおるから、そのような増長ができるのじゃ!
酒がまずい! 抜け、勝千代」
「え、えっ?」
「武将として生きると決めたのであろう。ならば腰の刀を、抜け。わしを
斬ってみよ。刀を抜けもせぬくせに侍ぶるではないぞ!」
「……う、うう……ご、ごめんなさい、父上……」
「ふん。お前が抜けば、その瞬間に謀反のかどで無礼討ちにしてくれる。抜
かねば、貴様はやはり惰弱。武田家の跡取りとは認めん。廃嫡し、次郎を後
継者とする。どうした。やってみい」
「そんな。無茶苦茶だぜ親父どの!」
半切れした太郎が「なんで親父どのは姉上にそうも厳しいんだ」とがなり
立てるが、信虎は「武田家はそこいらの出来星大名ではない、甲斐源氏の嫡
流、名門中の名門ぞ! 器量なくば当主はつとまらぬ!」と怒声をあげてそ
の太郎を威圧する。
「抜け! 勝千代! 父が恐ろしいか。そんな臆病者が武田家の当主になれ
ると思うてか!」
「……うう……ぐすっ……」
「もうおやめください父上。父上が姉上を無礼討ちにするとあれば、わたし
も抜かなければならなくなります」
次郎が、勝千代をかばいつつ、殺気を放ちながら自らの太刀に指をかけた。
次郎は冷静沈着だが、やる時はやる勇気の持ち主だ。
相手が信虎であっても、ほんとうに抜きかねない。
さすがは次郎よ、こやつこそほんものの武将よ、と信虎はうなずいた。
次郎がこうして信虎に責められて泣いている勝千代をかばえば、かえって
信虎は「やはり次郎こそ」と確信を深めるのだが、抜く抜かないというきわ
どい話になれば次郎は姉をかばうしかなかった。
泥酔した信虎は、勢い余ってほんとうに勝千代を斬るかもしれないのだ。
信虎は一門には甘いが、勝千代は例外で、ずっと憎まれてきた。
ことに今日は、次郎を先に元服させた信虎と、信虎が取りつぶした馬場家
を姫武将に継がせた勝千代とが、「武田家」の運営を巡って完全に対立した
形となっている。
娘婿の諏訪頼重がいるためか、信虎はいつもよりも強情だった。ここで勝
千代に面目を潰されては、諏訪との同盟関係もおかしくなる、のちのち頼重
に舐められることになる、と知っているためだろう。
今回ばかりはこのままではおさまらない、と次郎は内心薄氷を踏む思い
だった。
「よいか次郎。勝千代は、一門と家臣との間に境目をもうけておらぬ。これ
は間違っておる。武田家一門には崇高な血の絆というものがあるが、家臣は
武田家にとってはどこまで行っても家臣よ。愚かな勝千代には、その道理も
わからぬのよ! ましてや、若い姫武将に名門・馬場家を継がせようとは!
勝千代は武田家の伝統を壊す者ぞ」
「……う……うう」
「ええい、勝千代よ。なにを震えておる。己の意見を、妹に言わせるつもり
か?」
「姉上、父上はかなりお酒を召しておられる様子。ここはいったん引きま
しょう」
「……ううん。次郎ちゃん。こういう機会は滅多にないし……あ、あたしの
考えていることを、父上に言ってみるわ」
勝千代は信虎に怯えている。何度も言葉に詰まりながら、自分の意志を伝
えた。
「父上。甲斐は貧しい国です。米も塩も採れず港も立派な城も持たない甲斐
の唯一の財産は、人です。あたしは、武田一門だけでなく、家臣団も領民も
また武田家という大きな家の家族であると、そう考えています。血だけでは
なく、男と女の差などもなきものと思っています。あたしが甲斐の国主と
なったあかつきには、生まれによる差も男女の区別もつけません。能力ある
人材は身分・性別にかかわらずみな引き立てて、武田家の財産とします。姫
武将である馬場信房に名門の家名を与えて取り立てたのは、そのことを甲斐
中に知らしめるためです」
勝千代は、「甲斐源氏」の血をなにより重んじる信虎が一門とその他の人
間を別の生き物として区別して扱う態度に、以前から疑問を抱いていた。人
間に対する生来の優しさゆえか、それとも一門であるはずの自分だけが一門
扱いされずに罵倒されてきたためか、あるいはその両方か。
次郎と孫六は「よくぞ申されました姉上!」「ただの本の虫じゃないんだ
ね~。すっごい」と感動しているが、信虎は違った。
「か、勝千代、貴様は……神聖な武田の血を、水呑百姓の血と同じと言うの
か!」
「は、はい。武田も人なら、領民も人。同じです。武田の血だけが赤いわけ
はありません……くすん」
「貴様というやつは、自分の身体に流れる甲斐源氏の血を否定するのか!」
「ひっ? た、『武田家』だけが恩恵を受け、それ以外の人間は搾取される
ために生きている。そのような古い甲斐を、あたしは、甲斐に暮らすすべて
の人間が『武田家』の家族として生きられるような、そんな国に変えてみた
い……んです……」
貴様はひきこもって書物などを読みあさってきたから、そのような愚かな
考えを抱いたのじゃ! と、信虎は顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
「この、惰弱者があああ!」
次郎がけんめいに信虎を止める。
「勝千代よ! 本来ならば斬り捨てるところだが、今日は禰々の祝言の席じゃ。
去れ! わしの前に顔を出すな! わしが許すまで、
「……ち、蟄居……」
「蟄居が嫌ならば、明日、甲斐を立て。駿河の定に挨拶回りをしてこい。
禰々の祝言の席に出られず、定も寂しい思いをしているであろう。今川義元
どのにはすでに話はつけてある。明日、駿河より迎えが来る」
駿河へ出向せよ、との命令だった。
勝千代と次郎は、信虎がただ酔って絡んでいたのではなく、すでに「勝千
代を駿河へ出向させる」という策を巡らせ、今日の宴の席でその策を完成さ
せるつもりだったことにすぐに気づいた。
信虎は性暴虐だが、策謀を巡らすことにかけても切れ者なのだ。
勝千代は、今しばらく父上とあるべき甲斐のかたちについて話し合いたい
と欲した。しかしこれ以上祝いの席を乱してはならない。それでは禰々が
勝千代は「……はい」と泣きながら立ち去った。
そして諏訪頼重は、勝千代の言葉を聞いて、眉をひそめていた。
(武田勝千代は気が弱い惰弱な姫武将ではなく実は末恐ろしいほどの才人で
ある、ただ父・信虎に目をつけられぬよう才を隠しているだけであるとは聞
いていたが、ほんものはその噂を超えている。まるで虎だ。もしも勝千代が
武田家の家督を継げば、信濃も諏訪も、必ずや勝千代に滅ぼされる)
武田勝千代は甲斐源氏の血というものをまったく崇拝していない。血筋も
家格も、すべてを「力」という機能的なものとしてのみ捉えている。武田の
血脈を誇りとしている信虎が怒るのも、勝千代が一見臆病そうに見えてその
実は神仏をも恐れぬ思考の持ち主だからではないか。ならば、「神氏」とい
う血筋の力で戦国の世を生き延びてきた諏訪家もまた、勝千代にとっては
――。
勝千代が去ったあと、信虎は次郎を賞した。
「次郎よ。よくぞ激高する父を制止し姉を守った。今日そなたが見せた気概
は、まさに武田家当主にふさわしい。これはひいき目ではないぞ。決めたぞ、
勝千代は廃嫡する。おおかた板垣と甘利は『筋目が違います』と反対するで
あろうが、廃嫡されたくなくば勝千代は今この場でわしと戦うべきであった
のじゃ」
「父上。姉上は、大変に優秀なお方なの。わたしとは頭のできが違うの。ま
だまだ姉上は話し足りないと思うわ。もっと話し合ってくだされば、姉上を
理解していただけるはず」
「もう言うな次郎。そなたの姉を思う気持ちはわかった。そなたと禰々に免
じて、無礼討ちだけは勘弁してやる。まずは板垣と甘利をうなずかせねばな
らんな」
板垣信方と甘利虎泰。四天王にして信虎が若い頃からともに戦ってきた宿
将。
この二人が、ともに「勝千代さまを当主とするのが筋目」「筋目を曲げれ
ば武田家は乱れ、敵国に隙を与えます」と次郎擁立に反対していることを、
信虎は知っていた。
しかし、信虎といえどさすがにこの二人だけは切腹させるわけにはいかな
い。板垣は甲斐のまつりごとを、甘利は戦を、それぞれ取り仕切っている。
だから信虎は、勝千代を駿河へ出向させる腹づもりだけはすでに四天王に
伝えていたが、そのまま追放して甲斐に戻さぬつもりであることは誰にも打
ち明けていない。
駿河へ出してしまえば、なんとでもなる。
「勝千代の姉上も、ああまで言われて泣きながら引っ込むことはねえだろう
に。親父どのを斬っちまえばいいのによ。なあ、親父どの?」
無頓着な太郎はそのような信虎の陰謀には、まるで気づいていなかった。
いつもの親子げんかだと無邪気に思っている。
「太郎、お前はそういうところがいかんのじゃ。本来ならば男子であるお前
に家督を継がせたかったのだが、お前はつくづくわしの悪いところだけを継
いでおる」
「そっか? 一発くらい斬ったって死なねえだろ、親父どのは。虎が二本足
で歩いているようなもんだぜ、はははっ! 二人はよう、刀と刀で語り合え
ば親子の情もわくと思うんだがよう」
「……お前には当主は無理じゃな、やはり」
「なんでだよっ親父どのっ? 拳の勝負なら、きょうだいでいちばん俺が強
いぜ!」
「さすが太郎、拳と刀が同列なんだね。あーあー。父上が騒いだから座がし
らけちゃってるよ、いじめってよくないよね。ふわあ」
退屈そうに輪から離れていた孫六が、大あくびをした。
信虎は血相を変え、「いじめなどではない! 親子げんかなどでもない!
これは武田家の大事じゃ!」と孫六を一喝した。
「これ次郎。板垣と甘利を呼べい。今すぐにじゃ」
「ち、父上。まさかほんとうに姉上を廃嫡されるのですか?」
「すでに今川方の迎えは国境に近づいておる。明日駿河へ発たぬというのな
らば、廃嫡する。わしはやるといったらやるぞ、次郎。酒の席の上のたわむ
れではない! おうそうじゃ、頼重どのはどう思われる?」
信虎にたずねられた頼重は「なにごとも当主の信虎どのが決められること
でしょう」と静かにうなずいていた。
「今の武田家の当主は、信虎どのです。さあ、もう一献」
策士の諏訪頼重は、武田家から禰々を
恐るべき侵略者になるであろう武田勝千代が甲斐の国主になる前に始末しな
ければならない、と「勝千代暗殺」を思い定めて府中に乗り込んでいたのだ。
その性暴虐とはいえ、血筋を重んじる信虎のほうがまだ諏訪家にとっては
で底が知れぬと常々諏訪頼重は感じていた。こうして実際に勝千代に会って、
その思いはいよいよ強くなった。
この時代の一般人同様に諏訪家の血をあがめている信虎は機嫌を取ってい
れば害にはならぬが、諏訪家の血に価値を認めていない異端者の勝千代が甲
斐の実権を握ればいずれ諏訪家を滅ぼそうとするだろう、と。
(勝千代は利発な上に用心深いという。危険だが、やはり今の千載一遇の好
機を捉えて暗殺を決行しよう。やるならば今日だ。今日しかない。もしも失
敗しても、勝千代は駿河へ出向と称して逃亡する決意を固めることになる。
首謀者が誰かさえ、発覚しなければ。いっそ、父・信虎から刺客を放たれた、
と誤解させればよい。今ならば、騙せるはずだ)
次郎は、諏訪頼重がなにかを企んでいることに、そして勝千代を排除すべ
き危険人物として見ていることに気づいた。
「父上! 姉上に害をなせば、たとえ父上といえどもわたしは黙ってはいま
せんから!」
「おうおう。姉思いなそなたが勝千代を慕っておるのはわかっておる。命だ
けは奪わずに済ませてやろう。ただ、小心者のあやつは駿河へ行くのを渋る
であろうから、多少はこらしめねば決心できぬかもしれんな」
「父上! 武田家一門を大切にする、それが家風と言いながら、なぜ姉上に
だけそれほど辛くあたられるのです!」
「次郎よ。あれがおとなしく姫としてどこかへ嫁いでおれば、辛くあたるこ
ともなかったわ。器でもなく気概もないのに当主になろうなどとするから、
排除するしかないのじゃ。この戦国の世で、あんな惰弱な当主では国を保て
ぬ。駿河の今川義元、小田原の
継げばあなどって甲斐へと攻めてこよう。甲斐は山に囲まれた小国、戦に強
くかつ政治のかけひきもできる有能な武将が家督を継がねばとうてい保てる
ものではない。つまり、そなたじゃ次郎。すべては武田家を滅ぼさぬため
じゃ」
戦に強く政治のかけひきもできる武将――姉上こそがまさにその人なのに、
どうして父上はわかってくれないのだろう、と次郎はうらめしかった。
わたしは、姉上がいてくれるからこそ、一人前のようにふるまっていられ
るだけ。姉上がいなければ、わたしなどただの甘やかされた姫にすぎない、
と。
姉上が萎縮してしまったのは、幼い頃から父上にずっといびられ続けてき
たためであって、本来の姉上はわたしなど比べものにならないほどの人なの
に、とも。
その時。
「信虎どの。勝千代どののことはいったん忘れて、今宵は朝まで飲み明かし
ませぬか。お近づきの印に」
諏訪頼重が、すでにろれつが回らなくなってきている信虎にそう声をかけ
た。
その一瞬に、頼重が見せた狡猾な視線を、次郎は感じ取っていた。
次郎は祝宴の席から外れると、人気のない林の奥へ、馬場信房を呼んだ。
馬場信房は姫武将にしては背が高く、どこか眠たげに無表情で、ぼくとつ
としている。
動きものっそりしていて、どことなく雌牛っぽい。
だがしかし、内面には激しい気性を秘めていて、いざ戦いとなると鎚を振
り回して敵をなぎ払う猛将となる。
「……自分が……馬場家を継いだ……ために……あー……姫さまが……」
次郎から子細を聞いた馬場は、顔には出さないが、衝撃を受けたようだっ
た。
勝千代と信虎の不仲にはずっと心を痛めていたが、まさか自分がきっかけ
となって信虎が爆発するとは。
「いえ。馬場家の件は姉上を駿河へ追い出すための口実よ、気にしないで」
ただ、禰々には言えないことだけれど、諏訪頼重がこの武田家の内紛を利
用しようとしている、明るい祝宴の陰ですでに新たな陰謀がはじまっている、
事態は風雲急を告げているわ、と明晰な次郎はすでに姉が二重の危機に陥っ
ていることを理解していた。
「……諏訪頼重が……」
「ええ。諏訪頼重はこの混乱に便乗して姉上を暗殺しようとしている。今、
この国には宴に招かれた諏訪衆とともに、諏訪が連れてきた信濃の忍びが入
り込んでいる。あいつが姉上を暗殺するなら府中に乗り込んでいる今しかな
いわ。父上を酒の席に誘ったのは、自分と暗殺劇との間に関わりがないと父
上に信じさせるため。姉上の暗殺に失敗した場合、即座に父上に『勝千代さ
まをそれがしの手の者が少しばかり怖がらせて駿河へ追い出そうとしたので
す』と弁明するつもりだわ。成功すれば、『手違いで死なせてしまった』と
言えば済むと思っている」
武田一族における親子のいさかいに、さっそく、隣国が乗じてきたのだ。
「……命に……代えて……この教来石……いや、馬場……信房が……」
「時間がないので急いでしゃべってちょうだい!」
「あー。姫さまを、お守りする」
「お願いね! わたしは、板垣、甘利たち四天王を集めて対策を練るわ!」
「……次郎さまは、子供の頃から……ほんとに、姉思い」
「当然でしょう。わたしは姉上の妹だもの。あのお優しい姉上のためなら、
わたしは死んだってかまわない。わたしは今日に至るまでそれほどの愛情を、
姉上から注がれてきたわ」
「……わかる。身分いやしい自分も……次郎さまと、気持ちは同じ……」
「いやしくなんてないわ。姉上にとっては、あなたも武田家の家族よ!」
「……ありがたき……幸せ」
馬場信房は、表情こそないが感極まったらしく、ゆっくりと頭を下げてい
た。
「……姫さまを……不眠不休で……お守りする」
「ただ、禰々を悲しませたくない。諏訪の刺客が現れても、ことを表沙汰に
してはだめよ」
このまま、諏訪頼重が割り込んできたこの父子の争いが――争おうとして
いるのは姉上ではなくわたしだが――諏訪家を巻き込んだ大乱に発展すれば
武田家はあやうい、と次郎は奥歯をかみしめていた。
もしも今宵、姉上を守りきれたとしても、明日には姉上を迎えに駿河から
使者が来る。父上と姉上の対立はますます激化する、武田家は一枚岩にはな
れない、一門は崩壊へと転がり落ちていくだろう、とも。
(なぜ父上は姉上を憎むのか、ああもあしざまに
どうしてもわたしにはわからない)
信虎の勝千代に対する憎悪の原因を見抜けぬ以上、信虎の心を変えるすべ
を、次郎は見つけることができなかった。
(父上は、まだ幼い禰々を諏訪へやりたくなかった。本来ならば姉上が家督
の継承権を放棄して諏訪に嫁ぐべきだったと思っている。以前、今川義元の
義妹になれという命令も姉上は断った。あの時も駿河には、姉上ではなく、
妹の定が行った。そういう今までの行きがかりの積み重ねが爆発したのだろ
うけれど、でも昔から父上はずっと姉上にだけは厳しかった……)
もともと、幼い頃の勝千代はもっと
だった。
しかしその闊達さと才気を信虎に嫌われ、ことあるごとに罵倒されている
うちに、勝千代はすっかり自信を失って今のような気の弱い姫になってし
まったのだ。
だから本来は慎ましくおとなしい性格の次郎が、今は、勝千代の代わりに
表に出て動き、発言し、走っている。
信虎の勝千代への憎悪ゆえに、姉妹の性格が、反転しているのである。
勝千代は次郎を嫉妬しても当然の扱いを受け、次郎は勝千代をあなどって
も当然のひいきを受けてきたのだが、しかしこの二人はたとえなにがあろう
ともお互いへの親愛の情を失うことはなかった。いやむしろ、信虎が二人の
扱いに差をつければつけるほど、姉妹の絆は固く結びついていった。
それがまた、信虎には腹立たしかったのかもしれない。
(……姉上が腰を低くすればするほど、父上の姉上への憎悪は大きくなる一
方だった。卑屈だ、と。目立てば出しゃばりと言い、おとなしくすれば卑屈
だと言う。これでは姉上もどうしていいのかわからなくなる)
おそらく、これほど信虎の感情がこじれた原因を次郎が突き止める頃には
もう、勝千代は排除されているだろう。
今はとにかく、勝千代を守らなければならないのだ。
狡猾とも呼べる切れ者の信虎だが、勝千代については感情的になって冷静
さを失う。おそらくは諏訪頼重に、むざむざ勝千代暗殺の機会を与えてしま
うはずだ。
傷心の勝千代は、狭い山道を一騎で駆けながら、武田家の本城・
の北東にある
積翠寺温泉は甲府盆地を取り巻く山のひとつ・要害山の麓にある。
父・信虎がこの山に城を建てた際に、偶然山麓の温泉を掘り当て、積翠寺
温泉が開かれた。勝千代はこの積翠寺温泉で産湯をつかったのだ。
勝千代は生まれつき病弱で風邪をひきやすく、体調を崩した際にはよくこ
の山の上の温泉に浸かった。また、誰にも会わずに長思案するにはこういう
隠れ家めいた場所は便利だったのだ。
それに、駿河へ出向すればおそらくそのまま帰れない。せめて思い出深い
積翠寺温泉で最後の一夜を過ごそう、と考えていた。
しかしこの日は、ただ一騎だったことが災いした。
山道をのぼる途上で、いきなり、一人の忍びが勝千代を襲撃してきた。
はじめは、猿かと思った。
その小柄な忍びは、ほんものの猿のように森の木々の枝から枝へと悠々と
飛びながら、頭上より勝千代に迫ってきた。
「ウッキィ~! 武田勝千代どの、お命ちょうだいいたすッ!」
忍びが口にしたのは、陽気な少女の声。だが、その小さな身体から放たれ
る殺気はただ者ではなかった。
勝千代も武田家の姫武将である。武芸は習得している。
だがこの忍びは、まるで猿のように身が軽い――!
騎馬武者の剣法は、基本的に正面から相手の騎馬武者と激突するためのも
ので、頭上からの攻撃は想定していない。
その頭上から、忍びは問答無用で手裏剣を放ってきた。
「な、なにもの? どうして?」
「愚かな人間どもに教える義理はないでござる! ウププププ!」
勝千代が少しでも怯えてためらっていたら、容赦なく手裏剣で頭を割られ
ていただろう。
(殺される――死!?)
この時。
勝千代の瞳の奥に、猛然と燃え上がるものがあった。
別人のように
「ああああああっ!」
勝千代は叫びながら、空を舞いながら忍びが放ってきた手裏剣を、太刀で
なぎ払っていた。
そしていささかのためらいなく、頭上に落下してきた忍びを殺すために、
さらに返す刀でもう
すさまじい太刀さばきだった。
武田信虎の血が突如として覚醒したかのような、圧倒的な殺意と気合い
だった。
「ウ……ウキャアアッ? 並々ならぬ殺気! 危ないでござるっ!?」
勝千代の頭上へとまっすぐに落下していたはずの忍びは冷や汗をかきなが
らなんと「ふわり」と浮き上がり、その太刀をぎりぎりでかわした。
「えっ?」
「ウッキ~! 山は拙者のお友達でござるよ!」
気がつくと忍びは、勝千代がまたがっている馬の頭の上に、すっくと立ち
はだかっていた。
いつの間に、移動していたのか?
信じがたい体術だった。
顔を覆面で隠しているが、その身体つきと声から見て、どうやら少女らし
い。
「あなたは、な、なにものっ?」
「ウキュキュキュキュ(笑い声)。忍びは雇い主の名を明かさぬでござる。
拙者・
に用心棒として雇われただけでござる。さんざん飲み食いして信濃に帰るつ
もりが、いきなりあんたを殺せと言われたでござる。きゃつは最初から刺客
として拙者を雇ったようでござる、まんまと腹黒い雇い主に騙されたでござ
るよ。暗殺仕事などまっぴらごめんでござるが、もうお駄賃を前払いでいた
だいて使ってしまったでござる。お互いに運が悪かったでござるな」
「猿飛?」
北信濃・真田の里の忍びが用いるという、
術」。今見たものがそれだ、と勝千代は気づいた。どうやって跳躍している
のだろう? 枝から枝を飛び跳ねていた? いや、あたしが太刀を放った瞬
間、この忍びは瞬時にあたしの頭上から馬の首の上へと移動していた――!
ただの体術じゃない、もっと不可思議ななにかだわ、と勝千代は震えた。
「ウキャアアアッ? うっかり名乗ってしまったでござる!? いっ、いつの
間に拙者に秘密をぺらぺら話させる術を仕掛けたでござる?」
「あ、あなたが勝手にしゃべったのよ?」
「ウキャ~。誤解しないでほしいでござる。拙者は信州真田の庄を根城とし
ているが、今回の仕事は主の真田さまとは関係がないでござる! 真田さま
は今、居城を奪われて上州へ落ち延びておられる! 油断して敵に空き城を
あっさり盗まれるとはお茶目さんでござる。拙者はやむなく
て甲斐まで日雇いの出稼ぎに来ただけでござる」
「じゃあ、あたしを殺そうとしているのは、諏訪頼重? 禰々との祝言の日
なのに、そんな」
「ウキイイ? なぜ拙者の雇い人がわかったでござるか? 貴様、さては天
才かッ?」
猿飛佐助、どうやら身軽なだけでなく、とことんお調子者で果てしなく口
が軽いらしい。
自分から、雇い主の名を半分明かしたようなものである。
術は超人的だけれど、忍びとしてはどうなのかしら、と勝千代は首をかし
げたくなった。
「泣き虫とうかがっていたが意外と聡いやつでござる。万が一殺しそこねた
際には、お父上の仕業だと疑わせよという陰湿な命令を受けていたでござる
が――まったく、腹黒い雇い主でござるよ――かくなる上は、こんどこそ
きっちりお命をいただくでござる!」
猿飛佐助は馬の首の上に立ったまま、謎の猿踊りを踊りだした。
「愚かな人間どもはみんな、この拙者のかわいいかわいい猿踊りに見ほれて、
さくっと殺されるでござる。『見ざる! 言わざる! 聞かざる!』 そ~
れそ~れ♪」
これは踊りではない、目くらましの術! と、勝千代はすぐに気づいた。
「でも、この距離なら――! 猿飛の術は使えない!」
勝千代は、目と鼻の先に立っている猿飛佐助の急所を狙って、まっすぐに
小刀を突いていた。
日頃のおとなしい書物好きの少女とはまるで別人のような、野獣の眼光を
放ちながら。
猿飛佐助は、宙に飛んでその太刀を避けながら、喚声をあげていた。
「ひいいいっ、ひどいでござる! かわいい拙者の踊りを無視して問答無用
で殺しに来たでござる! なんという非情の太刀筋、その獣のような瞳!
こんなにもめんこいめんこい拙者を仕留めにかかる際にいっさい
は、あんた鬼でござる!」
「また、避けられたッ? この忍び、宙に、浮いているっ?」
「そうでござる! ほんものの猿飛の術は噂以上でござるよ!」
「ええっ、嘘?」
勝千代がただ一度瞬きした、その時。
勝千代が横に
た。
佐助がいつ動いたのか、いつ跳躍したのか、まるでわからない。
大地に引かれる力というものを感じさせない佐助の瞬間移動術は、まるで
手品だ。
忍びの術が人間離れしていることは知っていたが、これほどとなると心が
納得しがたい。
「なに。どうして。こんな」
「真田の忍びはみな、幼い頃に信州
帰らずの谷へ落ちた者たちでござる。おおかたは死ぬが、生き延びた者はそ
れぞれ独自の忍びの術を体得して戻ってくるでござる」
「と、戸隠山?」
「ウププププ。甲斐の田舎者には想像もできないでござるね。信濃には、国
譲りの戦いに敗れて諏訪の地まで逃げてきた建御名方神をまつる諏訪の社も
あれば、かの
てきたという戸隠山もあるでござる。不可思議も怪異もある神秘の国、それ
が信濃!」
思わず勝千代は、ただ敵を殺すために本能で動く野獣であることを忘れ、
猿飛の術の仕組みを暴こうと頭を動かしてしまった。
(そんなはずはない。忍びとて怪異ではないわ。必ず術には仕掛けがあるは
ず、その仕掛けを破らなければ殺される!)
しかし理知を取り戻すと、恐怖心が突如として湧いてきて、その恐怖心が
勝千代をひるませた。
「あれま。もとの姫に戻ってしまったようでござる?」
その一瞬の隙に、つけいられた。
佐助は再び宙へ飛び上がると、勝千代の顔めがけて、白い粉を投げつけて
きた。
「けほ、けほ、けほっ! ひ、卑怯な……ぐすっ」
「忍びの術は、武士の剣法とは違うでござる。まさに鬼道! 相手を殺せば
それでよいのでござる!」
視界をふさがれた。
「卑怯であろうが、勝てばよかろうなのでござる! なかなかに面白きお方
であったでござるが、しょせんは人間。お命、ちょうだい!」
「けほ、けほっ」
ひとたび気弱な少女に戻ってしまった勝千代は、もう抵抗できなかった。
もうこのまま死んじゃったほうがいいんじゃないかしら……父上も厄介払
いができたと喜ばれるだろうし……次郎が武田家を継いだほうが……。
心が折れそうになったが、身体のほうが勝手に生きることを欲していた。
勝千代の生存本能は、猿飛佐助の突き出すクナイから避けるためだろう、
とっさに手綱から手を放して、馬から飛び降りていた。
まだ視界はふさがったままだ。
「なかなかの執念、そして落馬を恐れぬ英断でござる! だが拙者の猿飛の
術の前には無駄でござるな!」
猿飛佐助が、落下していく勝千代を仕留めにかかった。
クナイを振りかざして、どん、と宙へと飛び出し、勝千代へ迫る。
が、その時。
「だ、だめっ~! 姫さま、逃げましょう!」
間の抜けた少女の声とともに、佐助のクナイを割ったものがあった――
『逃』の一文字が刻印された小刀だった。
佐助の背後から正確かつ強力な小刀が飛んできて、勝千代を間一髪で佐助
のクナイから守ったのだ。
「おっ? 拙者ともあろうものが?」
佐助は驚いていた。
なおも宙を回転しながら転落していく勝千代の身体を追うが、新手の攻撃
が来た。
こんどは、正面から巨大な鎚が振り下ろされてきた。
次郎から「姉上を守って」と託されていた馬場信房が、間一髪で勝千代に
追いついたのだ。
「……やらせない」
無表情ながら、大柄な馬場信房は阿修羅のような殺気を放ち、馬から飛び
降りて全力で佐助の頭を鎚で狙っていた。
片手で落ちてきた勝千代の身体を抱き留めながら、もう片方の手だけで鎚
を操る馬場信房の剛力は、姫武将のものとはとても思えない。
さらに、投げ小刀の第二弾・第三弾が佐助の背中や後頭部にぼこぼこと命
中する。
「ウキャアアア?」
を用いて微妙に身体を動かしてよけなければ、たちどころに鎖帷子の隙間を
すり抜けて肌を突き刺しただろう。
「なんで刺さらないの~? 姫さまをいじめるお猿さんは悪いお猿さんな
の! えい、えい!」
どうやら背後から、馬場信房とは違う誰かが小刀を投げてきている。馬場
信房さえいなければ猿飛の術を用いて小刀を完全に避けられるのだが、猿飛
佐助をもってしても今はこの目の前の鎚をかわすので精一杯だ。
馬場信房一人であれば殺せるものを、拙者を邪魔する小娘はいったい誰ウ
キ?
だが、これは一時の雇われ仕事である。
生来お気楽な佐助に、諏訪頼重の陰湿な命令に殉じて命を捨てねばならぬ
義理はなかった。
そもそも、相手は三人とも女の子である。特に、後ろから小刀を投げてく
る少女のへっぽこ声といったら、緊張感がなさすぎる。
勇猛でむさくるしい男武将をさっくり殺すというのならともかく、愛らし
い女の子たち三人が相手では、どうにもやる気が削がれた。
最初の一撃で勝千代どのを仕留められなかった時点で拙者の負けだったウ
キ、と佐助は舌を巻いた。
(武田勝千代! 気弱そうに見えて、拙者を殺すべく真っ黒い殺気を放った
その眼光はやはり武田信虎の娘だったでござる。あれがこの姫の本性ならば、
末恐ろしい姫武将でござる。だが、面白い!)
佐助は見切りが早い。
瞬時にこの場から離脱することを決めた。
「これにてごめん!」
どろん!
こんどは広範囲に、白い
「……むっ。目くらまし……」
「今です、姫さまあ! ここは、逃げましょう!」
猿飛佐助は、わずかな隙にその姿を完全に消し去っていた。
積翠寺温泉の岩風呂に浸かりながら、勝千代は府中の城下町を見下ろして
いた。
「二人とも、命を救ってくれてありがとう。ここは密談するにはちょうどい
い場所よ。殿方は入ってこられないし」
右隣には、「……うー」となぜか照れている馬場信房。
「がーん。姫さまのお胸、意外にも大きいです! こ、腰のくびれ具合とい
い、丸く引き締まったお尻といい、白いふとももといい、すごいお身体!
美しい! てっきり姫さまの胸は洗濯板みたいなんだろうと勝手に想像して
いました、ごめんなさいごめんなさいです!」
左隣には、小刀で勝千代を救った、見知らぬ少女。
「あ、でも。百姓の娘のあたしが、武田の姫さまと一緒に温泉に入っていい
のでしょうか? ここはいったん逃げたほうが……」
あどけないひまわりのような笑顔は、どこか禰々に似ていた。
「いいのよ。あなたはあたしを救ってくれたんだから。ありがとうね」
「……小刀を手裏剣のように……正確に投げていた……立派な、武術だっ
た」
少女はぽっと照れて、お湯の中に鼻まで浸かってしまった。
「ええと……あなたのお名前は?」
「か、春日村の百姓の娘で、源五郎と言います。ああ姫さまとお風呂に入っ
ていると思うとだんだん恥ずかしくなってきました、やっぱりここはいった
ん逃げて」
「……あの小刀の術は……どこで」
武芸好きな馬場信房は、春日源五郎の小刀投げにきょうみしんしんだ。
「ええと。雀を捕まえるために覚えたんです。甲斐はお米が取れませんし、
大殿さまが毎年無茶な戦を繰り返すものですから、いつも家族は飢えていて。
だから焼き鳥が食べたくって、何度も練習しました。雀は逃げ足が速いです
から、一撃で仕留めないと!」
まさに、切実な表情だった。
「雀って、かわいいのに、美味しいんですよ! 姫さまも食べましょう!
串焼きにすると肉汁が溢れてきて最高なんですよっ」
「か、かわいそうかな、って?」
「ちなみに、カラスは肉がばさばさでいまいちです! あ、でも、ぼこぼこ
に叩けば肉が柔らかくなってうまみが出ます!」
「か、かわいそうかな?」
「……なるほど……生き延びるために習得した術……納得した」
「源五郎ちゃん。見てのとおり、あたしは命を狙われているみたい。あたし
には近寄らないほうが」
「いえっ! あたしはかねてより、民百姓にも分け隔てなく接してくださる、
お優しい姫さまをお慕いしていました! 姫さま、このままでは諏訪や大殿
になにをされるかわかりません、できましたらこの源五郎と一緒に逃げま
しょう!」
ああこうして領民の娘にも慕われているさすが姫さま、と馬場信房がわが
ことのように喜んでいる。
この子の言うとおり駿河へ逃げれば、諏訪頼重ももう刺客など放ってこな
いはず、と一瞬勝千代は揺らいだが、なぜか正反対の言葉を口にしていた。
「それはできないわ。あたしは武田家の長女だから。怖いけれど、武田家と
甲斐の国を放りだして逃げるわけには」
「ふはあ。姫さま、時折見せていただける毅然としたその表情がかっこいい
です! さきほど馬で駆けながらお猿さんと斬り合っていた時の姫さまの精
悍なこと! ああ、思わず鼻血が!」
「ど、どうしたの源五郎ちゃん? だいじょうぶ?」
「だらだらだらだら」
「湯あたりしてのぼせちゃったのかしら」
「げんぎょろうは、ひめちゃまとであえてぢあわせでちた。ぶくぶく」
「沈まないで源五郎ちゃんっ」
「……春日源五郎。今より……あー……姫さまの小姓として」
馬場信房が、ゆっくりとした口調で、もごもごと源五郎に訴えた。
「その……小刀投げの術で……姫さまを……お守りするように」
「ええっ? わかりましたっ! あこがれの姫さまと一緒にいられるなんて、
夢みたいです! はあはあはあ」
「源五郎ちゃんが生き返った?」
「……この者の姫さまへの想いは……ある意味、ほんもの……信頼できる」
「信房がそう言うなら、安心ね。でも、あたしと一緒にいるとこれからも危
険よ?」
「……その件について……次郎さまより、お伝えすべき話が」
馬場信房は、ゆっくりゆっくりと語った。
あまりにゆっくりなので、途中で源五郎はほんとうにのぼせてしまった。
禰々との祝言をあげるために甲斐に来ている諏訪頼重が、信虎と勝千代の
対立という武田家の隙をついて、この機に乗じて勝千代を暗殺しようと刺客
を放ったであろうこと。
勝千代の妹・次郎が馬場信房に、勝千代を守るように命じたこと。
次郎自身は板垣信方・甘利虎泰ら四天王を召集し、急いで打開策を練るこ
と。
「ぐすんぐすん。姫さま、なんておかわいそうな! こんなに美しい方なの
に!」
「婚儀の日に……これじゃあまりに禰々がかわいそうだから、このことは内
密にね。信房」
「……承知。次郎さまからも同じお言葉を……」
「諏訪頼重は最初からあたしを暗殺する陰謀を企んで甲斐に来ていたのかし
ら」
「……おそらくは。姫さまと大殿の……ぬきさしならない対立を見て……姫
さまの暗殺に成功しても大殿に罰されることはなく、失敗しても姫さまは刺
客を恐れて駿河へ逃げるはずで、どう転んでも諏訪家の得になると踏んだ
……あれは、策士」
「人の血筋を重んじない、能力ある者が報われる武田家にしたいというあた
しの考え方が、諏訪家にとっては害になると思われたのかしら。あたしが武
田家の当主になれば、いずれ諏訪家を滅ぼそうとするだろうと警戒されてい
たのね。くすん。禰々、ごめんね」
「……隣国の大名親子が揉めていれば、すかさず乗じる。それが戦国の世の
習い……」
ぬきさしならない話をうかがっちゃったのです、もうこの源五郎も逃げら
れません! こうなったら姫さまと
だらだら流しながら拳を振り上げた。
「もう一人の妹の定が暮らしている駿河の今川義元のもとへ行くしかないわ
ね。あたしは駿河出向を断れない。出向を断れば、それを口実に廃嫡され、
諏訪頼重に今後も命を狙われる。父上に諏訪頼重の悪行を訴えても、きっと
臆病者めと一喝されるだけ。でも、駿河に出向すればそのままあたしは甲斐
から追放。くすん」
「大変です姫さま、やっぱり逃げましょう!」
「……姫さまが甲斐に居座れば……最悪の結末も……大殿は近頃……」
「お酒の量が増えて、とみに怒りっぽくなっているものね。長年の戦で神経
がささくれだっているのかも。お父上は戦場で、大勢の兵の死を見てきたか
ら。それなのにいつまでも信濃を奪うことができず、ついに諏訪家と婚姻同
盟を結ばねばならなくなったものね」
「そうです。姫さまには言いづらいですが、最近の大殿さまはめちゃくちゃ
なのです! 百姓がうっかり視線でも合わせようものなら、斬り捨て放題で
す! 実の娘であろうとも、もしかしたら! 逃げましょう!」
「……とはいえ……諏訪頼重に報復すれば、こんどは禰々さまが悲しむ……
八方ふさがり……」
諏訪頼重と武田信虎、同盟を結んだ二人から疎まれる存在になってしまっ
た勝千代の命運は、すでに尽きつつあった。
「ごめんなさい。信房、源五郎。あたしは、決断力のないたちだから……一
晩じっくり考えさせて。静かに駿河へ去るのが武田家と甲斐にとっていちば
んいいことかもしれない。あたしは気が弱い臆病者で、父上が言うとおり、
甲斐の国主などつとまらない人間だし……次郎に大変な役割を押しつけるこ
とになるけれど……」
そんなことありません、貧しい甲斐の民を救ってくださるお方は姫さまし
かいません! と源五郎が勝千代の手を取ってぶんぶんと振り回した。
「ほんとうに明るい子ね。うらやましいわ」
「少々の苦境には慣れていますから! こういう時はいったん逃げてやり過
ごすのがいちばんですよっ! 生きていればそのうち運が回ってきます!
生きるが勝ち、すなわち、逃げるが勝ちです!」
「……姫さまは甲斐守護・武田家の後継者。家を捨てて逃げるわけにはいか
ない……」
「うう、そうですね。姫さまの肩には、甲斐一国の未来が託されているんで
すよね」
「くすん。こういう時に一瞬で決断できる勇気も知恵もあたしにはないの
……明日の朝までに、父上への返事をどうするか決めるわ。ごめんなさい、
今夜は一人で思案させてちょうだい」
「……承知」
「姫さま! あたしたちは近くに宿を取っていますので、なにかありました
ら
す!」
「……時間は、ありません」
「ええ。朝までには、必ず決断するわ」
勝千代は二人に頭を下げながら、なぜ自分はこうも怯えているのかを見極
めようと、初めて真正面から自分自身に向き合う覚悟を決めた。
一人きりで湯に浸かりながら、勝千代は己自身との対話を続けた。
父が怖い。己の無力が怖い。合戦が怖い。忍びに命を狙われるのが怖い。
諏訪頼重の悪意が怖い。人が死ぬのが怖い。
この世のあらゆるものが怖かった。
しかし、こうして廃嫡か死かというぎりぎりの瀬戸際に追い詰められた時
だからこそ見えることがあった。
勝千代がほんとうに恐れているもの、それは――。
(甲斐は四方を囲まれて閉ざされた山国。米も取れず国力は弱く、町を開発
しようにもその土地も足りない。海もなく、港もなく、産業もない。それど
ころか、人が生きていくために欠かせない塩すらない。こんな恵まれない田
舎からはるか彼方にある京の都へ上洛して天下に号令をかけることなど、夢
のまた夢。武田家が飛躍するためには
その信濃の中央に陣取る諏訪と同盟してしまった。武田家の天下への道は詰
んだ。そうだ、あたしは)
天下?
天下ってなに?
もしかしてあたしは、天下を欲しているの?
父以上の悪業を背負ってでも、戦国最強の武将になりたい、そんな野望が
あたしの胸の中に潜んでいるの?
あたしは、自分が恐ろしい。
そうだ。さっき忍びの猿飛佐助に襲われた時、あたしは、なんのためらい
もなくあの愛らしい佐助を斬ろうと太刀を横薙ぎに振り切っていた。
あの時。
生まれて初めて、自分がたしかに生きているという実感が、あった。
あたしじゃない他の誰かのような、もう一人のあたしが、あたしの内に巣
くっている。そのものは父上にそっくりで、天下に号令をかけたいという野
望に満ちあふれていて、命を命とも思わぬ残虐なもののふで、いや、もしか
したら父上以上に――。
「無理よ。なにもない甲斐からはじめて、他国を奪い上洛して天下を奪うな
んて。できっこない。たくさんの人の血が流されるだけ。戦っても戦っても、
すべては無駄になる。何年も無謀な戦を続け、多くの民を苦しめたあげく信
濃一国を切り取ることもできなかった、父上のようになってしまう。こんな
おかしな野望を抱いているあたしではなく、まっとうな人間である次郎が甲
斐を治めて領民の平和を守る。それでいいはずなのに」
いいはずなのに、あたしが駿河へ逃げてしまえばそれで丸くおさまるのに。
それなのに、どうしても、決断できないのはなぜだろう。
そうだ。
猿飛佐助と出会ってしまったせいだ。
猿飛佐助と命のやりとりをしたあの一瞬――まるで、あたしの中で、獣が
目覚めてしまったかのようだった。
もしかしてあれが、父上の血……?
武田家の血というもの?
「でも無理。戦はしょせん、経済力。貧困な甲斐から出ることはできない。
駿河も相模も強国で、絶対に取れない。唯一切り取れる可能性がある信濃の
入り口・諏訪とは、すでに同盟してしまっている。武田家はせいぜい、甲斐
を保つことしか」
そうか。
あたしは、自分がたとえ戦国大名になっても、天下人にはなれないという
事実を頭で理解してしまっているのね。
野望に燃える姫武将として生きても、すべては徒労になる、ただ大勢の人
をあやめただけで終わるという未来を、理屈で知ってしまっている。
わかってしまっている。
わかってしまっているのに、その執着をあきらめられない。
なんとしても、父上に、認めてもらいたい。
武田勝千代は無能な臆病者ではなく、父上の血を誰よりも受け継いでいる
野心家であると。英傑であると。
信濃を奪うという父上の夢を自分がかなえれば、父上に認めてもらえるの
ではないかと。
信濃奪取を皮切りに国力を蓄えて上洛を果たせば、天下に号令をかければ、
父上に褒めてもらえるのではないかと。
それなのに、上洛なんて夢のまた夢、現実味のかけらもない絶望的なあた
し個人の哀れな妄想。
上洛なんて無理。
天下なんて無理。
あたしは身体が弱い。どうせ甲斐であがいているうちに、父上よりも早く
命が尽きる。
だから父上には、いつまでも認められない。
あたしは父上が言うとおり、無能な臆病者。
今だって。
なにもしないうちから、もう、頭だけで考えてあきらめてしまっている。
自分の野望が、理想が、しょせんは夢物語にすぎないと、わかってしまう。
父上の期待には、応えられないと。
八方ふさがり。
知恵を言い訳にして、勇気を振り絞れない。
だから、父上には、愛されない。
愛されない。
愛されない。
それが、怖かったんだわ。
ああ。
せめて、海と港のある大国に生まれていれば。
今川義元のように駿河に生まれていれば、きっとあたしは、上洛軍を興し
て天下に武田の名をとどろかせることができるのに。
でも、それも言い訳。
なにもしないで済ませるためにしか、あたしは知恵を用いることができな
い臆病者。
聡すぎる勝千代は、湯に浸かったまま、無言で涙を流し続けていた。
幼少時から信虎に罵倒され続けた勝千代は、信虎の期待に応えて自分の代
で武田家を天下人にしたい、という野望を自分でも知らないうちに抱いてい
たのだ。だがしかし、その野望が父に愛されない少女が抱いたはかない夢に
すぎないことも、痛いほどに理解できてしまっていた。
勝千代は、天下盗りの野望に取り憑かれるには、利発すぎた。
さらに、合戦で神経をすり減らし、人を殺すことを是とし、父のような悪
逆無道の戦国武将となってしまうことをも、ひどく恐れていた。自分の身体
に流れる信虎の血が、怖かった。勝千代は、一国の主となるには優しすぎた。
(猿飛佐助との殺し合い、あのような経験を重ねていくうちに、あたしはい
ずれ父上以上の野獣になってしまうのではないか)
それが、恐ろしかった。
戦国武将として功を立て、実力を発揮して父に認められたい、しかしいく
ら戦国の世のならわしとはいえ信虎のような残虐な獣にはなりたくない。
勝千代の中には二人の勝千代がいて、その両者が常にせめぎ合うことで終
わらない不安と恐怖が襲ってくるらしかった。
やっぱりこのまま駿河へ消えてしまおう、これ以上武田家の和を乱しては
ならない、と勝千代が決断しかけたその時。
一人のしわがれた男の声が、勝千代の運命を変えた。
「あいや待たれい。娘よ。お前に天下を盗らせてやろう」
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