第三話 越後の毘沙門天(三)

「放せ。出せ。出せえええええ! あねちゃ! おかちゃ! とらちゃは、

嫁になんて行きたくない! チチオヤなんていらない! うさみ、うさみい

いい!」

 虎千代とらちよは手足を縛られ、駕籠かごに押し込められて山道を運ばれた。

 日頃はやせ我慢して泣かない虎千代だったが、恐怖と悲しみのあまり大き

な目からぽろぽろと涙が溢れてきた。

 ずっと愛してくれなかった父・為景ためかげにいきなりあっさり捨てられた、あの

昔から自分を見る視線がたまらなくおそろしい政景まさかげの「所有物」にされる、

政景の赤ちゃんを産まされる、出家もできないし姫武将にもなれない、自分

の前に開けていたはずの未来のなにもかもを奪われた、自分は毘沙門天びしやもんてんの化

身でもなんでもなかった、長尾ながお 家のために使い捨てられるただの道具だった

……。

(あねちゃ。おかちゃ。とらちゃは、別れたくない)

 悔しくて悲しくて、いつまでも涙が止まらなかった。

(おとちゃに、こんな扱われ方をされるなんて。越後の姫なんかに、生まれ

るんじゃなかった。自分の生き方を、自分の意志で決められないなんて)

 やがて、駕籠が止まった。

 長尾政景の館か――。

 籠の奥で虎千代が(最後の最後まであきらめない)と赤い瞳を輝かせて様

子をうかがっていると、御簾みすが開いた。

 そこに待っていたものは――。

「虎千代さま、お待ちしておりました。ここは春日山かすがやまの麓、林泉寺りんせんじ でござい

ます」

 違う?

 政景じゃない?

直江なおえ大和やまと!?」

「はい。わたくし直江大和が、本日より、虎千代さまの守り役を務めさせて

いただきます。騙されたことを知って当面荒れ狂うであろう長尾政景から逃

れるために、しばらくこの林泉寺に隠れていただきます」

「騙された? 政景が?」

「はい。わたくしが、虎千代さまをお守りするために騙したのです。別の者

が乗った駕籠が、今頃、政景のもとに」

「別の者?」

 直江大和がなにを考えてどのような策をろうしたのか、まだ虎千代にもわか

らない。

 直江大和には、表情がないのだ。

 視線も、穴のようにうつろだった。

 まるで蝋細工ろうざいく で作られた人形のようだった。

 だから、感情も思考も、読めない。

「会議の席で――政景と殿との間に、婚姻に関する約定を交わしました。書

面にて。この約定には両者が花押かおうを書き入れ、すでに有効となっておりま

す」

「それが?」

「わたくしが作りましたその約定には、『 を政景の嫁とする』とあ

ります。『虎千代』とは、どこにも書いておりません。政景は今頃抗議して

いるでしょうが、婚姻に関する約定に花押を書いた時点ですでに手遅れです。

つまり」

「まさか? 直江大和、まさか……」

「はい。政景に嫁ぐお役目は、綾さまが自ら志願なされました。虎千代さま

の替え玉は、『為景の娘』でなければなりませんゆえに。殿にも伝えており

ません。この件は、すべてわたくし直江大和の独断です」

「……!?」

 虎千代は、言葉を失って吠えていた。

 直江大和に手かせを外されると同時に、飛びかかって殴っていた。

 直江大和は、黙って幼い虎千代に殴られている。

 まだ子供の虎千代だ。殴っても蹴っても、直江にダメージを与えることは

できない。

「がるるうううう!」

 虎千代はついには怒りに我を忘れて、直江大和の首筋に噛みついていた。

 直江大和の首の皮に虎千代の犬歯が刺さって、血がにじんだ。

「がるるるるる!」

「今宵は、気が済むまで怒りなさいませ」

「お前は……お前は、あねちゃを……! なぜだ!」

「綾さまに恨みはございません。ですがわたくしは、虎千代さまの守り役に

ございます。殿が、そう命じられたのです。守り役となったからには――主

人を守るためならば、わたくしは誰であろうが犠牲にいたします」

 たとえ自分の親であろうが家族であろうが、わたくしは躊躇ちゆうちよせず容赦せず

利用し搾取し殺します、わが主は虎千代さまただ一人ゆえに。

 直江大和は静かに、作り物の人形のような声で、そっと語り聞かせる。

「なぜだああああ! なぜ、おまえのあるじが、とらちゃなのだ! あね

ちゃを、返せええええええ!」

 一度だけわたくしの本心を言葉にしましょう、それが主に対する礼儀で

しょうから、と直江大和は噛まれながらつぶやいている。

「わたくしは、自らの意志でこういう生き方を選んだのです。長らく恩顧を

受けてきた主を見捨てて怨敵・長尾為景に屈服し命乞いし、恥辱にまみれた

晩年を過ごしたわたくしの父――あの男のすすけた背中を見て育ってきたわ

たくしは、決して、この男のようにはなるまい、ただ一人の主と運命をとも

にし絶対に最後まで裏切らない、自分自身の人生など持たないと、そう定め

たのです」

「……直江大和。ならばなぜ、おとちゃに仕えぬ!」

「従者は奴隷ではないのです。自らの意志を持って主に仕えるのです。自ら

の主はわたくし自身が選びます。性悪な為景さまは、その器ではないので

す」

「兄上は!?」

「性悪ではありませんが惰弱にして、これもまた器にあらず。しかしいちど

禄を んだ以上、春日山長尾家を裏切ることはわたくし自身が許しません。

春日山長尾家の者でわたくしの主たるにふさわしい器の持ち主は、虎千代お

嬢さまただお一人です」

 直江大和は、幼い頃から孤高の魂の持ち主だった。

 自らの主を裏切り、敵であった為景の武威に尻尾を振った父を、許せな

かったのだろう。

 孤高であるがゆえに、生まれながらに孤高に生きる定めを背負った虎千代

に共感していたのかもしれない。

「これでしばし、政景はおとなしくなるでしょう。春日山長尾家が越中の一

揆を鎮圧し、越後の内乱を平定するためには、政景という荒ぶる狼を手なず

けねばなりません。ですが、虎千代さまを失うのは犠牲が大きすぎます。あ

なたには、戦乱の世を鎮めることが可能だ。たぐいまれなる慈悲心をお持ち

だ。宗教者としての天賦の才をお持ちだ」

 俗世などにはかかわらず、このまま林泉寺にとどまって出家なさいませ、

それが越後のためです、と直江大和は虎千代の背中を撫でながら静かにささ

やいた。

 噛み破られた白い首筋から大量の血が溢れているが、直江大和の凍り付い

た表情は変わらない。

「政景などに嫁いでは、虎千代さまの神性が失われます。それでは本猫寺ほんびようじ

徒たちを心服させることは永久にできなくなります。越後、越中、北陸に平

和と安寧をもたらすためには、誰かが武家に絶望し一揆に走った民たちの心

を慈悲心で救い、そのことごとくを心服させねばなりません。そしてそのよ

うなことができる者は、越後広しといえどもあなたしかいない。婚姻や恋な

どといった俗事は、あなたから神性を奪います。出家なされば、あなたは永

遠にその天賦の神性を失いません」

「とらちゃは……とらちゃは、神などではない! あねちゃ一人、救えな

かった! ただの、白子の子供にすぎない! 日の光にすら怯える、ただの

……」

「今はまだ子供ですが、いずれ年頃の乙女になりましょう。そうなれば越後

の国人どもは、みな、あなたの神々しさに狂う。長尾政景は、聡いのです。

幼い心のまま、本能のままに、欲望のままに生き抜いてきたぶん、誰よりも

気づくのが早いのです。誰があなたを妻としてめとるかを巡り、今後、越後は

いよいよ乱れる。政景に嫁げば、政景を殺してあなたさまを奪おうとするやから

が次々と現れます。そのような私欲を失ってしまった、いや生まれつき私欲

というものの量が少ない『義』の男・宇佐美うさみ定満さだみつには、それが理解できてい

ない」

 虎千代は、首を噛まれながらも表情を変えない直江大和の心の奥底をかい

ま見た気がした。

 一見すると氷のように冷徹な仮面の下には、たしかに、越後を憂い乱世に

憤る熱い男の魂が隠されていた。そして、宇佐美定満とは方向性こそ違えど、

彼もまたなぜか幼い虎千代に未来への可能性を見出していた。だからこそ政

景から虎千代をかばうために自ら悪名を被った――理屈ではなく、心がそう

感じた。

 ならば、憎くとももうこの男を噛むのはやめよう、と虎千代は思った。

「綾さまにそのむねをお伝えしたところ、ご理解いただけたのです、綾さま

はあなたを越後の国人豪族どもによる果てしない奪い合いから守るために、

自ら政景に身を捧げたのです――」



 この夜、駕籠から降りてきた綾を見た長尾政景は、激高して綾の首をはね

飛ばそうとした。

 刀を抜きながら、懐にあった書面の写しを取り出して、そして、自分が直

江大和にたばかられたことに気づいた。

 政景は、勝利に酔いしれて最後の最後に「罠」にはまった自分の油断を

とうしたかった。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 だが、綾が決して自分から目を逸らさずに立ち向かってきたことが、「や

るならやりなさい、殺しなさい」と一喝したことが、政景の怒りを鎮めた。

「わたしは政景さまの妻となるために来ました。わたしでは不服ですか。越

中で一揆が起き春日山城に迫っている今、無謀にも春日山軍と最後の決戦を

するというのであれば、この場でわたしを血祭りにあげなさい!」

 政景は、震えながらも気丈に自分をにらみつけてくる綾を、殺せなかった。

 殺してしまえば、誰よりも気位の高い政景は、よりみじめになる。

(俺は、直江大和に負けた! ぎりぎりまで姿を見せなかったあやつこそ真

の策士だ! 宇佐美を出し抜いた時点で、俺は勝利を確信して、慢心してい

た! この雪深い越後に、二人も、俺と渡り合える策士がいたとは……)

 刀を鞘におさめて、そして、咆哮ほうこうした。

(錯乱してこの女を斬ったところで、勝ったことにはならん! すでに俺の

妻だ! 新婚の夜に新妻を斬ったとあらば、この長尾政景が狂乱したと越後

中に触れ回られる! 虎千代はまだ誰にも嫁いではいない、耐えるのだ!)

 いいか、今宵は俺の負けだ。だが俺は命ある限り決して虎千代をあきらめ

ん、手に入れると決めたものはすべてこの手につかんでみせる、それが俺の生

き方だ! と政景は綾に言い放っていた。

「いいえ。わたしを妻とした以上、妹である虎千代には触れさせません」

「……この小娘め……!」

「小娘ではありません、あなたの妻です。たとえ男のように武将になる道を

閉ざされていても、戦うことはできます。虎千代は、あなたに飼われる鳥で

はありません。必ずや、越後を救う偉大な人となります。そのためならば、

わたしは……」

 そこまで矢継ぎ早に語り終えたところで、綾の緊張の糸が切れた。

「…………う……うう……」

 荒れ狂う政景への恐怖と、虎千代と離ればなれになってしまった悲しみの

あまり、涙が止まらなくなったのだ。

 政景は、斬ろうか、と一瞬凶悪な思いに駆られた。

 だが、できなかった。

 虎千代ではないが、綾が春日山長尾家から娶った妻であることに変わりは

ない。

 春日山長尾家との血のつながりは、政景が渇望する越後守護代への鍵だ。

 生かしておかねばならない。

 虎千代を奪い損ねた鬱憤うつぷんを晴らすために、綾を虐待してその命を縮めるよ

うな真似も、避けねばならない。

「……フン! 小娘めが……武家の嫁になるなど十年早いわ!」

 政景は、小姓に命じて綾を別室へ案内させると、自らはほてった身体と頭

を冷やすためにそのまま庭園で飲み続けた。

(俺としたことが、斬れなかった。ただの小娘と思っていたが……やはり、

どこか、面影が虎千代と似ているのだろう)

 俺は直江大和の知略とあの綾の勇気に敗れた、しかし痛み分けだ。これで

俺は春日山長尾家の一門衆となった。越後守護代の座は、必ず手に入れる。

そして、虎千代も。

(俺はまだ若い。すべてが意のままになるわけではない。敵は多い。しかし

一人一人倒し、一歩一歩『夢』へと近づいてやる!)

 あと少しというところで虎千代を手に入れられなかった政景は、綾に対し

て複雑な思いを抱きつつも、なおいっそう野望の炎に身を焦がすのだった。



 政景がすり替えられた花嫁に戸惑い歯ぎしりしているうちに、早くも越中

一揆勢は越後との国境近くまで出てきていた。

 越中には複数の国人が割拠しているが、もっとも大きな勢力を誇っている

のが神保じんぼう家だった。神保家は、北陸一帯を席巻し加賀一国を支配している新

興の民衆教団・本猫寺門徒を中心とした一揆勢と共同し、なし崩し的に越中

の独立を計っていた。

 かつて長尾為景の父は、越中一揆鎮圧のために越中へ出兵した際、この神

保家に裏切られて戦死している。

 神保家は武家でありながら、同じ武家を裏切り、一揆勢と手を結んだのだ。

 まさに下克上の時代だった。

 父の突然の死を受けて家督を継いだ為景は、越中へ攻め入って神保家の当

主を攻め殺し復讐を遂げたが、為景が自国越後において本猫寺を禁教とした

ために本猫寺一揆の勢いはむしろ激しくなり、いまだに隣国越中では反為景

一揆はやむことがない。

 滅ぼしたはずの神保家も、一揆勢と手を組み再起していた。

 その越中へ、今、隠居したはずの長尾為景が再び出兵していた。

 家督を継いだ息子・晴景はるかげの体調が思わしくないため、また為景自身にまだ

引退するつもりがなかったため、越中戦線に慣れた為景が遠征軍の総大将と

なったのだ。

 娘婿となったばかりの上田の長尾政景、軟禁を解かれた琵琶島びわじま城の宇佐美

定満、柿崎景家かきざきかげいえらも参戦した。

「俺は親父の仇を討ち果たすために、越中で無為に何年も過ごしてきた。あ

りもしない極楽浄土のほら話で領民や流民どもを騙している本猫寺の連中な

どどうでもよかったが、ただやつらは親父の仇だったゆえに、越後では禁教

として弾圧してやった。今、俺は隠居したというのに、越中の連中は亡霊の

ようにこうしてまた湧いてくる。因業というものだ……」

 越後から越中へ入るには、親不知おやしらずと呼ばれる難所を越えねばならない。

 鯨海けいかい(日本海)沿いに長々と続く断崖絶壁、その崖に設けられた険しい山

道を行軍するのだ。

 軍師役の宇佐美定満は当初、親不知から山道を進軍する途上に伏兵がいた

場合退却が困難だという理由で海路を勧めたが、為景は激しい波と風を理由

に陸路を選んだ。

「この天気では、雪が降るかもしれんな」

 寒風が吹きすさぶ山道を、馬上に揺れながら進む為景は、「越中だけは片

付けておかねば死んでも死にきれん」とうめいている。

 本猫寺は、もともとは浄土宗系の流れを汲む民衆仏教の教団だが、仏教以

前のもとの土着信仰――「猫神ねこがみ信仰」と融合して特異な存在となっていた。

 出家者でも、家族を持ち子を育てることが許されている。

 強引にたとえれば、出家と禁欲を絶対視し、かつ民衆に対して閉鎖的なえい

ざん高野こうやさんの旧仏教勢力は、ローマのカトリックに比することができる。こ

れに対して出家僧の妻帯を認め民衆に対して開放されている新しい仏教勢力

の浄土宗系や本猫寺の性格は、プロテスタントに似ているといえよう。

 日ノ本でもヨーロッパでも、文明が発展し生産力が向上していく中、貴族

とエリートのための密教的で厳格な宗教から、民衆のための世俗的な宗教へ

と時代の主流は移りつつあった。

 ただ、本猫寺がプロテスタントに比べて特異だったのは、教祖一族が世襲

であったことだ。

 本猫寺当主の一族は生まれながらに猫様ねこようの耳と尻尾を持っており、また肉

体も頑強で尋常ならず再生力が強く、これゆえにただの人間とは異なる「聖

人」「生き神さま」とされている。

 そのような特異な当主をいただき「武家よりも当主のほうが偉大である」

と教える本猫寺教団は、武家にとっては許されざる下克上的存在で、実際、

門徒たちは主である武家ではなく本猫寺に年貢を納めるようになった。

 日ノ本の中に、もう一つの国ができたようなものだった。

 本猫寺当主一族は、かつてはただの人間だった。しかし八世れんにょの代

に、平安時代に半狐半人の陰陽師おんみようじ安倍晴明あ べのせいめい」を生んだ大坂の信太しのだの森の者

の血が混じった。この者が安倍晴明の血族となんらかの関わりがあったらし

く、それ以来一族の当主は生まれつき猫の耳を持つようになり、社会から差

別され、弾圧されることとなった。

 だがそれゆえに貧民や流民など、領民から差別されてきた人々が続々と本

猫寺当主のもとに集い、戦乱の世が長引けば長引くほど流民の数が増え、ゆ

えに本猫寺は気がつけば戦国大名をも超える巨大勢力となっていた。

 自ら猫の耳を持つ被差別者であったれんにょは、人間を身分や血筋、職業

で差別することを否定し、『ただ商いをもし、奉公をもせよ、猟すなどりを

もせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいた

づらものを、たすけんと誓ひまします弥陀みだ如来によらいの本願にてましますぞ』と説

いた。これは偶然か必然か、領民が減り流民が増え続ける戦乱の時代に求め

られていた教えであった。

 武家は本猫寺に何度も弾圧を加えたが、れんにょを暗殺しようとしても、

れんにょの身体が持つ奇跡的な治癒能力によって再生されてしまい、かえっ

てれんにょの神秘性と門徒たちの信仰心を高めてしまう結果となった。

 ことに、北陸の本猫寺門徒たちは宗教組織というよりも武装した民衆の自

治団に近く、本猫寺当主の命令にもほとんど従わず、武力で加賀一国を支配。

さらに越中・越前・越後・能登でも一揆を起こし、北陸本猫寺王国とでもい

うべき新しい国を建設しようとしていた。

 それは、武家のいない国である。

 武家の代わりに、本猫寺当主をあがめ崇拝し押し立てる、そのようなまつ

ろわぬ民の国である。

 なにしろ、加賀で本猫寺教団を巨大化することに成功した当時の当主れん

にょ自身が、加賀の門徒たちが制御不能の一揆集団と化し国を奪おうと活動

していたさまをおそれ、畿内へ移り、加賀での一揆の動きを批判し、そのま

ま畿内から戻らなかったくらいである。

 プロテスタントのさきがけであるルターは、自らの教義を掲げて支配者層を倒そ

うと蜂起した農民一揆を批判した。彼は宗教者としてカトリック教会の堕落

を糾弾したが、政治体制までを覆そうとは考えていなかった。しかし、発達

した経済力に裏打ちされた自立心を抱いた民衆の動きはルター自身の思惑を

超えていき、事態は支配階級と民衆との間の武力闘争へと発展していったの

だ。このカトリックとプロテスタントの宗教戦争はヨーロッパに激動の大航

海時代をもたらし、カトリックの宣教師たちが命を懸けて極東世界の日ノ本

まで大海原を突き進む原動力ともなった。

 同じことが、この時期、戦国日本でも起きていた。

 長尾為景は、この越中の一揆勢討伐に、半生を費やしてきたといっていい。

「半獣の教祖なぞを拝むとは、意味がわからん。猫の耳など、なにがありが

たいのか。そのようなあやしげな生き物なぞ、食ってしまえばいいのだ」

 当主自身が猫耳であろうがなんであろうが、そのようなことは問題ではな

い。ただ、稲荷いなり神や犬神、猫神といった日ノ本古来の土俗信仰の伝統感覚と

視覚的に結びつきやすいため、民衆にとってはたとえば「阿弥陀如来」と

いった抽象的な概念を扱う他の仏教よりも「猫神」のほうがはるかに理解し

やすいというだけであったろう。もしも日ノ本に特異な「猫神」が現れてい

なければ、おそらくは阿弥陀如来を信仰する浄土真宗が本猫寺と同じ歴史的

役割を果たしていたであろう。

 合戦が続き田畑を焼かれ重い年貢を奪われる中、戦乱の世を終わらせるこ

とができない武家に見切りを付けた民衆が、こぞって本猫寺という名の自治

団に加わり武装して武家を自らの国から追い出そうとしている。

 これはつまり、中世から近世へと社会が変革されていく際に経なければな

らない類の宿命的な闘争なのだ。社会の急激な成長に、既存の制度が追い越

され追い抜かれつつある際に生じる混乱。人々が新たな社会、新たな国の仕

組みを創出するために通らねばならない「生みの苦しみ」なのだ。為景が、

あるいは武家が本猫寺門徒との関係に決着をつけるためには、旧来の支配体

制をどれほど強要しても効果などない。彼らは旧来の体制を捨てた門徒たち

に、本猫寺が提供するものよりもさらに「新しい世界」を、「新しい生き

方」を提示しなければならないのだ。

 宇佐美定満が唱える「私欲なき義戦」はそのためのひとつの斬新な方法で

あり、直江大和が虎千代に求める「慈悲に満ちた救世主」の役割は武家であ

る長尾家の一員に宗教的救済の役割を与えることで本猫寺の役目を武家に

よって統合しようとする試みである。宇佐美は道義心を忘れた私欲の争いを

続けて民衆に見放された武家たちに目を向けて武家の精神を改めさせようと

考え、直江大和は一揆にまで追い詰められた民衆の心をすくい取ることに目

を向けていた。

 このことの本質に、老いた為景は気づけなかった。

 為景は、こう考える。ひとつの国に支配者が二人いれば、どちらかが倒れ

るまで戦うしかない、と。

 まして、為景にとって越中一揆は父親の仇であり、絶滅させるべき敵だ。

(しかしこの越中への遠征を、俺は何十年続けてきただろうか?)

 こいつらさえいなければ、俺は今頃越後を統一して関東へ、あるいは京の

都へと進出できていたであろうに……。

 本猫寺門徒と一揆運動は日ノ本の各地に広がっているが、加賀一国をまる

まる乗っ取ってさらに隣国支配へと乗り出すという「宗教王国」ともいえる

様相を呈している地域は北陸だけである。

「加賀・伊勢・大坂」と言われる本猫寺三大勢力地のうち残る二つ――伊勢

と大坂では拠点となっている寺とその周辺地域を支配するのみで、国持ち大

名化はしていない。

 北陸だけが異質なのだ。

 なぜなのか。為景は考えた。

(この雪山で豪雪に吹雪かれ凍り付くような寒さと大雪原の荘厳さに震えて

いると、神というものを身近に感じるのかもしれん。俺たち血なまぐさい武

家にはないなにかが、坊主にはあるのかもしれん。北陸の民は、その人生を

支配する雪の白さと冷たさゆえに、気候温暖な国の連中よりものごとの中に

人間の企みを超えた神秘性を求めたがるのかもしれん)

 だとすれば、「武家」であり「人間」である長尾家と、「神」を信奉する

本猫寺一揆の戦いには、決着はつかないのではないか。

 殺しても殺しても門徒は増える。

(なんと俺の生涯は、雪山における猫との戦いであったか。俺の親父も、こ

の俺も……晴景と政景も、そうなるのか)

 因業、という言葉をつくづく感じる。

 猫にたたられているとしか思えない長尾家に、兎の妖精のような子が生ま

れたのも、なにかの意味があったのだろうか。

 ふと虎千代のことをなぜか思い出した為景は、隣を進む宇佐美定満に尋ね

ていた。

「政景のもとには虎千代でなく綾が輿入れしたそうだな。政景は怒っている

か?」

「荒れてはいるが、直江大和にしてやられた、としぶしぶ負けを認めてるぜ。

だからこんどの出兵にもつきあったんだろうよ。しかも先鋒を引き受けた。

オレさまも騙されたぜ、あの直江大和ってきざな野郎にはよ」

 宇佐美定満は、戦場だというのに兎のぬいぐるみを抱きかかえている。

 兜の前立ても、兎の耳だ。

 なにがなんでも兎をめでたいというのが、この男の性分らしい。

「直江大和はな、子供の頃から俺に仕えてきた。もとは敵の家に奉公してい

たのだが、あいつの父親が命惜しさに主君を裏切って俺に寝返ってな。あい

つは人質として春日山に送られてきたのよ。万事に如才ない男だったので取

り立てた。越後の武家としては異例の男だ。自分の望みや欲をまるで出さな

い。たんたんと、俺の命令を遂行する。暗殺ですら平然とやってのけ、顔色

一つ変えない。ゆえに、信用できる」

「命惜しさにあんたに屈服した父親を持つ身の直江は、オレとは辿ってきた

生き様が正反対だな。道理で、オレとは考えが合わねえはずだ」

 もうその話はよせ、と為景が苦々しそうに吐き捨てた。

「直江大和。昔からあいつほど忠誠心の高いやつはいないと思うておったが、

どうやらあいつはいつの頃からか俺ではなく虎千代を自らの主君に選んでい

たようだ。政景が再度虎千代を所望して俺が断り切れなくなった時、策を用

いて虎千代をかばう手はずを、以前から整えていたらしい」

「あのきざ野郎は、虎千代を出家させるつもりだ。本猫寺門徒の力が強い越

後は武家には支配できない、神の存在が必要とされている、などとぬかして

やがった。虎千代を生き神さまにして、ただの戦争屋にすぎない長尾家に神

の権威を与え、猫神さまをあがめる本猫寺勢力を抑えようと考えているよう

だ」

「宇佐美。貴様は、虎千代の出家に反対か」

「ああ。オレは、虎千代を武家にするつもりよ。あいつは娘だが、晴景なん

ぞよりずっと出来がいい。越後を制するには、なんといっても強くなければ

ならねえ。だが、政景のように残忍な男が守護代になるのはまずい。為景の

旦那、あんたが若返ってさらにあと五十年生きるようなもんだ。あげく、あ

いつは分家の血をひく己を恥じているぶん、あんたよりひねくれている。い

くら強くても政景が頭じゃあ一揆も内乱も果てしなく続くぜ」

 その点、純朴な娘である虎千代なら、越後の武家どもが忘れちまった義の

心を越後にもたらすことができるはずだ。為景の旦那よ、虎千代は敵を殺し

奪い裏切ることしか知らないあんたとは正反対の武将になるぜ、義を体現し

た希有の武将によ、と宇佐美は豪胆にも笑っている。

「人心が荒廃している越後には、義を貫く潔癖さを持った姫武将が必要なの

だぜ。まあ、そもそもあんたが人心を荒廃させたんだがな」

「だから直江大和は、もはや民が武家を信じていない越後には生き神さまが

どうしても必要だと思っているのか。あやつは武家との戦いよりも、本猫寺

との戦い――というよりも北陸の民の心を掴むことに重きを置いておるの

か」

「猫耳に対抗する兎耳教団を作るってんなら、オレさまも話に乗ってやって

もいいぜ。教団ってのは儲かるしな。だが虎千代を担ぐのは断る。あいつは

天才的な武将に生まれついている」

「貴様も直江も政景も、小娘に夢を見すぎだ。あれはな。ただの、娘だ」

「美しい夢が見られるだけ、ましじゃねえか。あんたが守護代の時代には、

誰もが血なまぐさい悪夢しか見られなかった。だからよ、虎千代に夢を託そ

うとする男が次々と出てくるんじゃねえのか?」

 虎千代は武家になるのか、出家するのか。

 あるいは、政景が意志を曲げずにあくまでも己のものとするのか。

 多くの人間の思惑が錯綜し、いまだ、虎千代の去就は定まらない。

 当人も、最愛の姉である綾を政景に奪われ、これから自分がどうすればよ

いのかがわからずに戸惑っているだろう。

「為景の旦那。まったく、越後はややこしい国だな。西国の人間はもっとか

らりとしているらしい。大坂の本猫寺総本山は、こっちの一揆衆と違ってえ

らく陽気だそうだ。これも、北から重く冷たい風を送りつけてくる鯨海のせ

いか……」

「白い雪のせいかもしれん」

 為景は、今日の俺はどこか妙だと気づき、なぜか胸騒ぎを覚えた。



 その虎千代は、直江大和ただ一人を連れてひそかに春日山を下り、越中と

越後との国境へと向かっていた。

 為景たちの軍勢からはかなり遅れているが、同じ道筋を進んでいる。

 老いた父・為景を心配してのことだった。

 百戦錬磨の戦の鬼である為景だが、老いて病んだ身体のおとろえは隠せない。

 それに、姉の綾が自分の身代わりとなって政景に嫁いだ今、自分だけが春

日山のふもとでぬくぬくと暮らし続けることに、虎千代は罪の意識を抱いていた。

「……できることならば、おとちゃの隣にいたかったが、姫であるとらちゃ

が武家として参戦できるはずもなかった」

「お嬢さま、この道は雪が深い。馬の体力を温存するために、ここで少し休

みましょう」

 糸魚川いといがわを越えて越中との国境にほど近い親不知の山道で、直江大和が馬を

止めた。

 直江大和は何度も越中入りを口にする虎千代に「戦場へ出かけたいなど、

愚かとしか言いようがありません」と反対したが、ついに虎千代が虚を突い

て勝手に林泉寺を出奔しゆつぽんしてしまったので、やむを得ず帯同している。

 越後と越中の国境、海に面した断崖絶壁の難道・親不知。

 長い間、鯨海の荒波に削られてきたためか、切り立った高い崖の連なりに、

這うように狭い道が延びている。

 崖を転落すれば下は黒い海。

 死は免れない。

 海から直接吹き付けてくる風も、すさまじい。

「いにしえの昔、滅び去った平家の奥方が落ち武者となった夫をたずねてこ

の海に面した断崖を通ろうとしました。だがその際、連れてきた子供たちは

次々と波にさらわれていったのです。それで、この難所は親不知と名付けられ

たそうです」

「ここには平地がない。山と海とが、直接に交わっている。その山と海の間

に、強引に人がぎりぎり通れるだけの道を通しているのだな。とらちゃがも

しも落ちれば、簡単に死ぬな」

「お嬢さま。今日は波も荒く、風も強いです。為景さまが本来ならば親不知

を進むよりも安全な海路を断念したのも、この風と波のためでしょう。馬を

下り、ご自分の足で進まれたほうがよいでしょうね」

 直江大和が馬から「うんしょうんしょ」とけんめいに下りようとする幼い

虎千代を支えようとしたが、虎千代はお気に入りの青竹でぺしりと直江の手

を打った。

「……とらちゃは、まだお前を守り役と認めたわけではない。あねちゃを、

政景から奪い返せ。奪い返したら、守り役にしてやる」

 虎千代は優しい性格に生まれついた純朴な子供だが、綾が自分の身代わり

になって政景というチチオヤに連れ去られたことがかなりの衝撃だったらし

く、直江大和を見る目はとげとげしい。

 この自称「守り役」を、警戒しているのだ。

 こいつは、悲しい事情はあってもこどもさらいだ。あねちゃをさらったん

だと。

 だが、直江大和は涼しい表情で打たれた手をさすっている。

 この雪だ。分厚い手袋をしているので、青竹で叩かれても痛くはなかった。

 そして、直江大和は、恐ろしい言葉を静かに口にした。

「長尾政景を暗殺すれば、綾さまは春日山に戻ってくるでしょう。それ以外

に綾さまを取り戻す手段は、ございません」

「……そんなこと、できない!」

 虎千代は震えながら、直江大和の尻を青竹で打った。

「暗殺など、二度と口にするな! とらちゃは、暗殺など絶対にしない! 

どんな理由があっても、そんな卑劣な真似はしない!」

「ふふ。悪く言えば甘く、よく言えば慈悲深い。それでこそ虎千代さまです。

やはりあなたは生まれながらに、慈悲心を備えている。人と獣の罪を許し、

命を救わんと欲される天性を」

「とらちゃはお前が憎い、直江大和。お前は、腹黒いやつだ」

「何度も申しましたように輿こし れをお止めしたのは、お嬢さまに出家してい

ただくためです。本来ならばこうして戦場に向かうことにもわたくしは反対

なのですが、この山と海との狭間に幽玄に浮かび上がった親不知の難道をい

つかお見せしたかったので、まあ、よいでしょう。お嬢さまがここでこの海

を前に結跏けつか趺坐ふざすれば、即座に悟りを開くことも可能かと」

「ここで足止めして引き返すつもりだな!」

「いえ。引き返そうと言ってもお嬢さまはきいてくださらないでしょう。し

かし今はなにぶんこの風です、無理はなさらずゆるゆると進みましょう」

「おとちゃに挨拶をしたいのだ。あねちゃを政景から取り戻してほしいと、

おとちゃに頼みたいのだ。悪い予感がする……あねちゃは、このままでは政

景の赤ちゃんを産まされる」

「政景さまは祝言を挙げる暇もなく、為景さまとともに越中に出陣中です。

子作りなどするような余裕はありますまい」

「独身のお前になにがわかる。チチオヤというのは、怖いものなのだ。直江

大和。あんな乱暴な男がチチオヤになっても、生まれてくる赤ちゃんは愛さ

れない。そうに違いないぞ」

「さあ。それは、生まれてみなければわかりません。為景さまも、お嬢さま

を冷たくあしらっているようで、内心ではそうでもありません。ただ、お嬢

さまが神の子のごとく美しい特別なお姿を持ったお方なので、どう関わって

いいのかためらっておられるのです」

 為景さまはなにぶん本猫寺がお嫌いですしね、幼くも神々しいお嬢さまを

見ていると本猫寺の当主をどことなく連想するのでしょう、と直江大和は静

かな声で語った。

「おとちゃは、とらちゃが白いことを気にしているのか」

「ええ。あのお方は二度もご自分の主君を戦場で破って殺し、父親の敵であ

る本猫寺を禁教にして一揆衆を殺し続けた。お嬢さまのお姿はそのような己

の因業の結果ではないかと、ひそかに怯えておられます」

「……そうか」

 虎千代は肩を落とした。

 ふらり、と崖から転落しそうになる。

 風に、吸い込まれたのだ。

 直江大和が、すかさず虎千代の手を掴んで引っ張り上げた。

「ご注意ください。今日は特に風が強い。気を抜いては、死にます」

「……う、うむ。直江大和、大儀」

「わたくしはお嬢さまの守り役ですから。しかし、この天候は、危うい」

「危ういか」

「越後軍も陸路を採り、この先に連なる山道を進軍しています。今までの為

景さまでしたら一揆との戦など慣れたもので心配はありませんが、ただ今は

綾さまを政景さまに奪われ、家督を息子の晴景さまに譲らされ、気落ちして

おられます。最近はとみに病がちでしたし、万一ということも」

「おとちゃが危ういのか。急ぐぞ」

「お嬢さま。越後軍にとって最大の敵は、雪であり、山と海に阻まれた難路

なのです。雪と難路が、行軍の自由を奪い、時を奪い、思考の自由をも奪い

ます。この厳しい自然こそが、越後人にとっては克服すべき敵なのです」

「……天と地とが、乗り越えるべき敵か。この親不知に来て、とらちゃにも

そのことがわかった気がする。人間に厳しい土地だ。だから北陸には、神に

すがる民が多いのだろうか」

「そうかもしれません」

「……待て。直江大和。前方だ。前線で、なにかが起きた」

 虎千代が眉をひそめたその時。

 遠くから、山々の向こうから、ときの声が聞こえてくると、虎千代は叫んだ。

 先刻までは、合戦が繰り広げられている気配は全くなかったのだ。

 まさか奇襲か、と直江大和がつぶやいていた。

 だが、直江大和にはその鬨の声は聞こえていない。

 虎千代の鋭敏な感覚だけが、はるか先にある戦場での異変を、捕らえた。


 異変は、ほんとうに起こっていた。

 為景と政景、それぞれが勝手に進軍し両軍の間に距離があったことが、問

題だった。

 統率が取れていない越後軍は、越中の山道を進む途中で一揆勢の奇襲を受

けた。

 先行していた政景の軍は伏兵に気づかず、山中の隘路あいろ を通過。

 遅れてきた為景の軍が、奇襲を受けた。

 為景自身、槍を受けて落馬した。

 混乱する中、宇佐美定満が壊乱しかけた軍勢を踏みとどまらせ、少数で山

に潜み奇襲してきた死兵たちを蹴散らしたが、このままでは腹を刺された為

景の命が危ない。

 宇佐美は先行していた政景に「殿しんがりを頼む」と伝令を飛ばすと、進んできた

山道を全軍で逆行、急ぎ退却しはじめた。

 置き去りにされた政景は「宇佐美め、この俺もことのついでに抹殺するつ

もりか」と憤怒の表情で得物を取り、「虎千代を奪い取るまでは俺は死な

ん!」と雄叫びをあげると、文字通りの阿修羅と化して一揆勢の中へと斬り

込みをかけた。

 壊乱寸前の越後軍は、宇佐美の水際だった采配と殿を任された政景の槍働

きによって、越中から越後へと血路を開くことができた。


 虎千代が半ばまで進んでいた親不知の難所に、手負いの為景を乗せた駕籠

を守りながら宇佐美定満が現れるまで、さほど時間はかからなかった。

 宇佐美は政景どころか旗本衆すら置き捨てて、ただ為景を越後へと運ぶた

めに逃げに逃げてきたらしい。

 宇佐美の身体は、傷だらけになっていた。

 直江大和と、顔を見合わせた。

「全軍を捨てて引き返してきた。あとは政景がなんとかするだろう。とにか

く為景の旦那が、危ねえ」

「あなたがついていながらなにをしていたのです、宇佐美さま」

「悪い。虎千代の今後をどうする、って話で為景と白熱していたのがいけな

かった。俺も旦那もおそらく政景も、心、ここにあらず、だった」

 断崖に立ちながら、宇佐美は駕籠の御簾を開いた。

 為景が無言で顔をしかめている。

 腹部の傷は、かなりの重傷だった。

 直江大和は、すでに為景が助からないことを悟った。

「宇佐美さま。ひどい傷ではないですか。なぜ連れ戻してきたのです」

「親子二代にわたって越中の一揆に殺されたとあっちゃ、越後守護代・長尾

家の面目は丸潰れだろうが。旦那は、なんとしても自分は春日山城で病没し

たということにしてえのさ」

 駕籠の中に横たわりながら、為景がこくりとうなずいた。

 ただそれだけの動作で、脂汗が流れる。

 雪が、舞いはじめていた。

 白い雪の嵐の中を、震えながら、虎千代が為景のもとへ駆け寄っていく。

「おとちゃ!?」

 為景には、虎千代を振り払う気力も残っていない。

 むしろ、「おお、おお」と異形の虎千代を迎え入れてくれた。

 こうして父の腕の中で甘えた記憶が、虎千代にはなかった。

「おとちゃ。一揆にやられたのか。あねちゃの次は、おとちゃがいなくなっ

てしまうのか」

「……虎千代よ。綾は、いなくなったわけではない。政景の妻になっただけ

だ。これからも、お前の姉だ……」

「おとちゃ。お腹から血が。血が、溢れて」

「うろたえるな。これが、因果応報よ。俺の親父は、越中の一揆勢と結んだ

神保家に敗れて死んだ。その復讐を果たした俺もまた、俺の行った復讐に対

してさらなる復讐を誓った一揆勢に。これが乱世だ。殺し合いの連鎖は、果

てしなく続くのだ」

 これほど為景が自分に優しく語りかけてくれたことは、なかった。

 もう、虎千代が白い子であろうがなんであろうが、為景が虎千代の実の父

であろうがなかろうが、為景には関係がなくなったらしかった。

 眉間に深く刻まれたしわが、嘘のように消えていた。

 おとちゃは死ぬのだ、と敏感な虎千代は知ってしまった。

 涙だけは見せまい、とけんめいにこらえた。

「……政景との内輪の争いを綾との婚姻によって終わらせることができただ

けでも、幸いよ……晴景は身体が弱い……政景とそなたとで、晴景を支えて

やれ……もしも、晴景が惰弱でものにならぬなら……この因果の連鎖から、

晴景を、降ろしてやれ」

 虎千代は、黙って「こくこく」とうなずいた。

 はじめて、おとちゃが優しくしてくれたのに。はじめて、こうして仲良く

お話することができたのに。それなのに。あねちゃを奪われ、おとちゃも死

んでしまう!

「よいな。俺は病死したということにせよ。二代続けて越中一揆に討たれた

となれば、長尾家は権威を失墜して越後守護代の座を失う。俺が殺した主君

は越後守護と関東管領の二人。越中一揆に討たれた長尾家の越後守護代もま

た二人。どうやらこれも、坊主が言うところの因果というものだったようだ

……」

「おとちゃ。とらちゃは。とらちゃは、どうすればいい? 出家か。武家に

なるのか。おとちゃの、言うとおりにする!」

 なんとけなげな娘だろうか。為景は(わが子だ。なぜ俺は疑ったりしたの

だろう? この子は、たしかに俺の娘だ……いや、もう、血が繋がっていよ

うがいまいが、そんなことはどうでもよい。虎千代は、俺の子だ……)と目

に涙を浮かべながら、虎千代のために微笑を作ろうとした。

「虎千代。お前をずっと捨て置いてきて、すまなかった。そなたは、そなた

の思うがように、生きるが……よい……」

 しかし、為景が正気を保てたのは、ここまでだった。

 失血と衰弱と混乱とで、死に瀕している為景の知覚は、にわかに異常のも

のとなった。おそらくは脳の一部に、致命的な機能障害を来したのだろう。

 為景の目の瞳孔がかっと開いた。

 目の前にいる虎千代を、怯えながら凝視していた。

「……お……おお……毘沙門天か……毘沙門天が、この俺に神罰を下しに来

たのか!? まさか、神はほんとうにいたのか? ならば、俺は地獄落ちか?」

「ちがう、毘沙門天ではない。おとちゃ。とらちゃだ」

「神よ……お許しあれ……! お許しあれ、なにとぞ! 俺が主である越後

守護を殺し、関東管領を殺したことを、怒っておるのであろう! しかし、

殺さねばこちらが殺されていたのだ! 仕方がなかったのだ!」

 為景は惑乱した。

 白いずきんに頭を包み赤い瞳を光らせている小さな虎千代の姿が、天から

舞い降りた毘沙門天そのものに見えているらしく、最後の生命力を振り絞っ

て全身全霊で恐怖した。

 何十年もの間、胸の奥に封じてきた罪悪感のすべてが、一瞬のうちに解き

放たれていた。

「俺が越後に内乱を起こし、関東に争乱を起こし、越中で一揆勢を討ったこ

と、なにもかもが罪というのか! この俺が東国に戦乱を招いたと! 俺の

下克上が、ぬぐいがたい罪だと? 俺は生涯をかけて、東国の秩序を破壊し

戦乱の因果の種を蒔いたと? そこまでして越後一国さえ統一できなかった。

それが、俺の全人生だったと?」

 瀕死の為景だった。傷が痛み、熱にうなされ、理性を失っていた。

 これまで修羅の仮面の下に押さえ込んできた人間の生の心を、もはや隠す

ことはできない。

 為景は虎千代の赤い瞳から逃げようと、まるで別人のように怯え、苦しみ

悶えた。

「やめてくれ! その瞳で俺を見るな! 心の内の醜きもの、弱きもの、お

ぞましきもの、目を背けたくなるもの、すべてを見通すその瞳で!」

 宇佐美定満も直江大和も、虎千代を毘沙門天と見間違えて駕籠の中で悲鳴

をあげる為景に、なにをすることもできなかった。

 宇佐美にとっては一族の仇であり、直江大和にとっては父親を屈服させ恥

辱を与えた忌まわしき記憶の源泉である。

 しかしその為景もまた、心の内では己がしでかしたことへの罪の意識に、

常に脅かされて生きてきた――。

 だが、いくら暴虐の王とはいえどいまわの際に実の娘を自分を罰するため

に現れた神と見間違えて怯えながら死んでいくなど、あまりにも哀れだった。

為景も、そして虎千代も。

「……おとちゃ……とらちゃが、わからぬのか。とらちゃは、そのようなも

のではない」

「俺を見るな! 俺はおそろしい! 神仏が実在したならば、地獄があるな

らば、俺は永劫えいごうに罰を受けるしかないではないか! この越後に、俺ほどの

悪党がいただろうか! 主を二人も殺し、従わぬものを次々と討ち果たし、

主君の上杉家を没落させて関東までを混沌に陥れた俺ほどの悪が! 頼む、

許してくれ!」

 虎千代の神秘的な姿は、今の為景にとっては、神罰を下す毘沙門天そのも

のにしか見えないらしかった。

(これ以上、もたねえ)

(お嬢さまが哀れすぎます)

 宇佐美と直江の二人は、為景に触れることも許されず呆然と立ちつくして

震える虎千代を引き離そうと駕籠へ歩みよろうとした。

 だが。

 虎千代は、二人を視線で制すると、怯える為景の手をそっとにぎっていた。

 こうして、直接父に触れた記憶はなかった。

 自分はずっと父に怯えられていたのかもしれない、と虎千代は思った。

 すでにその手を振り払う力もない為景は、「許してくれ」とうわごとのよ

うにつぶやいている。

 まもなく、息を引き取るだろう。

 虎千代は、老いて傷つき今この現世から去ろうとしている父の目を、その

赤い瞳でじっと凝視した。

 為景が「ああ」と声を漏らした。

 虎千代の唇から、少女のものとは思えない声が、発せられていた。

「許す」

「ああ。許して、くださいますか」

なんじの犯した罪を許す。越後守護を殺した罪を許す。関東管領を殺した罪を

許す。主家の上杉家を没落させ、越後と関東に騒乱を起こした罪を許す。越

中一揆を殲滅せんめつしようとした罪、本猫寺を禁教にして弾圧した罪を許す。宇佐

美定満の一族を滅ぼした罪を許す。直江大和の一族に屈辱を与えた罪を許

す」

 虎千代は、父の犯した罪のすべてを、許す、と伝えた。

 もう、虎千代だと思われなくてもいい。

 毘沙門天と名乗ってでも、父の魂を救いたかった。

 いかにすれば父のこれほどの大罪をあがなうことができるのか、まるでわ

からないままに、それでも虎千代はただ父を救うために、神聖なる軍神・毘

沙門天になりきっていた。

 為景の表情から、恐怖が消えていった。

「感謝、いたします……俺は……今……救われた……」

 為景はまぶたを閉じて、動かなくなった。

 背後では宇佐美定満と直江大和が、無言で手を合わせている。

 驍将ぎようしよう、長尾為景。

 二人の主君、関東管領と越後守護、上杉家の主を殺した男。

 自分に抵抗した宇佐美家の一族を皆殺しにした男。

 直江家を力で屈服させて、主を裏切らせた男。

 父の仇である越中一揆と戦い、そして敗れて自分もまた父と同じ結末を迎

えた男。

 これほどの悪行を重ねていながら、ついに越後守護代の座を守りきれず、

野心家の政景に娘を与えねばならなかった男。

 だが、その最後は、安らぎに満ちていた。

 現世に降臨した毘沙門天によって、すべての罪を許す、と約束されたのだ。

 だが、その毘沙門天は、ほんものではない。

 虎千代の、演技である。

 虎千代にこのような演技をさせてしまったことを、宇佐美定満も直江大和

も、家臣として、そして虎千代の器に惚れ込んでいた者として、恥じた。

 恥じながらも、虎千代の中に、尋常ならぬ純粋ななにかをはっきりと見出

し、感情を乱されてもいた。

 常に無表情を貫いてきた直江大和ですら、唇の端をふるわせている。

「おとちゃが、死んだ」

 二人はその言葉で、「長尾為景が死んだ」という現実に、引き戻された。

「……旦那……すまねえ。オレが油断していたばかりによ……オレはいつも、

最後の詰めが甘い。わざとじゃねえんだ、悪かった」

 半生を為景との戦いに費やしてきた宇佐美定満は、まるで実の親が死んだ

かのように、顔をしかめて立ちすくんでいた。

「為景さま。どうか、安らかにお眠りください。お嬢さまは必ずや、この長

尾家の因果から、わたくしが……」

 直江大和は、自分の表情を見られたくないかのように、天を見上げている。

 暗鬱な灰色の雲に覆われた、越後の空を。

 そして。

「うわ……うわああああああ!」

 毘沙門天から、ただの少女に戻った瞬間。

 虎千代は、為景のもとからぴょんと飛び退きながら、叫んでいた。

 その兎のように赤い瞳は、自分の無力さに対する深い怒りと黒い絶望とに

燃えていた。

 なにが、毘沙門天の化身だ。

 自分が毘沙門天であると、嘘までついた。

 それでも老いた父一人、守れなかった。

 姉を自分の身代わりとして、野獣のような男に差し出した。

 いったいなんのために自分は生まれてきたのか。

 日光のまぶしさにすら怯えるようなこんな脆弱ぜいじやくな身体で。

 父親を、殺し合いの因果から救い出すこともできず。

 男たちの好奇の視線に怯え。

 ただ春日山に隠れ、母と姉に甘えて、無償の愛情をねだるばかりの日々

だった。

 これほど重い因果に絡められた家に生まれていながら、これまでなにをな

すこともできなかった。

 許す? おとちゃの罪を許す? とらちゃに、そんなことを言う資格が

あったのか?

 ただ一つ、許す方法があるとすれば、それは――。

「おとちゃが因果応報で死なねばならなかったというのなら、その因果は、

とらちゃが引き受ける! 毘沙門天! とらちゃから、肌の色を、髪の色を、

瞳の色を奪っておきながら、なぜ命を奪わない? おとちゃの罪を許せ! 

その代わりに、とらちゃの命を、持っていけ!」

 虎千代は、叫びながら崖から飛び降りて鯨海の荒波へと自分の身体を差し

出していた。

 なんのためらいもなかった。

 宇佐美も直江大和も、あまりにも一瞬のことだったために、制止できな

かった。

「な……なにいいいいっ? 虎千代てめえ、なんてことを!」

「お嬢さま!?」

 二人は為景の遺骸の存在ゆえに一瞬ためらったが、次の瞬間には無言で自

ら虎千代を救い出すために崖の下へ――波しぶきの中へと飛び降りていた。

 同時だった。

 虎千代の小さく脆い身体は、清浄な鯨海の底へと沈んだ。

 波にのまれ流されていく虎千代の呼吸は、この時、止まっていた。

 生と死の狭間、天と地との狭間で――。

 虎千代は、夢を、見ていた。

 鯨海の底に身体を残して、虎千代の意識だけが、天へと引き上げられてい

く。

 脆い肉体を持っていた時には直視できなかったあの太陽へ向かって、虎千

代は上昇していく。

 見下ろすと、宇佐美と直江が鯨海へ飛び込んで自分の身体を引き上げよう

としている光景が、ありありと見えた。

(とらちゃは、死んだのか? おとちゃは?)

 宇佐美と直江、こんな自分になにがしかの期待をかけてくれてきたあの二

人まで巻き込んでしまわないよう、虎千代は祈った。

 虎千代は、ぐんぐんと地上から引き離され、どこまでも昇っていく。

 気がついた時には、満天の星空の中を漂っていた。

 背後には、青くて丸い星が、見えた。

 ああ。あの青い星がとらちゃが暮らしていた「地」だ、と聡い虎千代は気

づいた。

 太陽は、まばゆい星々がきらめく闇の中に、なおも赤く輝いている。

 暗黒の夜空の中に、太陽がぎらぎらと輝いている。

 その太陽の彼方から、誰かの声が聞こえた。

 知らない声だった。

 男か女かもわからない、奇妙な声。

『虎千代よ。長尾為景の命はすでに尽きた。しかし生前の罪をなかったこと

にはできない。むろん、そなたの命と引き替えにもできない。そなたはまだ、

死ぬべき時ではない。地上へ戻り、生きねばならない』

 その声は、虎千代の意識の真ん中へと直接届いた。

「なぜだ。とらちゃは、なんのためにこんな姿で生まれてきた。本猫寺の当

主のように、新しい宗門を作って民の心を癒やすためか? おとちゃにやっ

たように、毘沙門天のふりをして嘘をついて人を救うためか?」

 虎千代は、己の意志をその何者かにぶつけた。

『虎千代、そなたは人間でもなければ、少女でもない』

「人間ではない?」

『そうだ。そなたは、ほんとうにこのわたし、毘沙門天の化身であり分身で

ある。毘沙門天とは、地上の世界を生み出した天の意志そのものであり、こ

の宇宙そのものである。そなたはその毘沙門天の魂を人間の身体に宿して春

日山長尾家に生まれた。そなたのその白い肌と赤い瞳とは、しるしである』

 信じがたい言葉を、虎千代は聞いた。

「とらちゃに、なにをしろと言うのだ?」

『毘沙門天の化身として、乱れた世に正義を示し、失われた秩序を回復せよ。

神の化身として自ら戦場に出て槍を取って悪しき者どもと戦い、正義の心を

人々に示せ。欲の戦ではなく、義の戦というものをなせ。懲らした悪には慈

悲を与え、悪を善となせ。神が人のかたちをとって戦というかたちで世に正

義を知らしめる奇跡があると、そなたはその短い全生涯をかけて人々に訴え

よ』

「人を救うのに武が、戦が、なぜ必要なのか?」

『そなたに武の力があれば、為景は一揆に殺されなかった。しかしその一方

で、そなたが慈悲の心によって為景を許さなければ、為景の魂は救われな

かったであろう。そなたは義を示すために悪人と戦い、かつ、慈悲の心を

もって彼らを許すのだ。人の命と、人の魂、そのいずれも救うのだ。それが、

ほんものの神の道だ』

 なぜだ。なぜ、こいつはうさみのようなことを言う。義のための戦?

 なぜ、直江大和のようなことを言う。神の子として生き、悪人に慈悲を与

える?

 ほんとうに、こいつは毘沙門天なのか?

 とらちゃは、海中で溺れながら夢を見ているにすぎないのではないか?

 虎千代の明晰な心が、自分が今体験しているこの邂逅かいこうが現実なのか妄想な

のかと問いかけ、迷わせる。

「断る。坊主や神人が槍を取って戦をすることを、とらちゃは好まぬ! 戦

をすれば人が死ぬ。宗門や神仏は、人を救うためにあるはずだ! 武家か、

出家か、いずれかだ! どちらの生も同時に生きるなど、強欲だし矛盾だ!」

『末法の世だ。釈迦牟尼しやかむにが大王になる道を捨てて出家し、それで世が定まっ

ただろうか? 戦が終わっただろうか? 終わらなかった。釈迦牟尼の一族

は滅び、彼の一族の国もまた消えた。武によって滅ぼされたのだ。西方にも、

同じ運命を辿った神の子がいた。その者は帝国に武で抵抗せず、十字架にか

けられて人々に義と救済を示した。しかし、やはり、それでも戦乱は終わら

なかった。言葉だけでは、世は変わらず、人は救われない。言葉は、慈悲は、

人の魂を救える。救う手助けができる。しかし命を救うものは武だ。慈悲の

心に裏付けられた無私の義戦だ。乱世の神は、生きてあらねばならない。生

きて、そして戦わねばならない』

 西方? 十字架? 船に乗って西国に現れたというキリシタンのことか?

 とらちゃはいつどこでキリシタンにまつわるこんな詳しい話を耳にした? 

これがとらちゃの夢ならば、とらちゃはどこかで誰かから、キリシタンにつ

いて聞いていたはずだ。でも、思い出せない……。

 ならば、これは夢ではないのだろうか?

『虎千代よ、そなたは釈迦牟尼たちとは異なる生き方を示せ。人としてでは

ない。神として義戦を戦い、かつ敵をことごとく許し、命と魂をともに救

え』

「なぜ、とらちゃが」

 お前は自ら毘沙門天を名乗って、長尾為景の罪を許す、と口にした。言葉

にした。その瞬間に、お前は自分が為景に伝えた言葉を自ら生涯をかけてほ

んとうのことにしなければならなくなったのだ、と毘沙門天は答えた。

『自らの主を二人も殺し、神を信じる門徒たちと争い殺し、世の秩序を乱し

た長尾為景の罪業をあがなうために、お前は毘沙門天の化身として生きる定

めを背負ったのだ。これは、罰である』

「罰?」

  に落ちた。

 疑問は、氷解した。

 この毘沙門天との対話が夢でも幻でも構わぬ、とらちゃにとって真実まことであ

ればそれは真実まことだ、と虎千代は叫んでいた。

 虎千代は、自分自身の存在理由を、ついに見つけた気がした。

 おとちゃは、たくさんたくさん、悪いことをした。

 越後でいちばん偉い人であり越後の王である守護を殺し、その越後の王よ

りもさらに偉い関東管領を殺した。

 越後守護と関東管領の家系・上杉家を無残に衰退させ、越後と関東に大乱

を引き起こした。

 越中の一揆にも厳しく当たり、父親を殺された復讐戦を繰り返し、本国越

後で本猫寺を禁教とし弾圧した。

 主である守護のために戦った宇佐美の一族を、皆殺しにした。

 悪いことばかりしている。

 多くの人を死なせた。

 でも、おとちゃだって、やりたくてやったわけではない。

 戦って勝ち残らなければ滅ぼされるから戦ったのだ。

 しかたがなかったのだ。

 戦国の世だから。乱世だから。

 誰も彼もが、戦い、裏切り、殺し合う。

 誰かが、この因果の連鎖を断ち切らねばならない。

 すべてを、許さねばならない。

『そうだ。死にたくないから戦う、滅びたくないから相手を殺す、それが欲

の戦だ。己の命を守りたいと願う、これは生物すべてに備わっている欲だ。

人々が義を見失い、欲と欲が戦という形でぶつかり合えば、今のような果て

しない乱世となる。しかも種子 島たねがしまや大筒という南蛮の新兵器が、日ノ本の国

に続々と入ってきている。あれらの兵器を用いれば、戦で死ぬ人数は、まる

で桁が違うものとなる。人々は義なく欲にとらわれ新たな兵器を生み出しさ

らに殺し合う。地に生きる人間たちはみな危機に陥っているのだ、虎千代

よ』

「……種子島……」

 聞いたことがない、ような、ある、ような……。

 いや。もう、疑うまい。

 この毘沙門天との対話がうたかたの夢であっても、とらちゃにとっては夢

ではなく確固とした真実まことなのだ。

『そなたは神の化身だ。自分自身の命、自分自身の滅びへの恐怖、己の欲の、

その一切を克服し、純粋な義の光を人々に示すために戦え。死ぬまで、戦え。

その行為が、為景の罪をあがなうことになろう』

「それでおとちゃの罪は、許されるのか。ほんとうか?」

『そなたにしかできないことだ。よいか。これは罰であり、呪いである』

「呪い、なのか」

『そうだ。祝福でもあり、呪いでもある。決して人間になろうとするな。神

として、毘沙門天としてのみ生きよ。それ以外の生き方はそなたには許され

ていない。煩悩を捨てよ。そなたの日に当たると焼け付く白い肌も、飽食す

ればたちどころに吐き戻してしまう弱い臓腑も、一目で神の子とわかるその

容姿も、すべてはそなたをただの人間にしてしまおうとする内外の煩悩から

そなたを守るために備わっている』

 ことに、恋心はそなたの魂を堕落させる。己の血が通った子孫を残そうと

する人間にとって、恋心ほど強烈な欲はない、仏門が出家と禁欲を勧めるの

もこの欲がすべての障害となるためだ、と毘沙門天は告げた。

『虎千代。もしも生きた人間に恋をすれば、そなたはたちどころに、死ぬ』

 あなたを愛している、とひとたび人間に告げれば、そなたの心の臓はその

瞬間に、止まる。

 よいな。そなたを守るために長尾政景に嫁いだ、綾の意志をむげにしては

ならない。

「恋心は、すべて己の心の内にとどめ、煩悩を昇華せよ、それが毘沙門天と

して生きるそなたの宿業だ。己の恋に生きてはならない。人々に道を示す、

輝ける道標として生きるのだ」

 わからぬ。恋心とは、それほどのものなのか。幼いとらちゃにはわからぬ。

 だが、その程度の呪いなど、乗り越えられぬはずもない。

 とらちゃは、生きるべき道筋を見つけることができた。

 自分がなんのためにこのような姿に生まれ、なんのために苦しんできたの

か、そのすべてを知った。

 後悔などない。

「わかった。この虎千代が! 長尾為景の子は、己の欲を克服した義将だと、

慈悲の心で救世をなす毘沙門天の化身だと! 天下に知らしめる!」

 それでおとちゃが救われ、とらちゃの苦しみに意味が与えられるのならば、

とらちゃは生涯、恋などしない。

 神として戦い、神として生き、いつか神として天に還る。

 そう誓おう。

 約束をたがえるな、毘沙門天。

 虎千代の意識は、そこで途切れた。



「うっひゃああああ! 虎千代が、息を吹き返したぜ!」

「お嬢さま! これは奇跡です。まさか蘇生しようとは」

「虎千代。ほんとうによかった。為景さまも、きっと喜ばれているはず」

 虎千代が再び目を開くと、そこは春日山城の館の一室だった。

 どうやら、眠っていたようだ。

 とらちゃは、親不知の海に落ちたのではなかったのか?

 見慣れた顔ぶれが、仰向けに寝ていた虎千代を囲んでいた。

 ただ、為景の姿はない。

 やはりおとちゃは死んだのだと、虎千代は唇をかんだ。

「ほれ。てめえにダメ出しされた兎のぬいぐるみを改良した。いいか、こい

つを光に当てると目の玉が赤く光るんだ。すごいぞ! 南蛮渡来のビード

ロってやつを目の代わりに埋め込んだんだ……って、こらああ! うさちゃ

んを投げるなあああ!」

「宇佐美、とらちゃはもう子供ではない」

「うるせえ。大人は自分のことを『とらちゃ』って言わないんだぜえ~」

「お嬢さま。越後軍の越中からの撤退は、成功しました。為景さまの葬儀は

すでに終わりました。為景さまは病を発して倒れられ、そのままお亡くなり

に。春日山の今の主は、兄上の晴景さまです」

「わかった、直江大和。そして、おかちゃ」

 虎千代は、母である虎御前の手をにぎっていた。

 虎御前はすでに、夫の菩 提ぼだいを弔うために出家する準備を進めていたらしく、

手に数珠を持っていた。

「なに、虎千代? おなかがすいたの? あなたは肉を食べないけれど、な

にか食べないと滋養がつかないでしょう。たくさん、笹団子を用意している

わ」

「虎千代が進むべき道が見つかったのです、おかちゃ。いえ、母上」

「まあ。それでは、出家か武家か、いずれかを選んだのね?」

「直江大和は出家を勧めてくる。宇佐美は姫武将になれという。しかし、お

とちゃが撒いた因果の種は、子が刈り取らねばならない。越後守護の家系で

あり関東管領の家系である主筋の上杉家を、長尾為景の子が復興し、罪を償

わなければ」

 虎御前の目には、蘇生した虎千代がまるでほんものの毘沙門天のように輝

いてみえた。

 宇佐美と直江大和もまた、息をのんでいる。

 あの瞬間からだ。毘沙門天になりかわり、為景に「許す」と言ったあの時

から。

 虎千代の中で、なにかが大きく変わった。あるいは、これまで眠っていた

ものが目覚めた。

「とらちゃは姫武将になり、越後と関東の騒乱を終わらせ、上杉家を復興す

る。それが、おとちゃの罪の償いになり、天下に義を知らしめることにな

る」

「では、虎千代は姫武将になるの?」

「ただし、とらちゃは嫁にはいかぬ。武将にはなるが、出家と同じ戒律を守

る。毘沙門天の力は、純潔を守らなければ失われる。夢の中で出会った毘沙

門天から、そう聞かされた。とらちゃは誰の嫁にもならず、すべての人を慈

悲の光で照らす越後の軍神となる。ほんものの毘沙門天に。これからとら

ちゃは自ら、毘沙門天の化身と称する」

 虎千代の心に宇佐美定満と直江大和がそれぞれ撒いた種は、鯨海の底に沈

んだ際に、このような形で花開いたらしい。

「まあ。出家と武家、どちらも捨てないなんて。欲が深すぎるわ、虎千代」

「欲ではない、母上。これは、義だ。とらちゃは、正真正銘ほんものの毘沙

門天として生きることにした。絶対に、あねちゃを失望させない。とらちゃ

を守るために長尾政景に嫁いだあねちゃに、後悔はさせない」

 戦い、かつ、救う、そのような困難の道を、虎千代は選んだのだ。

 自ら越後の軍神となり、人としての幸せも我欲も捨て、出家したも同じ世

捨て人となり、ただ乱世の人々に義を示し道を切り開くためにのみ生き、か

つ刀を握って戦場へ自ら赴き、義の戦を戦い抜く。

 途方もない話だった。

 かの天照大神あまてらすおおみかみでさえ、軍事は弟である素戔嗚尊すさのおのみことに託していたのではないか。

 釈迦ですら、仏陀ぶつだ の道と転輪聖王てんりんじようおうの道の二つを同時に選び取ったりはしな

かったではないか。

 宇佐美も直江も、それほどの難行をただの人間の少女である虎千代に要求

しようと考えたことすらなかった。

 そのような離れ業が、人間の少女に可能なのだろうか?

 だが、虎千代は、「やる」と断言した。

「ほんとうにとらちゃが毘沙門天の化身なのかどうかを決めるのは、誰でも

ない。自分自身だ。自分の真実まことは、この胸の内にある。夢であろうが嘘であ

ろうが、自分自身が納得する生き方ができればそれが真実まことになる。ならば、

最後まで毘沙門天として生きてみせる。もはや、己の姿を恥じぬ。奇妙とも

思わぬ。堂々と越後の民の前に姿を現し、堂々と敵前を行軍しよう。わが肌

もわが瞳もわが髪も、すべてはわれが毘沙門天だという『しるし』だ!」

 いつもここではないどこかを彷徨さまよっていたような赤い瞳が、今は、揺るぎ

なくここにある。

 宇佐美定満も、直江大和も、(ああ。自分がこの子をここまで追い詰めて

しまったのではないか。虎千代がその小さな胸に抱いた理想は、実現不可能

ではないのか。壮大な徒労ではないのか。なによりも虎千代自身にとって、

果てしのない苦行以外のなにものでもないのではないか)という胸が詰まる

ような思いを抱いたが、しかし生まれてはじめて自らの存在意義を見つけ、

神々しいまでの威厳を放ちはじめた虎千代の姿を前にすると、なにも言えず

に思わず頭を垂れてしまった。

 そうだ。もうすでに、さいは投げられたのだ。

 自分にできることは、虎千代を守るために己の命を捧げることだけだ、と

二人は瞬時に覚悟を固めた。

「わかった。よくぞその歳で、それほどの決断を下したもんだ。オレの命を、

くれてやる。使え」

「いいでしょう。神の子のまま、姫武将におなりなさい。この直江大和も生

涯独身を貫き、お嬢さまの理想のために生き、そして死にます」

「おいこらーっ! 直江え! 生涯独身を貫くだなんて適当こくんじゃねえ、

このきざ野郎が!」

「宇佐美さま、あなたもお嬢さまの軍師ならば生涯独身を誓わないのです

か?」

「誓えるかそんなもん! オレはなあ、てめえみてえな青白いうらなりとは

違うんだ!」

「やれやれ。あなたのお嬢さまへの忠誠心など、しょせんその程度というこ

とですね」

「オレは戦を担当するからいいんだよっ! てめえこそ絶対に妻を娶るな

よ? 娶るんじゃねえぞ? いいな? てめえが尻尾を出す瞬間をこの手で

捕まえるためによぉ、ずっと見張ってやるぜえ!」

「ああいやだ。衆道しゆどう趣味はわたくしにはございません」

「オレにもねえよ、気持ち悪いんだよ!」

 宇佐美と直江が激しくいがみ合う姿を眺めながら、虎千代と虎御前は苦笑

し合っていた。

「そうだ。おねちゃはだいじょうぶなのだろうか、母上。政景にいじめられ

ていないだろうか」

「ええ、政景どのは綾を丁重に扱ってくれているわ。それよりも、晴景どの

と政景どのの関係が早くも険悪になりつつあるの。昨日も、為景さまの葬儀

の席次を巡って一悶着ひともんちやくあったばかりよ」

「兄上は、政景にまつりごとと戦をすべてゆだねるとばかり思っていたが。

なぜ揉めるのだろう」

「政景どのは、一日も早く自ら守護代になりたいらしくて。お飾りでも晴景

どのが自分の上にいることが我慢できないみたい。あの男の野心は、とめど

がないわ。ほんとうに、為景さまが若返ったかのよう」

「……おとちゃが死んでまもないというのに。政景め、欲深な男め」

 虎千代は、欲を恥とも思わない長尾政景を忌々いまいましく思い、歯ぎしりしてい

た。



 為景の葬儀が終わったあと。

 守護代となった兄・長尾晴景は相変わらず体調が思わしくなく、妹婿と

なった上田長尾家の政景にほぼ全権をゆだねた形となっていたが、為景が死

んで惰弱な晴景が守護代となったために越後の各地で次々と国人豪族が反乱

を起こし、越後はまたしても内乱状態となっていった。

 この内乱は、意外に根が深かった。

 奥州の名家・伊達家が、自らの一族を越後守護・上杉定実さだざねへ養子として送

り込み越後を奪い取ろうと画策を開始していたのだ。

 上杉定実は長尾為景に担がれた傀儡かいらいの越後守護だが、高齢にもかかわらず

実子がなく、後継者不在となったままだった。実質的な越後の王である為景

の存命中は問題にならなかったが、為景の死によって「越後守護」の存在が

再び重要性を帯びてきたのだった。そこにすかさず、隣国の伊達家が介入し

てきた。

 為景のいない越後など恐れるに足らずとばかりに奥州から踏み出して越後

の支配に乗り出した伊達家と、越後人でもなんでもない伊達家の守護などい

らぬと激怒した北越後の国人衆「揚北衆あがきたしゆう」との間に紛争が起こり、これが越

後国内での親伊達派・反伊達派の分裂対立を呼んだ。

 さらに、存在感がなく戦に出てこない新守護代・長尾晴景をなおも支持す

る派閥と、越後の実権を握った上田の長尾政景を推す派閥の対立がこれに絡

み、「やはり為景の旦那なき今、越後は一気に崩壊しつつある」と宇佐美が

奔走しながら嘆くほどだった。

 伊達家は国内で内紛が発生したために越後支配をあきらめたが、ひとたび

火が付いた越後国内での派閥抗争は収まるどころか激しさを増すばかりとな

り、春日山城にもいつ謀反人の兵が押し寄せてくるかわからない情勢となっ

ていった。

 むろん、晴景を一刻も早く廃して自ら越後守護代にならんとする野望を抱

いた長尾政景が両派閥を煽り続けているのである。政景は、晴景が病死する

までおとなしく待っていられない性格であった。ぐずぐずしていると他の者

に虎千代を奪い取られるのではないかという焦りもあった。

 このような緊張の中で――。

 いつ元服し、いつ姫武将となるか、虎千代は林泉寺に潜みながら自らの運

命がはじまるその時を待った。

 その日が、来た。

 林泉寺で座禅と瞑想に励みつつ、宇佐美から軍学を、直江からまつりごと

を学んでいた虎千代は、自分自身とはすべてが正反対の姫武将の存在を不意

に知った。

 その許されざる悪人の名は、武田たけだ晴信はるのぶ

 甲斐かい 源氏の嫡流、甲斐国守護の武田信虎のぶとらを父に持つ、名門中の名門の姫武

将だった。

 おとなしく気弱で、寡黙な少女だという。

 まだ十代の少女なのに、学者も舌を巻いて逃げ出すほどの学識の持ち主だ

とも。

 ところがその晴信が、いきなり自分の父親を駿河するが に追放して、甲斐守護の

座を強引に奪い取ったのだという。

 さらには、自分の妹が嫁いだ先である信濃しなの諏訪すわ家を攻め滅ぼそうとして

いるのだとも。

 諏訪家はただの武家にあらず。古代出雲いずも の神・建御たけみ名方神なかたのかみの血を引く神氏みわし

であり、本職は諏訪神社の大祝おおほうりすなわち神官であった。本猫寺当主などより

もはるかに歴史がある、神聖な一族なのだ。

 武田晴信は気弱な学問好きの少女という仮面を被りながら、突如として父

を追放し、さらにはそしらぬ顔で妹の婿を、それも神氏の諏訪家を滅ぼそう

としているのだ。

 虎千代は、衝撃を受けた。

「父を、捨てた、だと?」

 幼くして父を戦で失った虎千代にとって、自分の父を野望のために国外へ

追放する姫武将など、およそ考えることもできない純粋悪そのものであった。

 まるで、父の罪業をあがなうために生涯不犯ふぼんの義将となることを誓った自

分を、武田晴信があざ笑っているかのような、そんな不愉快な気分に襲われ

た。

 虎千代は、青竹を振りながら、山を駆けた。駆けながら、咆哮した。

「自分の父親を他国へ追放して、家督を奪うなんて。自分の妹を政略の犠牲

にして、妹婿を討ち滅ぼそうとするなんて。間違っている。そんな者、絶対

に許せない」

 宇佐美定満が、「落ち着け!」と騒ぎながらあわてて虎千代を追いかけた。

「その竹で割ったような性格なんとかならねえか、虎千代! 武田晴信は親

父に疎まれて廃嫡されかけていたんだ、やらなきゃやられるところだったん

だぜ!」

「いくら冷たくあしらわれていたとはいえ、廃嫡されかけたとはいえ、父は

父。子は子。それを……ありえない!」

 虎千代が一気呵成いつきかせいに走り終えた地点には、直江大和が「お嬢さまの走る道か

筋はお見通しです」とばかりに待っていた。

 虎千代は、二人に宣言した。

「決めたぞ。わたしは、今日より姫武将になる。正式に姫武将となり、いず

れ越後兵を率いて、武田晴信に天誅を加える!」


 電撃的に、その日は来た。

 長尾虎千代、元服。

 虎千代は宇佐美定満と直江大和を携えて春日山城本丸に入り、主君である

兄・晴景と対面し、越後初の姫武将として戦場で戦うことを誓った。

 以後、長尾景虎かげとらと名乗る。

 晴景は「姫武将の慣習は、越後にはないが……」とうろたえたが、小柄な

身体でありながら父・為景を彷彿とさせる景虎の鋭い視線と毅然とした口調

に、反論することはできなかった。

「そなたが女でありながら武将になったことを認めぬ越後の豪族たちが、こ

れを不服としてまた暴れなければよいが」

 気の弱い晴景はつくづく、守護代に仕え従うということを知らない越後の

国人豪族どもの気風に疲れ果てていたが、景虎がいずれ姫武将になるという

話じたいは以前から宇佐美から聞かされていた。宇佐美はそれなりに根回し

し、充分に下準備をしていたらしい。

 ついに、認めた。

「ありがたき幸せ! これよりこの景虎、姫武将として兄上をお守りいたし

ます」

「う、うむ」

 晴景は、久しぶりに会ったこの異形の妹が娘として成長している姿を見て、

戸惑いを隠しきれないでいる。

 まるで、後光が差しているかのようにまばゆい、美しい異形の妹。

 これは人なのか。ほんとうに、神の子なのではないか。

(長尾政景が虎千代にしつこくこだわっていた理由が、やっとわかった。も

し、この尋常ならざるまばゆさに包まれている娘が僕の妹でなければ、僕と

て)

 晴景はこの時、不意に妙な気分に襲われた。

 息が苦しい。頬が紅潮していた。自分の妹である虎千代改め景虎を、直視

できない。

(馬鹿な。相手は自分の実の妹ではないか。だが、この胸のときめきはどう

したことだ。ただの情欲ではない。僕は風流人だ。これまで多くの女と浮き

名を流してきたが、このような胸がかきむしられるような苦しい想いを、僕

はいちどたりとも女に対して抱いたことはなかった。女などは僕の身分と肩

書きに容易になびく安い連中ばかりだと思っていた。しかし、景虎は違う。

僕のような惰弱な男が触れてよいような存在ではない。そうか。これが、恋

心というものか?)

 生来虚弱体質で戦嫌いの晴景にとって、父・為景から譲られた越後守護代

の座などは重荷に他ならなかった。長尾政景に譲ってもいいとさえ思ってい

たが、譲れば為景に似た性格の政景は守護代の座を手に入れると同時に「用

済み」とばかりに自分を殺すかもしれない。その恐怖ゆえに守護代の座を手

放すこともできず、乱れに乱れる越後の情勢から逃れるように春日山城にひつ

そくして酒と女に溺れ、「この戦乱の世は地獄のようなものだ。僕は戦など捨

て、風流人として静かに生きていきたい。さりとて、越後守護代の座を捨て

てでもともに生きたいと思わせてくれる運命の女人に巡り合うこともできな

い」と日々苦しみ続けていた。

 その晴景が、生まれてはじめて、女人に心を奪われていた。

(その姿は神のように美しく、その心は清らかで、そして自ら剣を取りこの

戦乱の世を武将として駆け抜けていこうと決意できるほどに強い。僕にとっ

て理想の女人だ。いや、僕などが抱いていたちっぽけな理想を、はるかに超

えている)

 だが悲劇的なことに、その運命の女人は、実の妹だった。

(なんということだ! これが恋か。政景はわが妹を手に入れられるかもし

れないが、僕には無理だ! 実の兄と妹ではないか――生きて景虎への想い

を遂げることは僕にはかなわない。胸をかきむしられる切ない恋とはこのこ

とか。ああ。ああ。僕は、今にも狂ってしまいそうだ!)

 晴景は内心、ほとんど狂した。妹に気取られてはならない。とりつくろう

ように、虎千代改め景虎に言葉をかけた。

「む、無理をするでないぞ、命を粗末にするな。そなたの父も祖父も、戦場

で討ち死にしているのだからな」

 景虎は、はじめて兄から優しい言葉をかけられて、思わず目を潤ませた。

 よかった、わたしと兄上との関係はとてもよい、わたしは父上にも兄上に

もほんとうは愛されていた、父を追放し妹の幸福を踏みにじった武田晴信と

は違う――。

 つくづく、自分と年齢が近い姫武将でありながら、政景以上に己の欲望の

ままに生きているとしか思えない武田晴信が許せなかった。

 自分を白子として放置してきた父を恨め、綾を奪った長尾政景を殺して綾

を奪い返せ、それが人間らしい生き方だ、己の欲するままに生きろ。

 見知らぬ晴信に耳元でそうささやかれているかのようで、たまらなかった。

 武田晴信が信濃を侵略すれば、次は越後である。

 いずれ、長尾と武田とは、国境を接する。

 信濃と越後の国境、川中島付近で、両者は激突することになろう。

(わたしが毘沙門天として生きるためにも、あのような奸悪な姫武将を認め

てはおけない。わたしが倒す)

 長尾虎千代改め長尾景虎はまだ、未来の自分が兄から守護代の座を奪い取

り、さらに越後の守護となり、ついには主筋の上杉家そのものをものみ込み

わがものとして自ら「上杉謙信けんしん」と名乗り関東管領に就任する運命を、知ら

なかった。

 兄である晴景の心に自分に対する悲劇的な恋慕の情が生まれてしまったこ

とにも、その原因がこの世の人間のものとは思えぬほどに気高くかつ美しす

ぎる存在感を放ちはじめている景虎自身であることにも、まだ気づかなかっ

た。

 武田晴信と長尾景虎の邂逅の時は、近づいていた。

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