第140話 epilogue-01
男──ピエール・ヴェント・ド・フォン・ドゥバンセは走っていた。
本来、彼を送るはずの車は、あの
豪奢な服は泥に塗れ、久しく運動などしていなかった身体は、膝が笑い、ぐっしょりと汗が伝う。
しかし、彼は足を動かすのをやめなかった。足がもつれ、転げそうになってもなお、彼は走り続けた。
彼の頭を占めていたのはとかく、1センチでも、1ミリでも遠くへ逃げることであった。
理由など言うまでもない。彼は失敗した。他の誰でもなく、彼自身の選択と行動によって失敗し、敗北した。
それを、男の知る閣下は、そして、男の属する『党』は許すはずもない。
男はそれを良く知っていた。その在り方こそが、男がこの歳で爵位を継いだ理由なのだから。
男の父は失敗した。そのせいで、男の父は、存在を消された。残されたのは、父が隠居していたという事実とはことなる現実と、未熟なままに渡された爵位だけのみ。
そして、なにより、男の奥深くに根強い恐怖が根を張ったのは言うまでもなかった。
故に、男に残された選択肢は、地の果てまででも逃げることだった。もっとも、たとえ逃げ切れたとしても、追っ手がかかることに怯える日々が続くに違いないのだが。
「はぁ……はぁ……」
ドゥバンセ男爵の口から荒い息が漏れる。ついに木を支えにして足を止めた彼は、背後を振り向き、安堵したように喉を鳴らした。
誰もいない。追っ手はかかっていなかった。
「ははっ……はははっ! ぼくはやった! ぼくは──」
しかし、その言葉は、半ばで途切れた。彼はなにが起こったのかも分からない間に、地面に倒れていた。
「……!? な、なんだ!?」
頭を押さえつけられ、彼の目に映るのは、くすんだ色の塗装されていない地面だけだ。誰かがいるのが分かっているのに、その姿を確認できない恐怖。
それだけで彼の心は奥底まで苛まれていた。
そして、腕に何かの感触があったと思うと、次の瞬間、頭が真っ白になった。
「いだいいだいいだいいだいいだいいだい!」
情けない悲鳴が、空虚な森に響いた。ドゥバンセ男爵の腕には、杭が打ち込まれ、彼の身体は地面に縫い付けられていた。
激痛に苦悶するドゥバンセ男爵だったが、固定された腕はピクリとも動かず、いやむしろ動けば動くほどに肉が避け、骨が砕ける痛みを味わうはめになっていた。
足だけが蠢き、身体を海老反りにしてもがく様子は、干上がった湖の底に跳ね回る魚のようで、実に無様であり、そこに貴族の尊厳など感じられなかった。
しかし、そんな些細な抵抗も、脚に打ち込まれた杭によって、すぐに止むこととなった。
もはや、悲鳴すら出ず、ドゥバンセ男爵は、あまりの激痛に、口から泡を吹いて失神した。
「…………」
ドゥバンセ男爵の周りに集まっていたのは、黒装束に黒頭巾──いわゆる、黒子の格好をした、性別年齢、共に不詳の何者かだった。
それは薄暗い森の中、ほとんど見えていないであろう互いの布越しに視線を交わし合うと、一つうなずき、どこからともなく取り出した錠剤を、ドゥバンセ男爵の口にねじ込んだ。
「あがぁー! うぐぁ!」
程なくして、獣の呻きのような声を上げながら、ドゥバンセ男爵が目を覚ます。いや、無理やり覚醒させられたと言った方が正しいか。
さらに、痛みを麻痺させる効果でもあったのだろうか。ドゥバンセ男爵は、痛みを感じられず、不気味そうに己の腕に視線をやった。
そして、黒子たちは、そんな彼の前にモニターを一つ置いた。一般には出回っていない、貴族だけが持つ、小型の通信端末だ。
厳密に言えば、大規模通信施設へのアクセスが可能な貴族──厳密に言えば、爵位と一定以上の領地を持ち、その地位にふさわしき成果を上げている者──にのみ所持を許された通信装置であり、これがあれば、どこにいても通信を行うことができる。
そして、その画面に映し出されたのは、彼岸花を象った紋章を刻んだ仮面をした男だった。男の瞳は、
「閣下ぁーっ!」
ドゥバンセ男爵はその場に平伏するかのように、顔を地面に自ら、押し付け、悲鳴に近い声でその名を呼んだ。
大の男が、小さな画面に向かってそんな態度を取るのは端から見れば実に見苦しいものだったが、本人にそんなことを考える余裕はない。
一方の男といえば、無言でその様子を見つめていた。表情のうかがえない仮面の下、唯一見える瞳には、彼の態度に対するどんな感慨も浮かんでいない。
そして、静かに、平伏する彼の名を呼んだ。
『同志ピエール・ヴェント・ド・フォン・ドゥバンセ男爵』
「は、はい、閣下」
『まず君は、自身の失敗を認めなければなるまい」
「ひぃっ……」
『小生の勘違いであったかな? 君は、我が党の方針を誰よりも理解していると思っていたのだがね?』
「そ、それはもちろん、もちろんでございます!」
必死にうなずくドゥバンセ男爵に対し、男の声音は冷たいものだった。
『よろしい。君がお父上と同じ轍を踏まぬよう、努力していたのは小生も知るところだ』
「ありがとうございます、ありがとうございます、閣下」
『しかして、それとこれでは話が別ものよ』
「閣下……?」
『我が党、血盟貴臣党の教義を知らぬとは言わぬな?』
「と、当然でございます! 閣下」
『よろしい。では、同志男爵、君はこれから、レーゲンヴェルク辺境伯領で静養するとよかろう』
「はっ? 閣下……?」
『小生としても残念だ。お父上に続き、君までもが静養することになってしまうとは』
「閣下!? 閣下! お待ちください! 閣下!」
『全ては、
その言葉を最後に、通信は途切れた。
「あぁ……あぁ……」
ドゥバンセ男爵の目からは狂おしいほどに涙が溢れ、声にならない声が、泡とよだれで汚れた口から漏れていた。
そして、閑静な森に一発の銃声が響いた。
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