26 崩落する世界

 しん、と静まり返る広間にはユウキとクリス、そしてルーカスが残った。


(えっと、今ので、一応落ち着くところに落ち着いた……?)


 ひとまずは、国同志の諍いには決着がついたような気がした。

 これからはクリスが言ったように、大人が話し合いで解決するのだろう。戦が免れたとほっとすると同時に、ユウキははたと自分の置かれた状況を思い出した。

 隣にはクリスが立っている。だが身長差が生まれてしまったせいで、見上げなければ彼の表情は確認できない。

 再会を喜びたいという気持ちも大きかったのだけれども、起こされ方がだったので、彼の顔を直視することがとてもできそうにないのだ。


(ど、ど、どうしよう……! とてもじゃないけど、まともに顔見れない……!)


 沈黙が重い。ユウキがひたすらに火照る頬をそっと手で押さえたときだった。

 ふわりと肩から上着が被せられて、ユウキは顔を上げた。

 そこには、せつなそうに目を細めるクリスがいた。彼は上着の上から、そっとユウキの体に手を回す。そして触れるか触れないかくらいのささやかな抱擁ハグをした。


「とにかく、体を温めないと。氷漬けだったんだし風邪引く――っていうか、もう引いてる? 顔、赤い」


 彼はユウキの額に手を当てて顔をしかめたが、ユウキは彼の青い瞳にまともに覗き込まれて息が止まりそうだった。


「ルーカス。どこか部屋を借りてもらってきて」

「あー、はいはい、わかりました。邪魔者は消えろってことですか」

「馬鹿か。ユウキを休ませるだけ」


 なんだかにやけたルーカスが部屋を出ていくと、とうとうユウキとクリスは二人きりになった。

 肩に置かれていた手に力が入り、ユウキはどきりとする。


「あー……馬鹿はおれか。我慢しようと思ってたけど……。おまえが今どの物語を旅してるのかとか、ここまでどうやって来たかとか。まだ、いろいろ聞かないといけないのに――頭が全然働かない」


 クリスはそう呟くと、さらに腕に力を込めた。


「だめだ……我慢の限界」


 そう言って、彼はユウキを上向かせる。


(え、え――)


 あたふたしている内に、唇が塞がれた。同時に、体の奥底から痛みに似た甘い感覚が湧き上がり、腰が抜けそうになる。

 直後、


(……!? え、え――)


 いきなり深まった口づけに驚き、

「く、クリス……や、やめ」

 免疫のないユウキは心が追いつかない。首を振って逃れようとする。かろうじて唇が浮いた瞬間に拒絶を口にするが、彼の唇はその言葉ごと飲み込んでしまった。


「やめない」


 唇が更に重なる。触れた唇の上で、彼は囁く。


「もう、待たないって言っただろ――ユウキ……会いたかった。もう、二度と離さない……! おれのものだ……!」


 唇が、頬が燃え上がるようだった。熱は全身に伝播していく。体中が甘さで融けていきそうな気がしてくる。


(あぁ、わたし、このままクリスのものになってしまいたい――)


 そう思ったときだった。

 ふと気がつくと、ユウキの足は何かに絡め取られるかのように動かなくなっていた。

 とたん、冷水を浴びせられたかのように体が冷えた。

 頭のなかで警鐘が鳴り始める。

 

 前にグリムは言っていた。


『この本は君の魂が欲しくて、何重にも罠を張っているというのに』


 ユウキをあちらの世界に返さないための、罠。

 気づいていたはずだ。それがクリスなのだと。

 蜘蛛の巣のように張られた罠の中心にクリスがいる。

 ユウキは彼を救い出すまで何度でも巣に飛び込み、いつか、絡め取られてしまう。クリスとの恋に溺れて、外の世界に逃げることを忘れてしまう。

 ここでクリスとの恋を選んでしまえば、ジ・エンド。物語はハッピーエンドで。ユウキはお姫様として、飲み込まれてしまう。

 これは、そういう幸せな餌を使った罠なのだ。


(だめだ――わたしは、流されちゃいけない。罠にかかるわけには、いかない……!)


 ここでのまれたら、クリスとともに、ユウキも

 ちがう。ユウキがここにやってきたのは、


「だめ、なの、クリス。話を聞いて……!」

だと? どうして――じゃあ、なんでまたここに来たんだ……! を選んだから戻ってきたんじゃないのか!?」


 突如声に含まれた怒りに、ユウキはぎょっとした。クリスの声に聞こえなかった。


(あれ……でも、この声、どこかで――)


 聞き覚えがあった気がして記憶を探ったと同時に、ユウキの体がふ、と浮き上がった。膝をすくわれたのだと気がついたのは、床に押し倒されたあとだった。

 堅く冷たい大理石の床の上、ユウキは目を見開いてクリスを見上げた。

 熱っぽい眼差しの中に見え隠れする陰は、おおよそクリスには似つかわしくない。


「今度こそ、逃がさない」


 これはだれだろう。

 クリスの顔をしているのに、クリスではない。こんな目をクリスはしない。

 中身が突如入れ替わったかのようだった。


「逃がさない。逃がさない、逃がさない――」


 うつろな目で呪文のようにつぶやきながら、クリスはユウキの首筋に顔を埋めた。暴かれた鎖骨に歯を立てられて、ゾッとする。


「クリス――!?」


 もがくと、ずぶずぶと背中から、全身が床に沈んでいく感覚があった。底なし沼に沈んでいくかのよう。

 両腕、両足を闇に絡め取られる。動きが封じ込められている。

 彼の手がユウキの膝に触れ、彼が奪おうとしているものに気がついて血の気が引いた。

 ユウキの知る彼は、こんな風に強引なことをしなかった。

 いつだってユウキの未来を心配してくれた。いつだってユウキの選択を尊重してくれた。いつだって――。


「待って……! クリス、いや!」


 叫んだときだった。クリスがはっとしたように顔を上げた。


「おれは――今、何を……っ」


 クリスが愕然としている。その眼差しには光が――清廉さが戻っていた。

 ユウキがそれに気付いたとたん、ピシリという音とともに天井が一部剥がれた。亀裂から星空が見え、ユウキはその美しさに一瞬目を奪われた。


「ユウキ、危ない!」


 ガラガラという音とともに建物が崩壊する。漆喰の塊が落ちてくる。

 クリスがユウキを庇うように身を伏せた。だが落ちてきた塊は、ユウキの体とクリスの体をすり抜けて、床に広がる闇の中へと消えていく。


 


「……?」


 叩きつけるような音が止み、ユウキは薄く目をあける。全てが崩落した後に残ったのは闇だけだった。空に浮かぶ星だと思っていたものは、アルファベットの羅列。

 忘れもしない場所――御伽噺奇譚の入口の部屋だった。


 いつの間にか、体にのしかかっていたクリスの重みは消えていて、先程まで押し倒されていたはずのユウキは自分の足で立っていた。


「クリス――クリス!? どこ!」


 今までとは違う幕切れだった。


(いや、まだ幕切れじゃない……!)


 前回も、その前も、ユウキが目覚めたときにいたのは現実世界。ここはまだ御伽噺奇譚の中だ。抜け出せていない、まだ終わっていない――!


 ユウキが今の今まで紡いできた物語は終わっていない。

 カエルの王様だと思って作り直していたあの物語は。

 オフィーリアや、フリッツ、そしてユーリアは。

 全員、中途半端に放り出したままだ。

 だから本の中から、抜け出せないのだろうか。

 ならば、今すぐに元の世界に返して欲しい。本の世界の中へ。そうしたら、今までのように完結させてみせる――

 ――と思ったとたん、ユウキははっとする。


(ちがう、終わってなかった――)

 

 御伽噺奇譚の終わっていなかった物語。

 その白雪姫に関して、先程、完結したような気がしたのだ。


 ガラスの棺。そして、王子様のキスとお姫様の目覚め。図らずも、要素が揃ってしまった。

 今もし手元にあの本があるのならば、結末が書き換わっている気がして仕方がない。

 ふと、ユウキは思い出した。

 白雪姫が完結する条件には、『結婚』がある。ラスト、白雪姫は王子と結婚して、幸せな未来を歩む。

 だというのに、先程、ユウキはクリス王子を拒絶した。

 罠にかかるまいと、必死だったけれど、はたしてその選択は正しかったのだろうか?


(もしかしたら……致命的な、エラー? ゲーム……オーバー……?)


 だとしたら、なんという結末だろう。

 ぞっとしたユウキは、思わずぬしの叫んだ。


「グリム……! いるんでしょ。どこにいるの!」


 そのとき空に浮いていた文字がひらめき、低い声が辺りに響き渡った。


「もう少しだったのに。……また、アイツに邪魔された」


 見覚えのある学生服の男――グリムがこちらに背中を向けて体操座りをしている。


「僕は――この本は、もう、だめだ」


 彼の頭を見てユウキは驚く。

 彼はいつものように被り物をしていなかった。

 影になっているせいか、色は見えない。項までの短い髪、そして形の良い耳になぜだか既視感があり、ユウキは目を瞬かせる。

 正体を知りたい。そんな興味が恐怖に勝った。

 足を踏み出したユウキは、彼の目の前に回り込む。

 同時に、空中に浮いていたアルファベットがひらめき、彼に淡く色がついた。

 その顔を見て――ユウキは、顔をこわばらせた。


「どうして」


 焼かれた鋼のような赤い髪。長いまつげに彩られた青い瞳、通った鼻筋に、薄い唇。華やかでいて、端正な顔立ち。


「うそ」


 ――それは、ユウキがとても良く知っている顔だった。


「クリス……!?」

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御伽噺を翔ける魔女 山本 風碧 @greenapple

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