2 ようこそ、御伽噺の国へ

 気がつけば、辺りは真っ暗だった。目を閉じているのかと思って、何度かまばたきをするけれど、暗闇は去ってくれない。

 だけど次第に目が慣れてきたのか、目を開けた時に星の瞬きが映るようになった。ホッとしたのもつかの間、ユウキは目を凝らす。


(あれ? いや――星じゃない)


 それは空中に浮くアルファベットだ。白く輝く文字たちは、ぶつかり合い、反発したり、つながったりしている。

 ぼんやりと目で追っていると、視界の隅でつながった文字があり、ユウキはなんとなくそれに見入った。


『youkoso,otogibanasinokunihe』


 まるでタイプしたかのようにその文字がつながって、くるりと半反転したかと思うと


『ようこそ、御伽噺の国へ』


 と変換された。


(なあんだ。大きなスクリーンがあるだけ?)


 それならばまだ常識の範囲。さっきのは夢。きっと映画館で寝てしまって――そして寝ぼけているのだと思った。

 ほっとして現状を把握しようと、手を伸ばす。だけどユウキの手はいくら伸ばしても空を切り、何の感触も掴んでこない。見かけよりも遠いのだろうかと一歩足をすすめる。だけど、文字は同じ場所に浮いているのに大きさを全く変えない。二歩、三歩と足をすすめる。やがて十歩進んだけれど……届かない。


(え、つまり、じゃあこの文字って空間に浮いている?)


 あまりに現実離れした現象に、恐怖がぶり返す。全身に震えが走る。ユウキは目を見開いて、呟いた。


「つまり、……これって、やっぱり夢だよね?」


 それは、むしろそう思いたいという願望だった。

 定番すぎるかもしれないけれど、ほっぺをつねってみる。確かに痛い。だが夢は覚めない。肩で切りそろえた髪を引っ張ってみる。それでもだめだ。


(目が覚めない!?)


 じゃあどうすれば――と愕然としていると、カタカタ………とキーボードを叩くような音が響いてユウキは我に返った。文字が瞬きはじめ、現れた文章に血の気が引く。


「benshoshitene――弁償してね。kichonahonnnannda――貴重な本なんだ」


 全身に寒気が走る。夢でなかったら、本当にこれはどういうことなのだろう。再び文字がひらめき、ユウキは今度は何? と構えて目を見開く。すると、突如耳にくぐもった低い声が響いた。


「世界に一冊のね」


 驚愕で瞬きをした直後、文字がいきなり一点に集結しだしたかと思うと、あっという間に人の形を作った。


「…………え」


 ――いや、それは、正確には『人形』だった。

 どんな怪物が現れるのかと身構えたユウキの前には、なぜか茶色のクマ。クマの着ぐるみのを被った人がいたのだった。

 クマは笑っている。癒し系のその姿はぱっと見ると、ゆるキャラっぽいと思ったけれど、本当にこんなキャラが実在するのかまではわからない。

 ただ、視線を逸らすと身体が目に入る。肩幅が広く、胸はたいら。そして、何の冗談なのだろうか。クマの着ぐるみとは一番相性が悪いのではないかと思える、黒の学生服を着ていた。


「あ、あなた、だれ? ここは――……」


 シュール過ぎて怖い。だけどそれでも日本語を話す人間だ。このわけの分からない空間で一人なんて嫌だった。すがって孤独を癒やしたかった。だけど、つぶらな愛らしい瞳で見つめ返されて、思いとどまる。クマは笑顔を浮かべている。それが醸し出す雰囲気と全く合っていなくて逆に怖くて、口が質問の続きを吐き出すのを拒んだ。

 そんなユウキにクマは答えた。


「僕は、グリム」

「…………」


(ああ、変人だ。うん。これは、なるべく刺激しないほうが絶対にいい)


 そう思うものの、じわじわと広がる沈黙が恐ろしすぎて、当たり障りない質問をユウキは投げた。


「…………グリムって、あのグリム童話のグリム兄弟?」

「知ってるんだ?」


 ユウキは頷く。本を読まくなったユウキでも知っている有名な童話作家だ。家にも童話全集がある。自分で読んだことはないけれど『グリム童話』という作品名を知らない人間のほうがきっと珍しい。


「ええと、シンデレラとか、白雪姫とかを書いた……」


 ユウキは長編アニメーション化された有名な童話を上げていく。


「うん――いや、書いてはないかな。民間伝承をまとめたんだ」


 どことなく嬉しそうにグリムは言うと、「他には?」と続きを促した。


「あとは人魚姫とか?」

「……それはアンデルセン」


 たちまち空気が凍りつき、ユウキは顔をひきつらせる。グリムと名乗るくらいだ。間違いが癇に障ったのかもしれない。


「じゃ、じゃあ眠り姫とか!」


 挽回を試みる。だが、


「それはペローだな……なあんだ、全然知らないじゃないか。君の母親は作家じゃなかった? しかもそこそこ有名な」

「な、なんで知ってるの……」

「寄贈された本の持ち主だろう? 司書たちのうわさ話が聞こえてくる」


 クマの着ぐるみはどこかうんざりとため息を吐いてうつむいた。

 ため息が消えると同時に、痛いほどの沈黙が落ち、ユウキはパニックに陥った。圧迫するような周囲の闇もそれを助長する。


(こわい、こわい、こわい――……!)


 やがてグリムは顔を上げ、ユウキは思わず後ろに後ずさった。

 クマの目がつぶらな丸から赤い三角に変わっている。――怒り顔に変わっていたのだ。

 もし明るいところで見たのなら、きっと可愛いと言っていたと思う。顔の変化にも仕掛けがあるのだと考えると思う。だけど、今の状況では不条理が条理に思え、逃げ出したいのに足がうまく動かない。動かし方がわからない。


「うん、知らないとしても、ちゃんと責任はとってもらわないといけないんだ。壊したら直す。それが人としての礼儀だろうからね」


 怒った顔のクマは言う。ユウキはふと彼の手元に綴り紐が握られているのを見てしまう。本能で身体が反射的に動いて、ユウキは後ろを向いて走りだした。だが、いくら走っても距離が開かない。さっき文字を追いかけた時と同じく、この空間には果てが見えない。

 ゼイゼイと息が上がる。顎から汗が滴り始める。それでもすぐ後ろにクマがいる。――いる気配がある。

 やがてユウキは逃げることを諦めた。こうしていても、体力を失うだけだとわかったのだ。

 額に大量に浮き上がる汗をぐいと拭うと、思い切って振り返った。やはり、先ほどと同じ位置にクマがいた。


「ど、どうすればいいの――わたし、まだ学生でお金、無いんです」


 それでもお金で解決できればどれだけいいだろうと思う。こんな状況、一秒でも早く抜け出したい。


「学生?」

「高校生ですけど」

「ああ、学生って言わない。大学生未満は生徒っていうんだ」

「…………」


 言葉にうるさいのは母と同じだ。ムッとしたけれど、今の状況で反抗するほど神経は図太くない。どう反応していいかわからなくて固まっていると、クマは肩をすくめた。


「まあ、いい。――とにかく、君には壊した本を元通りにしてもらいたい」


 ユウキは目を見開いて辺りを見る。だけど、そこには闇しか無い。


「でも、肝心の本が無いから、修繕とか出来ない!」


 クマはニヤリと笑った。


「今、君はあの本の中に入り込んでいるんだ。だから手元にあるわけがない」

「…………はぁ……はあ?」

「若いのに随分頭が固い。この世の中にどれだけたくさんの異世界放浪記があると思う? 『ナルニア国物語』くらいは読んでいるだろう?」

「…………」


 本棚でタイトルを見たことがあった。母が揃えてくれた児童書は、こども部屋を占領している。主が全く手を付けなくとも、減ることもなく増え続けている。図書館ではこどもに人気の本を譲って欲しいと言われているし、その『ナルニア国物語』など、映画化もするほどのベストセラーなのだ。寄贈してもいいのではないかと何度か訴えたけれど、母はまったく聞き入れてくれなかった。


『これはあなたの財産になるの。だからここにおいておくわね』


 寂しそうに微笑む母の顔を思い出したとたん、急激な寂寥感が湧き上がった。


(お母さん、ねえ、助けて)

(わたし、大嫌いな本の中に、閉じ込められちゃった――)


 思わず助けを求めかけたユウキの耳に、グリムの呆れたため息が響く。


「読んでないの? あの名作を――信じられない」


 その口調が、母の口調とかぶる。


『せっかく揃えてあげたのに、どうして読んでくれないの?』


 とたん、寂寥感は吹き飛んだ。


「そんなの、人の勝手じゃない。大体たくさん読まれているからって面白いかどうかまでは決められない」


 理不尽さに押さえ込んでいた怒りが噴き出した。


「面白いかどうかを決めるのは、わたしなの!」

「ふうん?」


 グリムは楽しげに相槌を打つ。ふと見ると三角だった目が元のつぶらな丸に変わっている。それが逆に怖い。嵐の前の静けさだろうかとユウキが身構えると、グリムは言った。


「てんでだめかと思ってたけど……案外使えるかもしれないな」

「どういう意味! とにかく、ここから出して!」

「だから言っただろう。本を――物語を修復しなければ、ここから出すことは出来ないよ」


 グリムが先ほどの紐を目の高さに掲げる。それはよく見ると、本を綴じていた紐だった。

 グリムの足元がぼんやり光る。目線をやると、そこには、あの本に綴じられていた紙がばらばらに散らばっていた。ユウキがここに落ちる直前に見た映像。思わず手を伸ばす。だけど手は空を切る。ゾッとする。


「あーあ。ページがバラバラになったせいで、物語がぐちゃぐちゃだ」

「じゃあ、出してくれたら、元通りに戻すから――」

「君が外に出て直せるという保証がどこにある? グリムとアンデルセンとペローの違いもわからないくせに」


 痛いところを突かれてユウキは黙るが、すぐに反論した。


「でも、ここにいても直せると思えない」

「大丈夫だ――君が中に入り込んで、物語を正しい方向に導いてくれればいい」

「…………中?」


 意味がわからず目を瞬かせると、彼はやれやれとため息を吐いて言い直した。


「君には物語の登場人物の一人になってもらう。そして脱線しかけた物語を起動修正して、物語を最後まで導くんだ」


 登場人物になる。頭のなかで何度か繰り返すと、なんとか意味がわかった。


「演劇みたいな感じで、役割が振られるってこと?」


 と尋ねると、そんな感じと返ってくる。だけど――やっぱり納得はできない。


「脱線? 軌道修正ってそんな必要があるの」


 ばらばらになった物語を元に戻す。ただそれだけのはず。だとすると、パズルみたいに話のエピソードを並べ替えればいいだけだと思った。だがグリムは肩をすくめた。


「この本は『生きた物語』が入っているから、当然だよ。一度壊れたものが、同じ形に戻るわけはないじゃないか」

「生きた?」

「どんな創作物にも言えるけれど、登場人物というのは創作者の魂を切り分けて作り上げているんだよ。そうして初めて命が宿る」

「……」


 胸がドクンと跳ねる。その言葉はよく母が言っていた言葉で――昔読んだインタビュー記事にも書いてあった。その続きはこうだ。


「だから、登場人物は、作者の子どもと何ら変わらない。どの子もすべてかけがえがなく、大事に思っているんだ」


 ――どの子もとても大事なのよ。


 グリムの声が母の言葉と重なってユウキはめまいがした。

 思い出すたびに、いつもユウキは心のなかで問いかけている。じゃあ、わたしは? と。わたしと、その子たちはどっちが大事なの? と。


「――だから?」


 なんとか自分を保とうと、つっけんどんにいうけれど、持論の吐露に熱中しているのか、グリムは熱弁を振るい続ける。


「命を持つということは、彼らが構成する物語は増殖し、拡散するということだ」

「拡散?」

「生命の定義を知らないのか? 自己増殖能力、エネルギー変換能力、恒常性維持能力――などがあげられるだろう? つまり命を持ったキャラクターは、作者の意図を無視して独り歩きするものなんだ」


 それも母の言葉と同じ。思い出したくなくて封じ込めた言葉の一部だ。何かの嫌がらせではないかと疑い始める。話題を変えたいユウキは話を元に戻す。


「だからわたしに、勝手に動くキャラクターの手綱を握って正しい道に導けとでも言うの」

「なかなか優秀じゃないか。うん、やっぱり素質は充分だ」


 そう言うとグリムの顔が笑顔のクマになった。僅かにホッとして肩の力を抜いた時だった。とん、と肩が押され、ユウキは後ろに倒れこむ。


「じゃあ早速行っておいで」

「え――?」


 気がついた時には、再び天と地が逆転しかけていた。

 ぐるぐると回り始める世界の中央に、クマの着ぐるみ頭がたたずんでいる。

 ジェットコースターの頂上で、今から落ちる事を知っている――その状況にすごく似ていると思う。後ろの車両が頂上に達したら、そこから、一気に、落ちる。


「え、ちょっと待って――それだけ!? もっと詳細とか!」


 ユウキはゆっくりと重力に引きずられ、半ば発狂していた。


(いやだ、落ちる。落ちたくない!!)


「あ、そうだ。はい、これ手順書」


 忘れてたと言わんばかりに小さなノートを手渡される。ユウキはむしろ、その手を掴んでこの場に留まりたい! と手を伸ばすが、それは虚しく空を切った。

 同時に、支えていた糸が切れたかのように、身体が空中に投げ出される。


「いや、ちょっと困る!」


 空中でもがく。だけど、グリムはどんどん遠くなっていく。


「きゃあああああああぁあああ――――!」


 重力に任せて、どこまでも落ちていく。やがて悲鳴が尽き、どん、と地面に身体が打ち付けられて、衝撃でユウキの視界は完全に黒に変わっていた。

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