ある幸福論

祭賀

第1話

江戸時代も末期、大政奉還から王政復古の大号令で二百六十年間続いた江戸幕府は終焉を迎え、新政府が幕を開けた。

と、いうのは表向きの話。

大政奉還後、発足したばかりの新政府に国を動かす力はなく、幕府の名は失ったものの、以前として徳川家が権力を握っていた。

これを憂慮した新政府側と、すでに大将軍の名を返上し、一部の大名の押さえが利かなくなっていた徳川家側は密談を行った。そしてある条件の下、合意に至った。

その条件とは、今まで徳川家が統治していた幕藩領地の一部を新政府側に引き渡し、なおかつ国全体の人的管理は新政府が行う。また、徳川家の姓は召し上げ、全国の各藩は解体とする。

ただし、徳川家が現在所有している領地は、表向きはすべて新政府が管理している国有地とするが、実際には徳川家が私有地として引き続き統治を行う。

ここで、新政府は人を、徳川家は土地を掌握という分離体制決定の下、密約が交わされ、何の意味も持たない国民向けの王政復古の大号令が発令された。

それから約百四十年後の現在。

姓を召し上げとなった徳川宗家は、徳川改め「蔦乃つたの」姓を名乗り、今も領地を所有している。新政府は国家として、内閣を中心とした政治を行っている。


東京某所。

この近辺は高層ビルばかりの二十三区内とは違い、昔ながらの家造りが多い。そのなかで、白壁の塀に囲まれた広大な武家屋敷がある。

王政復古の大号令の後、江戸にあった多数の武家屋敷は、莫大な費用と多数の労働力を必要とするため、持ち主がその所帯を維持できず、やむなく手放す場合がほとんどだった。現在では、無人となって取り壊されるか、移築して商業用に使用されているが、この屋敷は住居として使われているようだ。

どっしりと重厚で、ひとりで動かせるのか不安を覚えるほど頑丈な両扉の表門に、白壁の外壁が延々と道の先まで伸びている。表門からは敷石が等間隔に敷かれ、表玄関へと続いている。表門から玄関までは少し距離があり、その両脇には池や築山などが配置されている。伝統的な日本庭園のしつらいだ。この庭園は左右に広がっており、屋敷の建物と同じく玄関に立つと終わりが見えないほどの幅がある。

この一月の寒空の下、よく手入れされた屋敷の庭には、赤い花の蕾が見受けられる。早咲きの椿だろうか。

その屋敷の板張り外廊下を小走りに駆ける姿が見える。群青色の和服を着用した、年若い男だ。心持ち長めのショートヘアで、黒く指どおりのよさそうな髪のあいだから見える左耳には、蒼い石のピアスがふたつ並んでついている。いかにも好青年といった面立ちだが、その表情には少し焦りが伺える。

ピアス男はある部屋の前で立ち止まり、一気に両手で障子を引き開けた。

かえで、今何時だと思ってるんだ。もう九時だぞ、起きろ!」

怒鳴りながら部屋のなかに足を踏み入れ、座敷に敷いてある布団を思い切り揺さぶっている。

部屋には朝の光が、障子の薄紙を透して淡く差し込む。

「……何時だって?」

まだ半分寝ているようなくぐもった声だ。

「だから九時だって。皆朝飯を食べずに待ってんだから早く起きてやれよ」

ううっという唸り声の後、ようやく布団の中から上体が起きた。

起き上がったその女の顔はまだ眠たげだ。寝起きのためか元からか、その顔は驚くほど白い。素肌とは裏腹に、腰まであるつややかな髪は緑の黒髪と形容されるに相応しい色だ。

そのモノクロのコントラストが、何やら穏やかでないものまで連想させる。

小さな顔に、濡れたように黒く冴えた瞳が印象的だ。唇にほんのり赤みが差していて、日本人形のような美人とはこういった顔だろうと誰もが納得するような見目だ。

ふじ、おはよう」

藤と呼ばれたピアス男は呆れ顔だ。

「おはようじゃなくておそようだろ。毎朝起こさなきゃならない俺の身にもなってくれ。しかも寝起き悪いし」

そうぼやきながらも、すぐそばにあった黒い羽織を楓の肩に着せかけるその仕草はとても優しい。

「低血圧だから朝弱いのよ。大目に見て頂戴」

ゆるゆると言葉を発しながら楓が布団から立ち上がる。

白い長襦袢に黒い腰紐。その凛とした細い肢体の立ち姿は鶴か何かを思わせる。

この楓こそが、前身徳川宗家、現在蔦乃宗家の二十二代当主、蔦乃楓だ。

「大目に見てるだろう。これ以上甘やかせってか?」

低血圧は今に始まったことじゃあるまいしと文句を並べながら、楓が被っていた掛布団をたたみにかかる。

「寒いわ」

やっと布団から抜け出たものの、部屋の寒さに閉口したのか、楓はぶるりとからだを震わせるとまた布団に潜り込もうとする。

「ちょっと、本当に頼むから起きてくれ」

もう怒る気力も失せたらしい藤が、さなぎのように布団に包まる楓に頼み込む。観念したらしい楓は、敷布団に立つと起きたわ、と手柄顔をしてみせる。

「威張ることか、こんだけ手間掛けさせておいて」

藤が言い返しながら、部屋を出てゆっくりと外廊下を歩き出した楓の後を追う。


「おはよー、やっと起きたのー?」

外廊下と庭を挟んだ向かい側、白壁の外塀の上から声がかかった。

塀の瓦の上に洋装の男が立っている。白いシャツに黒のベスト、共布の黒の細身のパンツ。

ベルト部分に木製で警棒のようなものが吊ってある。

ただ、警棒にしては尺がありすぎる。先端はふくらはぎの位置まで達していて、歩くのにはいささか邪魔ではなかろうかと、余計な心配をしてしまいそうなほどだ。

ミディアムの黒髪は、上半分が結わえられている。明るく人好きのする顔つきだが、その言動の端々には軽薄さを覚えないこともない。

「起きた、けどまだ眠いわ」

楓は手の甲でまぶたをこすっている。起き抜けのその姿はまるで幼児のそれに近い。

「低血圧だもんねー、朝は辛いよねー」

男が笑って同情を示す。

「朝飯できてるって千鳥が言ってたから、俺らももうすぐ座敷に行くねー、あ痛っ!」

「でかい声だすな、かなで。近所迷惑だ。」

塀の上で叫んでいた奏が、いきなり現れたまったく同じ顔の洋装の男に頭を殴られた。

ひびき、痛ったいなー何すんのー」

奏は頬を膨らませて、どうやら痛かったらしい頭を撫でさする。

「おい、そんなに当たらなくてもいいだろ」

藤がとりなしに入り、響は声を荒げるのは止めたものの、その表情は険しいままだ。

ふたりは一卵性の双子の兄弟だ。けれど顔は似ていても、その物言いや表情の動きから性格はまったく異なることが一目瞭然だろう。

響は奏とそっくり同じ洋服を着用している。違うのは、腰のベルトから吊ってある警棒が奏の長一本に対し、響は長一本短一本の二本差しであることだろう。髪型は奏のミディアムに対し、ベリーショートだ。

この東雲しののめ響・奏兄弟は屋敷の警護番として、常に屋敷内を見回っている。そのため、動きやすい格好のほうが都合がいいとふたりとも洋装で通している。

「楓、おはよう。朝は特に何もなかったし、俺達もこのまま座敷に行く。」

そう言うが早いか、響は塀の上から庭に飛び降り、さっさと靴を脱いで外廊下に上がった。

「あー、俺も俺もー」

奏も遅ればせながら同じように外廊下に上がる。

響が歩きながらもまだ奏に先ほどの文句を言っている。その前を歩く楓はそんな会話など気にしていないようだ。藤は楓の横でまたかというような少し煩わしげな顔をしている。


長い外廊下を渡り、内廊下に入る。

辺りにはかすかに味噌の香りが漂っていて、朝食の準備が整っているのがわかる。

楓が洗面で簡単に身支度を整える間、他の三人はその隣で終わるのを待ってやっている。とは言っても基本的に面倒くさがりな楓は、顔を洗って髪に櫛を通すくらいのものだ。それが済むと、ようやくリビング代わりに使っている座敷にたどり着いた。


藤が部屋の障子を引くと、一斉に振り向いた顔があった。部屋に入った四人に対し、口々に朝の挨拶がかけられる。

「おはようございます、楓。よくお休みになれましたか」

礼儀正しい声がかかる。その千鳥ちどりだ。

その口調と同じく、穏やかな性格だと一目でわかるようなにこやかな表情だ。落ち着いた茶髪の、少し長い横髪。若竹色の和服が千鳥の柔和な印象をさらに高めている。

蔦乃の家令、つまり徳川時代には若年寄、現在では執事と呼ぶべき立場として屋敷のすべてを管理している。

「おはよう千鳥……あれ、おそようだったかしら」

「何です?おそようって」

千鳥が怪訝な顔をする。慌てた藤が楓の口を塞いだ。

「もう九時だし、おそようってのも一理あるけどぉ。いつもの事だよねぇ?」

千鳥の向かいに正座している葉室はむろけいが声を上げる。

男というより少年と言ったほうがよさそうな雰囲気を持っている。明るい茶髪のショートヘア。東雲兄弟と同じ洋装だ。

どうやらこれは、単なる洋服というよりも制服の意味合いを持つものらしい。景の場合は、警棒は携帯していないが、白いシャツの胸元にシルバーのネックレスが見え隠れしている。

景は楓専属の運転手ということではあるが、楓が出不精なせいもあり、暇な時間は屋敷内の清掃をしている。そうでもしないと、仕事がまったくなくなってしまうのだ。景本人は、掃除が好きだから構わないよぉと嫌がる素振りなどかけらも見せない。

「全然フォローになってねえ」

その景の横に座っていた男が突っ込みを入れる。

明るい金髪に臙脂の和服の取り合わせが奇妙にも思えるが、なぜかしっくり馴染んでいる。ともすれば少し怖い印象を与えそうだが、長い前髪から覗く眼差しは優しい。

桐生きりゅう氷雨ひさめ、屋敷内に建っている土蔵の中にある徳川時代からの伝来品を管理する蔵守を担当、また蔦乃家の会計役も兼任している。

「ええまあいつもの事、って自分で言ったら駄目なんでしょうね」

楓が薄く笑いながら上座に座る。

「わかってんなら少しは努力してくれ。アラームをかけるとか」

藤は溜め息をつきながら自分の席に着く。

「アラームって、前に一回試したけど効果なかったんじゃなかったー?」

奏が何かを思い返したようでくく、と笑っている。

「楓がアラーム鳴った途端にぶん投げて壊したからな」

氷雨がぶん、とボールでも投げるような仕草をする。

「一週間続けて七個壊して、きりがないって止めたんだったよねぇ?」

「無理だな藤、諦めろ。楓を起こすのも世話役のお前の仕事だ。」

響にあっさり切り捨てられてしまった藤は不満げだ。

葛城かつらぎ藤は、当主である楓の世話役だ。楓の日常生活のサポートを請け負い、常にその側に控えている。朝のやり取りを見てもわかるように、何事につけ腰の重い楓の、ある意味では一番の被害者でもある。

他にも忙しい時には千鳥や氷雨の手伝いに入ることもあり、なかなかにハードな役割だ。

賑やかに会話が進むなかで、箱膳に載った朝食が畳の上に並べられていく。

十和とわ、今日はどうして茶碗にも蓋がしてあるの?」

自分が話の種になっているにも関わらず、まったく意に介さない楓が箱膳を運ぶ男に声を掛ける。

呼ばれた鷹倉たかくら十和が振り返る。黒く長い髪がかんざしでアップにまとめ上げられている。漆塗りの黒い簪には水晶だろうか、紫色の石がついている。藤や千鳥、氷雨と同じく和服を着用していて、藤紫のその色は男ながらにしっとりとした趣を見せている。

表情は落ち着いていると言えば聞こえはいいものの、見る者が違えば無表情とも取れるだろう。

十和は料理番として屋敷に住むすべての人間の食事を担当している。

「……中身が粥だからこぼれると危ない」

「お粥? どうしてまた」

怪訝な楓に対し、十和を手伝い箱膳を据えていた千鳥がにこやかに返答する。

「今日は人日ですから」

「あぁ七草だったわね、忘れてた」

その言葉を聞いて、他の面々が次々に茶碗の蓋を開ける。

「本当だー、美味しそうだねー」

 奏が歓声を上げる。

「これ本当に七種類全部入ってるのか。」

「響、お前は去年も同じこと言ってなかったか」

言いながら氷雨も茶碗のなかを覗いている。

「七草って、何入ってるんだっけぇ? 俺が苦手なものもあるかなぁ」

「芹、なずな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、だな」

粥を胡乱げに見ている景に藤がわざわざ数え上げて教えたが、いまひとつ理解していないようだ。

「名前だけ教えてもらっても分からないよぉ。普段食べないしぃ」

「お前も去年と同じこと言ってるだろ、景。前回も食ってたの忘れたのか」

「そうだったっけぇ?」

氷雨と景が応酬している目の前で、千鳥がひとりひとり順番に湯気の立つ緑茶の入った湯飲みを置いていく。

「もともと七草は万病を払うといわれる縁起物ですし、多少苦手でも口にしたほうがよろしいですよ。食べやすいように十和が細かく刻んでくれているようですし」

「……配膳終わった」

十和のつぶやくような一声を受けて、楓が皆に食事を促す。

「いただきましょうか」

全員で声を合わせて食前の挨拶をして、賑やかに食べ始める。あちこちから美味しいと声が上がる。

十和はそんな光景を眺め、一瞬遅れで箸を取った。楓が十和の表情をこっそり

見、ゆっくりとした笑みを浮かべた。


当主の蔦乃つたのかえで、当主付の葛城かつらぎふじ、家令のその千鳥ちどり、料理番の鷹倉たかくら十和とわ、蔵守の桐生きりゅう氷雨ひさめ、運転手の葉室はむろけい、警護番の東雲しののめひびきかなで兄弟。この八人が、屋敷で生活を共にしている。

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