第28話 恋を知らぬ少女/Innocent Girl

「ただいまですー……」

「おかえり」


 玄関から聞こえてきたクリュセの声に挨拶を返すと、彼女は居間に顔をだすこともなく、そのまま自分の部屋へと引きこもった。扉の閉まる、パタンという音が虚しく響く。


「……重症だなあ」


 アラがニーナに告白してから数日。彼女はずっとこんな感じだった。

 多分クリュセは、アラのことが好きだったんだろうと思う。目の前で他の女性に告白されて失恋すれば、それは凹むだろう。


 一連の出来事をまったく知らず、今日も楽しそうに研究に精を出しているイニスとどちらが幸運なのかはわからないが。


「ちょっとクリュセと話してくるよ」

「……ん」


 そして元気が無いと言えば、こちらも。ニーナも、同様だった。

 いつもの彼女なら余計なことはするなとか何とか小言をくれるところだろうに、心ここにあらずといった様子で短く答えるばかり。趣味の刺繍も途中で机の上に放り出されたまま、彼女は膝を抱えて虚空を見つめていた。


「ニーナ」

「んにゃっ……あによ!」


 その頬を、私はぐいっと思い切り引っ張った。おお。すごく伸びる。千年以上生きてるのに、まるで赤ちゃんみたいにふにふにのほっぺただ。エルフって凄いな。


「……やめてよ。今そういう気分じゃないんだから」


 ニーナは私の手を跳ね除け、目を伏せる。


「ニーナはさ。今、幸せかい?」

「……どういう、意味よ」


 覇気のない声色で、ニーナは問う。


「そこまで深い意味は無いよ。毎日退屈しない程度の仕事があって、食べるものにも困らなくって、何かどうしても変えたいことや、我慢出来ないくらい苦しいことがなければ……それは、幸せって言って良いんじゃないかな」

「まあ……そういう意味なら、別に……苦しくは、ないけど」


 うん、と私は頷く。


「だったら、それでいいんじゃないかな」

「……いいの?」


 青い瞳が、ようやく私の目を見てくれた。真意を測るように、彼女はじっと私を見つめる。


「少なくとも、私は幸せだよ。今のままで」


 ぽん、とニーナの頭に手を置き、私は彼女の髪を撫でる。

 ニーナは微かに息を吐いて、それを受け入れた。


「……さて。うちのお姫様をちょっと慰めてくるかな」

「あんまり余計なこというんじゃないわよ」


 手を離して言うと、すかさず飛んでくる小言に私は笑みを浮かべ、頷いた。



 * * *



「クリュセ、いいかな」

「えっ、ちょっ、ちょっと待ってください!」


 ドアをノックすると、中から何やらバタバタと音がする。


「ど、どうぞ!」

「お邪魔するよ。ごめん、着替え中だった?」


 問いかけながら扉を開けるが、クリュセの服はでかけていったときと同じままだ。


「い、いえ! 大丈夫、です!」


 ぶんぶんと首を振りながらも、クリュセの視線がちらちらとあらぬ方向に向かう。具体的にはベッドの下だ。


 ……これは、見ないふりをしてあげた方が良いんだろうか?

 ベッドの下に隠すものと言えば、やはり定番としてはアレだろう。所謂、エッチな本だ。クリュセも年頃だし、そういうのに興味を持っても……年頃? クリュセの年頃っていつなんだ……? よく考えたら既に百歳近いけど、見た目の年齢は十四歳くらいだ。


 まあ、どっちにしろそういう事に興味を持ってもおかしくはないように思えるけれど、どっちかというと私はそこに隠してあるものの方に興味を抱いた。というのも、ヒイロ村にはまだ活版印刷の技術が無いからだ。


 精霊原理の働くこの世界では、動作の自動化というのが殊更に難しい。活版印刷事態は技術的にはそう難しくないはずだから紙が出来た時に試したのだが、一向に上手く行かなかったのでやめてしまった。


 だから未だに本というものは高価だし、大衆向けの雑誌などというものもない……はずだ。けれど技術は日進月歩。私が知らないうちにそういうものが発明されていてもおかしくはない。


「な、なにもないですよ!?」


 私の視線に気づいたのか、クリュセはベッドを背に庇うようにして手を広げた。それは完全に逆効果ではないだろうか……


「あっ! で、出てきちゃ駄目ですよ!」


 見なかったふりをするという選択肢を潰されてどうしようかと思っていると、ベッドの下から這い出してきたぬいぐるみに、クリュセがそう叫んだ。


「ああ。……また、拾ってきたのか」


 それを見て私は自分の思い違いを悟る。クリュセが隠していたのは人目を憚る艶画ではなく、「元の場所に返してきなさい」と言われる類のやつ。


 しかも、魂だけのパターンだった。


「うう……ニーナさんには内緒にしておいて下さい……」

「元の場所に還してきなさいって言われるもんね」


 魂の存在を魔法で見出してから、クリュセは生き物の魂というものに強く興味を見せるようになった。そして遂には月の光を使わずに魂を見出す魔法を作り上げて、今では色んな生き物の魂を調べる研究をしている。


 彼女がいうには、魂というのは生き物によって大きさや強さ、色なんかがまるで違うらしい。最初はそれを元に自分のルーツを探ろうとしていたようだったが、同じ種族でも個体によって魂の輝きはまるで違うので、全然参考にならなかったそうだ。


「今日は何の魂?」

「鎧熊です……」


 野の生き物の魂を調べていると、今まさに命を失わんとしている動物に出会うこともある。クリュセはそんな生き物の魂を拾って帰ってくることが、たまにあった。


「本当は、ニーナの言う通りすぐに還してあげた方が良いんだろうけどね……」


 死んだものの魂がどこに行くのかは、わからない。天に昇るのか地に還るのか、それとも私のように転生するのか。あるいはただ、消滅してしまうのか。


 ただわかるのは、私以外のほぼ全て……大半の生き物は、前世の記憶なんて持っていないということ。そしてそうであるならば、どうなるにせよ消滅してしまうのと大差ない、ということだ。


「そうなのかも知れませんが……この子は、まだ生きたいって言っていたので、つい」


 悼むような表情を浮かべながら、クリュセはぴょこぴょこと動くぬいぐるみを手にじゃれつかせる。


「魂の言葉がわかるの?」

「なんとなく、ですけど」


 どちらにせよ、それは永遠には続かない。こうしてクリュセが拾ってきた魂はやがて消える。満足したからなのか、魔法の効果が切れたからなのかはわからないけど。


「でもそうか。それでここのところ大人しかったのか。てっきり、アラに失恋したからかと……」


 口を滑らせた、と思ったときには遅かった。クリュセの表情がみるみる陰る。


「ご、ごめん。無神経だった」

「いえ、あれは……確かに、アラくんの事は好きでしたけど」


 複雑な表情で、クリュセは眉根を寄せる。


「自分の母親に告白してる姿を見たら、ちょっと……そんな気持ちも失せちゃったというか」

「あー……」


 多分、クリュセの想いはごく淡い、憧れに近いようなものだったのだろう。

 もっと長く募らせていけば、あるいは大きな恋の花に育ったかも知れないそれは、残念ながら無残に散ってしまったようだった。


「それよりも……お父さんと、お母さんが……お互いに、好きってわけじゃなかったことの方が……ショックで」


 ぎゅっと鎧熊のぬいぐるみを抱きしめながら、クリュセは己の想いを吐露した。


「夫婦ではないっていうのは、何度も聞いてましたけど……それでも、お父さんとお母さんの間には、特別な絆が……あるって、思ってたんです。お互いに……想いあってるって」


 私はクリュセの隣に座ると、すっかりピンク色に染まってしまった彼女の髪を撫でる。


「うん。それは、間違ってないよ」


 クリュセは、半信半疑と言った様子で私の顔を伺った。


「でも、私とニーナの『好き』は、ちょっと複雑なんだ」


 さて、どう説明したものか。


「……私が以前、結婚していたのは、知ってるだろう?」

「はい。アイさんと、ユウキさんですよね」


 少し考えてそう切り出した私に、クリュセは頷く。二人の話は今まで何度かしたことがあったし、ユウカやニーナからも聞いているのだろう。


「二人とも、人間だった。クリュセが今まで生きてきたよりも短い時間で、亡くなっていった。その短い一生を……燃やし尽くすように、私を愛してくれた」


 七十九歳と五十四歳。あまりに短い人生だった。イニスが使っている不老の魔法を彼女たちも使えれば、どうなっていただろうか。


「それを、ニーナはずっと隣で見ていたんだ」

「その人達に、遠慮してるってことですか?」


 クリュセの問いに、私は首を横にふる。


「昔、水色って名前のエルフが、この村にいた」

「ユウ姉のお母さんですよね」


 おっと、そっちの話も知ってたか。私は話した覚えはないから、ユウカから聞いたんだろう。


「人間と結ばれたエルフは、その寿命も人と同じになる。ユウカを生んで五十年ほどで、水色は亡くなった。……水色はそれを知らなかったけれど、知っていたとしてもユタカを愛しユウカを生んだだろう、と笑ってたよ」


 強さというものには、色んな種類があるけれど。

 思えば、彼女は私の生徒たちの中で、一番強い女性だったかも知れない。


「それはどれほどの愛情だと思う?」

「……わかりません」


 素直にクリュセは答える。


「私にも、わからない。私は竜だ。仮に私と結ばれたとしても、ニーナが寿命を失うことはないだろう。だから……わからないんだよ。私にも、ニーナにも。――命を失って良いと思うほどの、恋心が」


 それは三十五年前。私が己の原点を見失い、ニーナに焚きつけられた時からずっと考えていたことだった。

 ニーナのことを好きかと言われれば、好きだ。愛しているかと言われれば、愛している。それはこの前メルに誤魔化したように、兄弟や家族に対する情でもない。

 私の勘違いでなければ、私もニーナも、互いに異性として愛し合っている……と、思う。


 けれどそれは、凪いだ海原に浮かぶような、そよ風に揺れる木陰で眠るような、穏やかな愛情だ。

 身を焦がす炎のような、切なさに擦り切れる風のような、求めずにはいられない恋では、ない。


「ニーナはそれを恋だと認められない。私のことを好きだと、口が裂けても言えない」


 彼女はアイの事を一番そばで見ていた。あるいは、同性である分私よりも近かったかも知れない。

 だから彼女は許せないのだ。アイよりも強い想いを持てない自分自身を。

 はっきりと口にするのを聞いたわけじゃないけど、多分そういうことなのだと思う。


「でも、そんなの……お母さんが、辛いんじゃないですか?」

「いや。辛いんなら、それはそれでいいんだよ。辛くないから問題なんだ」


 私の物言いに、クリュセは首を傾げた。


「どういうことですか?」

「辛いってことは現状に不満があるってことだろ。言い換えれば、もっと近づきたいってこと。それだけ、好きってことだ」


 ニーナは、今が幸せだと言った。あの言葉に、嘘はなかったと思う。

 踏み出す勇気が無いのではなく――純粋に、今の関係で満たされてしまっているのだ。


「けど、そうじゃない。まあ他の人から見たら、奇異に思える関係かもしれないけどね」


 だからニーナも殊更に私への好意を隠そうとするんだろう。


「でもそれが私たちの関係なんだ」

「……正直、わたしにはまだ良く理解できませんが」


 眉根を寄せて真剣な表情をしながら、クリュセは私の顔を覗き込む。


「お父さんもお母さんも、やっぱりお互いに大好きで、一緒にいて幸せってことですよね?」

「うん。少なくとも、私はそう思ってるよ」


 私がそう答えると、クリュセの顔がぱっと華やいだ。


「お母さんにも聞いて――」

「それはちょっと待って。聞くとしてももうちょっとほとぼりが冷めてから、ランダムなタイミングで聞いてくれ」


 今聞いたら、私がこういう話をしたことが丸わかりじゃないか。


「ええー」


 クリュセは不満げに唇を尖らせながらも、渋々と聞き入れてくれた。


「……まあ、お母さんの性格だと今聞きに行ったら素直に認めないでしょうしね」

「だろうね」


 言って、私たちは笑い合う。


「あっ、じゃあ、わたしがお母さんって呼んでたことも秘密に――」


 その時の、ことだった。


 カンカンカン、と激しく鳴り響く鐘の音が、聞こえてきたのは。

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