第32話 全ての昨日と全ての明日/Other than Current
私たちが岸に辿りついたのは、その翌日の昼過ぎのことだった。
念のため上陸直前に隠形の魔法をティアにかけてもらう。
全員にかけてしまうとお互いに見えなくなってはぐれる可能性が出るため、私と人間の姿に変身したリンだけはそのまま進んでいくことにした。
「と言っても、三十年経ってるからなあ……顔を知ってる人に出会っちゃったら、アウトだよなあ」
声を出せないリンは、「そうなの?」と言いたげな表情で首を傾げる。
「私一人だったら、亡くなった父の若い頃によく似てるって言われます、とかで誤魔化せるかもしれないけど。リンと一緒だとちょっと言い訳がきかない気はするね。目印は一人で十分だし、リンも隠形で隠れたら?」
私の言葉に、リンはブンブンと首を横に振った。「嫌だ」と仰せのようだ。
「はいはい。まあ、なるべく見つからないように進もうか……」
「それで会話が成り立つの凄いわね」
ぼやきに対して耳元で声がして、私は思わずびくりと身体を震わせた。
「ティア。もしかして私の肩に乗ってる?」
「うん。はぐれる心配がなくていいでしょ」
絶対、単に楽したいだけだろ。そう思いつつも私は口には出さずに歩を進めた。
「……あれだ」
更にそれから半日ほど歩いて、日が暮れる直前、ようやく私たちは洞窟へと辿り着く。
「ルフル、ちゃんとついてきてる?」
「うん、大丈夫だよ、せんせぇ」
背後に声をかけると、真横にルフルの姿が現れた。ティアの隠形は足音すら消してしまうから、本当にどこにいるのか全くわからない。
ルフルの身体が入れるほど洞窟は大きくないが、幸い壁画は入り口のすぐそこだ。
外から覗き込むようにして、彼女は呪文を唱える。
「動かぬもの。揺るがぬもの。忘れぬもの、語り得るものよ。汝、土の精霊ノーム。我が声に応え、問いかけに答えよ」
呪文とともに、以前にもまして精微な姿の小人が姿を表した。
「ノーム。久しぶり。私のことを覚えているかい?」
「オボエテ、ル」
ぎこちない口調で、しかしノームははっきりとそう答える。
……成功だ!
私は沸き立つ感情を押さえながら、彼に問うた。
「じゃあ……この絵を描いた人の事は?」
「オボエテル」
「どんな人だった?」
私の問いに、ノームは困った顔をした。
精霊たちは、正直言ってあまり頭が良くない。話した感じ、三歳児くらいだろうか。
あまり複雑な質問には上手く答えられないのだ。
「ごめん、質問を変えよう。……女の人だった? それとも男の人だった?」
「オン、ナ」
「一人? それとも、複数人で描いていたの?」
「ヒトリ」
「じゃあ……描いていた人の名前は、わかる?」
確信に触れる質問を、私は投げかける。
「……ワカラナイ」
それに、しかしノームは首を横に振った。それもそうか。ここで一人で絵を描いてただけなら、名前を言うような機会があったとも思えない。
私は質問を変えることにした。
「この絵は、何が描いてあるかわかる?」
「キ」
キ。……木か。確かに言われてみれば、木のように見えなくも……
うーん。いや、やっぱり下手だな。ちょっと木には見えない。私が悪魔の手だと思ったものが、枝なのだと言われればそうかも知れないけど……
「この絵が描かれたのは、いつのこと?」
「タクサン……マエ」
「具体的には? それから何回夜がきたかわかる?」
「……ワカラナイ」
土の精霊だけあって、記憶力自体はけして悪くない。
けれど、ものを数えたり何かを推測したりというような知性が、ノームには絶対的に足りていなかった。
その後も思いつく限りの質問を投げかけてみたが結局大したことはわからないまま、私たちは再び隠形の魔法をかけて船へと戻ることになった。
「……ごめん。せっかくここまで来てもらったのに」
「残念だったね、せんせぇ」
「まあいいわよ。船旅もまあまあ楽しかったしね」
何年も手間暇をかけた上で何の成果もあげられなかったことを詫びると、逆に慰められてしまう。何とも情けない限りだ。
「せっかくこんなところまで来たんだから、何かお土産でも持っていかない? 珍しい木の実とかないかしら」
帰り道、気を使ってかティアが盛んに話しかけてくる。今度は私とリンも隠形のフードを被っているから、はぐれるのを防止する意味もあるのだろうけれど。
「そうだな……私は見た記憶はないけれど。リン、君はどう?」
傍らを歩いているはずのリンに話しかけるが、返事は返ってこなかった。
「あ、そうか。人の姿をしてるから話せないか。隠形してる間なら、人魚の姿でも良いんじゃないか?」
そう語りかけても、リンの声は聞こえてこない。
「……ねえ、なんか私、嫌な予感がするんだけど」
「わたしも……」
奇遇だな。私もだ。
そう思ったまさにその瞬間、危惧は現実のものとなった。
『せんせー、聞こえる?』
リンから、鱗を通した通信が入ったのだ。
「リン。今、どこにいるんだ!?」
『さっきの洞窟のところ。ちょっと聞きそびれたことがあって』
……やっぱりか!
「すぐ行く。私が向かうまで、隠れててくれ」
『大丈夫だよ、まだティアの魔法残ってるし』
確かに、私たちの姿はまだ消えている。かけた魔法の効果は、ティアがそばにいようといまいと変わらないはずだ。
『ねえ、教えて、ノーム』
精霊は、魔法の効果が消えたとしても消滅するわけじゃない。
一度呼ぶとその形は、紙に付けた折り目のように残る。
ユウキがアイの使役したジャックフロストを呼び出したように、リンにもルフルがさっき呼んだばかりのノームを呼び出すことは簡単だ。
『これを描いた人は、この絵のことを、なんて呼んでた?』
それは、私の頭からすっぽりと抜けてしまっていた質問だった。
たった一人で自己紹介する人間はいない。けれど、一人でないなら……それが二人でなくとも、一人と一つであるなら、名前を呼ぶ可能性はあった。
魔法は願いから生まれ、名を持って形になるもの。
――その絵が、描いた人間の願いだとするなら。
それには必ず、名前がつく。
『ヤクソクノチ。カエルベキバショ』
ノームが、辿々しい口調でそれを告げた。
『センセイノイエ』
「――ああっ!」
私は思わず、声を上げていた。
あれは……そうか。
木。それはノームが言った通り、それは確かに木で出来ている。
木材ではなく、木そのもので。
左右に伸びる線は、枝。そしてその上の四角形は、悪魔の顔ではなく窓のある小屋。乱杭歯を備えた口に見えるものは、入り口の柵。
私が最初に作った、ログハウスもどき。最初の学校。
まだヒイロ村どころか、その前身の集落すら出来る前。
私と、ニーナと、アイ。三人で住んでいた、小さな小さな家。
アイは、ここにいた。ここで生きて……私のことを忘れずに、いてくれたのだ。
『いたぞ! 化け物だ!』
私の耳にそんな声が届いたのは、その時だった。
『えっ、嘘、何で……?』
リンの戸惑いの声。
私たちがまだ透明なんだから、彼女の姿もまた透明なはずだ。
ティア自身から離れたとしても、効果時間は変わらない。
けれど彼女が見つかってしまったのは間違いなかった。ティアの隠形は、そこにいると指摘されればたちどころに効果を失う。そして……声を発していた以上、彼女の姿は人間ではない。本性の、人魚としての姿をしている。
『いやっ……やめて!』
リンの悲痛な悲鳴が響く。それは恐怖ではなく、痛みや苦しみによる声だった。
「リン!」
体裁を気にしている場合じゃない。
私は竜の姿に戻って、バキバキと木々を折りながら空を飛んだ。
歩いて半日かかる距離は一瞬で過ぎ去って、私の目に炎を掲げた村人たちの姿が映る。炎の取り囲むその中央に、魔法の光が瞬いていた。
『一つ注意点がある。この隠形は、身を影のごとくするもの。だから、音も立てなければ匂いもしないし、触った感触も伝えない。けれど、光で照らされればその影だけは見えてしまう。気をつけてね』
そう、昨日ティアが忠告したはずなのに、リンは明かりをつけてしまったのだ。
私は全速で、殆ど落下するような勢いでそこに降り立つ。隠す気もない竜の姿に村人たちが素早く距離を取ったので誰も潰すことはなかったが、それはただの偶然でしかなかった。
私の目は、とっくにそれを捉えていたからだ。
大地に横たわる、美しい腰ヒレと青い尾ヒレ、しなやかな両腕を持った身体。
けれど、その両肩の上に、あるべきものがない。
それは少し離れたところに、ごろりと転がっていた。
青い髪を備えた――人の、首。
「殺した……の、か……?」
私は問うた。その問いに答えるものはなく。人間たちはただ私を呆然と見つめる。
「お前たちが! リンを、殺したのか!」
叫びは炎の塊となって飛び出し、地面に突き刺さって爆発を起こす。
途端、人間たちは悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
生かして、かえすものか。
私が全力で炎を吹けば、この距離からだって村の全てを火の海に変えるなんて、簡単なことだ。躊躇うことなくそれを実行しようとして……
しかし、直前で私はそれを取りやめた。
人を殺すのが恐ろしかったからじゃない。脳裏に歓待してくれた夫婦の顔が浮かんだからでもない。
ただ、万が一にもリンの身体を傷つけたくない。それだけが理由だった。
「リン……」
私は人の姿を取ると、よたよたと進んで、彼女の身体の前で膝を突く。
「はー、死ぬかと思った」
ひょい、と。
まるで布団から抜け出すかのように己の身体をめくり上げ、その中からリンが姿を表した。
「な……え? リ、リン?」
「えへへ。ごめん、心配させたね」
リンはまるで脱皮でもするかのように、首を失った自分の身体の中から抜け出した。一回り小さくなってはいるものの、その身には傷一つない。……いや、一つだけ、違いがあった。腰まであった長い髪の毛が、バッサリと肩の辺りで切られている。
「じゃーん。実はこれ、あたしの髪の毛でしたー」
リンは地面に転がる首を拾い上げ、軽く振って見せる。するとそれは長く青い髪の塊に変化して、バサバサと地面に舞い落ちた。
「リン!」
私はたまらず、彼女を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、せんせー! 痛い! それに恥ずかしい! あたし今何も着てないんだよ!?」
言われてみれば確かにそうだ。衣服は抜け殻のようになった偽物の身体を覆っていて、今のリンは正真正銘、一糸纏わぬ姿だった。けれど今は、そんなことはどうでもいい。
「君は……老いを克服した時、記憶を代償にしたね?」
代償については今まで何度聞いても、はぐらかされてきた。
けれど今、ようやくはっきりした。彼女は若返って子供じみたわけでも、忘れっぽくなったわけでもない。むしろ老獪に、それを隠し続けてきた。
いくら彼女でも、昨日聞いたばかりの重大な注意点を忘れてしまうはずがない。だとするならそれは、ただの忘却ではないのだ。
「教えてくれ。一体、どこまでを犠牲にした?」
「……新しいこと、だよ」
ぽつりと、リンは呟く。
「日を跨ぐと忘れちゃうんだ。その日、あったことの殆どを」
そういう……ことか。老いを失った彼女には、もう、次が来ない。あんなに好奇心旺盛で、新しいことが好きだった彼女なのに。
「お願いだ。こんな危険な事は、もう二度としないと約束してくれ」
「……ごめん。約束したいのは山々だけど……出来ないかも」
「約束しても、忘れてしまうから?」
リンは首を横に振った。そして、小さくなった自分の身体を見下ろす。
……そうだ。こんな急激な変化をして、何の代償も必要ない訳がない。
ただ単に、小さくなったと言うだけの話じゃない。
彼女が今克服したものは、死だ。リンは不老であるだけでなく、不死となった。
一体何を乗せれば、天秤は釣り合う?
「あたしは多分、これからきっと……何で危険なことをしちゃいけないかも……それどころか。何が危険なことなのかも、忘れちゃうから」
リンが天秤に乗せたもの。
それは、全ての明日と――――そして、全ての昨日だった。
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