仮想世界の快楽主義者

不時一稀

第1話 記憶喪失の少年と仮想世界の神

 少年が目を覚ました場所、そこは学校の教室と思われる場所だった。

 そうだと断言することができないのだが、規則正しく机と椅子が並べられ、正面には大きな黒板と教壇が置かれている。

 服装も制服と思わしき物を着ており、こうした事実から少年は、この場所が学校の教室なんだろうと推察した。

 周囲を見渡すと、同年代くらいの少年少女達が数十人、机に突っ伏したまま眠っている。

 異様な光景だ。これはどういうことかと、少年は記憶を探る。

 どうしてこんな場所にいるのか、何故眠っていたのかを思い出そうとする。

 その瞬間、少年は目を見開いて硬直する。

 知らぬ間に、知らぬ場所に連れてこられていたら、恐怖を感じるのは仕方ない。むしろこの状況の中で飄々としていたら、そっちのほうがどうかしている。

 だが少年が直面している現状を考えれば、どうかしていた方がよかったのかもしれない。

 そう思えてしまうほどの恐怖が、少年に襲い掛かったのだ。


(思い出せない)


 それは『この場にいる理由が思い出せない』ということではない。

 この世に生を受けてから今この瞬間、この場所で目を覚ますまでの間の全ての記憶、それどころか自らの名前すらも『思い出せない』のだ。

 少年は今もなお眠りについている少年少女達に視線を走らせる。

 ……人の気も知らずに気持ちよさそうに眠っている彼らに殺意に近い感情が僅かながら湧き上がるが、今はそんなことを考えている場合ではないと、その気持ちを押し殺すことに決める。


(こいつ等も記憶を失くしているのか? それとも俺だけに起きている現象なのか?)


 とりあえずこの非常事態に眠りこけている不届き者共を叩き起こしてやろう、大声を出そうと大きく息を吸い込み、肺に空気を溜め込む。……その直後、少年は驚愕する。


(声が……出ない?)


 少年は必死に叫ぼうとするが、その努力が報われることはない。


「こんなに面白いことが起きているというのに、もっと他にすることがあるんじゃないのかい?」


 あまりの事態に呆然となっている少年に、突如として話しかける者がいた。視線を向けると、教壇の前に白衣を着た中年の男が立っていた。

 おかしい、さっきまであそこには誰もいなかったし、誰かが入ってくる気配もなかった。

 突如として現れた男に、意識の大半を奪われてしまう。そんな少年の姿を見て、白衣の男は満足そうにしている。


「少年よ、この状況を見たまえ。この場にいる君以外は、皆眠っているのだよ。それなのに君ときたら、大声を出したら皆が起きてしまうじゃないか」


 少年はその言葉の真意を読み取ることができず、ただただ呆然とすることしかできなかった。

 そんな少年の姿を見て、男は小さくため息をつく。


「察しが悪いね。つまりだ、君は今この瞬間、この場所の支配者なのだよ。無抵抗の少女達に、有り余る劣情をぶつけることだってできる、ということだ」


 両手を大きく広げ、下卑た笑みを浮かべる白衣の男。彼の言葉の意味を理解した少年は、無言で男を睨み付ける。

 いくら眠っているからといって、そんなことができるわけがない。……決して臆病者だからとか、女体に興味がないとかいう理由ではない。むしろ人並みにそういったことには興味はあるのだが、それは今は置いておこう。


「おやおや、怖いね。途中で起きてしまうことを心配しているのかな? それなら安心してくれていいよ。一番に目覚めたご褒美だ、君が行動している間は誰も目を覚まさないように調整してあげよう」


(いったい何を言っているんだ、この男は? 普通じゃないっていうのだけは、間違いないみたいだけど……)


 さっきから意味不明なことばかりを言う男に、少年は言葉の真意を読み取ることを早々に諦め、思考を現状の考察にシフトさせる。

 睡眠薬や麻酔、人間を眠らせる方法なんていくつもある。

 白衣姿と今の台詞、そして自分に記憶がないことから、目の前の男が医者ではないかと少年は考察した。しかし、それならば自分が今いるべき場所は病院のはずだと、その考えを即座に却下する。

 ついでに教師でもないだろう。こんな男が教職に就いているなんて、とてもじゃないが思えない。というか思いたくない。


「どうやらお気に召さないようだね。では仕方ない、もっと別のご褒美をあげることにしよう。さぁ、どんなご褒美が欲しい? 言ってみたまえ。君はこの空間の支配者だが、僕は支配者を超えた存在、いわば神だ! 大抵のことは叶えてあげようじゃないか」


 自らを神と名乗る男に、少年は警戒心を強める。

 狂っている、と結論づけてしまいたいところだが、理解を超えた様々な状況からそれができずにいた。


「ん? 声ならもう出るようにしてあげたよ。それに君が声を発しても、他の子達が起きることはないから安心したまえ。言っただろ、僕は神なんだ」


 その言葉を聞いた少年の表情が険しくなる。もし本当に声が出せるようになっているとすれば、目の前の男は本当に自分達を操ることができるということになってしまう。

 そう思い立った少年を寒気が襲い、足を震わせる。

 そういえばさっきから白衣の男が大騒ぎしているのに、自分以外の誰も目を覚まさないのは不自然じゃないかと、少年は眠り続ける少年少女達に視線を走らせる。

 ここで本当に声が出せたらと恐怖を感じながら、少年はゆっくりと口を開く。


「ここは何処かを答えろ」


 白衣の男の思い通りに動くのはシャクだと思った少年は、当初の目的通りに現状を整理する方向に動いた。

 もしこの場で『お前は誰だ?』と問いかけたとして、目の前の男は『神だ』と言って自分を見下すだろう。

 記憶についても目の前の男が何かをしたという確証はない。何より混乱している今の少年に、核心に迫ることが言えるはずもない。

 そんな苦し紛れで放たれた少年の言葉に、白衣の男の表情が変わる。

 さっきまでの飄々とした様子は完全に消え、鋭い眼光を少年に向ける。


「まさか、気づいているのか?」


 少年にはその言葉の意味は理解できなかったが、きっと重要なことなのだろうと察し、負けじと睨み返す。


「面白い、実に面白いよ。気づいているにせよ偶然にせよ、ここでそんな願いが言えるなんて、なんて素晴らしいんだ。よし、僕は君に決めたよ」


  いったい何を言っているのか確かめたい衝動はあるが、わざわざ確認を取るのは負けた気分になると感じ、無言で睨み続けた。

 白衣の男も少年のその姿に満足そうに頷き、右手を高らかに上げる。


「序盤でここまで楽しませてくれてありがとう、少年。そして君のその願い、すぐに叶えよう」


 白衣の男は高らかに掲げた右手の指を弾き、周囲に甲高い音が響き渡る。

 頭の芯に響くほどの激しい音だ。通常のフィンガースナップで、こんなことができるはずがない。

 少年が顔をしかめ、側頭部をおさえる。

 そしてその音の影響を受けたのは少年だけではなく、周囲で眠っている少年少女全員を叩き起こした。

 飛び起きた少年少女達は、混乱しているのか皆表情を歪めているが、周囲はひどく静かだ。

 おそらくはさっきの少年と同じ、声が出ないようにしているのだろう。

 少年はもう驚くことすらせず、白衣の男の言葉をただじっと待つ。


「少年少女達よ、君達は今、この状況が理解できていないだろう。まずはここが何処なのかを答えよう」


 さっきの願いを叶えるためだろうか、白衣の男は何よりも先にそれについて語る。


「ここは現実であって現実でない場所、仮想現実と呼ばれる世界だ」


 仮想現実、少年はその言葉に聞き覚えがあった。

 拡張現実を凌駕した限りなくリアルに近い仮想世界。

 記憶の一切がなくなっているのに、そういうことは覚えることに不思議な感覚を抱きつつ、自分の目の前にある机を指でなでる。

 感触は現実のものと一切変わらない、本当に仮想世界なのか疑問に感じるほどだ。

 これじゃここが仮想世界だなんて、言われなければ気づくことはないだろう。

 そこまで考え、少年は『なるほど』と納得した。

 少年の言葉に白衣の男の様子が変わったのは、自分がこの世界に違和感を持った可能性を考えたからだと。

 勿論、少年はこの世界に違和感など一切感じなかった。現実世界だと信じて疑いすらしなかった。

 さっきの言葉は単純に、今自分がいるこの学校のような建物が、いったい何処にあるものなのかを聞いただけのことだ。

 だが記憶を失い、人間を操る存在が現れたこの状況で、今自分が何処にいるのかなんて大した問題ではない。

 そんな中で的確にあの問いをしたのだから、白衣の男のあの反応も頷けるというものだ。

 問題は何故、少年少女達が仮想現実にいるのかということだ。この状況からみて、ここが現実でないことは疑う余地もない。

 だからといって仮想現実にいるという現状に、納得ができるわけではない。

 きっと何か理由があって、この仮想現実に連れ込まれた。少年はそう考え、白衣の男の言葉を待つ。


「では何故君達が仮想現実にいるのか、次はそれについて説明しよう。君達にはこれから剣と魔法のファンタジー世界でゲームをしてもらう。所謂、VRMMOというやつだね」


 VRMMO、仮想世界で行われるオンラインRPGゲーム。

 現実世界では体験できないような世界に行けるということから、本格的な開発が発表された直後は大騒ぎになった。

 仮想現実の前身となった拡張現実……AR技術を応用したゲームは度々開発・販売されていたが、あくまでもリアルに準拠したシステムから一部のユーザー以外には受け入れられず、万人向けとはとてもいえなかった。

 そのことは記憶というより、知識として少年も覚えている。もしかしたら自分も歓喜していた人間の一人なのかもしれないと、そんな風に感じていた。いや、それはもはや確信に近かった。

 何故ならば少年にとってはもう、記憶を失っていることも何故こんな場所にいるのかもどうでもよく、これから仮想現実で行われるというゲームに、完全に心奪われていたからだ。

 そしてそれと同時に、心の中で『失敗した』と小さく呟く。

 白衣の男は自分の願いを叶えると言った。そして少年はそれに対し、現状の確認を行った。

 そのこと自体は間違いだとは思っていないが、もっと他に大切なことがあったことに気付く。

 この先に待っているものがゲームだというのなら、『最高に楽しませてくれる世界』を望むべきだった。

 どうやら記憶を失う前の自分は、重度のゲーマーだったらしいと、少年は心の中で苦笑する。

 そしてこれも過去の自分を思い出したことになるのかと、ほんの少しだけ安心もした。


「君達の多くは『何故……』と思っただろう。どうして記憶を失い、仮想現実でゲームをしなければいけないのかと」


 白衣の男が放ったこのセリフから、少年は記憶を失っているのが自分ひとりではないのだと分かり、不謹慎ながら少し安心した。そんな少年の心中を察してかどうかは分からないが、男は小さな笑みを浮かべながら話を進める。


「勿論理由はある。実はこの仮想現実は未だ不完全でね、完全なものにするためにも、様々なデータが欲しいのだよ。ゲームという形式を取らせてもらったのは、協力してもらう君達への配慮だ」


 そう、彼等がこの仮想現実に集められたのは、不完全なこの世界をより完璧なものにするため、ある種の被験者としてだ。

 尤も少年にとって、それすらもどうでもいいことであったが。

 普通に考えれば、この状況をどうでもいいなんて一言で片付けることなんて、とてもじゃないができない。

 仮想現実に記憶を失った状態で、多くの者達が集められるなんて異常以外の何ものでもない。

 様々な技術が実現されている現代ではあるが、人間の記憶を制御する技術まで完成したなんて話は聞いたことがない。

 勿論、世間一般に出回っていないだけで、完成自体はしている可能性はある。

 しかし仮にそんな技術が存在していたとして、ゲームを行うのに使う必要は一切ない。

 それが使われているということは、彼等がまともな手段で集められたということはまずあり得ない。

 少なくともテストプレイヤーの募集、といった手段は取られていないだろう。自ら望んでやってきた人間の記憶を、わざわざ消す必要はないのだから。

 そうなると自身の元の身体のこと、ゲームプレイ中の状態やログアウト後の行動など、様々な問題が生まれる。

 だが少年はその全てを理解したうえで、それでも『どうでもいい』と割り切っているのだ。

 少年のリアルがどんなものだったのかを知る術はないが、その全てを投げ打ってでもゲームに心躍らせることから考えて、まともなものではなかったのかもしれない。

 そうだとすれば、嫌なことを思い出すことがないということで、記憶を失ったことにしても都合がいい。

 もしかしたらここにいる者達は全員、リアルで何かあった訳ありの人間だけが集められているのかもしれない。

 でなければこれだけの人数が一度に集めるなんて、できるわけがない。そんなことをしたら、リアルで大騒ぎになってしまう。

 今現在、仮想現実の開発に取り組んでいるのは、どれも世界的な大企業ばかりだ。しかし、いくら大企業が絡んでいるとはいえ、そんなことを平気で行えるはずがない。

 そんなことを考えながら、少年はゲームが開始されるのを待つ。しかし周りの者達はそうはいかないらしい。

 周囲の者達は声なき声で何かを訴えようと、口をぱくぱくとしている。まだ声が封じられているのだろう、それも無駄な努力として終わる。

 少年にしてみても、自分の方が異常であることは十分に理解しているので、周囲に何かをしようというつもりは一切起こさず、気長に待つことにする。

 人間が人間を排除する最も大きな力は数だ。この場で少年が何を言おうが、総数で圧倒的に劣るこの状況で何ができるというものでもない。


(数すらも圧倒する力、……ちょっと欲しいかもな)


 目を覚ました直後とは打って変わって、桁外れの状況判断と閃きを発揮し、さらにはこんなことすらも考えてしまうことに、最も驚いているのは少年自身だ。

 自分は一体どんな人間だったのか、どうでもいいと割り切りはしたが、少しだけ興味が沸いてきた。


「ただしゲームをしてもらうといっても、全てを君達の自由に決めさせるわけにはいかない。データに変な偏りができてしまうからね、それは理解してくれ」


 一般的なVRMMOは、ゲーム開始前に様々なものを自分で決めることができる。名前、性別、職業、種族、キャラクターの外見、場合によっては年齢だって自分で決められる。

 ただし人間の好みは個人によって大きく変わることは少なく、人気の職業と不人気の職業、キャラクターのパーツなど、外見や性能が似通ったものになることは多い。

 正確なデータを取るうえで、そういった偏りは邪魔になるのだろう。

 自分の望む姿と性能で、思う存分身体を動かしたいと思う少年だったが、同時にそれはそれで面白いとも思っていた。

 人間は産まれる前に、自分自身をエディットすることなんてできない。この先に待っている仮想現実に自分自身が産まれるとと考えれば、どんな姿や能力になるのか楽しみだと感じたのだ。

 最低限、性別だけは変更してもらいたくないとも思ったが、女になってしまったらそれはそれで、男とは違った楽しみ方もあるだろうと気楽に考えていた。


「さて、長ったらしく解説をしていても君達もつまらないだろう。早速このゲーム、『アイ・ワールド』のチュートリアルステージに挑戦してもらおうか。本格的な解説は、ゲーム参加者全員が揃ってから行われるからね」


 その言葉を聞いて、少年が周囲に視線を走らせる。

 今、この空間にいるのは五十人にも満たない。学校の教室程度の広さと考えればむしろ多いくらいのなのだが、仮想現実の実験を行うと考えれば、あまりに少なすぎる。

 おそらく別の空間にも人が集められているのだろうが、何故わざわざ初期段階で人数を分けたりするのか疑問に思った。

 しかしそのことについて考察する間もなく、周りの空間が暗転する。

 どうやらチュートリアルステージが開始するらしい。少年は疑問のことなど完全に忘れ去り、これから始めるであろう冒険に心躍らせた。

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