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「待たせたな。」僕の部屋に入ってくるなり、阿部は煙草に火をつけた。煙草の煙はゆっくりと宙を舞い、やがて窓から入ってくる風に押し流され、僕の視界から消えてなくなった。彼らには主体性というものはおそらくないのだろう。主体性がなければ、意識も無い。僕には煙の存在を感じ取ることは出来なかったし、それがあるのか、ないのかさえほとんどわからなかった。

 このとき、僕には、阿部の意識をはっきりと感じ取ることが出来た。僕の頭の奥のほうに、阿部の意識はあった。

「流されるな。」阿部は音の無い声で、そう、僕に叫び続けていた。

 「流されるな。おまえは、そこにはいない。うまく流されるようなことは、もうやめるんだ。そうじゃない。おまえが、波になるんだ。ここはおまえの意識で、ここはおまえの海だ。おまえが、波になるんだよ。」僕の頭の中で、阿部は何度も何度も、そう叫び続けていた。

 「きれいな海だ。けれど、俺たちには帰る場所がある。いや、少なくとも、おまえには、だ。」煙草を半分ほど吸ったあと、吸殻を注意深くもみ消し、阿部は僕を促すようにして部屋を出た。今度は、実際の声だ。

 彼女はまだ帰ってきていなかったが、それでいいような気がしていた。ここは僕の場所じゃない。僕には僕の帰る場所があり、そして、彼女の居る場所はここなのだ。僕は、この海を出て行く。誰に流されるでもなく、正真正銘、僕自身の意思だ。

 帰りの車中、阿部は僕に何も語り掛けなかった。しかし、僕には阿部の言いたいことが以前よりよくわかるようになってきたのだと思う。僕と阿部は、音の無い声で語り合った。それは、昔話であり、今の話であり、そして未来の話であった。それらがすべて混ざり合って、時間性のない会話になっていった。どこにいきつくかは、まったくわからない。しかし、車は僕らの帰るべき場所に向けて、ゆっくりと、しかし確実に、すすんでいった。

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